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文芸の里コミュの空を泳ぐ男 No2

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 Kは次々押し寄せてくる群衆に押し出されるように、一旦中へ踏み込んだ体が扉口近くまで戻されてしまった。あまりに窮屈なので、ひとまずドアの外に出ようとして、すし詰めの状態から体を引き抜いた。
 このときガウンを羽織った男性が反対側のドアから出てくるのに目が留まった。この男性が泳ぐ男と目され、追及されている当人であることが一目で分った。男はKに見咎められたと知るや、自分の口の前に指を立て、Kの口封じにかかった。それから手招きをして、自分についてくるように促した。Kは怖れつつ、ついて行かざるを得ないものを感じ、そっと彼に続いた。男は風のように素早い動きで、前へ出て行く。Kはその速度について行くのが、一苦労だった。突き当たりの踊り場に出ると、男は振り返って、そこの階段を上へ登ると、手で示した。Kが踊り場に来ると、男はその階段の一番上に達していて、Kがそこまで行くと、また上へと促し、そこへ行くと、既に男の姿はなく、さらに上の階へと身を移していた。
 Kはとうにこの男こそ空を泳いで渡った男と見ていたが、この軽快でスピーディーな身のこなしを見ても、そう信じざるを得なかった。二十五階を過ぎ、いよいよビルの屋上へ来ると、男は小さな鉄の扉を押して、Kを招き入れ、その扉を閉じて、内側からの仕掛けで開かないようにした。扉がびくとも動かないのを確認してから、
「私が逃げたと思って、追いかけて来るから」
 と言った。つづいて彼はいくつかの重要な事柄を、早口で喋った。その一つは、どうやら男はKのことを知っていて、ここに招いたらしい。というのは、男が空を泳いでいるとき、シルバーの光を放つ物を持っているのが、Kであると達しが出ていたというのだ。シルバーに光るとは、コーラの缶を傾けたとき、缶の底に陽光が反射した光であろうとは納得したが、それをKが駅構内の自販機で買い求めたときから分って、達しが出ていたというのだから呆れるばかりだ。
「Kさん、あなたは見たことを証しするために選ばれていたんですよ」
 と男は言った。人は自分に与えられた一瞬ともいえる貴重な体験のために、長い苦労をして生きているんです、と彼は語った。そういう彼も、今、その最後の役目を果たしているのであって、大都市の駅前広場の空を、泳いで渡ったのも、大切なメッセージを残すためらしい。そのメッセージとは何か。男の話はいきなり本論に入った。
「もう少しすると、この地球はこれまでとは行き方を大きく変えて、百八十度の転換をはかるんです。これまでの地球の歩みが往路だとすれば、もう少しすると復路に入るんです。これは人間のいのちの歩みを見据えての神の計画です。これまでは産めよ増えよ一辺倒で、死者が甦ってくるようなことはなかった。しかしこれからはその死者の霊を甦らせることに着手するというんですよ。その折り返し点に間もなく差し掛かるんです。私が空を泳いだのはその予告です。
私はマラソンで言えば往路の上の空を泳いで渡ったのです。このAZビルが、折り返し点に当たります。いよいよ復路のレースが開始されるその予告のために、私はこれから復路の空を泳いで行かなければならない。
 Kさん、あなたはその重要なメッセージを聞き届けるためにここにいるんですよ」
 どうして僕みたいなまったく取得のない凡人をつかわないで、頭のきれる優秀な人材を起用しないのかと聴くと、凡人であるからこそ、いい働きができるのだと、男は言った。
「なぜ、なぜ凡人がいいのです」
 とKは食い下がった。凡人でも少しはいいところがあると、言ってくれるのかと思いきや、木偶の坊でも神の国のために働けるのだから、並み居る他の愚か者たちに希望を与え、神の国の宣伝になるのだと男は語った。
「神の国って、あの天国とか地獄とかいう天界のことですか」
「そうですとも、私はその神の国から遣わされて来たのです。あなたも早晩そこに行くことになるでしょう」
 と男は早口で言った。
「信仰なんかこれっぽっちもなくても、神の国へ行けるんですか」
「そこですよ、凡人の凡人たるゆえんは、あなたみたいに、信仰の信の字もない馬の骨みたいなやからが、神様を信じて耀きだし、みるみる成長して、神の国へ入るようになるのです。さっきのコーラの缶の耀きは、それの予告みたいなものです」
 男がそこまで早口で喋ったとき、屋上への鉄の扉が揺さぶられた。
「開かない。どうしたんだろう。外側から鍵をするなんて変じゃないか」
 そんな声がして、再び乱暴に鉄の扉が揺さぶられた。
「大丈夫、あの閂はそう簡単には壊れないから。さっき、取り調べに連れていくから、同行してくれというから、支度をするから待ってくれと言って消えてしまったので、大騒ぎしているのさ。構うものか、逃げ口もないのに、私がいなくなっているとなれば、当然窓が開かなくても、忍び込んだと思うよ。その私を捕まえるのは、苦行と考えるだろうね。今頃窓ガラスに張り付くようにして、割れ目がないか丹念に調べ上げているかもしれないね。知恵を働かせて寝込みを襲うなんて考え出すかもしれないから。そんな面倒なことになる前に、私は復路に飛び込むよ」
「あなたは今、逃げ口もないのに消えた、とおっしゃいましたね。そこですよ僕がさっきから引っ掛かっていたのは。あそこにドアなんかないはずなのに、あなたはいとも自然にドアを押し開くようにして出てきたので、あれここにドアがあったのかと、思い直したんですよ。しかしそんな必要はなかった。やっぱりドアなんかなかった。そのないドアをあなたはぶち破って出て来たんだ。ドアがあったのなら、彼らが後ろのドアの前に立って見張らないのが、おかしいと思っていたんですよ」
「なるほど理解が早い。早くも凡人が成長をはじめている……」
 男は重要なことを相変わらず早口で喋っていた。話している間も、男の体は落着かず、それは無重力の宇宙を彷徨っているふうにも見えた。ちょっと足踏みした程度でも、身体が浮き上がってしまうのだ。まるで離陸を待ちかねている渡り鳥のようにも見えた。
 男はそんな調子で、ビルの端の方へ跳ねるように身を泳がせて行った。この男ほど、泳ぐという表現のぴったりする例を見たことがない。
 彼はビルの端の壁に手をかけると、身体を捩るようにしてガウンを脱ぎ払った。なんと下は裸で、トランクスを一つつけているだけだった。そのトランクスの色が、さきほど空をこちらへ渡った紺色ではない。淡いブルー。それも正確ではない。ひと頃はやった「限りなく透明に近いブルー」。そうだ。この色こそ、Kが実感をともなわないまま耳にしてきた、その色なのだ。
「限りなく透明に近いブルーですね」
 とKは叫んでしまった。自分がその色の最初の発見者であるかのように有頂天になっていた。透明ではあっても、決して中の物が透けて見えたりはしない。なかの物と言えば、男の急所、つまり一物に当たるわけだが、それが隠されていながら、透明なブルーを保っている。なんといっても、優しく匂いかけるような甘い香りのする色合いだ。エロチックなどという、代物ではない。そんな表現を超えて、優雅に鎮まっている。芸術というのでもない。完全に身体の一部に収まってしまっている。しかも境界線がどこにあるのかさえ判らない。
 Kは思わず、
「それが神の国の色ですか」
 と口にしてしまった。
「ご名答。これなら神の国へ障害なく入っていけます」
 と男は言った。
「来るときの、紺のトランクスは?」
 とKは聴いた。
「あれは、この世のスーパーで仕入れたものです。あれだと窓ガラスを通過できないので、トランクスだけ外に残っているはずです。後で探してみてください。ビルの下は花壇になっていたかな。そこにトランクスが引っ掛かっていますよ。この上天気だと、風に吹かれていくこともないでしょう。見つけてもあなたは、目視するだけでけっこう」
 男は言って、軽く屋上の床を蹴った。一蹴りしただけで男の身体は三メートル近くも上昇した。まるでトランポリンの模範演技を見ているようだった。着地すると、
「携帯はお持ちですね?」
 男は少し不安な面持ちで尋ねた。Kはうっかりしていたとばかり、
ショルダーバックから、携帯を取り出していた。Kは空を泳いで渡る男のことも、部屋で質問攻めに遭っている男のことも、まったく記録していないことに気がついた。ショックが大きく、とてもそれどころではなかったのだが、この神の国からの使者のメッセージを
人類に伝える者にしては、何と抜け落ちていたことだろう。やはり自分は凡人の中の凡人だと思った。
「悲観することはありませんよ。あなたは証拠写真として二枚を携帯に収めればいいのです。一枚は、私がこれから、復路の空に飛び立とうとして、手摺のてっぺんに立っているところ。いいですか、復路ですよ。見てください、この下は駅前広場です」
 Kは壁のように立ち塞がる高い手摺に寄り、鉄の桟の間から下を覗いた。さっきKがいたベンチが、ビスケットのように見える。
「もう一枚は、ビルを離れて、空中に浮かんだところです。復路といっても、人類の出発点に戻るわけじゃない。行先は神の国です。通称天国と呼ばれているところです。向かう先は決してこの世と平行にはなっていない。平行だと必ずどこかで交わるところが出てくる。たとえば高いビルとかに接点があると、さっきのような悶着が起きてくる。領空侵犯だとか、人にない力を持って優越し、やがて人類を平伏させようとしているなどと、言いがかりをつけてくる。だから飛んでいく先に、この世との接点があってはならないのです。
この角度だと、地上と交わることはないなと、信じさせるだけの傾斜を持たせてください。そのためには高層ビルの屋上の角でも、写真に入るようにしてくださいよ。私がそのビルを相手にしない天空を目指しているという証拠が必要なんです。それなら彼らも、何も慌てることもないでしょう。領空を侵されるだとか、この空を泳ぐ男に支配されるだとか。
 そのはっきり上に向かって、空を泳いでいくところを押さえて撮ってください。その二枚さえ撮れば、あなたの役目は完了です。あとは人に見せて、私の話したことを述べ伝えるだけです」
 男は体が上昇してしまうのを、手摺の先端部に取りすがるのに苦労しているらしい。普通の人間なら、下へ落ちようとする体を支えるのに苦心するところだろう。もっといろいろ話したいのに、体がいうことをきかないといった感じだった。しかし肝心なことはそう多くはないとも彼は語っていた。それはKの人生が、今日という日の午後の刻限に狭められていることでも明らかだった。もう充分伝えたのだ。これからは今から先のことが、ますます声高に叫ばれるようになるだろう。しかしそれで終るわけではない。復路の分岐点に差し掛かったのであって、そこからまた長い旅路がはじまるのだ。といっても、これまでの往路とは大きく違う。死んだ者たちが甦り、今生きている者は、生きた魂を携えて天に昇っていくのだ。
「もう間もなく、永遠のいのちを司る方がやって来ます。選ばれた花嫁たちを招集し、彼女たちを通して永遠のいのちに点火します」
 空を泳ぐ男が残したことばを、Kなりに咀嚼して復元すれば、ざっとこのようなことになる。Kは空を泳ぐ男を送り出した者として、
深く悟り、人に伝えていかなければならないのだ。早くもその使命の重さで、くずおれそうになっていた。しかし空中に浮上する体を、地上に踏みとどまらせるのに命がけになっている男を、そういつまでも留めておくわけにはいかなかった。
「了解しました。必ず自分の役目を果たします」
 とKは声を発した。自分で言ったというより、責任の重さに打ちのめされ、言わされたというのが当たっている。
「では―」
 と男は、Kを振り返り、小手を振った。「天国でお会いしましょう」
 男は既に目の前の空間に飛び込んでいた。彼の体は落下するのと同じ速さで、空へと離れて行く。もう限りなく透明に近いブルーは見えない。完全に体にとけてしまっている。いや、男の全身が空の色に同化していく。
 Kは忙しなく携帯を向けてシャッターを切った。同時に肉眼にも留めておこうと、目を凝らしていたが、ある高さに達すると、ぱちっと白い光が爆ぜるのと一緒に、男は跡形もなく消えてしまった。神の国に入って行ったな、とKは思った。
                        了

コメント(1)

この小説すごく面白いですね。

神の国の人とは思えない「空飛ぶ男」の
キャラ(?)が際だっているし、
kとの会話のやりとりも面白かったです。

最後、この世の終わり、というんだろうか、
その直前で終わるのも続きを想像させられて
読後感も素晴らしいです。

なんか読ませられました、
ありがとうございます(^o^)

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