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文芸の里コミュの林檎をわれにあたへしは・ 回想屋敷二(長編連載)11

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                          cecilia amazing grace






 噴水はそのままになつた。
「クーラーもあるんだけれど、このはうが體にいいから」
 とサヨは言つた。
「本通りを二本入つたら、こんな靜かなところがあるなんて、びつくりしました」
 と内木は言つた。
 先代はこの邊りの地主だつたが、現在は手放して他人名義の土地になつてゐるらしい。しかしこの母屋と離れを圍む雜木の土地は手放さなかつた。夫は三年前に他界した。
娘が二人ゐたが、二人ともここを出て、姉はドイツに、妹は横濱に嫁いだが、妹のほうは、娘が五歳のとき急死して、男親一人では面倒をみきれないので、引き取つてここにおいてゐるのださうだ。それが先程顏を見せたあけすけな娘なのだ。
 サヨは内木の大學生活とか家庭について、一通り聞いてから、改まつた口調になつて身を乘り出してくると、
「あなたのやうな方に家庭教師をしていただくと、助かるのですけれど」
 と言つた。その聲は實に密やかに囁くやうに語られたのだつたが、いきなり音樂が切り替はつて、どどどどつと、凄まじい音響になつて、若い男のスインガーが骨つぽい聲で歌ひ出した。内木のもつとも嫌ひなタイプに屬する「それがあんたのなんなのさ」とかいふ文句を口ずさむ歌手と共通するものだ。
「あの子つたら、また聞き分けがない」
 サヨは言つて、「ナミ!」
 と聲を響かせた。音量はいくらか下がつたが、歌聲はやまなかつた。
「ピアノの先生には來てもらつてゐるんですけど、女性だからどうしても躾にはねえ」
 などと、内木の内諾を得ようとしてゐる。
「僕だつて、自信はありませんよ。特にあの年頃は感情が豐かですから」
「いいえ、あなたのやり方でやつていただくだけで結構なのよ。さつきあなたは、私が歳時記を取らうとするのを見てゐられなくて、取つてくださつた。それをレジに運ばうとすると、それもあなたの判斷で、老婆には無理と見て運んでくださつた。あなたの判斷はさらにつづいて、ここまで來ないではゐられなかつた。それがあなたなのですから、そのやうにナミにしていただければいいんです」
 サヨは家庭教師の説得はそこで中斷して、何を思つたのか立ち上がつていき、小册子を數册抱へてきた。
 「行燈」といふ俳句の月刊誌で、サチの俳句も載つてゐた。
「俳句の同人雜誌に入つてをられるんですね。僕は詩の同人雜誌です」
 と内木は俳句と詩はずいぶん違ふと感じながら言つた。
「さうでせう。そんなお顏ですもの。同じことばを大事になさる方でなければ、あんなご親切には手が屆きませんもの」
 サヨは變はつた角度から襃めてきた。親切心と手が屆くといふ結び方が、いかにも俳句を嗜むものらしいと感心しながら、サヨの俳句を見るともなく眺めてゐると、相手が内木の口から感想でも零れないかと待ち受けてゐる樣子だつたので、彼は寸評でも述べなければならなくなつた。あの大册の歳時記をここまで運んできたものとしても、そのくらゐのサービスはあつていいかもしれない。
「『竹の子の盜賊のごと生え揃ふ』これ實感がありますねえ」
 内木は一句を口にのぼせながら言つた。これだけの屋敷の女主人となれば、たえず狙はれてゐる氣がするのだらう。自家の竹林に生える竹の子までそんなふうに見えるとしたら、大變なことだ。持てる者の不幸――彼なりにそんなことを呟いてみた。むろん口にはしなかつた。
「本當にこの時季になると、そんな感じがするんですのよ。夜中に忍び込むやうな音をたてますしね」
「音ですか」
「さう、音がするんですのよ。ばりばりつていふやうな」
「ほう、初めて聽きました。何かいのちの凄まじさのやうなものを感じます」
「さすが、あなた、詩人の感覺ですわね」
 サヨは孫娘の家庭教師としてよりも、同じ短詩を扱ふものとして、大いに興味を持ちはじめたらしかつた。
「あの」
 とサヨは言ひかけた口をつぼめたまま、内木を見てゐた。
「はあ?」
 と内木はサヨに目をやつた。
「さつきの孫の家庭教師、、是非お願ひしたいと思ひまして。終へた後ここで、俳句や詩のお話でもできますれば、老い先短い私としましても、どんなに慰めになりますことやら」
 とサヨは言つて、引き下がりさうもない意氣込みに見えた。内木もこのとき、かすかに心が搖れた。戀とか、愛とか、眞情の吐露が中心と見える短歌よりも、物と物をぶつけて、そこにおのづから生まれる感情の迸りのやうなものが俳句と考へてゐたので、自分の詩に必要なものは、同じ短詩でも、さらに短い俳句から汲み取れさうに思へたのである。
 考へてみて、連絡すると告げて、内木は立ち上がつた。サヨはもう來てくれるものと決めつけて、
「ナミ、學生さんがお歸りになります。ご挨拶なさい」
 と孫娘を呼んだ。娘は出て來なかつた。
 内木は、
「これ、頂き物で恐縮ですけど」
 とサヨに渡された紙袋を提げて、飛石を傳つて行つた。カナカナがやや聲を落として、寂しげな聲を響かせてゐた。
 連絡をするにしても、何も控へてこなかつたことに氣づいて、ひよつと手提げ袋を覗いて見ると、いつの間に準備してゐたのか、一枚のメモ用紙が水羊羹の箱に貼つてある。
ご都合のよい日取りを、お電話でお知らせください。吉報をお待ち申してをります。
と達筆な走り書きがあつた。
「これでは、引き受けないわけにはいかないな」
 内木はサヨの屋敷を出る前に、さう呟いてゐた。これも縁といふものだらう。あの書店の詩のコーナーと隣り合はせの俳句、短歌、川柳のコーナーにサヨがゐたといふことが、そもそもこのやうな關はりが準備されてゐたのだらう。それがお互ひの幸ひをもたらすか、不幸をもたらすかは、分かつたものではない。しかし避けやうがなく、目の前に突きつけられたとなれば、受け入れていくしか人間に選擇肢はないのだ。

 かういふわけで、内木元介は殘された大學四年の僅かな期間を、孫娘ナミと三木サヨの相手を務めることになつた。
 ナミは女子高校の二年生で、P女子大學を目指してゐた。娘の希望といふよりは、父親とサヨと高校の擔任の合意で、とにかく目標を定めてやらせるしかないといふことになつたらしい。ナミにはまるで意欲がなかつた。
 五歳のとき他界した母親のことは、ほとんど記憶にないとナミは言つた。會ひたいと思つたこともないとつけ加へた。もつとも、他界してしまへば不可能なことではあるが、追慕の思ひとか、感傷に浸るとか、さういつた感情からは遠く隔たつてゐた。
 それでは何があるのかと訊けば、ナミの好みの歌手と、外國映畫のDVDと、雜誌の連載アニメが口をついて出てきた。それも本氣で言つてゐるのか、怪しいものだつた。
 祖母のサヨはそんな孫娘に内木をつけて、教育しようとしたといふよりは、内木を慕つていつて、ゆくゆくは婿養子のやうな關係が成立すればいいと望んでゐたきらひがある。
 ナミも祖母の意向を汲むやうに急速になついてきた。全教科をさらふ感じで勉強を進めていつたが、不得手な數學になるとナミは、
「ああ」
 と、腹の底に溜まつた疲勞を吐き出しでもするやうな溜息を洩らした。
「そろそろ疲れたかな」
 と内木は言つてやる。
「さうなの」
 さう言つて横から内木を見やる瞳はすがすがしく澄んで、麗しいのだ。
「そんなふうにも見えないけどね」
 内木は見かけの彼女の樣子からさう言ふ。
「先生」
 勉強から逸らしていかうとするときにする常套の口調だ。
「何だよ、改まつて」
「先生にさ、好きな人ゐるの?」
 いきなりかう訊いてこられるとは豫期してゐなかつたので、内木は面食らつて、言葉に窮した。正直に答へようとしたら、どう言つたらいいのか分からなかつた。
「ゐない」
 とりあへず内木はさう答へた。
「あんなこと言つて。ゐるくせに」
「ゐたけど、今は嫌ひになつた」
 内木はナミの誘導尋問に引つ掛かつて、さう答へてしまつた。エリコにも話した女子大生のことが、頭に上つてきてゐた。男の心を逆撫でするやうなあこぎなやり方に、もつと自然にはぐくまれていくはずの情愛が、ストップしてしまつたのだ。その後は、止まつた時計が壁に張り付いてゐるだけだつた。どんなことをしても、針は動き出さなかつた。止まつた時を遡れば、女子大生のあけすけで、思はせぶりな背信行爲に歸著した。單なる妬みなら焔は燃え上りもしようが、冷えて固まつてしまつてゐた。再び手を下せば、蝋細工のやうに崩れてしまふものだ。いはば死の影に變容してしまつてゐたのだ。
「ふられたの、先生」
「さうはつきりしたものぢやないけど、さうかもしれない。好きになる時間が止まつてしまつたんだ」
「難しいこと考へるのね、大學生になると。ぢや、私が好きにならうかな」
 ナミは言つて、天性の美しい瞳をきらりと光らせて内木を見た。天性といふのは、かういつた美しさは、可憐な子猫などにも往々見られるものだからだ。相手が人間を好んでゐなくても、見つめられると、ほろりとするほど美に陶酔することがある。對象が猫であれば、その客觀的な美を認識できるが、人間、とりわけ異性に見つめられたとき、錯覺に陷る。その美しさを、自分が好かれてゐると取り違へてしまふのだ。
 そのときの内木にも、さういふ弱さがあつた。しかし口では、
「何を言ふか、今は勉強の時間だ。ナミちやんはすぐさうやつて、逸らさうとする。先生には、ちやんと分かるんだぞ」
「イエーだ」
 とナミは舌を出して、それをすぐ横の内木に寄せてきたりした。ぬめり光つた舌先の斑點に、若さとは違ふものを見た氣がした。
 一時間半の學習が終はつたあとは、應接に移つてサヨの相手を務めた。俳句帳にしたためられた俳句の中から、内木が好きなものを選び出すだけでよかつた。
「やつぱりね、それですか。内木さんセンスがあるわよ」
 サヨはさう言つて、内木の選擇眼に贊辭を呈するのを忘れなかつた。そのほか、サヨがいいと思つてゐるものを示して、内木の感想を待つた。
「それもいいですけど、少しばかり情が入りすぎてゐるでせうか。僕はもともと俳句は情を切るものだと受取つてゐますから。情を切つて物と物とがぶつかり合ふ、火花によつて、立體的に世界を構築するものではないかと。僕なりに詩作に携はつてきて、最近そんなことを考へはじめたところなんです」
 サヨはややショックを受けたやうな顏つきになつて聽いてゐた。しかし否定できないからこそ、ショックなのだらう。そこに氣づくと、憑物が取れでもしたやうに、
「それは女性としての弱さでもありますわ。歳はとつても、弱さを引きずつてゐる。それを若い男の方にづばり言つていただけるなんて、壯快」
 と言つて、アイスティーのグラスを口に運んでいつた。隣のナミの部屋から、ラテンのジャズが流れてきた。
 内木としては自説を述べたわけでもなく、流布してゐる當たり前のことを言つただけだつたので、襃められても嬉しくもなかつた。特にその頃讀みはじめた、エズラ・パウンドの影響が大きかつたかもしれない。
 サヨは孫娘と内木が親しくなるのを望んでゐるやうだつたが、それが俳句の友として内木を自分に繋いでおかうとする思ひからなのか、孫娘の行く末を内木にあづけようとする思惑が働いてゐるのか、判斷するのが難しかつた。ただ孫の家庭教師として、勉強を見て貰ひたひだけではなささうだといふことは分かつた。
 家庭教師をはじめてから二週間も經つた頃、サヨはこんなことを言ひ出した。勉強の場所を家庭から、街へ移して面倒を見てくれといふものだ。
「夏休みの宿題で、小説を讀むか、映畫を觀て、その感想文を書くやうにといふらしいんです。それであの子は、本を讀むより、映畫を觀て感想文を書くはうが樂だから、映畫を觀に行くといふのですけれど、獨りで行かせるわけにはいかないでせう。はじめピアノの先生にお頼みしようかと思つたのですけど、内木さんのはうが、安心できると考へまして」
 とサヨは言つた。何を基準にして安心といふのか、内木は途方に暮れてゐたが、聞き質すことはできなかつた。女性二人より、男と一緒のはうが安全といふ單純な發想だつたのであらう。その男たる内木が、信用のおける者である限り。
 内木元介はサヨに選ばれてゐることに面映さと同時に、やつぱり將來をあづけるつもりらしいといふ思ひを強くしていつた。ただしそれには、何といつても孫娘の氣持ちが内木に向かはなければならないのだ。
 サヨはそこまで言ひかけて、立ち上がると孫娘を呼びに行つた。
 祖母に連れられてきたナミは、机にうつ伏せてゐたのか、目の縁に大きな皺を作つてゐた。ナミは内木のテーブルにあつた麥焦がしを一つつまんで、口に入れた。水氣のない固形菓子を噛み碎けば、どうなるか分かりきつてゐるのに、注意の足りなさは、彼女の性格そのものといつてよかつた。たちまち噎せて、慌ててテーブルのグラスに手を伸ばした。グラスはサヨと内木のグラスのほかにはない。アイス・ティーの殘量はどちらも似たやうなものだつた。
 ナミはテーブルの上で、はつきり選擇眼を光らせて手が行き迷ひ、遠い方にある内木のグラスを掴むと、飮み干してしまつたのだ。サヨは惡い氣持ちもしなかつた樣子で、いやむしろほつとした面持ちで、
「卑しいことをするから、ばちが當たつたのよ」
 とたしなめた。
「映畫を觀た感想でもいいといふ、その映畫は何といふの。文部省推薦とか言つてゐたけど」
 ナミは祖母の隣に腰掛け、膝小僧どころか、太腿を半ばまで出して身を乘り出してきた。身を乘り出してきたからといつて、何か變はつたものがあるわけではない。グラスのアイス・ティーを空つぽにされて、内木が解せない顏をして坐つてゐただけだ。サヨがそれに氣づいて、グラスを持つて流しへ立つて行つた。
「あーあ」
 孫娘はつまらなさうに言つて、兩腕をあげると、頭の上で組み合はせた。Tシヤツがずれ上がり、臍がのぞいた。
 サヨがグラスを二つ運んできて、ナミと内木の前に置いた。
「言つてみなさい。文部省推薦の映畫の名前を」
 と祖母が言つた。
「だつて、いくつもあるもの、覺えてゐないよ」
「その中で、お前が見たいつていふのは、何ていふの」
 サヨは追究する。
「それはねえ、『カサノバのK』つていふの」
 内木はそのタイトルを耳にしたとき、あつと胸の高鳴るのを感じ、それを抑へようとしてゐた。寮でその映畫が話題になつてをり、未成年者は禁止されてゐるはずだつた。
「とにかく、内木さんに檢討して貰つて、よい映畫と分かつたら入るのよ。映畫がすんだら、食事してきなさい。おばあちやん、その日はナミの分は作らないからね」
「ええ!」
 とナミは若い娘らしく喜びを表現した。内木はどうしてか、傍觀者になつてゐた。
 

 その日はいつもより早い時間にサヨの家を訪れて、ナミを連れ出した。
「これで映畫を觀て、歸りに内木さんのお好きなところで食事をして。殘りは今日のお駄賃のつもりですから、細かな心遣ひはなさいませんように」
 サヨはさう言つて、小封筒に入れたものを内木に渡した。後ほどナミのゐないところで覗いて見ると、ほぼ月謝と同じ額が入つてゐた。
 有樂町に出て、「カサノバのK」が上映中の映畫館の前に立つと、未成年者は保護者同伴と出てゐた。なるほど、それで自分は必要とされたわけか。謀られた氣もするが、すでに時遲しだ。
 ナミは女子高校生らしいさつぱりした身支度をしてゐた。これなら普段著と變はらない。違ふところは、ブラウスに小さな襟がついてゐるくらゐだ。色彩など、探すのが難しいほどで、さう見ると、襟に薄赤く線が入つてゐた。そしてスカートはオリンピックの選手でもあるまいに、ブルーの型にはまつたもの。いやこれは制服なのかもしれない。
 入場劵を渡すときのやや嚴しい監視の目を通つてから、
「本當にこの映畫を觀た感想でいいつて、言つた?」
 と内木はナミに訊いた。聞こえたのか、聞こえなかつたのか、ナミは無言だ。しらばくれるとはこのことだ。彼女は今や、從順に保護者に身を委ねて横についてゐる。未成年者を制限してゐるせゐか、空席が目立つ。それでも、明らかに歳が開いてゐると見える連れも散見される。内木とナミは、ごく普通の若いカップルだ。ナミもさう自覺したものか、映畫がはじまると、内木のはうへ肩を寄せるやうにしてきた。髮が振りかかるので、いやおうなくそれは分かる。しかもどぎつい性の場面になると、内木の腕にしがみついて、ぐつたり頭を凭せ掛けてきた。かうすることで、きはどい場面を囘避してゐるつもりかもしれないが、男である内木からすると、さうはいかないのだ。女子高校生を裝ひつつ、そそのかしてゐるやうにも思へてしまふ。
 内木はナミの手をのけようとして、反對側の手を伸ばしはしたものの、さうはできず、逆にナミの手を握つてしまふことになつた。するとその内木の手に、ナミの向かう側の手を被せてきた。その手がどうしてか、冷たいのだ。
「冷たいぞ」
 彼はナミに耳打ちして、さう囁く。それから自分の手を引き拔いて、彼女の額を觸つてみる。熱くも冷たくもない。ナミは意固地になつて、内木に體を押し付けてくる。
 そのナミを支へてみる映畫は、正しく感想を述べる見方とはいへなかつた。映畫の筋を追ふよりも、ナミの心のありやうを探るのに終始してゐたといつたはうがいい。
 外に出ると、やうやく自分の日常を取り戻した氣持ちになつた。映畫を觀るのと一緒に、夢を見てゐたのではないかと思つた。ナミは内木の腕に取りすがつたことなど、まるでなかつたかのやうに、竝みの女子高生に戻つてゐた。
 スカートに寄つた皺も、教室で椅子に腰掛けてゐてできたものと變はりなく、雜踏にもまれて歩いてゐるうちに、自然に取れていくだらう。内木の肩と腕に殘る痺れただるさも、同じやうに消えていくだらう。
「よし、何が食べたい?」
 内木は子供を引率する教師になつて、ことさらな質問をする。
「カレーライス」
 と意外な返事だ。
「え」
 と彼は聞き返す。もつと彼女らしい要望を期待してゐたのだ。「カレーライスつて言つた?」
「だつて、ニンニクと人參の入らないカレーライスが食べたいんだもん」
 とナミは意氣軒昂に言ひ放つた。
「しかし、どのカレーライスにも入つてゐるかもしれないぞ。ニンニクにしろ、人參にしろ、風味だからね」
「ごろつとしたのが、入つてゐなければいいの。溶けてゐたらいいの」
「さうか、溶けてゐたらね」
 内木はなぜかほつとして、少女のことばを受けて、さう言つてみる。
 カレーライスの店はすぐ見つかつた。そこでアンミツをあはせて取り、内木は義務を果たすと、歸りの電車に乘つた。日は落ちて、ナミを一人で歸すわけにはいかなかつた。サヨは送つてくるやうにとは言はなかつたが、當然さうすると考へてゐたにちがひない。ナミも、ここから一人で歸るからいいとは言はなかつた。
 電車を降り、足を進めながら、内木はどうしても訊いておかなければならないことを口にした。
「今日の映畫で感想文といふのは、本當なの」
 もうサヨの屋敷は近くなつてゐた。
「ううん、それは違ふの」
 彼女は今度は素直になつて、否定した。
「でも、何か感想文を書かなければならないのは、事實なんだらう」
 と内木は言つた。
「さうなの。でも書けないから、、映畫でも觀れば書けるかと思つて」
 サヨの家の屋敷に來て、木戸を入つた。今は母屋は靜まり返つてゐて、何の音もしなかつた。邊りに蝉の聲もせず、地面の草叢から、蟲の聲がわいた。
「ねえ」
 とナミは先に立つて飛石を傳ひながら、内木を振り返つた。
「なに」
 内木は歩みを止めて、少女のことばを待つた。
「感想文書いてちやうだい。その代はり」
 そこまで言つて、ナミは内木の方を向いたままだ。すぐ近くに、内木の背よりも高く竹の子が生えてゐた。なまめいて迫つてくるものの氣配に、内木は身構へて立つてゐた。
 内木は無言だ。少女の心の内を思ひめぐらせるしかない。
「……させてあげる」
 彼女は言つて、脣を差し出してきた。頭上高く、竹の葉叢ごしに星が瞬いてゐる。少女の言ひ分は讀めたが、それには乘りたくなかつた。それは身をひさぐことではないか。性は取引では成立しないものだ。
 ナミは氣の進まない内木に、ただのキスと感想文の代筆では割が合はないと受取つたとみなして、
「本式にするのは後で、家で」
 と言つた。内木は言ひやうもなく少女が哀れになつて、彼女を抱きしめると、生まれてはじめてキスらしいキスをした。
 間もなく二人は、何事もなかつたやうに、母屋に向かつて歩き出した。

 事が起こつたのは、次に家庭教師としてナミと向ひ合つてゐるときだつた。内木は前囘ナミとキスをして、そのときの彼女の言ひ分をあれこれ忖度した結果、ある覺悟を固めてゐた。それはナミの荒みきつた精神を正常に戻すためには、セックスも必要ではないかと判斷したことだ。しかしその裡には、惡魔の囁きがなかつたとは言へない。ナミをなだめ、彼女の教師として掛け替へのないものと自分がなつた先には、婿養子として迎へられるのではないかといふ誘惑である。さうすれば、自分は東京を離れずにすみ、あの屋敷に住んで悠々自適、詩を書いていけると思つたことだ。魔が差すとはまさにこのことだ。財産と美貌の女が、一緒になつて懷に飛び込んでくると考へたのである。
 そんな覺悟を持つて臨んだ日、ナミはいつもとは違つて淑やかで、將來の花嫁に相應しく從順だつた。
 そして二人が夫婦の契りを結んだ後には、彼が絶對に許さないやうな、超ミニスカートを身に著けてゐた。その脚を組んで、中のものをちらつかせるときては、そそのかしてゐるとしか見えなかつた。かういふ男を弄ぶやうなところも、調教しなければならない。
 彼はそんな課題を、一つ一つ數へ上げていつた。しかし今は甘んじて目を瞑るしかない。そして魂を獲得するために、魂を宿してゐる肉體を奪はなければならないと焦つた。焦らしたのはナミのはうだ。
 彼は露な腿の内側に手を置いた。彼女は鼻にかかる甘つたるい聲を洩らして、身悶える仕種と共に内木に倒れ掛かつてきた。
 ここまでくると、惡魔の囁きではない。男としての當然の權利として、彼女を我がものにしようとした。
 そのときだ。彼女が豹變したのは。いきなり内木を突き放すと、祖母のもとへ驅け込んで行つた。
「おばあちやん、先生がエッチなことする。私もう、いや、いや、こんなところにゐるの」
 内木はその聲を確かに耳にした。夢は一瞬にして、潰へた。惡夢だ。人生は惡夢のやうなものだ。
 彼は立ち上がつて行き、玄關を忍び出ると、飛石を一つ飛ばす勢ひで、屋敷の木戸を通り拔けた。
 出し拔けにそこに停まつてゐた一臺の大きなオートバイが、けたたましい排氣音をぶちまけて走り去つた。オートバイに跨る若者の背が、内木を愚弄していくやうに見えた。
 内木はそのオートバイが走り去つたのとは逆の方向へ歩き出し、時間を忘れて、知らない街を經巡つてゐた。そのうち地下鐵の入り口を見つけると、地下へと階段を下りていつた。

  ↓



コメント(1)


 三日經つて、サヨから未拂ひの月謝と詫び状が屆いた。
 この度は私のいたらなさのために、大變なご無禮をしてしまひました。
 今でこそ申し上げられるのですが、ナミは横濱で不良グループとの付き合ひがありまして、ここに引き取つて教育しようとしたのですけれど、とても、私の手に負へるものではありませんでした。
 あなた樣におすがりして、といふより、あなた樣に貰つていただければ、あるいは立ち直るかと、蟲のいいことを考へてゐたのですが、三、四日前から、元の不良がここを嗅ぎつけまして、ナミは落ち著きがなくなり、つひに家を出て行つてしまひました。
 あの娘にも不幸な過去があり、五歳で母(私の次女)を亡くし、それから性格が變はつたやうです。父親はY銀行の支店長を務めるやうな實直な人柄なのですが、かへつて生眞面目さがわざわひするのか、我が子の内側には氣づかないまま、ナミは成長していきました。
 高校生になると、家に街の不良を入れて、遊ぶやうになり、警察の補導も受けるやうになりました。これではかなはないと、引き取つたのではありますが、このやうなことになり、あなた樣には大變なご無禮をおかけしてしまひました。
 その上で、こんなことを言ふのは、それこそ蟲のいい話なのでせうけれど、もし内木さんのお許しがいただけますなら、これからは私の俳句の先生として、こんなことを申せば窮屈をお感じと思ひますので、俳句の友として、拙宅へお出かけ願へないでせうか。
………
 内木は電話で、月謝を受取つたことを傳へ、ナミさんの内面に屆いた家庭教師でなかつたことを詫びた。
 またサヨの俳句の友については、とても自分にはその自信がないといつて辭退した。

 内木元介は大學を卒業すると、東京に留まつて就職活動をし、現在の圖書館司書になつた。
 司書になつて最初の夏、内木はたまたま大きな書店に入つて、詩集の書架の前に立つてゐた。隣は俳句、短歌、川柳のコーナーで、それに關する書籍や雜誌が竝んでゐた。見覺えのある俳句雜誌の背表紙が目に留まつた。
 行燈はサヨの所屬する俳句の同人雜誌だ。行燈を手に取ると、ページをめくつた。何度も見せられてゐるので、どのやうな形式でサヨの俳句が載つてゐるのか、すぐ分かつた。
 そのページに直行して、目を凝らした。サヨの俳句はあつた。健在であつたことに、じーんと胸あたたまる思ひがきた。次に彼女の一句に目が張り付いて、離せなくなつた。

    炎天下 遁走 頓死 まごむすめ

               孫娘オートバイ事故にて死す
                          (享年十八歳)
  と脚注があつた。

                                                                 つづく  

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