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文芸の里コミュの星を拾う少女

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http://jp.youtube.com/watch?v=5XJOqCEgCME&feature=related



           J.S. Bach / Gounod - Ave Maria, Linda Brava



              Valley Lutheran Symphonic Band-Jupiter Hymn-Gustav Holst-08




 大村は山の分校前に車を駐めて、近くの渓流を釣り上ることにした。
 見上げる連峰の一つには、まだ雪を残している。そのせいか水は冷たい。緑が芽吹いてくるのはこれからだ。ところどころ、白っぽく霞んでいるのは桜だろう。
 今日は週日だし、さほど名の知れた場所でもないので、ほかに釣り人が入っているとは思えない。
 大村の出で立ちは、登山者兼プロの釣人といったところ。スリーピング・バッグから炊事用のアルコールランプ、ピッケル、釣竿、熊よけのピーピー、癇癪玉と、重装備である。
 山に分け入って迷ったときは、煮炊きができるように、三日分の食料も準備してある。車の中で登山靴を防水用の長靴に履き替えてきたので、大変な重たさである。強行軍といったところだ。
 といって、釣をなりわいとしているわけではない。あくまでも趣味の気晴らしである。
 釣竿を繋いで、流れに糸を垂らすと、早くも引きがきて、山女(ヤマメ)がかかってきた。さいさきがよい。一昨日まで、ほぼ一週間雨がつづいたとあって、川は増水している。まだ普段は表に出ているところも水をかぶっている。魚はやや、平常心を失っているのかもしれなかった。
 車で約三時間は走った計算になる。解禁になって間もないので、趣味の釣人としても、レースに挑むような気分になっている。釣そのものがそういうものだが、しばらく抑制していたものを解き放つときとあって、気がはやっている。競走仲間がいなくてもそうなのだ。
 つづいて、二尾、三尾と竿をしなわせて、山女は上がってきた。小粒だが、いい形だ。魚籠のなかでは、小気味よく跳ねている。
 五キロほど上った頃には、十二、三尾の釣果となっていた。熱中していると、時間の経つのは早い。本業の絵を描いているときも、そうだが、釣も似たようなものだ。

 二時間ほど釣り上って、傾斜のゆるやかな山腹に出たときだった。ジーンズに淡いピンクのTシャツの少女が、川原で何か探し物をしていた。渓流の小石を踏み鳴らす音に、ぴくっとして顔を上げた。その少女の慄きが、大村に伝わってきた。山奥で小鹿に出合ったようなものだ。
 先方は重装備の登山者姿に、ふっと緊張が緩んで微笑んだ。
「こんにちは」
 と彼は挨拶した。少女もはにかみつつ、こんにちは、といった。日焼けした頬に、歯がことのほか白い。
「何をしているの」
 と彼は訊いた。こんな山の中に少女一人とはやや意外だが、近所に家があるのだろう。
 少女は大村の立つ流れのほうに寄って来て、掌を開いて見せた。
「お星さまよ」
 そういって、彼を見上げた目が、真実星のようにきらめいて美しかった。
「ほう見事な石だねえ」
 と大村は褒めた。しかしその褒め方が、いくぶん心証を害したらしく、
「ううん、お星さまよ」
 と少女はいって、掌を閉ざしてしまった。二度と開くことはあるまいと思えた。遮断された指の間から、さっと星のきらめきが漏れて出た。
 五、六歩上ったところに、淀みと早瀬が調和して、魚のいそうな箇所があった。彼はそこで試してみることにして、流れを出て川縁に立った。
 少女は石探しに戻っていた。
「おじょうさんは、もっとそんな綺麗な石がないかと探しているのかな」
 大村は一服するために、水筒の水をキャップに注ぎながら訊いた。
「たくさん雨が降って、川が溢れたから、お星さまが上から流れてきたのよ」
 と少女はいった。
「そうか、山の上なら星が降ってきたのかもしれないね」
 と彼はいった。少女は気をよくして、
「おじさんはどこの人」
 と訊いた。
「おじさんは東京から三時間車に乗ってきたんだよ。下の分校まで」
「あっ、あそこ、私の学校」
 と少女は、その偶然を喜んで、はしゃいでいった。
「そうか、おじょうさんはあの分校に通ってるのか。でも、今日は休んだの?」
「ううん、今はね、春休みなの。四月から、四年生」
 独身生活の長い彼は、こういった日常の知識に疎かった。解禁日は知っていても、子供の春休みは知らなかった。
「そうか、春休みか。道理で静かだと思ったよ。おじょうさんは、四月から四年生なんだ。遠くて大変だね、あそこまで通うのは。熊なんか出ないのかな」
「中学生になったら、本校に行くから、もっと遠くなる。熊はね、逃げたりしたら、駄目なのよ。熊だって、人間が怖いんだって。だから出遭ったときは、睨みつけてやるの。そうしたら、熊が逃げていくんだって、先生が言ってた」
 彼は忍ばせてきたピーピーや癇癪玉のことを思い出し、少女に意気地のなさを見咎められている気になった。
 沈黙がつづいて、彼が釣りはじめようとすると、少女が緊張によるのか、声を詰まらせてことばを発した。
「おじさん、このお星さん、どうやってここまで来たと思う」
「そうだねえ、まず長い時間をかけて、山の頂に辿り着いて、そこで大雨がくるのを待ったんだね。そして待ちに待った雨が降ると、水の流れに乗って、ここまで来たのかもしれないね」
「本当にそう思う?」
「そう思う。ここでお嬢さんに拾われるのを、待っていたんだろう」
「そうかしら」
 少女はそういって、大村の次のことばを待ち構えた。
「そうだよ。ほかには考えられない」
 この断定は少女を喜悦させた。いっぺんに少女が星になったみたいに、上気していた。「だから、いくら探しても、ほかにはないよ。それはおじょうさんに来た星なんだ。ぜったい手放したら駄目だよ」
「うん、家にあるほかの小石は、みんな分校の友だちにあげてしまうの」
 大村の投げ入れた糸が、ぐーっと持って行かれた。竿を上げると、銀鱗をきらめかせて山女が空中に躍り出てきた。
「あっ、すごく光った。お星さまみたい!」
 と少女が叫んだ。
 中くらいの形のよい山女だ。彼はそれを両手で少女に見せてやった。少女は自分の掌を開いて、閉じてしまった宝を大村に見せた。
 大村は魚を魚籠にしまって釣りはじめたが、それからはいっこうに引きはこなかった。
 そろそろ釣りおさめにしようと思った。
「ああ、今日はよい日だった。魚は釣れたし、おじょうさんに会えたし、星を見せてもらったし」
 そういって、竿をたたんで、しまいにかかった。少女も、大村がそこにいるから、何となく離れずにいるというだけで、本気になって星探しをしてはいないようだった。
「おじさんは川伝いに来たから分からないんだけど、山を下りる道はどこにあるの」
 と訊いた。
「こっちよ」
 少女はいって、道案内に先になって歩き出した。「私のうちは、ほら、あそこよ。木の間に、ブルーの屋根が見えるでしょう」
 少女が指差す先には、湖面を傾けたような深い青がはまり込んでいた。そこから視線を上にそらすと、連峰がうねっており、残雪が白く輝いている。木々の梢ははうっすらと、緑のベールを被っている。
「そうか、あそこから毎日分校まで通っているんだ。おうちの人は何をしているんだろう」
「山で茸をつくってるの。おじさん好き? 茸。シメジとか、マイタケ」
「好きさ、おじさんもスーパーで欠かさずに買ってるよ」
 前を行く少女は、嬉しそうにけんけんをしていた。
 いよいよ分かれ道に来た。少女は家のほうに、大村は下山する道を辿ることになる。少女はその分岐点に立つと、遅れている大村を待った。
「じゃ、元気でね」
 彼はいって、下山の道に入った。
「また来てね」
 と少女がいって、小手を振った。そしてもう一方の手には、星を掲げて見せた。星は陽光に反照して、目に痛いほどの光を放った。これほど光るとは思わなかった。その意外さに彼は目が眩んで、足がもたついた。踏みとどまると、
「やっぱり星だね、それは」
 と声を投げた。
「私のところに来たお星さまよ。誰にもあげないからね」
 と少女がいった。
 大村はその通りという合図を返したかったが、どういう身振りをすればいいのか分からなかった。
 道は途中から曲っていた。今までの世界が視界から外れるところで、振り返ると、少女はまだ立っていた。
「また来てね!」
 と少女は叫んだ。彼はつられて声を発したが、とても少女に届くものではなかった。それに気づくと、大きく手を振った。
 しばらく歩くと、道に板を渡しただけの小流れにさしかかった。帰る支度をして、道を歩き出す頃から、魚籠の中で最後に釣った山女が間欠的に暴れているのに気づいていた。
 彼はその一尾を魚籠から出し、岸に屈んで流れにおいてやった。この小川は先程の渓流の支流になっているはずだった。
 山女は水に横たわって、二度三度、姿勢を立て直そうともがいた。しかし、体がいうことをきかなかった。大村はその腹を指で突いて、弾みをつけてやる。すると黒い背びれを上向けて、正しい泳ぎの姿勢をとった。そこで自力で身を交互に振ると、ゆるやかに前進して、流れに姿を消していった。
 大村は水で手を洗い、ぬめりを落とすと、ついでに水を掬って顔を洗った。痺れるほどの冷たさだ。峰に残る雪の冷たさだ。
                              了



コメント(18)


この「星を拾う少女」は2008年04月12日の作で、インターネット上である人のページを拝見したのが書く動機になっています。私は創作する場合、モデルとして書けるかどうかは、その人の純粋性とか、良質な資性のあるなしにかかっています。むろんその人に対して、神がどういう見解を持っているかにかかっていて、大きくはそこから生まれてくるイメージではあるのですが。
 とにかく主人公として使えるか否かは、その人の稟性にかかっているのです。したがって、男も女も俗物は絶対に作品化できません。
 これは画家が、モデルを選ぶのと似ているかもしれません。前作「花火の夜の白きバラ」も、これまで書いてきた作も、一応まとめて一作としたものは、すべてそうです。なかには形を変えて、何度も登場してもらっています。
 さて前置きが長くなりましたが、この「星を拾う少女」の星についてです。ネット上で見たその方の星も、形こそ星でしたが、永遠の象徴として描いたものだったのでしょう。永遠といえば、神の国(天国)以外には考えられません。そして神の国は、肉眼では決して届かない世界です。
 ということで、「星を拾う少女」の星も、そのようなものとして描きました。つまり永遠の型として、星をつかうしかなかったのです。そうなると当然、ここに映像として用いたホルストの「ジュピター」も、そこに永遠があるわけではなく、ただの型です。しかし人は、届かないものに、どうしても届かせようとすると、こういう型を用います。これは人間に限らず、神もそうであるようです。神の場合は、人間に分からせようとするので、あえてそういう経路を踏むのでしょうが。
 私はここで、つまらない自作の解説をするつもりはもうとうありません。北京オリンピックが終幕した折りしも、神が私にその解き明かしをするように迫ってきたからなのです。つまり型なるものについて。
 北島康介の金二つと、女子ソフトボールチーム十五人の金は、神が人類に示す避けて通れない肝要なるしるし=型=だというのです。
 端無くも、預言をする霊を受けている私としては、この神の厳命を聞かぬ振りはできないのです。(過去、等閑にしたために痛い目に遭わされたこともありますので)
 多くの預言者は、何百年後か、何千年後のことを預言して、自らはその成就を見届けることなく一生を終えるのですが、私の場合、幸か不幸か、終わりの世を生きるものとして、今現在のことを示され、その解き明かしをしなければならないという責務を担っています。
 話を戻しますが、北島康介と女子ソフトボールチームの金は、いったい何の型なのか。型というからには、本命は何なのか。
 神に言わせると、これこそ復活のいのちに携わる地球の鍵を握るものたちなのです。それがようやく目覚めはじめて、煩悶の中に投げ込まれているのが現状なのです。
 神はそこに光を当てて、教える必要があった。他は犠牲にしてもです。気の毒に野球の星野ジャパンは、最初から勝算はゼロだったのです。女子ソフトボールを光らせるためです。
 むろん彼らの素質もあったし、涙ぐましい努力もあったでしょう。しかし素質を与えるのも神なのです。また十全の備えを持って臨みつつも、あえない結果に終わった例も数々見てきた。ソフトボールの横っ飛びの捕球などは、まさに神技としか言いようがない。
 神が北島康介と女子ソフトボールチームを、顕彰しようとしたことは確かです。この両者へ、神の意向を汲んだとも思える、日本オリンピック委員会の竹田恒和会長からの特別賞授与は見事です。金メダルは他にもいたのに、この二者を選んだのです。国にも預言者に耳を傾けるものはいる。                             つづきます。
 
 簡単に書けるように考えたのですが、どうもこれは大変な問題で、身の細る思いで綴っています。
 普通のコメントというようなわけにはいかなくっています。難渋といったところでしょうか。しかし自らを叱咤激励して書かなければ。
 前回、北島康介と女子ソフトボールチームの金は、「これこそ復活のいのちに携わる地球の鍵を握るものたちなのです」
 と書きましたが、今はこの重さを跳ね除けてなんとしても書かなければというところに差し掛かっています。
「鍵を握るものたち」とは何の前触れもなく不意に現れてきたのでしょうか。そんなことはありません。新約、旧約聖書に載っている約束された事柄です。預言されている多くはすでに成就しましたが、まだ起こっていないことがあります。それがキリストの再臨なのです。
 しかし神は私に、キリストはすでに再臨していると告げるのです。そのキリストの再臨の型が、中国北京で金二つを取り、栄光の人となった北島康介だというわけです。北島と軌を一にして、キリストも中国で誕生しているとも神は語ります。金二つにどんな意味があるのかというと、一つは父なる神、もう一つはひとり子キリストであるとのことです。つまり再臨のキリストは、限りなく父を帯びて、一つになって現れるということです。
 北島康介が再臨のキリストの型である。いったい何にもとづいて、神はそんな難題を持ち出してきたのでしょう。今、世界の教会は、再臨待望の渦中にあるといっても過言ではありません。そんな波に便乗して、多くのニセキリストが現れてもいます。自分こそキリストであると名乗って、ニセキリストたちが現れてくると聖書には預言されているからです。
 ここで注意しなければならないのは、本当のキリストが来たとき、自らをキリストであるとは名乗らない、とは言っていないことです。初臨のときそうしたように、あるときは名乗り、またあるときは名乗らないということです。それを決めるのは一緒にいる父なる神です。キリストが言いたくなくても、この人にはストレートでいくしかないと父が判断すれば、そうなるでしょう。それを名乗ったから、異端だ、ニセキリストだなどと言えば、最も重い罪を犯すことになります。聖霊=父なる神に逆らう罪は赦されない。そう明記されているからです。
 では本物か偽者かをどう判断すればいいのか。それを判断するのは、各人の中に住んでくれているはずの御霊です。牧師ではありません。御霊のない牧師も多くいますからね。
 御霊については、後ろのほうでもう少し記しておきます。

 では、聖書でキリスト再臨の約束の箇所を見てみましょう。
 新約聖書マタイの福音書25章31節
「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき……」
「人の子」とはキリストのことです。ここで女子ソフトボールチームに登場してもらいます。この「すべての御使いたち」こそ、ソフトボールチーム十五名の本命であるということです。ソフトボールは今回限りで、オリンピックの種目から外れるそうですが、この「すべての御使いたち」にも後続はなく、永遠不動のメンバーです。約束されたすべてのいのちが復活して、復活の役割はなくなっても、今度はいのちのエキスを与える聖母のような存在になっていくようです。天国とはいいながら、霊の飢え渇きはあるようですから。 
  ↓

 ここで大きな問題は人の子と、彼女たちの現れ方です。聖書では、栄光の雲に乗って上空からやって来るようにも見えますが、けっしてそんな現れ方はしないと神は語るのです。
 一瞬のうちに起こるのではなく、キリストが最初に世に現れたときのように、母の胎を借りて赤子から成長してくるということです。「伴って来る」とあるので、一緒に来るように見えても、五十年近いスパンは、何十億年という神の宇宙創造からすれば、一瞬の出来事に等しいということです。
 そしてそれぞれ母の胎から出て育ってきた彼女たちは、召しの問題にぶつかって慌てふためいているといったところです。まだ何も気づかずに、暢気に乙女気分に浸っているものもいるかもしれない。
 しかし彼女たちが約束の御使いたちであるなら、気づかないでは済まされないのです。
 気づかせるのは、ソフトボールチームの十五人が首にかけてもらった金メダルに象徴される御霊なのです。御霊とはキリストを指し示し、キリストに導く神の霊です。この御霊がキリストを指して、あれは悪魔だとか、異端だなどと言うはずはありません。なぜなら御霊はキリストから発し、キリストに導く霊であるからです。
 
 もう一つ、旧約聖書から再臨の聖句を抜粋しておきます。
ダニエル書七章十三節
「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた」
「人の子」はキリスト。「年を経た方」は父なる神です。
 再臨のキリストは父なる神を帯びてきているとは、このことです。

 次々書かなければならないことが出てきて困っています。サタンは羊に向かって攻撃してくる悪しき霊ですが、「すべての御使いたち」のことも把握していて、いのちの土台を崩せば勝利は己のものだとばかり、御使いたちに向かうと考えられます。すでにやっているでしょう。サタンに御しやすい人間の中に入り込み、甘言、籠絡、さまざまな手を使ってキリストへの道を塞ぐと思われます。
         つづきます。
 かつてイエス・キリストは十二使徒を任命しましたが、それは男性ばかりでした。
 何故そうしたのかは浅学にして分かりませんが、エバが蛇の誘惑に惑わされ、罪が人類に入ってきたことと同じ視点で捉え、女性は教会において、どちらかといえば冷遇視されてきたきらいがあります。しかし神は、決してそんな目で見てはいませんでした。
 女性は最後を飾るように、神の愛を受けて十五人の御使いとして登場してきたのです。しかも、天においても至聖所が彼女たちのために開かれているのです。一般社会で、教会においても、男性優位がつづいている現状とは大きな違いです。
 そんな中にあって、はからずも女性に光を当ててきたのはカトリックでした。聖母マリアを崇敬の対象としてきたからです。罪なきもののように扱ったのは間違っていましたが、女性の聖性を高く保ち、現在に橋渡ししたという意味は大きなものがありました。再臨のキリストが伴ってくるのはすべて女性であるからです。神は将来を見越して、公平のために女性を少しだけ低くおいたのかもしれません。
 その御使いたちのつとめは、多く人を集めることではありません。十二弟子は福音伝道が主たる目的でしたが、彼女たちの目的は、いまだ人類の見ていない、神の言われるところの「新しい事」なのです。路上に飛び出していって宣教活動をするような能力は、恐らく与えられていないでしょう。マザー・テレサのような真似は、できはしないのです。
 彼女たちは特権として普通の羊より大きな器を与えられていますが、中身を満たされてはいません。それでもかろうじて主を見極められるだけのものは備えられています。後は主から直接受けて、聖霊が満たされた状態になるのです。大きく変えられるのはそのときです。
 あのペテロが何度も「私を愛するか」とキリストに問われたように、今度は彼女たちが「私を愛するか」と問われているのです。


★始動は父なる神 その時は近づいた


昨夜、ほんとうの星が瞬くのを見た
その星は想像していたより
ずっと先の夜空に冴えて光っていた
偶然ではない
神のいう油を備えた五人の乙女の中の一つの星だ
巧まずして「の」が五つ並んだ
備えのない五人は堕ちていった
預言の通りだ
主が再び現れるとき
はたしてどれだけの信仰が
地上に見られるだろうかと
危ぶんでいたが
そうしてその通り
日本のどこもかしこも
信仰の闇がつづいていたが
昨夜、一つの星が瞬いていた
哀しげに私はここにいるよと


☆讃歌



秋めいた一日

愛らしい小鳥が

私を明るい丘へといざなった

私はあたたかな草叢に寝て

葉を落とすには間のある

木々の梢や

空に吸われゆく白雲のさまを眺める



傍らでは

私をここへ招いた小鳥が

玲瓏とした美声で

得意の歌を披露する



私が口笛を吹いて

彼女を讃えるまでは

歌声がやむことはない




 前回、キリストは御使いを伴って再臨していること、そして再臨の目的は復活のいのちを与えることであると書きましたが、それだけでは片手落ちであると教えられましたので、補足しておきます。
 キリストが再び現れるのは、さばきと復活のいのちを与えるためです。さばきと復活、この二本柱のために、やって来るのです。いえ、正式にはやって来ているのです。
 さばきを前面に出すと、怖れをなしてますますキリストを信じるものが減っていくのではないかとの配慮から、控えていたのですが、今はもうそんな暢気を言っているときではないようです。さばきを出さないことで、サタンの横暴を許すという逆効果を招いているからです。
 再臨とさばきについては、カトリック、プロテスタント、共に使徒信条に載っていますので、貼り付けておきます。カトリックでは「裁き」、プロテスタントでは、「審き」となっていますが、私はその中を取って「さばき」としました。


使徒信条


天地の創造主、
全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主
イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、
おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、
陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、
全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、
聖なる普遍の教会、
聖徒の交わり、
罪のゆるし、
からだの復活、
永遠のいのちを信じます。アーメン。

2004年2月18日
日本カトリック司教協議会認可



使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、
全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

アーメン

   プロテスタント  日本基督教団


 さて私が、急遽書かなければならなくなったのは、カトリック、プロテスタント、双方の信仰の基本条項ともいうべき、「使徒信条」に謳われている「さばき」についてです。
 復活とさばきと、どちらが先かというと、「さばき」です。さばきはすでに起こされています。私はさばきのど真ん中を通されて見てきました。別に惨たらしい場面を書くわけではありませんので、普通の記事としてお読みいただければと思います。しばらくお付き合い下さい。
            つづきます。
 私がキリスト教信仰に目覚めたのは、街で神々しく光るキリストに出会ったときからです。東京文京区の路上でした。
 このときのことは、他で書いたものがありますので、それをここに貼り付けて、労を免れさせていただきます。
http://po-m.com/forum/pointview.php?did=96224&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D3143
 誇るつもりはありませんが、私ほどイエス・キリストの顕現に接したものは、ほかにパウロがいるだけです。パウロのときは以下のような状況です。

:使徒言行録 / 9章 3節 ー6節

ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
  サウル=パウロ

 パウロといえば異邦人へのキリスト教伝道をはじめた人で、新約聖書の四分の一は彼の著作であるとされ、その規模においても、実績においても、無名の私などとは比較するのもおこがましいほどですが、彼にはなかった点を挙げてみますと、私は多くの有能な詩人、言葉の才華たちに取り囲まれていることです。
想像力、インスピレーション、卓抜な比喩、
私に才はなくても、彼らの才知に委ねることで伝えていけると思えたことです。事実、聖書のことばだけに凝り固まった牧師や信徒には、とても届かないような真実を捉えていたり、暗示から暗示への投球術も見事なものです。
 路上でイエス・キリストに出会った後、私は自宅で聖書を二年半学びました。神直伝の聖書指導です。むろん聖句の暗記なんてものじゃない。人間の罪からはじまって、死に至る人生のむなしさ。十字架の意味。何故キリストは、自分だけを愛するかと、問い詰めてくる、その意味。
 それは私が微かに抱いた卑しい自己顕示欲のようなものではありませんでした。それを実際にわき腹に痛みを与えたりして、実地訓練のようにして教えました。
 十字架上のキリストは、苦しみと痛みに耐えながら、これは人類の罪を贖うためであって、自分を通さなければ誰一人として、蘇ることなんてないことを悟っていったというのです。悟らされたいうべきかもしれません。
洗礼はキリストを信じて、自分も一度死ぬことを意味します。
 日本は自殺王国などと言われていますが、これは「死にたくなったら、教会に行って死ね」と言う教えが、徹底してなされていないからではないでしょうか。洗礼を受けることは、死ぬことなのです。死ぬつもりで、飛び込んでいけば、明日からは百八十度変わった生き方ができるでしょう。教会の多い外国では、死にたくなったものは、教会に飛び込んでいって死んでいます。そしてすっかり人が変わって、気違いみたいにゴスペルを歌いだすのです。

  ↓

 いよいよ本題のさばきについてです。私はさばくために教会に行かされました。預言者としての辛い任務です。
 そのためには天国と地獄の絵図を雑記長に描かされ、番号を打っていきました。天国にも階級があり、地獄にも階級がありました。
天国では上下だけではなく、横方向にも十七の階級がありました。何故図式までしたかというと、さばきを具体的に教えるためだったのです。たとえば、Z牧師はどこへ行くとか。V長老はどこだとか。
 ところで、出かけた教会を順を追って書くと、差支えがありますので、共通するところだけを掻い摘んで述べていきます。死後どこに行くなどと知ってしまうと、希望を完全に奪うことになりますから。あのナポレオンが力を失ったのは、ピラミッドの中で自分の将来の姿を見てしまったからだなどと読んだ記憶がありますが、完全に違っているともいえないでしょう。神は暗号のように解読可能の文字をいたるところに貼り付けたりもしますので。
 神は最初からあの人間は悪いとは教えません。善く教えます。御霊のもので神とパイプが繋がっているとか。パイプが繋がっているとは、神の声を聴いて、それに従って牧会していることで、申し分ない教会ということになります。ところが、ちょっと権威のある教会などには、役員とか、長老という肩書きでよからぬ分子も入ってきているものなのです。
それは仕草や発言等に表われます。たとえば献金の多いものには、恭しくするとか。むろん週報に書かれた本人の記事にも表われます。そして何より決定的なのは、御霊とか、聖霊の話を持ち出すと拒んでくることです。これは悪魔のしるしです。神の声を聴いたなどというと、自分が見破られるのではないかと、慌てふためき、追い出しにかかるのです。
 私が路上でイエス・キリストに会った話をしたときもそうでした。これから祈祷会に入る前の段階で、新しく来たものは、自分はどのようにして神を信じるようになったのか、証しするようになっていました。私は指名されて話し始めました。
 何をやってもうまくいかず、打ちひしがれて歩いていると、文京区の路上にイエス・キリストが光り輝いて現れ、まっすぐ私を見ていた……このあたりまできたとき、待ったがかかったのです。まだ話し始めて二分と経っていなかったので、私はかまわず話し続けました。すると何やら馬が嘶くようなヒステリックな声でこちらを封じにかかってきました。
これは聖霊を拒む悪魔の仕業だなと判断して、自分が敷いていた座布団をその役員に向かって蹴り飛ばしてやりました。
 会場は大騒ぎとなり、何人かの信徒が私を鎮めようと抑えにかかりました。私は抑えられながら、しきりに神に聴いていました。父よ、これはいったいどういうことでしょうか。あなたがこの教会はいいというから、やって来たのにこのありさまです。すると、おまえの怒りはよく分かる。あいつはサタンだ。サタンの出入りを自由にさせているブタだ。地獄の十九番行きだ。そういう、どうしようもないのがごろごろいる。しかしもう少し辛抱しなさい。
 それが金曜夜の祈祷会で、一日置いて日曜の礼拝に出かけていきました。
 私の怒りがピークに達したのはそのときです。牧師は他の教会でメッセージをするように頼まれたということで不在でした。そして牧師に代わって説教をするように依頼されたのが、私の証を拒んだ役員だったのです。
 私はそれが分かると、即座に席を立ち、会堂を出てしまいました。父なる神も怒っていましたが、私は父より先んじて怒っていました。あの牧師も同じ焦熱地獄の十九番に堕ちる。そこで熱い水に水母みたいに浮かんでつるんでいればいい。神はときにこんな下品な言葉も遣います。
  ↓

 神はねたみます。激しく怒りますが、ねたみにも激しいものがあります。神に向かわず、悪魔とねんごろになっていると、それが起こります。たとえ神の栄光をあらわすためにしたとしても、サタンの汚れが入ると、神には届かなくなるのです。この教会についてはもう決定しているので、動きようがないのですが、聖霊を拒むようなことがなくても、骨の髄まで見透かす神であれば、サタンの器か、神の器かはすぐ分かるのです。
「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、私のねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、私の憤りを彼らから引っ込めさせた」民数記二十五章十一節
 私が人よりも父なる神の愛を多く受けているのは、実にこのことだと考えています。サタンに向くものへのねたみと怒りが、誰よりも強いからです。
「というのも、私は神の熱心を持って、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています」?コリント十一:2、3
              つづきます。


 前回書いた教会についてですが、牧師と役員が悪いのなら取り除けばいいと、普通は考えます。しかし神はそれをしないのです。すでにさばかれて、地獄行きが決定していても、そのままにしておきます。何故か。
 さばきとはあくまでも、甦りのときまで持ち越されるのです。私が先回りして教えられたということです。
 ではなぜ残しておくのかと言うと、悪者に惹かれていくものをさばく試金石とするためです。したがって、天のいのちに与りたいと思えば、そこを逃げ出すしかないのです。
 しかし一度入り込んでしまうと、そこから抜け出すのは容易なことではありません。何しろ相手は悪霊ですからね。テレビでも、新興宗教に嵌まり込んで出られなくなったという報道を視たりしますが、出るのは至難の技といえます。
 悪魔が狙うのは神の子供たちです。それもキリストに近いものたちです。神に敵対するのが悪魔の本質で、直接キリストには刃向かえないから、近いものを狙って、神から離し、神にダメージを与えようとします。何故そうするのかと言えば、神に国が実現すれば、自分たちの行き場がなくなるからです。悪霊どもは、自分たちの寿命が残り少ないことを知っているのです。
 悪魔はしつこいです。追っ払っても、追っ払っても来る蝿みたいなものです。悪魔に明け渡しているため、自尊心もなく、自分を大きくも小さくもでき、同情をそそるコツも心得ています。これ以上拒みつづけると、相手に悪いという意識が芽生えはじめるだろうという、タイミングまで知っています。相手は悪霊ですからね。
 そうやって悪魔に引きずられて、抜け出せず、悪霊の餌食になった例を書きとめておきます。
 ここも私が神から善いと教えられて出かけた教会です。善いか悪いかの基準は、あくまでも御霊によって神とパイプが繋がり、神に従っている教会であるか、どうかということです。
 善いと教えられれば、こちらも丁重に相手に向かいます。同じ羊なんだ。その仲間のところに来たんだと、心安らぎ、自分の家に帰って来たようなつもりで、牧師と相対します。
 これまで何度も裏切られていますので、そう簡単にはいかないのですが。しかし信じやすいという生来の欠点? から、どうしても善く見てしまうのです。
 この牧師の場合も、こちらが低姿勢に出ると、このときとばかり、肩いからせて胸を張り、居丈高という態度に出ました。一気に相手を屈服させ、自分が上に出るというやり方です。山羊くさいなという最初の印象です。
 しかし私には、簡単には引き下がれない事情がありました。この教会には、花嫁に当たるものがいると、神に教えられていたからなのです。花嫁であれば当然御霊の導きを受けているはずだ。その際、牧師がどういうメッセージをしているかにかかっている。

     ↓
 少し通って様子を探ることにしました。聖句の引用も、メッセージの内容も、キリストの再臨に気づいているような感触があって、山羊のようではあるが、羊かもしれないと、最初の判断を撤回しようとしていました。
 そんなとき、次の言葉が耳に飛び込んできました。「見ないで信じるものは幸いである」
 これは水曜日の祈祷会で牧師と対面したとき、私がキリストとの出会いを話したのですが、それを踏まえての発言だったのです。
 メッセージも終わり近くなり、私は眠気を催してうとうとっとしたとき、はっと揺り覚まされて顔を上げると、牧師の胸の辺りから、蛇の舌がちろちろと覗いていたのです。
 山羊と分かったからには、急がなければならない。私はその女性をつかまえて、神の託宣を告げました。食堂にやって来た牧師を捉えて、「この教会にはキリストの花嫁がいること。復活のいのちはそこからくること」
それらを告げましたが、まるでちんぷんかんぷん。私は暗たんたる思いで、それでも何ヶ月か通ったはずです。
 そのうち女性が目覚めて連絡してくるからと神に言われ、私は教会通いをやめました。
 なるほど、その女性から電話がありましたが、教会に出てくるようにとの一点張り。私が牧師が神の器でないというと、「尊敬できる素晴らしい先生ですよ」とこれまた一点張り。私は彼女の口調がまだらっこしく、おかしいなと感じていました。電話ということもあったのでしょうが、よからぬものに入り込まれているなという気がしたのです。よからぬといえば、悪霊に決まっています。
 私は彼女が今の教会に通っていることに不安を感じました。神の召命どころか、命すら落とすのではないか。
 私はこの機会を逃したら、彼女を引き止められないと焦り、「あいつは、牧師じゃない。蛇だ。それを尊敬しているようじゃ、○○さんと話もできないんだ」
「先生に向かって、あいつなんて」
「あっ、そういえば、今朝ゴキブリが死んでた。仰向けになって」
 私は思い出して、そう付け加えたのです。我が家でゴキブリの出没は年に二匹ほどで、
その一匹が今朝死んでいたのです。
 私はそれも神の示しだと受け取り、そのうち教会に出かけるという返事はできなかったのです。
 それより前、私は神から、その牧師の将来を、地獄の23番行きと教えられてもいたのです。23番といえば、地獄の最低24番の一つ上というだけです。私はまだ24番には会っていません。
 その女性がどうなったか、今日は書けませんでした。
               つづきます。
 その女性から電話があって半年ほどして、私はバスの中で偶然彼女と出会いました。バスの前部は床を挟んで向い合っており、後部は高くなっていて、前向きの席になっていました。
 私は後部の席に前を向いて腰掛けました。前部の席に腰掛けている女性が、私のほうを見ていました。私は彼女の異様さに、目が釘付けされたように動かなくなりました。青ざめた蝋細工を思わせる顔に、霜降り肉のような斑点が透けて見え、一目で悪霊に冒されていると見て取りました。ざわざわっとする胸騒ぎが全身を走りました。私は人一倍、こういう霊には敏感なのです。
 その女性は首を捻ってじっと私を見ています。誰だろう。どこかで会った気はするものの、分からない。しかしこんな厭わしい感じのものと、関わってきた覚えはない。でも、この顔にはどうしても既視感がある。そのうち相手が、私に向かって言葉を発したのです。バスの中はあまり混んではいませんでした。しかし相手の舌がもつれているのか、発声がもどかしく、聴き取れません。耳を傾けていると、ようやく伝わってきました。○○ですけど、どうして教会に来ないんですか、と話し掛けていたのです。
 私はバスの中で牧師が悪いからと言うわけにもいかず、口を濁していました。それより、こんな顔になってまで、牧師を離れられない彼女に憤りさえ覚えました。これほど悪霊に冒されながら、何ということだ。
 私はどうにかしてやらなければと思い、バスを降りると、彼女の向かう方へと一緒に歩きました。「十分ほど時間をくれない?」そう言うと、「祈祷会に出るので、急いでいますから」とつれない返事。そうか、今日は水曜日で、祈祷会があったんだ。
 私は彼女と駅に歩きながら、悪霊の追い出しについて考えていました。しかし彼女の頭に手を置いて、祈ったりすると、中に棲みついている悪霊は、きゃ、とか、ぎゃふん、とか、きききき、とか、けたたましい叫び声をあげて暴れ狂い、彼女を七転八倒させることにもなりかねませんので、簡単には手を出せないのです。私は駅ビルの空いたコーナーとかを、思い描き、「七分でいいから」と頼みました。しかし、「急いでいますから」とひどくつっけんどんな答えが返ってくるだけ。
 そのうち改札口に来てしまい、私はたまらず最後の手段として、「この女から悪魔出て行け!」と叫びました。けれども、このくらいのことで出て行く悪魔ではありません。青ざめた霜降り肉として深く入り込み、彼女を支配してしまっているのですから。

     ↓

「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです」マルコ9章47節
 にもかかわらず、彼女は、行ってしまった。
「そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません」マルコ9章48節
 に向かって、ゲヘナへの階段を下りていく。私はたまらず、彼女が電車を降りる駅まで一緒に乗っていって、そこでどうにかしようと思い、乗車券を買いに走ろうとしたとき、
「終わった、終わった、終わった。よくやった。よくやった。よくやった」
 と父なる神の声が飛び出したのです。私はそれ以上追うのはやめ、遠ざかって行く、力ない彼女を見送っていました。あのくたびれ果てた、重い足取りで、悪霊に惹かれて行くのです。
 私はそのまま駅を通り過ぎ、書店に入って買う予定の本を探しました。彼女のことは、やり残したこととして、ずっと私の頭にありましたので、神はこういう形で締めくくったなと考えていました。もう愛情はありませんでした。私を棄てて悪魔を選らんだ、ねたみもありませんでした。どうしてか哀しみだけが残っていました。
 思えば、その教会に通っていた何ヶ月かの間、私は彼女を捉まえて神の託宣を伝えることだけに頭がいっていました。
 礼拝の後、五、六人が連れ立ってレストランに行くのに、私からすれば随分無理をしてその中に入り込み、彼女の隣へ坐ったこともあります。割り込んだわけではなく、たまたまそこが空いていたから坐ったのですが。
彼女はどうしたことか、いきなり饒舌になり、
まくし立てたかと思うと、笑い出したり、私に向かって、「私のほうばっかり見ないでよ」などと、きかない口をきいたりもしました。目鼻立ち整い、肌艶もよく、彼女のところだけ花が開いたようで、そんな彼女だからこそ赦される発言でもあったのです。あの最後に見た霜降り肉の面相など微塵もなかったのです。私に発したあの言葉は、女っぽい仕草のうちに含まれるものだったのか、彼女の中のサタンが騒いで、私を追放しようとしたのか。解読は不能ですが、いま神は私に、彼女は死んだと語るのです。
 私はそれを否定する根拠を何も持っていません。それが肉的であろうと、霊的であろうと、彼女は間違いなく、ゲヘナへの階段を下って消えて行ったのです。




まだまだ書かなければならないことは山ほどありますが、
ここで一区切りにしようと思います。

新たに入ってきた神の言葉
書き洩らした天国と地獄のこと
御霊とは
聖霊と御霊の違い
神の武具を身に着けること
祈りの初歩
すべて神直伝のものをおいおいに
綴っていきますので、またお読みいただければと思います。




                         Renee Fleming sings "Panis Angelicus" by Cesar Franck





 旧約聖書の時代、アブラハムは自分の故郷から息子イサクに嫁を迎えるために、しもべを嫁探しの旅に出します。ラクダ十頭をひき、あらゆる貴重な品々を持って出かけました。
 ナホムの町に来ると、アブラハムのしもべは神に祈ります。この町の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に「どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください」と言い、その娘が「お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう」と言ったら、その娘こそ、あなたがイサクのために定めておられたのです……」
 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、リベカという娘が水がめを肩に載せて出てきます。リベカは神と約束した通り、しもべに水を飲ませ、ラクダにも水を飲ませて、この娘が神からのものと知ります。実際に声は聴けなくても、神の意志が働いていることを知って、そのように運んでいきます。
 それから何千年という時代の経過があって、私はこの大都市の砂漠の中で、同じように花嫁探しという大任を仰せ付かっています。
 はじめ神は花嫁は世界中にいると教えました。すると確率からすると、日本には一人いればいいほうだと踏んでいました。しかるに現状は、外国の花嫁は日本にある外国人の教会に一人いるだけで、あとは日本人なのです。それも一箇所から何人もそれらしき人が出てくるに及んで、これはおかしいと思いました。
神はそうだと言っても、私は顎を縦には振らず、じっと観察してきたのです。
 それが最近になって、恒星の光を放つ人が現れてきて、私も慌しくこのような草稿を書いているということです。
 一箇所に集まっているのは、神が計画の下にそうしているのであって、それがおかしいと考えるのは人間的な発想で、預言者としてあるまじきことだというわけです。
 私も信じて裏切られてきた過去がありますので、つい警戒心が強くなるのですが、間違いのない人なら現れてくれたほうがいいに決まっているのです。
 そしてその人が逃げて行かない限り、神のほうから切ることはないでしょう。それが人間と神との歴史です。いやしくも私の分掌である花嫁探しにおいては、神は愛であり、愛こそがいのちへつづく道なのですから。
 以下花嫁に日本人が多いことについて、私のまとめです。アブラハムが、彼の故郷から花嫁を迎えたように、イエス・キリストが自分の故郷から花嫁たちを、今呼び寄せようとしているのであれば、日本にはユダヤから流れてきている血があるということです。
 


                      

                         Pietro Mascagni - Intermezzo

 「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」ヨハネ15章4節

 やはり電気が切れました。今回はしるしを求めてはいませんでしたので、あれ、と思いました。二本のうちの32形の蛍光灯が点滅をはじめて、次第に点滅の回数が目まぐるしくなり、一時間もしないうちに使用不能になりました。これまでは点滅をはじめても一、二日はもっていたので、珍しいケースです。30形一本では暗くてしようがありませんので、買ってきたところです。
 神は依然電気を切ることに執着しているようです。ということで、つまらないようでも書くことにしました。
 実は「身をやつすマリア」を書いたときも、電気が消される現象は起こったのです。あの中で、電気を切ってばかりでは負担が重いので、最近は故障していたクーラーの自動切換え装置が直ったなどと書きましたが、「身をやつすマリア」を書いて、コピーする状態にして、食事をしてからと電子レンジを使いました。
 しばらくして、ばしっという音がして、室内まっ暗。当然パソコンも。理由は故障が直ったために、クーラーが自動的に切れていたのが、室内温度が上がって自動的に動き出し、電子レンジ、パソコンだけでなく、テレビ、DVDなどさまざまな機器を繋いでいたため、パンクしてブレーカーが下りてしまったのです。
 さいわい、文章は保存してありましたので、事なきを得たのですが、電気の切れるしるしは、最後の最後に起こったということです。電気の切り方は、しるしの対象者によりまちまちで、神と応答して訊いているとき、落雷で切られたこともあります。
 神が電気を切るというこの小さなしるしに執着している限り、私としてもなおざりにはできません。
 他にも、切られた例があって、うすうす対象者も分かっているのですが、こちらはまだ着手しておりません。神の国は、打ち叩き、奪うほどの勢いで向かわなければ、門は開かないからです。

「バプテスマノのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」マタイ11章12節

「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています」
ルカ16章16節

 前者の聖句をマイナスイメージで捉える者もいるようですが、悪魔の妨害を撥ね除け、撃退して、ひたすら追い求めて来る者でなければ、神の国には入れない、と神は語ります。

 最近のもうひとつは、出会いそのものが劇的な涙ぐましいもので、しるしを必要としないのではないかと、私は考えています。しかし事後処理のような形で、ひょっこりどこかの電気が切れるのかもしれません。今では私も、切られるのを期待して待つように変えられています。
 御使いたちのなかには、目に見えないところで、キリストを補佐しようとする働きもあるようで、それを父なる神に教えられると、主の花嫁探しをしている私としても、嬉しい限りですが、何分彼女たちは十分力を受けていません。知らずしらず巧妙なサタンの餌食になっていかぬよう、特段の配慮を願いたいところです。
 緊急に必要なことは、神の武具を身に着けることです。聖書を読むこと。それはしているというなら、祈ることです。どんな拙い言葉でも、本心から祈れば通じるものです。
 まず父なる神に向かって祈ります。

父なる神さま

私の今の苦しみを取り除いてください。

主、イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。

これでいいのです。
「私の今の苦しみを取り除いてください」
のところは、そのつど取っ換え引っ換えして
必要を願っていけばいいのです。
キリストは天国への門なのですから、キリストの名前を通さなければ、父なる神が聴いてくれません。
祈りは、聖書を一ページでも読み始めたときからはじめていいと思います。
 


                          Pie Jesu - Cecilia - The Healing Voice


 前々回、ユダヤのことに触れましたが、日本とユダヤとの関係について書かれたURLを教えてくださった方がありますので、ここに貼り付けておきます。

http://judea.naritacity.com/journal_japan_030115.asp

 ところで、イエス・キリストと花嫁との結婚ですが、
(御霊も花嫁も言う。「来てください」これを聞く者は、「来てください」と言いなさい。乾く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい)黙示録22章17節
 と記されているにもかかわらず、聞く耳持たずでした。そこには高齢者、病人、見るからに衰弱した者たちで溢れており、もし受け入れていれば、どんなにか活気に満ちた教会となり、たとえこの世の命が尽きても、霊は生きたまま、天国へ直行できたはずなのです。
 神がこの経験を通して私に教えたものは、結婚は教会という名の建物の中で起こるのではないということでした。
 それこそが最初に掲げた使徒信条にある、プロテスタントであれば、公同の教会。カトリックでは、聖なる普遍の教会。とある教会のことです。
 この公同の教会、聖なる普遍の教会とは、具体的に固有名詞を持った建物としての教会ではなく、御霊に導かれ、御霊の管理下にある、目には見えないけれども、確かに存在する教会という意味です。そこには世界中の御霊に教えられて、キリストを知っている者たちが集まっています。実際に集まっていなくても、霊によって探れるのです。ですから、私を受け入れなかった教会も、しっかり御霊のある牧師が管理していれば、その建物ごとすっぽり公同の教会ともなり得たのです。
 しかしそうはならなかった。そこに罪があるのですが、神は建物のない広場に連れ出してしまった。そして花嫁たちも、そこに集まってきた。当然、そこが結婚式場となるはずです。目には見えない、しかし確実に進行していく式場です。世界の正しく神に従う羊たちは、それを御霊によって教えられる。
 そもそも、教会の頭はイエス・キリストとなっているのですから、キリストが再臨し、父なる神と共に地上に臨在しているとなれば、それはもう教会どころか、神の国が地上に存在しているようなものです。
 ただし、永遠のいのちの実行には、まだ手をつけていない。父なる神がそのラッパをいつ鳴らすのか。それは父のみが知る秘密事項です。キリストもいつとは具体的には知らないのです。ただ、さまざまな情勢から、切迫していると予測はしているでしょう。いやしくも私は預言者ですから、そう観測しています。


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