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文芸の里コミュの林檎をわれにあたへしは・舌だし天使(長編連載)3

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 司書の内木元介は、捨て猫の縁で、女子高生のエリコと話をするやうになつた。そして一册の詩集を渡したことから、エリコは彼の歸る時間を待ち構へて、父親のものをパクッタといつてネクタイをプレゼントした。
 内木は電車に乘つてから、彼女に渡されたレジ袋を開いて、上から覗いて見る。ざつと見たところ、ネクタイは五本ある。二本にはまだ商標がついて、新品だ。maid in Italyと maid in France と讀める。傍らに小さな角封筒がしのばせてある。ぴんと耳を立てたかはいい兎の素描の封筒。いかにも少女つぽい。中の文章を讀まうにも、電車の中ではどうも氣がひける。
 電車を降り、よく利用してゐるレストラン・憩に入ると、食事をしながら封筒を開いてみた。便箋にも素描の透かしが入つてゐて、これも兎かなと思つたら、耳が短いので猫のやうだ。子蟹が這つてゐるやうな、扁平な字だ。一字一字が、どちらに跳び出さうかと、身を低く構へてゐる。そんな小さな字が、便箋を埋めてゐる。

 こんにちは。詩集のプレゼントありがたう。エリコはびつくりして、心臟が止まりさうになつたよ。あんなところで呼び止められて。でも嬉しかつた。
 エリコ、あんた詩集なんか讀むの? つて冷やかされたり、怪しいつて言はれたり。でも大丈夫、内木さんに迷惑なんかかけませんからね。
 あ、簡單に自己紹介しますね。私、華南女子高一年の、野々山エリコでーす。あだ名は、カリカリ。私がカリカリしてゐると、たいてい何か起こるんですつて。今もあんた、カリカリしてるよ。なんて言ふのよ。失禮しちやうは、まつたく。
 家は兩親と姉さんが二人。姉さんは二人とも社會人。二人とも彼氏がゐて、ひとりは來春結婚するのよ。
 ほかに猫三匹と、犬がゐるわ。猫はほかにも何箇所かにゐるの。飼つてゐるんぢやないけど、餌をやりに行つてゐるうちに、そこが家みたいになつてしまつて、離れないのよ。材木置き場とか、空地の雜草の中。だから、家族はもつともつと多いわ。
 ネクタイはパパが貰つたもので、そこからパクつてきたの。二百本もあるんだから、氣がつかないし、ママだつてそこから持出して、ダンス教室の教師にあげてるんだから、平氣よ。
 ママはね、そのダンスの教師とできてるのよ、きつと。パパがバレー部の監督で、ストレスを發散してるのに、自分には何もないから、ダンスでストレスを解消してるなんて言つてるけど、私のクラスの人がね、ママとその教師がくつついてゐるところを見たつて言ふの。ダンスの教師がママを迎へに來て、助手席に座つていくんだもん、くつついてゐるやうにだつて見えるわよ。
 今日もね、「瓜の蔓に茄子はならぬ」つて、皮肉つぽく言ふから、「何よそれ、今問題集に出てきたからつて、復習するみたいに言はないでね」つて言つてやつた。本當は、私はそんなんぢやないはつて、言ひたかつたんだけれど、それはできないでせう。詩集を貰つただけだなんて話せないもん。
 ママがそんなだし、パパだつて、バレー部の監督でせう。どつちも、體が財産みたいなもんでせう。頭が空つぽで、體ばつかり發達してゐるのつて、私きらひ。あなたはそこが違ふわ。エリコに藤村の詩を薦めたり、エミリ・デキンソンの詩集をプレゼントしてくれたり。本に圍まれてゐるぢやない。本に圍まれてゐる職業を選んだぢやない。
 私、なんか脱線してるみたい。でも脱線ぢやないわよね。エリコ、今はまだ兩親の血をついで、詩が頭に入つてこないけど、勉強して分かるやうになるわ。あなたを退屈させないやうな女になるつもり。だから、これからも仲良くしてね。
 猫のホームページ書いておくけど、暇のとき見てね。それからネクタイ、色とか柄とか、氣に入らなかつたら言つてね。急いでゐたから、選べなかつたの。好みを聞けば、選べるから。
 こんなこと書いたからつて、あなたを輕蔑してるんぢやないわ。あなたはいつも一本のネクタイしかしてないけど、バカになんかしてないわ。

 内木元介はここで、手紙を讀むのをやめ、食事を中斷して考へ込む。一本のネクタイしかしてゐないなんて、よく觀察してゐたものだ。こちらは、エリコの顏も知らなかつたといふのに。もつとも同じ制服を著てゐたら、よつぽど特徴のある顏でもなければ、覺えられるものではない。驛員だつて、毎日顏を合はせてゐても、みんな同じに見えてしまふのだから。女子高生とは違つて、驛員の年齡は、もつと開いてゐるはずなのに、それでもさうなのだ。
 一本しかしてゐないといふが、正確には三本持つてゐる。一本をしてゐる頻度が、ほかの二本より多いために、エリコには一本しかしてゐないやうに見えてしまつたのだらう。しかしそれを持出してみても、二百本にはかなふはずはないので、言はせておくことにする。それより言ひたいのは、貧しくて買へないわけではないといふことだ。生來のづぼらさも加はつて、まつたく氣にしてゐなかつただけだ。
 貧しくないといふのは、一公務員として、ひとり生活するくらゐは、何とかなつてゐるといふことである。内木にはほかに、趣味としてといふよりは、生きる支へとして、學生時代からやつてゐるものがあつた。詩を書いて、詩集を出すことである。これまで三册出してゐるが、賣れた數などほんの僅かだ。しかし詩がたまつてくると、詩集にまとめたい思ひが募つてきて、多くはない預金を切り崩してしまふのだ。
 このことはいつか、エリコに話さなければならないだらう。本當は貧しくなんかないといふこと。だから、一本のネクタイしかしてゐなくても、心配なんかする必要はないのだと。買ひ被るつもりはないが、エリコが詩に携はつたりするのを、みすぼらしい文學青年と見下してゐないと分かつたからには、伏せることもないだらう。
 エリコは續けて、學校の仲間のことに觸れてゐる。男女共學の高校に限らず、女子だけの學校にも、いろいろ問題はあるやうだ。惱みを抱へてゐる少女が、うよふよそこらぢゆうに轉がつてゐるやうに見えてしまふ。この毆り書きのやうな文面を見せ付けられると、そんな少女たちの訴へを代辨するために、エリコひとりが躍り出てきたやうな氣がするくらゐだ。
 しかし、司書の役目はあくまでも讀書についての相談である。人生問題にまで踏み込んだら、職權濫用といふものだ。
 内木はエリコの走り書きをざつと飛ばし讀みして、最後に付け足してゐる文章に目がいつた。

 明日、文庫の書架の三段目に、ニューのマフラーを入れておきます。文庫本の背中に寢かせておくから、蛇だなんて思はないでね。これもママに先に取られないやうに、、隱しておいたの。ね、明日よ。

 さつさと食事を濟ませると、腰を上げる。かうなると、默つてはひられない。猫のホームページからエリコ宛のメールを探し出し、マフラーの持出しは、何としても食ひ止めなければならない。
 歸宅しても、ネクタイをしてみるどころではなかつた。さつそく「子猫ひろば」と打ち込んでみる。出てこない。隣にエリコと入れてみると、すぐ出てきた。
 陽だまりのなか、編み籠に入れられて、籠の縁に咬みついてゐる三匹の子猫の寫眞。縁側だらうか。背景に、庭木が赤い花をつけてゐる。椿のやうだ。濃緑の厚ぼつたい葉叢に、赤黒く沈んだ花。寒椿。
 子猫は寒さのなかを、エリコといふ救ひの主に拾はれて、ぬくぬくと育つてゐる。そんな寫眞だ。
 クリックしていくと、メールが出てきた。
 ネクタイ、サンキュウとでも書かうとして、それはよした。さうすると、マフラーを拒否する文脈へとつながりにくくなる。
 しかしまつたく書かないのも、今しがた公園で會つてきた少女であつてみれば、ちよつと不自然だ。そこで「さつきはどうも」と、あつさり書き出した。
 明日、マフラーとあつたけれど、それはいらないよ。そんなことしたら、もう絶交するしかない。他人のことは心配しないで、勉強をちやんとすること。言ふことはそれだけ。これからどうなるか分からないから、僕のメールアドレスは書かない。
 内木元介はさう打ち込んで、送信した。はたして屆くかどうか不安もあつたが、拒否反應も起こらず、ことこと運ばれていく樣子だつた。
 内木はひと安心して、エリコのホームページをめくつていつた。いたるところに繪文字が踊つてゐて、それだけであどけないのだが、よくもまあ、これだけ細かい繪文字を集めたものだと、呆れてゐると、ま新しい日記が出てきた。今日の日付だ。時間は、20時、0五分。たつた今の記入だ。
 隣のクラスのPさんがリストカットしたつて、Wさんに聞いたけど、エリコはそんなことにならないやうに、うんと、先生にあたたかくしてあげて、優しくして貰ふんだ。先生といつたからつて、勘違ひしないでね。猫大先生のことだからね。イエーだ。
 何だこれは。マフラーのことがぴんと頭にきた。
するとさつきのメールは、冷たすぎたか。しかし今からでは遲い。
 内木は日ごろより多めに、ウイスキーを飮んだ。冷たさをアルコールでカバーしなければならないのは、つらいところだつた。

 翌日、エリコは仲間たちと一緒には現れなかつた。一行より一時間ほど遲れて、ひとりで内木の前を素通りした。そのまま行つてしまふのかと見てゐると、階段の前でいきなり振り返つて、ぺろつと舌を出した。その舌が普通ではない。眞つ黒なのだ。ブルーベリーのエキスでも舐めてきたのか。
 そこまではよかつた。次に大變なことが起こつた。エリコが階段に躓いて倒れたのだ。靜まり返つた館内に、尋常ならざる音がして、彼女は立ち上がれずにゐる。氣づいたのは、内木ひとりではない。他の職員も、みんなエリコを注視した。一番近くにゐた内木が、カウンターを出てエリコに近づいた。腕を取つて立ち上がらせようとして、内木はすくんだ。脛の肉がゑぐられて、血が滲んでゐる。
「岡井さん」
 内木はたまらず、同僚の女子職員を呼んだ。岡井さんは驅けつけてきて、のぞき込む。
「あら、いけないわね。すぐ處置しないと」
 さう言つて、救急箱を取りに走つた。他の職員も心配して、寄つて來る。
 傍らには、エリコの鞄が投げ出されてゐる。鞄にはいくつものマスコットが括りつけられてゐる。主人公と一緒に、マスコットもこけてしまつてゐる。鞄に賑々しく貼られたワッペンも、同じくこけてしまつた。鞄の中身が飛び出さなかつたのが、せめてもの幸ひだ。
 エリコの肩に手をおいてゐる内木の下で、彼女は顏を手で覆つて泣き出してしまつた。白い肉に二つ三つ血が膨らんできてゐる。
 岡井さんはアルコールで消毒すると、ざつと血止めをした。異變を嗅ぎつけた生徒の顏が、上から六つ、七つ覗いてゐる。忍び足で降りてくるものもゐる。
「ここぢや、あれだから、控へ室に移りませうね」
 岡井さんのことばで、内木はエリコの二の腕を渾身の力で持ち上げた。掴んだ手の中で、エリコの骨から肉が逃れ出る。女子高生の體がこんなに華奢なつくりだとは、今まで氣づかなかつた。エリコその人が、といふべきかもしれない。
 内木はエリコをほとんど骨格だけで支へて、控室に連れて行つた。
 岡井さんは内木より十年先輩で、保健體育の教員免許も持つてゐる。こんなとき、何といつても心強いのだ。内木自身、脚がつつて、動けなくなつてゐるところを助けられたことがある。
「何してるの。そんなところに坐り込んで」
 内木が書架に手をかけて坐り込んでゐると、岡井さんに見つかつて、聲をかけられた。
「いや、その脚が、つつてしまつて」
「ああ、さう」
 こともなく、岡井さんは言つて、このときとばかり、内木の脹脛のあたりを蹴飛ばした。内木は喚いて、跳び上がつたが、著地したときには治つてゐた。見囘しても、岡井さんはもうゐなかつた。
 のちに、忘年會の席でその話をすると、
「老人だつたら、そんなことはしないわよ。心臟麻痺でも起こされたらかなはないもの」
けろつと言つてのけた。
 旦那さんは生物學の偉い研究者で、この圖書館にも何册か書籍がある。
 岡井さんはエリコの破れたストッキングを脱がし、傷口に軟膏を塗つて、包帶を卷いてやつた。それから岡井さんの豫備のストッキングを與へて履かせた。
 内木はその前に岡井さんに任せて退いたが、間もなく岡井さんに支へられて出てきたエリコは、すつかりしをらしくなつてゐた。
 頭を下げて歸らうとするのを、
「あつ、ちよつと待つて。今タクシー呼ぶから」
 岡井さんは言つて、引き止めた。
 車がくると、エリコは岡井さんに伴はれて、ポーチに向かつたが、そのときぺこりと内木に頭を下げた。舌は出さなかつた。
「お大事に」
 内木は素面で言つた。

 閲覽者も歸つてしまひ、館内は靜まり返つてゐた。内木は返卻圖書の整理をしてゐた。ほかの職員も、それぞれ殘務の處理をしてゐた。
「晝間の女子高生、戀をしてゐるんぢやないかしら」
 岡井さんがぽつりと洩らした。
「どうして、そんなことが」
 岡井さんと席が近い副館長の、和らいだ聲がした。
「女の勘よ。私がいくら訊いても上の空で、そのくせ私のメルアドを知りたがつてるの。『お禮のメールしたいからつて』ここで怪我をすれば、ここにゐるものが治療に當たるのは當たり前で、そんな心配しないで、高校生は高校生らしく、勉強だけしてゐればいいのつて、言つてやつたけど。そんなことには氣を遣ひながら、肝心なことにはぼんやりしてゐるのよ。ここに友達はきてゐないのか訊いても、『さあー』なんて」
「それがどうして、戀に繋がるのかね」
「ぼんやりしてゐるピークが、ここにきてしまつたつてことよね。それが車の多い、道路なんかでなくてよかつたわよ。でも。あの子、まさか‥‥」
 内木は返卻圖書の番號を打ち込む指が止まつた。勘ぐつてゐるのか。まさか、エリコが内木のことを話したとは思へないが。
「友達のことを言へなかつたのは、その中にゐるのかしら」
「おいおい、憶測がそこまでいくと、自分の少女時代にあつたみたいだぞ」
「失禮よ、亭主もちのご婦人に向かつて」
 遠くの席から、咳拂ひがした。
「最愛の學者先生がゐるもんね」
 副館長が言つた。副館長の息子が今年、岡井さんの夫のゐる大學に入つたと聞いてゐる。
 内木はその學者先生の書籍が賣れないことに、慰められてもゐた。專門書ではない、エッセーも賣れないやうだつた。詩集の賣れない詩人としての内木は、時には他人の不幸は必要だつたのである。

 歸宅すると、エリコにメールをした。メールアドレスも明記して、自分のメールソフトから送つた。
 昨日、マフラーを拒絶したことが、エリコの傷につながつたことは、火を見るより明らかだつた。あそこで舌を出したりしなければ、躓くこともなかつたのである。

 エリコさん、晝間は大變でしたね。
 せつかくマフラーをプレゼントしてくれるつていふのに、僕の冷たいメールが君の善意を踏みにじつてしまつたからね。
 いま反省してゐるところ。
 熱なんか出てゐないかな。また元氣な姿を見せてください。これからは、高校生は高校生らしく、勉強だけしてゐなさい。なんて言はないからね。

 メールが行つてしまふと、内木元介は腕組みをして、決意を新たにしてゐた。その決意が、何たるかも分からないままに。

                           つづく



コメント(2)

『林檎をわれにあたへしは』『ブランコと木漏れ日』
のその後ですねw
個々によんでも独立していて、理想的な連作形式になっています。
題のとおり舌をだす箇所が甘酸っぱいです。この連作のふぁんになっていますw
ヒロヒロさん

「ふぁん」とは過分なるお言葉。
なによりネコキチ(エリコ)が
跳びあがって喜んでいます。

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