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ビルマ戦線 一兵士の回想コミュの一兵士の回想2

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『出征、三島=門司』

 こんなたわいもない事にようやく馴れた頃出動命令が出た。

 古兵が来て加藤お前よくやった、せん別にこれをやるよと手帳をもらった。
「お前は真面目だから三年もいれば兵長位にはなれるだろう」
 自分より年のずっと若い古兵が言う。
 お粗末なものだけれど同年兵のなかでせん別を貰ったのは私一人だから嬉しかった。
 しかし、三年もいて兵長位とは恐れ入った、三年もいれば任官しなければと思った。

 各自服装の点検をする。野戦に持って行く官給品の員数等厳しく言われた。
 階級章、襟布、脚はん等、昨日点検した時は全部揃っていたのにこの間際にない。
 あちらこちらで大声で言えないので、小声でぼそぼそ言いながら困りきっている者もかなりいる。

 私も階級章を一つ取られて無い。一つ星を右の襟だけに付けて整列する締まらない二等兵である。

 洗濯をした時は誰かが監視につかないと持って行かれる。誰かが何かをなくした場合、何処かでその品物の員数を付けないと絶対に許して貰えないからである。

 武器は午ぼう剣一つ、雑嚢、じゅばん、袴下、水筒、飯盒である。剣は腰に付け雑嚢と水筒は肩に掛けた。その他は携帯用天幕に包んで肩に斜めに背負った。背嚢はなかった。

 十部隊の広場に整列し部隊長の訓示と激励を受けた。下士官三名と兵七十八名で三島駅に向かう。
 時に昭和18年10月15日の午後であった。沿道の見送りも淋しく市民の顔もまたかといった感じである。

 静岡駅に着いた時は薄暗かった。
 十分程停車した。ホームに父、母、姉妹、妻、妻の父達が見送りに来ていた。
 妻は生まれて間もない三女の愛子を背負ういていた。父親である私の顔も知らない。弟の甚平は満州に、力三は南方に出征していた。

 憲兵の監視が厳しくて下車は出来ない。静岡市近郷でない兵は窓を譲ってくれた。
 妻は窓から、弁当箱におにぎり、たくあん、梅干しなど渡してくれた。
 元気でな、元気でなあ、それ以外に何も言う事はない。
 時間はまたたく間に過ぎて汽車が動きだした。愛子を背負うた妻は子供のお尻を掻きあげる様にして走ってついて来る。
 その姿が未だに思い出される。これが見納めかなと思ったものである。

 薄暗くなった馬渕の踏切にはホームに入れてもらえない人たちが大勢見送りに集まっていた。
 その中に上原へ嫁いだ妹のしげとその夫である武雄がいた。
 汽車はかなり早くなっている。手を振って元気で!と聞こえる。目と目を見合わせただけでも幸せであった。

 武雄はそれから間もなく召集を受けて、サイパン島に行く途中撃沈されて戦死したと復員してから聞かされた。

 灯火管制が厳しく瀬戸内海に入ってからは夜も灯りをつけずに走った。昼間も海側は鎧戸を下ろしていた。

 10月17日門司市に着く。総勢81名は分散して民家に宿泊し、私達は5名であった。
 山田さんというお宅はご両親と子供4人であったと思う。食事は町内会の皆さんが交代で炊事をしてくれた。

 朝昼晩おかずは蛸である。焼いたり煮たり酢にしたり、家にいる頃はめったに食べられなくて、こんなにたくさん食べられるなんて、もったいないと感謝したものである。
 しかし、明けても暮れても同じものではうんざりしてくる。

 夜中に小用に起きて階段を下りると、そこが六畳間で家中の者が薄い布団に包まって雑魚寝をしていた。
 足音をたてないように気をつけて済ました。
 私達は二階の六畳間二間に厚い絹の布団に暖かく休ませてもらっていたので驚いた。

 山田さん一家もこれもお国のためと我慢していたのだろう。
 この山田さんに小学校五年生位の男の子がいた。
「兵隊さん戦地へ行ったらお手紙ちょうだい」と言った。
「ああだすからね」
「兵隊さんはだすと言って行くけれど一度も来た事がないよ」
「おじさんは必ずだすからね」
 私はこの子に忘れず手紙を上げようと思った。

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