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オノレ・ド・バルザックコミュの今日読んだバルザック

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人間喜劇の大文豪バルザック に読破という文字は似合わない。一生の友として、少しずつ読み続けていきたいものです。そんな情熱の証を、ここに記していきましょう。エベレストさながら、彼方の山頂を目指す仲間は、一人でも多い方が心強いものです。


、、、という趣旨で新参者ながらトピックを立てました。作品を読んだら、コメントとともに書いていく、ただそれだけのトピックです。果たして、1000を越えたとき、翻訳されている作品の名前だけでも全てが記されているのでしょうか。そうなったら面白い。


バルザックとこのトピックに祝福のあらんことを。

コメント(15)

『ゴプセック』岩波文庫で読了。
ゴリオ爺さんの次に読んだので、レストー夫人の家のことが知れて興味深かったです。一番印象的だったのはゴプセックの次のセリフ。
「この目は神様の目みたいなもので、わしは人の心などお見通しなのだ。このわしに隠しおおせるものなど何もない。財布のひもをにぎる者には何も拒めないのさ。」

ヴォートランとは異なる、冷徹な印象を受ける言葉だけれど、魅力を感じさせる言葉でした。
『グランド・ブルテーシュ奇譚』光文社古典新訳文庫で読了。
佐藤春夫の『田園の憂鬱』を思い出す廃墟の描写から、物語のの結末まで、短いけれど密度の濃い小説だった。最後のメレ伯爵の理路整然とした冷酷さには衝撃を覚えざるをえない。読み終わったあと、物語の最初に描かれていた廃墟が、心底恐ろしいものとしてふたたび脳裏に浮かび焼き付いている。一気に読むことをオススメしたい。
『鞠打つ猫の店』岩波文庫で読了。]
資本主義発展以前の、規則正しい生活を送るギョーム爺さんがとても魅力的に感じられる。彼は偏屈なところもあるが、商売人としての美徳を身につけていて、美徳が失われたこの高度情報化資本主義社会では、こんな生き方は難しいかもしれないけれど、その分小説的で魅力があるように感じた。オーギュスチーヌと若い画家の間に交わされる視線のやり取りは、活き活きと描かれていて、サロンの絵画展を愛の告白の場に変化させる。バルザックの描く若さは、薔薇の花の美しさそのもの、みずみずしく、情熱的で、もろくはかない。とても魅力的な物語だった。
『ことづて』光文社古典新薬文庫で読了。
小品といった感じ。旅の場面にせよでも、「ことづて」を伝えられた人々の反応にせよ、人生の印象的な一場面を切り取ったようなものに感じる。太宰治の「女学徒(女生徒だっけ?)」や芥川龍之介の「蜜柑」や「舞踏会」のような短編も、人生の一場面を切り取って描いているような印象があったけれど、同じような書き方をしているという点で通じるものがあるように感じた。この作品も、現代のような通信手段にあふれた時代には書かれえない作品だ。
『捨てられた女』東京創元社版全集で読了。
『ゴリオ爺さん』からボーセアン夫人の後日譚を描いた作品だが、ゴリオ爺さんの方が金と出世の問題に振り回されているのに対して、こちらは恋愛にひたすら振り回される男女が描かれる。人の業としての恋愛を強く感じさせる作品である。ボーセアン夫人に言い寄る若きガストンは、若くて愚かであるがゆえにひたむきであり人の心を打つ。無垢であるがゆえに罪深く、短所がそのまま長所であるような人物として描かれているのが印象深い。終盤、手紙のやり取りから何か魅せられたように悲劇に転落する様は、運命の恐ろしさというか底知れない恐怖を感じさせられた。
『ボエームの王』岩波文庫で読了。
ラ・パルフェリーヌも、クロディーヌも、際立った行動者で読んでいておもしろい。デュ・ブリュエルとクロディーヌの関係は、ある種の夫婦関係をよく表していて、二人の運命を奇妙な運命を描き出している。このカップルが出世の階段を次々と登っていくのは、乾いた土が水をよく吸うのに似た自然さを感じさせるが、黒幕にはラ・パルフェリーヌがいる。しかし、ヴォートランのような悪どいことを何一つせず、成功を手に入れさせるラ・パルフェリーヌには、やはり、プリンスの名がふさわしい。物語の枠組みになっている語り手と聞き手という構造は、物語中でも繰り返されており、ロシュフェード夫人が作中の聞き手になっている。「語り手と聞き手」という構造は社交界を描く手法であると同時に、「人間喜劇」という巨大な世界を少しずつ描き出す方法としても機能している。私たちはに噂話を通じて世界を知るように、語り手の話を通じて少しずつパリを知るに過ぎないのだ、ということを強く実感させる結末になっている。
『ベアトリックス』東京創元社版全集で読了。
全集280ページ分程度だが、ドラマに入るまでの説明が長くて長くてつらかった。ブルターニュの伝統ある貴族についての説明やら、屋敷の様子やら、自然についての描写やら……文学的価値は疑わないけれど、『ゴリオ爺さん』のようなドラマチックな展開を期待して読み始めると、最初の100ページで挫折しそうになる。モーパン嬢がジョルジュ・サンドで、ベアトリックスとコンチがマリー・ダグー伯爵夫人とフランツ・リストをモデルにしているとか……サロン文化に興味がある人にとっては必読の書かもしれない。それにしても、『ゴリオ爺さん』に出てきたマクシム・ド・トライユや、『ボーヘムの王』のラ・パルフェリーヌが登場する最後の40ページは信じられないような展開をして読みごたえがあるけれど、前提として『サラジーヌ』『ゴリオ爺さん』『ボヘームの王』『捨てられた女』あたりを読んでおかないとイマイチぴんとこないかもしれない。
『ド・カディニャン公妃の秘密』東京創元社版全集で読了。
ボーセアン婦人ともオーギュスチーヌともロシュフィード侯爵夫人とも違う、独特の魅力がカディニャン公妃にはある。あからさまに恋を戦いとして捉えていて、男を前にした演技は実に清々しい。一方、文学者のダルテはこれまでの『人間喜劇』の中でもっとも奥手で度胸がなく、文学の才能にも関わらず、どこかしら慎しげで好感が持てる。複雑に人物が入り混じる訳でもないので、とっつきやすい作品だと思った。
『ソーの舞踏会』ちくま文庫で読了。
数多くの女性が登場する『人間喜劇』にあっても、エミリーはかなり印象に残る人物だろう。他人を見下すエミリーの姿も、恋に落ちるエミリーの姿も、どちらもおもしろい。エミリーに恋を届ける伯爵の昔かたぎの機知に富んだ振る舞いは傑出している。こんな爺さんが身近にいたらおもしろいだろう、というようなユーモアがある。『人間喜劇』の喜劇の名にふさわしい、エミリーの性格が導いた運命には、現代人は何かしら感じることがあるように思われる。短い作品だしおすすめ。
『イヴの娘』春風社版単行本で読了。
『谷間の百合』のフェリックスをはじめ、数多くの再登場に彩られる小説だが、意外にも活躍するのはラウール・ナタンという作家である。自伝的な要素は少ないのだろうが、この作家が野心と恋愛に猛進していく様は、どことなく作者の若き日の姿を思い出させる。ナタンの生態は、バルザックだから書ける、というか、バルザックでなければ書けない。『イヴの娘』というタイトルがいささか暗示的すぎだが、うまい具合にそれを裏切っていく。ところで、この小説は政治的状況を巧みに反映していて、ただの恋愛小説には終わらないおくゆきを与えることに成功している。この一作で、ナタンは『人間喜劇』に欠かせない、忘れられない人物になったように感じた。
『モデスト・ミニョン』東京創元社版全集で読了。
主人公のモデスト・ミニョンは、ル・アーヴルの伯爵の娘で、田舎の娘にふさわしい清廉さと美しさを持ち合わせており、カナリというパリの詩人に魂の美しさを見ている。彼女がカナリに送った手紙が、小説を動かしていくことになる。ちなみに、ミニョンの父は財産を失っているのだが、紆余曲折あって大きな財産を作って中国から帰ってくることになる。モデストからカナリに送られた手紙、そしてモデストのもとに届く返事には、小説でこそ表現できる類いの読者をつかんで離さない興味深いやりとりが繰り広げられる。モデストの心を知れば知るほど、手紙に込められた不実と真心がのどちらもが、読み手の心をくすぐってくる。それから、モデストに忠誠を誓うせむし男のビュッチャの存在を挙げなければならない。『人間喜劇』中でも特筆に値する活躍をするからだ。円熟したバルザックの筆を感じさせる長編だけれども、後半部分は登場人物にあふれ、いささか読みにくく冗長に感じた。
『砂漠の情熱』岩波文庫で読了。
プロヴァンス生まれの兵士が、エジプト遠征の際にマグレブ人の捕虜になる。だが、彼は脱走して、馬で逃げてちく。このときの砂漠の孤独の描写が、ありきたりなものであるにも関わらず、すばらしくて心打たれる。「……空は悲しいほど清らかに澄みきって、東方の国らしい輝きにかがやいていた。空も地も燃えていた。沈黙は、荒々しく恐ろしい威厳をもって、あたりを圧していた。悠久、無限、−−こうしたものが四方八方から魂にせまるのであった。−(中略)−孤独にさぐりを入れでもするようにさけんでみた。声は丘のくぼみに吸い込まれて、かすかな音を遠くへ運んだだけで、反響ひとつよびおこさなかった。反響は心のうちにあった。彼は二十二歳だった。騎兵銃のひきがねに手がかかった。……」。ここには、自然の美しさと人を突き放す力が、調和している様が描かれている。美しいがゆえに人を突き放す。この美しさは、砂漠そのものから、砂漠の女王へと転化される。鮮やかなこの転化は、名前=記号の力によって正当化される。そして、物語の最後の一語が、この調和全体に名前を与えている。これは自然を描いた小説ではない、哲学的研究の一編にふさわしい小品だった。
『続女性研究』水声社版バルザック幻想・怪奇小説選集にて読了。
サロンの夜会のあとに開かれる親しみのある夜食での会話劇。舞台はデ・トゥーシュ嬢(カミーユ・モーパン)のサロンで、ラスティニャックやド・マルセイをはじめとして、評判が広まっていた人物ばかりが何人か集まっている。エミール・ブロンテが切り盛りする会話劇であると同時に、その中で3つの物語が語られる。ド・マルセイのはじめての愛のゆくえ、モンリヴァー将軍が語るイタリアでの悲惨な愛のゆくえ、最後に、医師ビアンションが『グランブルテーシュ奇譚』を語る。
だが、それと同じくらい興味深いのは、ブロンテがやる「淑女」についての話題だ。貴婦人、淑女、市民女性と三種の女が論じられるが、この時代を代表する女として「淑女」が論じられるのは、『人間喜劇』全体を見渡すとき、それぞれの物語にある種の光を投げかけてくれる。カディニャン公妃の存在は、この会話劇の中では、ある種の強烈な存在感を感じさせる。
ところで、デ・トゥーシュ嬢はジョルジュ・サンドをモデルとしているとされているけれども、ショパンとの恋愛劇のせいで悪い女の印象があるけれど(特にショパン側につく言説では)、バルザックの描くデ・トゥーシュは慎み深くて愛おしい人だと改めて思う。
『セラフィタ』国書刊行会 世界幻想文学体系にて読了。
『人間喜劇』の末尾を飾る作品であり、哲学的研究の末尾でもあるわけだが、風俗研究やパリ生活情景などの諸作とは、はっきりと隔絶した世界を持っている。神秘思想の記述や神学的議論は、バルザックらしい筆力で、明晰に書かれているけれども、『人間喜劇』に期待されているものではないと思う。『人間喜劇』の一作としては読めない、『人間喜劇』の「フィナーレ」を飾る特別な作品だと思うからだ。正直、あらすじや登場人物の紹介は、まったく無意味だろうと思う。再登場はいないし、プロットも単純だし、長さもそんなではないし、読めばいい、という作品ではなかろうか。
西洋文学や西洋文化に興味を持つ人ならば、一回必ず読むべき作品だろうと思う。また、バルザックの創作について考えたり論じたりしたい人は、絶対に見逃せない作品だとも思う。『人間喜劇』を構想したバルザックの眼差しについて考えさせられる作品だった。たまに、小説を「神の目線」という比喩で論じる人がいるけれど、『セラフィタ』を読むとその比喩がいかに粗雑で出来が悪いものかもよくわかる。デカルトやカントの名前を口にして偉そうにしている人がいたら、『セラフィタ』のことを思い出せばいい。そうした人々を、ちょっと距離をもって眺めることが出来るようになるはずだから。
『ざくろ屋敷』岩波文庫で読了。
舞台になっているトゥレーヌのロワール河畔の自然描写が美しく、登場人物たちがその中に調和しながら溶け込んでいる。ヴィレムセンス婦人とその息子と召使い1人がほぼ全ての登場人物である。母親の心情と息子たちの間にある愛が美しく描かれており、バルザックのロマンティシズムを感じさせる。ゴリオのような父と娘を描いたバルザックだが、ここでは素直に親子の情にながされている。それだけに、ヴィレムセンス婦人の最後を描いた数ページで明かされる出生に関する部分は際立ったものになった。しかし、この物語を根底から揺さぶるだけのものにはならなかったのも事実だろう。親子の情はそのまま保存されるし、長男ルイの決断もそのまま保存される。短い作品だから、もっと挑発的な結末を選んでもよかったのではないかと思う。訳文がいいのか文章は優れていて、感動させられた一文があったのたが見失ってしまった。

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