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中島弘貴コミュの日々の言葉(5)

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生活のなかでしたこと、感じたこと、想ったこと、考えたことを綴る

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かつては、推理小説や探偵小説を避けていた。「トリックや謎解きに重きを置くもの」と思い、魅力を感じなかったからだ。しかし、それらの方法の驚くべき多様性には面白みがあるし、人間模様や人間心理などを深く描きだす作品も多くある。ジャンルで一括りにして、簡単に分かった気になるのは危険だ。
ジャンルは、分けたり集めたり探したりするために便利なもの。それは必要に応じて使うものであって、それに囚われると不便になる、と思う。
記憶は頭の中だけに蓄えられるわけではないのかも知れない。例えば、密な関係を築いた人と再会すると、実にたくさんのことを思い出す。心のみにとどまらず全身が、いや全存在が、かつての様々な感情、感覚、思考などを再体験する。
思い出すということは、波のようだ。根本から激しく揺さぶられた経験を思い出すとき、それは自分の奥底から生まれる。潜在意識から顕在意識まで、過去から現在までを巻き込みながら波は巨大化し、未来すらも呑み込もうとする。寄せては返しを繰り返して、その猛威はなかなか鎮まらない。
尋常ではない、恐ろしい経験を全身全霊で思い出して再体験する。それを通じて自分の頼りなさと、世界や運命の途方もない強大さを再確認する。その体験は、苦しくもすばらしい。矮小な自分を否応なく押し流し、新しく再生することを可能にする。
楽しいことや美しいことなど、好ましい経験ばかりがすばらしいわけじゃない。苦しいことや醜いことなど、厭わしい経験もまたすばらしい。それは自ら進んで選ぼうとしにくい分、余計に貴重だと言える。要は、それらの経験をどう捉え、どう活かすかが重要に思える。
「土」という漢字は二つの部分から成る。地面を象徴する「二」と、物の生まれる形を示す「|」が組み合わさっている。つまり、植物の芽が地面から生まれ出る様子を表し、「土」が豊穣な生命を育む根源であることを意味する、という。たった一つの漢字に、何て深大な内容が込められているんだろう…。
鬱積した経験や記憶の塊を、思考や行動によって少しずつ分解し、長い時間をかけて還すこと。微生物や虫や菌類が、倒木や獣の死骸や積み重なった落ち葉などに対してするように。それによって自分自身の土壌が、より豊かになる。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「自分が知らないということを知ること」の重要性を説いた。古代中国の哲学者である荘子は「自分が何かを知っているか知らないかさえ分からない」と説いた。観点によって知と無知は容易に逆転するから、だという。どちらの説も、大切なことを伝えていると思う。
三月から、「永遠の寓話」をテーマにした長篇小説を書いている。それはノヴァーリスやカフカの小説に見られるような、普遍性を持った物語だ。時代を超え、場所を超え、力を及ぼしうるもの。今、ようやく五万字に達そうとしている。おそらく、この3〜4倍の容量を備えるものになるだろう。主人公には記憶がなく、肉体もない。彼の体は塵で出来ている。それ以前のことを思い出そうとすると、激しい痛みに襲われる。彼は迷宮のような洞窟を探索し、その最深部に達し、脱する。地下深くに潜っていたはずなのに、脱出すると、そこは山の頂きだ。最も深いということが、最も高いということになる。そして、この物語には、登場人物の名前を除いて、固有名詞を一切使用しないつもりだ。より広く、より本質的な想像の、思考の種を散りばめること。それを望んでいる。
これまでの文筆活動の精髄を、以下のページに残しておく。上記の長篇の草稿も含む。今は非公開にしているが、万が一自分に何かあれば、このページにある内容を編集し、出版して欲しい。事故や天変地異などが起こった場合の予防策として、ここに記すだけのことで、他意はない。
https://onedrive.live.com/?cid=46F9C942E7F6214A&id=46F9C942E7F6214A%21127
未だに、やりたいことがたくさんある。それどころか、歳を経るごとにやりたいことが増えていくように思える。もっと時間が、もっと力が欲しい。そして、中身の詰まった良い仕事をしたいな。
簡単に理解でき、面白がれるものは好まれやすい。そして、その多くはすぐに忘れ去られる。一方で、理解するのに苦労するが、半永久的な力を授けるものもある。後者の大切さが見落とされがちなんじゃないだろうか。
オーディン、ユミル、ラグナロク、ロキ、スレイプニル、フレイヤ、ミッドガルド、ユグドラシル…北欧神話に出てくる色々なものが、小説や絵や映画や漫画などの様々な作品に用いられている。神話を読み、それらの意味や逸話を知ると、理解が深まったり広がったりしてたのしい。
北欧神話に興味深い場面がある。神々の作ったどんなに硬くて大きい鎖をも壊す凶暴な狼フェンリルが、最後には小人達の作った細い紐グレイプニルによって縛られる。それは猫の足音、女のひげ、魚の息など、実体の無い材料から作られた紐だった(もしくは、グレイプニルを作ったせいで、それらの実体が無くなった)。
強い>弱い、大きい>小さい、有る>無い、とは限らない。弱や小や無もまた、一つの特性だ。その詳細を正確に知って用いれば、それらからすばらしい恩恵を引き出すこともできるだろう。
自分の短所に、どれだけ苦しめられたか分からない。だけど、それを受け入れようとしたり乗り越えようとしたりする過程で得られたものは多大だ。短所が人生のすばらしい導き手になった、と言ってもいい。これからもずっとそうできれば、きっとおもしろい。
“事物を(略)写しとるとは、(略)ほとんど通過儀礼にひとしい原初的な段階であり、そのとき写しとられたものとはまた、外部との関係性によって変容させられた画家そのひとともいえる ”
−本江邦夫『オディロン・ルドン』より

興味深い。絵に限らず、写真や動画にしても同じことが言えそうだ。
直向きに何かを写したり真似たりすることのおもしろさ。それらの実践は、対象への理解の進化や深化をふくむ。「学び」と「真似び」に密接な関係があるとはよく言われるが、その両方が対象への、ひいては世界への認識と自分自身の変容を大きく促す。
劇的な出来事や小説や映画などにだけでなく、物語は至るところにある。町で行き違う一人一人にはもちろん、一枚の壁、一本の草、一つの石ころにさえある。そのような無数の物語が、観察と想像によって立ち上がる。
東京都港区にある庭園美術館で「マスク展」を観た。世界各地の民族の仮面が工夫を凝らして展示され、理性だけでは及ばないその色形や迫力に圧倒された。丁寧な説明文があるのもすばらしく、独特の装飾的な内装とも相性が抜群だった。
原始的な仮面や像がどこから生まれたのか、正確には分からない。多分、私たちの感じる現実からはみ出したところが母胎だろう。なのに、それらは驚くほど生々しい。恐らく、それらを作ったり使ったりした人々にとって、そこもまた現実だったんだろう。あまりにも広く、深く、恐ろしくもすばらしい世界。
“最大のものにも圧服されることなく、最小のものにも喜びを見いだす。それは神聖なことである”
ヘルダーリンの小説「ヒュペーリオン」の冒頭に記された言葉。修道士イグナチオ・デ・ロヨラの墓碑銘の一句を引用したものだという。美しい始まりだ…。
タンポポの綿毛がきれいに残っていた。知人は、これを小宇宙と形容した。だとすると、春の野原には、そこここに小さな宇宙があることになる。そして、その一つ一つが形成されては散っていく。次の小宇宙になる、たくさんの種を風に乗せて。
この世界は謎だらけだ。小さな謎もあれば、大きな謎もある。全人生をかけても、謎はなくならないだろう。だけど、小さな謎を一つ一つ解き明かしながら、大きな謎の真実に近づくことはできるんじゃないだろうか。その過程はきっと、時に厳しくもたのしい。
この謎だらけの世界をたのしむためには、謎を解く力以前に、謎を見つける力が要るのかも知れない。本当はあらゆるものが謎をはらんでいるのに、分かったつもりになったり慣れてしまったりすると、それを見落としてしまう。何もかもが分かり切った、何もかもが当たり前の世界ほど、つまらないものはない。
今日は眠りながら恐ろしい夢を見た、というか体験した。
三体の手足のない、中身が空洞の半人半機械たちが動いている。かろうじて人だと認識できるが、体長は常人の3〜4倍で、様々な形をしている。全員に共通するのは、ばさばさした黒い髪の毛があり、顔には目と鼻と口と耳の、7つの黒い穴だけが空いている点。特に、口を異様に大きく、あんぐりと開けているのが印象的だ。まるで、大砲の口のように。それと、もう一点、自動車のように平行移動するという共通項もある。車輪によって進行しているかは視界から隠れていて分からないが、ともあれ、車輪を使っているように前進や後退、そして、ぐるりと弧を描きながら方向転換をする。それ以外の容姿には、ばらつきがある。首がなく、胴が異様に長く横に伸び、不格好な筒のようになっているやつ。直立してはいるが、胴の真ん中あたりが膨らんだ、表面の滑らかな樹の幹のような胴をしたやつ。もう一体がどんな様子をしていたかは忘れた。そいつらが、普通の人間二名を追っている。彼らは武装し、半人半機械たちを銃で打ちまくる。しかし、怪物たちは異様に硬く、火花を散らしながらも少しずつ表面が削れるだけだ。怪物たちの表情もまた硬い。というか、それらの顔は微動だにせず、一切の表情がない。火力のある銃弾を連射され、爆炎と爆音を出しながらも、前進や後退、方向転換をして人間たちに迫ろうとする。人間たちは、近いうちに敗北するだろう。初めに恐ろしいと言ったのは、その半人半機械たちに対する脅威のためではない。それらが人である、もしくは人であったにもかかわらず、異形異質の存在となって生き永らえていることに対する恐怖だ。深い悲哀の混じった恐怖。人と人でないものの境界は、どこにあるんだろう?
“高等なユーモアは、自己の存在を深刻に考えることを超越するところから始まります”
− ヘルマン・ヘッセ『荒野の狼』より

ユーモアの結果としての笑いは大切なものだ。同じく、そこへ至るまでの自己や世界に対する捉え方、考え方を変える過程も大切だ。その過程と結果の両方を備えたユーモアを習得することは、自己と世界をより自由にする強力な基礎になりうる。
真面目を突き抜けると、ユーモアに辿り着く。それは不真面目から発されるユーモアとは比べものにならないほどの強さを持つ。それらは、ほとんど別物だとさえ言える。
柳田國男『妖怪談義』は、『遠野物語』で有名な民族学者が記した妖怪に関連する文章をまとめた一冊。日本全国の妖怪について丁寧に書かれた楽しい本だが、さらに根源的な事柄をも問題にしている。「われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったろうか」という言葉が序文にある。

「小さな一語でもやはりその起りを尋ねてみなければならない。それをしなければその又以前の事を考えてみる足場がなくなるからである」
「言葉はそれを使用する者の地に立って考えてみなければ、少なくともその起りを知ることはできない」
− 共に、『妖怪談義』より
“我々がもし犬だの猫だの、そうした獣の・言葉やその他の表現法を理解する能力を有つならば、我々にも、彼等動物共の生活形態の必然さを、身を以って、理解することが出来、又、彼等が我々よりも遥かに優れた叡智や思想を有っていることを見出さないとは限らないであろう”
− 中島敦「狼疾記」より

「人間は他のものよりも優れている」と思い込んでいると、分からないことが本当にたくさんある。そういった偏見をなくせば、人間以外の動物、植物、菌類、鉱物などに、見習うべき点を数多く認められるだろう。

例えば、多くの物事を菌類のように分解し、それを鉱物のように結晶化させつつ、植物のように分岐しながら生長する。人間という動物でありながら、精神的には、それらの特性を総合して持つよう意識する。それを続ければ、とてもおもしろいことができるんじゃないだろうか。

自然界のすばらしく豊かな生態系に習い、自分の心に様々な性質を持つ多くの要素から成る生態系を育てること。多種の感情や思考、記憶や想像などが食べては食べられ、分解されては再生し、合わさったり変身したりしながら、複雑な変化を繰り広げる。各要素が自由に活き、しかも全体がうまく巡るように。

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