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コメント(54)
フランツ・カフカ『城』
フランツ・カフカによる未完の長篇小説『城』を再読。
城にもその下にある村にも属せないどころか、当地に家庭もなく本来の仕事もさせてもらえない異邦人である主人公K。彼は城へ近づこう、あるいは自己以外の所属を得ようとして、村の様々な場所で奮闘を重ねる。しかし、それは決して叶わない。
登場人物のほとんどが城や村、加えてそれぞれに属する人々に対して自らの見解と主張を持つが、それらが一致することはほとんどない。元々、城の規律はそれを半ば強制的に一致させようとしたものでもあると考えられるのに、皮肉にもその不一致をより大きな、より入り組んだものにしている。
Kが多くの人と一対一で交わす長過ぎる会話が執拗に繰り返され、不透明でこんがらがった城の規律と役割、それに準じざるを得ない人々の姿が浮き彫りにされる。決して読みやすくはないが、現代社会とも通じるその迷宮のような実態をまざまざと突きつけられる、一読の価値のある作品。
それにしても、真実を突きつめよう、登場人物たちの主張を詳細に書き切ろうとする姿勢が強く伝わってくる文章だ。その主張が的を射ているかどうかはともかく、ここまで合理的に考えようとする人々が多くいる世界は実在しないので、作者自身の反映か幻想が現れているとするべきだろう。そして、そんな驚くべき書き方の生真面目さは、カフカの生き方にも共通していたのではないかと思われる。彼のそのようなところを尊敬している。
フランツ・カフカによる未完の長篇小説『城』を再読。
城にもその下にある村にも属せないどころか、当地に家庭もなく本来の仕事もさせてもらえない異邦人である主人公K。彼は城へ近づこう、あるいは自己以外の所属を得ようとして、村の様々な場所で奮闘を重ねる。しかし、それは決して叶わない。
登場人物のほとんどが城や村、加えてそれぞれに属する人々に対して自らの見解と主張を持つが、それらが一致することはほとんどない。元々、城の規律はそれを半ば強制的に一致させようとしたものでもあると考えられるのに、皮肉にもその不一致をより大きな、より入り組んだものにしている。
Kが多くの人と一対一で交わす長過ぎる会話が執拗に繰り返され、不透明でこんがらがった城の規律と役割、それに準じざるを得ない人々の姿が浮き彫りにされる。決して読みやすくはないが、現代社会とも通じるその迷宮のような実態をまざまざと突きつけられる、一読の価値のある作品。
それにしても、真実を突きつめよう、登場人物たちの主張を詳細に書き切ろうとする姿勢が強く伝わってくる文章だ。その主張が的を射ているかどうかはともかく、ここまで合理的に考えようとする人々が多くいる世界は実在しないので、作者自身の反映か幻想が現れているとするべきだろう。そして、そんな驚くべき書き方の生真面目さは、カフカの生き方にも共通していたのではないかと思われる。彼のそのようなところを尊敬している。
マーク・トウェイン『人間とは何か』
「人生に幻滅した老人が悲観的な人間観を青年に話す」…そもそも、そんな表紙の説明文が誤りに満ちている。老人は偏見なく人間を観察し、その結果をあけすけに話すだけであり、そこには悲観などほとんど介入しない。
老人は、人間のことを生まれつきの性質と、成長する際に外部から受けるあらゆる影響とによって成る機械であると主張する。それゆえに、どんな人と人との間にも優劣はなく、どんな生き物と人との間にも優劣はないと説く。しかし、他方では訓練や教育によって人間が十分に変わりうることも説いている。
通説や道徳などに代表される様々なものによって歪められがちな人間観の、本当の姿を提示しようとする一冊。読者によっては悲観や極論にも思われるだろう人間の原理と、容赦なく対面させられる。問題はそれを知った上で、それとどうやって付き合っていくか、ではないだろうか。
「君の理想を高く、より高くするよう努めることだ。そして、その行き着くところは自らを満足させると同時に、隣人たちや、広く社会にも善を成すといった行為…そうした行為の中に君自身がまず最大の喜びを見出せるという境地を志すことだ」(本文より抜粋)
「人生に幻滅した老人が悲観的な人間観を青年に話す」…そもそも、そんな表紙の説明文が誤りに満ちている。老人は偏見なく人間を観察し、その結果をあけすけに話すだけであり、そこには悲観などほとんど介入しない。
老人は、人間のことを生まれつきの性質と、成長する際に外部から受けるあらゆる影響とによって成る機械であると主張する。それゆえに、どんな人と人との間にも優劣はなく、どんな生き物と人との間にも優劣はないと説く。しかし、他方では訓練や教育によって人間が十分に変わりうることも説いている。
通説や道徳などに代表される様々なものによって歪められがちな人間観の、本当の姿を提示しようとする一冊。読者によっては悲観や極論にも思われるだろう人間の原理と、容赦なく対面させられる。問題はそれを知った上で、それとどうやって付き合っていくか、ではないだろうか。
「君の理想を高く、より高くするよう努めることだ。そして、その行き着くところは自らを満足させると同時に、隣人たちや、広く社会にも善を成すといった行為…そうした行為の中に君自身がまず最大の喜びを見出せるという境地を志すことだ」(本文より抜粋)
ハーマン・メルヴィル『詐欺師』
初めは独特の訳文が読み辛かったが、読み進めるうちにのめり込めた。様々な詐欺事件を通じ、信と不信を巡る人間模様、心理を掘り下げていく。時折挟まれる作者の小説論めいた記述も意義深い、内容のぎっしり詰まった傑作。
人間嫌い、善人、狂人、乞食、病人、慈善家、吝嗇家、神秘主義者、世界主義者…次々と現れては長広舌を振るい合う個性的な登場人物たちは、「信じる」ことに対する持論を各々に持っている。「信じる」ことが本質的な問題であり、常にと言っていいほど不安定で複雑な、やっかいな問題であると思い知った。それはまるで綱渡りのようであり、ほんの少し力を加えただけで信から不信へ、もしくは不信から信へと急変しうる。
「小説も宗教と同じで別の世界、しかし私たちが絆を感じる世界を提示すべきなのだ」(本文より)
ところで、先述した小説論めいた記述に相当する章に書かれたこの言葉には大いに共感を覚えた。
芸術作品は、いかなるものでも現実世界そのままには成りえないので、自ずと別の世界を提示することになる。優れた作品に求められるのは、現実世界と強い絆で結ばれたそれを現すことだろう。そして、最良の作品は現実世界同士以上に強い、その絆をもつに違いない。
初めは独特の訳文が読み辛かったが、読み進めるうちにのめり込めた。様々な詐欺事件を通じ、信と不信を巡る人間模様、心理を掘り下げていく。時折挟まれる作者の小説論めいた記述も意義深い、内容のぎっしり詰まった傑作。
人間嫌い、善人、狂人、乞食、病人、慈善家、吝嗇家、神秘主義者、世界主義者…次々と現れては長広舌を振るい合う個性的な登場人物たちは、「信じる」ことに対する持論を各々に持っている。「信じる」ことが本質的な問題であり、常にと言っていいほど不安定で複雑な、やっかいな問題であると思い知った。それはまるで綱渡りのようであり、ほんの少し力を加えただけで信から不信へ、もしくは不信から信へと急変しうる。
「小説も宗教と同じで別の世界、しかし私たちが絆を感じる世界を提示すべきなのだ」(本文より)
ところで、先述した小説論めいた記述に相当する章に書かれたこの言葉には大いに共感を覚えた。
芸術作品は、いかなるものでも現実世界そのままには成りえないので、自ずと別の世界を提示することになる。優れた作品に求められるのは、現実世界と強い絆で結ばれたそれを現すことだろう。そして、最良の作品は現実世界同士以上に強い、その絆をもつに違いない。
マルセル・ベアリュ『夜の体験』
すばらしい幻想小説。
「物が良く見えるようになりたい」と願う主人公。彼は不思議な眼科医に奇妙な眼鏡と処方箋とを与えられ、その目的を果たすために新たな住居と仕事を見つけ、生活を始める。しかし、その住まいも職場も多くの謎に包まれている…。
この物語のなかでは空間も時間も、普通と全く異なる様相を帯びる。主人公は場所を転々としながら、環境や女性や友人に魅了されたり失望したりしつつ、ひたすら翻弄されていく。驚くべき眼と、その副作用としての恐ろしい力を得た彼は、囚われた運命から自由になり、自立した人生を生きることができるのか…。
想像で補うことによって様々に捉えることのできる、世界の不気味さや美しさが簡潔な文体と練りに練られた構成によって記された本作。全篇を通して閉塞感や靄のかかったようなもどかしさを覚え、それが夢のようであり、同時に限りなく現実的でもある。
「見る」ことは「知る」ことなのだろう。人は世界を良く知り、自身の力を活かしながら生きられるのか。本書で示唆される答えは否定的とも取れるものだ。少なくとも、大いに困難であると示されているのは確かだし、実際にそうだとも思う。しかし、それでも希望をもって生と直面していたい、そんな思いの湧きあがってくる作品だった。
すばらしい幻想小説。
「物が良く見えるようになりたい」と願う主人公。彼は不思議な眼科医に奇妙な眼鏡と処方箋とを与えられ、その目的を果たすために新たな住居と仕事を見つけ、生活を始める。しかし、その住まいも職場も多くの謎に包まれている…。
この物語のなかでは空間も時間も、普通と全く異なる様相を帯びる。主人公は場所を転々としながら、環境や女性や友人に魅了されたり失望したりしつつ、ひたすら翻弄されていく。驚くべき眼と、その副作用としての恐ろしい力を得た彼は、囚われた運命から自由になり、自立した人生を生きることができるのか…。
想像で補うことによって様々に捉えることのできる、世界の不気味さや美しさが簡潔な文体と練りに練られた構成によって記された本作。全篇を通して閉塞感や靄のかかったようなもどかしさを覚え、それが夢のようであり、同時に限りなく現実的でもある。
「見る」ことは「知る」ことなのだろう。人は世界を良く知り、自身の力を活かしながら生きられるのか。本書で示唆される答えは否定的とも取れるものだ。少なくとも、大いに困難であると示されているのは確かだし、実際にそうだとも思う。しかし、それでも希望をもって生と直面していたい、そんな思いの湧きあがってくる作品だった。
マルセル・ベアリュ『水蜘蛛』
装丁がとても美しい、ソムニウム叢書の第一巻。ブラックユーモア溢れる掌篇を含む、五篇を収録。永遠の美を求める男との交流を描く「百合と血」が最も真に迫っているように思われておもしろかった。一方で、表題の「水蜘蛛」は多少幻想の占める比が大き過ぎるように思われ、さほど感銘を受けなかった。また、掌篇「最後の瞬間」に描かれる閉塞とそこからの解放、彼の作品には珍しい肯定感が前面に出た締めくくりが清々しい。
ベアリュは感覚と理性とが互いに高め合っている、とても優れた作家だと思う。
「フランス幻想文学の完成を極めた所産のひとつ」と書かれる、マンディアルグによる序文も興味深いが、巻末に収録の「ベアリュを訪ねて」というインタヴューがさらにいい。「現実にだけ興味がある」と言い、「小説は日常的現実から永遠の現実に行くために渡る橋」だと話す著者の言葉がとても好ましい。
装丁がとても美しい、ソムニウム叢書の第一巻。ブラックユーモア溢れる掌篇を含む、五篇を収録。永遠の美を求める男との交流を描く「百合と血」が最も真に迫っているように思われておもしろかった。一方で、表題の「水蜘蛛」は多少幻想の占める比が大き過ぎるように思われ、さほど感銘を受けなかった。また、掌篇「最後の瞬間」に描かれる閉塞とそこからの解放、彼の作品には珍しい肯定感が前面に出た締めくくりが清々しい。
ベアリュは感覚と理性とが互いに高め合っている、とても優れた作家だと思う。
「フランス幻想文学の完成を極めた所産のひとつ」と書かれる、マンディアルグによる序文も興味深いが、巻末に収録の「ベアリュを訪ねて」というインタヴューがさらにいい。「現実にだけ興味がある」と言い、「小説は日常的現実から永遠の現実に行くために渡る橋」だと話す著者の言葉がとても好ましい。
ミルチャ・エリアーデ『ムントゥリュサ通りで』
現代の神話、もしくは民話の形成過程を見るような、一人の人間が手がけたとは思えない傑作小説。ちなみに、作者のミリチャ・エリアーデは世界的に著名な宗教学者、宗教史家でもあった。
かつてムントゥリャサ通りにある小学校の校長を務めていたファルマという老人が、かつて同校の生徒であったボルザ少佐の元を訪ねるが、相手は彼のことを覚えていない。ファルマは怪しい人物だと目され、保安警察に連行される。彼はボルザ少佐を訪ねた理由について訊問を受け、それと関連した過去を語り始める。
ファルマの話は核心を話すために源へさかのぼり、その源から枝葉末節に展開する。その枝葉末節から別の源へさかのぼり、それがさらに拡がっていく…。ある少年が空に放った矢が二度と落ちてこなかったこと、他の少年がある印のついた地下室に溜まった水へ潜ったまま行方不明になったこと、13歳にして約2ｍの身長があった彫像のように美しい女のこと、ドクトルと呼ばれる男の行った驚くべき奇術のこと…。それらの話が密接に絡み合い、200年以上にもまたがる途方もない物語の全貌を垣間見せる。
訊問をする役人や政治家たちはファルマの語りに疑問を深め、あるいは魅せられ、次から次へと続きを催促するが、彼らが聞き出したい核心にいつまでも辿り着けない。やがて、ファルマの語りの内容とそれを巡る状況が、彼の物語と同じように様々な事件と結び付けられ…。
語り手による虚実不明な話を聞き手がそれぞれに解釈するという構造が作中で示され、それをさらに本書の読者がそれぞれに解釈する。そうして、一つの物語が途方もない広がりと深みをえるのだ。また、これ以上の終わり方はないと思わされる結末にも、ただただ感嘆させられる。
ところで、物語の冒頭に、ファルマがエレベーターを使うことを頑なに拒否し、階段を用いて建物を昇っていくという記述がある。それは、ファルマがよく発する「〜の話をよく理解して頂くには、まず〜の話を知ってもらわねばなりません」という言葉とも通じるように思われる。どちらからも、個々の要素の連続や連帯を重んじ、それをなおざりにしないという姿勢が見えるのだ。作者の徹底した人物造型に驚くとともに、その姿勢が自分たちの生活においてもいかに大切であるかを考えさせられる。
現代の神話、もしくは民話の形成過程を見るような、一人の人間が手がけたとは思えない傑作小説。ちなみに、作者のミリチャ・エリアーデは世界的に著名な宗教学者、宗教史家でもあった。
かつてムントゥリャサ通りにある小学校の校長を務めていたファルマという老人が、かつて同校の生徒であったボルザ少佐の元を訪ねるが、相手は彼のことを覚えていない。ファルマは怪しい人物だと目され、保安警察に連行される。彼はボルザ少佐を訪ねた理由について訊問を受け、それと関連した過去を語り始める。
ファルマの話は核心を話すために源へさかのぼり、その源から枝葉末節に展開する。その枝葉末節から別の源へさかのぼり、それがさらに拡がっていく…。ある少年が空に放った矢が二度と落ちてこなかったこと、他の少年がある印のついた地下室に溜まった水へ潜ったまま行方不明になったこと、13歳にして約2ｍの身長があった彫像のように美しい女のこと、ドクトルと呼ばれる男の行った驚くべき奇術のこと…。それらの話が密接に絡み合い、200年以上にもまたがる途方もない物語の全貌を垣間見せる。
訊問をする役人や政治家たちはファルマの語りに疑問を深め、あるいは魅せられ、次から次へと続きを催促するが、彼らが聞き出したい核心にいつまでも辿り着けない。やがて、ファルマの語りの内容とそれを巡る状況が、彼の物語と同じように様々な事件と結び付けられ…。
語り手による虚実不明な話を聞き手がそれぞれに解釈するという構造が作中で示され、それをさらに本書の読者がそれぞれに解釈する。そうして、一つの物語が途方もない広がりと深みをえるのだ。また、これ以上の終わり方はないと思わされる結末にも、ただただ感嘆させられる。
ところで、物語の冒頭に、ファルマがエレベーターを使うことを頑なに拒否し、階段を用いて建物を昇っていくという記述がある。それは、ファルマがよく発する「〜の話をよく理解して頂くには、まず〜の話を知ってもらわねばなりません」という言葉とも通じるように思われる。どちらからも、個々の要素の連続や連帯を重んじ、それをなおざりにしないという姿勢が見えるのだ。作者の徹底した人物造型に驚くとともに、その姿勢が自分たちの生活においてもいかに大切であるかを考えさせられる。
ミルチャ・エリアーデ『ダヤン』
天才数学者の青年が「永遠のユダヤ人」と出会い、時空を超えて色々な未知の場所を巡りながら対話する。彼はそうして数時間を過ごし、家に戻るとすぐ警察に捕われる。すると、三日経っていることが分かって…という話。
「精神を集中してみろ、そうすれば一度も読んだことのないことだって、いくらでも思い出せる」「全ては解釈され、翻訳される文言にかかっている」。百ページほどの物語に何と膨大な時空と理が圧縮されているんだろう。永遠には過去現在未来がなく、それは知と愛と同一である…エリアーデ、恐るべし。
エリアーデの小説においてもあらすじはもちろん重要だが、それ以上に物語の向こう側にある世界(宇宙)の深遠さとでも言うべきものが問題になると思う。世界的な宗教学者としての彼の経験が、物語の豊饒さを信じ難いまでに強化している。比類のない作家なので、あらゆる小説愛好家にお薦めしたい。
天才数学者の青年が「永遠のユダヤ人」と出会い、時空を超えて色々な未知の場所を巡りながら対話する。彼はそうして数時間を過ごし、家に戻るとすぐ警察に捕われる。すると、三日経っていることが分かって…という話。
「精神を集中してみろ、そうすれば一度も読んだことのないことだって、いくらでも思い出せる」「全ては解釈され、翻訳される文言にかかっている」。百ページほどの物語に何と膨大な時空と理が圧縮されているんだろう。永遠には過去現在未来がなく、それは知と愛と同一である…エリアーデ、恐るべし。
エリアーデの小説においてもあらすじはもちろん重要だが、それ以上に物語の向こう側にある世界(宇宙)の深遠さとでも言うべきものが問題になると思う。世界的な宗教学者としての彼の経験が、物語の豊饒さを信じ難いまでに強化している。比類のない作家なので、あらゆる小説愛好家にお薦めしたい。
ミルチャ・エリアーデ『ホーニヒベルガー博士の秘密』(福武文庫)
「ホーニヒベルガー博士の秘密」はヨーガの秘法の実践によって現世から消えた博士の足跡を、彼の蔵書や手記を通じて追う中篇。世界から解脱する手掛かりの記述とその危険性の呈示に多くのページが割かれた、エリアーデ文学の鍵とも言える一篇。彼の他の小説をいくつか読んでからこの作品に臨んだのだが、(あの物語のあの部分の真相はこういうことだったのかな)と思わせる記述がたくさんあってたのしかった。
後半に収録された「セランポーレの夜」はインドを舞台にした中篇。時空間の超越という主題は同じだが、こちらはタントラの秘術に通じる教授の力の影響を受け、インドに滞在しているヨーロッパ人の三人が未知の森へ迷い込むという話。それにしても、この作品の導入部で語られるインドの夜の美しさにはうっとりさせられる。
上で記したように「ホーニヒベルガー博士の秘密」はヨーガの秘法を中心としたインド神秘学に関連する記述が約三分の一を占めるので、比較的読みやすいのは「セランポーレの夜」の方だろう。しかし、どちらの物語にも大きなどんでん返しがあり、通読すればおもしろさを感じられる佳作となっているように思う。
「ホーニヒベルガー博士の秘密」はヨーガの秘法の実践によって現世から消えた博士の足跡を、彼の蔵書や手記を通じて追う中篇。世界から解脱する手掛かりの記述とその危険性の呈示に多くのページが割かれた、エリアーデ文学の鍵とも言える一篇。彼の他の小説をいくつか読んでからこの作品に臨んだのだが、(あの物語のあの部分の真相はこういうことだったのかな)と思わせる記述がたくさんあってたのしかった。
後半に収録された「セランポーレの夜」はインドを舞台にした中篇。時空間の超越という主題は同じだが、こちらはタントラの秘術に通じる教授の力の影響を受け、インドに滞在しているヨーロッパ人の三人が未知の森へ迷い込むという話。それにしても、この作品の導入部で語られるインドの夜の美しさにはうっとりさせられる。
上で記したように「ホーニヒベルガー博士の秘密」はヨーガの秘法を中心としたインド神秘学に関連する記述が約三分の一を占めるので、比較的読みやすいのは「セランポーレの夜」の方だろう。しかし、どちらの物語にも大きなどんでん返しがあり、通読すればおもしろさを感じられる佳作となっているように思う。
木々高太郎『折蘆』
どんでん返しに次ぐどんでん返しのある真相に驚かされ、しかもそれ以上に印象深かったのは登場人物達の込み入った心情や人間模様。「真実が一番信頼できる」「人間の心理の再現は自然科学に似ている」「苦しみが私の眼を初めて見開かせてくれた」…などの台詞が心に残る。
渦中にいるときは理解できず、隔たりが生じることによって初めて了解できることは数多くある。そのもどかしさ、切なさ。例えば、人と別れて初めて、その人や自分自身が分かること。
真実というものは数多くの要素から成り立っていて、その一つ一つを丁寧に読み解かなければ、取り違えてしまうこともしばしばだ。その全貌を捉えるのは困難であり、そこに至るのは貴いことだ。
以上のような数々の思いを抱かされた物語の終盤、敏腕と言うべき探偵である主人公が真相を捉えたと確信したあとに、真実が押し寄せてくる。それによって打ちひしがれ、話の最後に彼がとった行動は、肯定も否定も容易にはし難いものだった。複雑な読後感も含め、とてもいい作品だったように思う。
どんでん返しに次ぐどんでん返しのある真相に驚かされ、しかもそれ以上に印象深かったのは登場人物達の込み入った心情や人間模様。「真実が一番信頼できる」「人間の心理の再現は自然科学に似ている」「苦しみが私の眼を初めて見開かせてくれた」…などの台詞が心に残る。
渦中にいるときは理解できず、隔たりが生じることによって初めて了解できることは数多くある。そのもどかしさ、切なさ。例えば、人と別れて初めて、その人や自分自身が分かること。
真実というものは数多くの要素から成り立っていて、その一つ一つを丁寧に読み解かなければ、取り違えてしまうこともしばしばだ。その全貌を捉えるのは困難であり、そこに至るのは貴いことだ。
以上のような数々の思いを抱かされた物語の終盤、敏腕と言うべき探偵である主人公が真相を捉えたと確信したあとに、真実が押し寄せてくる。それによって打ちひしがれ、話の最後に彼がとった行動は、肯定も否定も容易にはし難いものだった。複雑な読後感も含め、とてもいい作品だったように思う。
夢野久作『ドグラ・マグラ』
夢野久作『ドグラ・マグラ』の再読を終えた。この物語で示される夢は、なんと深刻な意味とリアリティとを備えているんだろう。自己の在りか、知性の行き先、人の業、精神狂乱、人類愛、怪奇殺人、唯物文明批判…様々なテーマを盛り込み、信じ難いほど精緻に構成された、濃密この上ない長篇小説。
『ドグラ・マグラ』は内容のほとんどが伏線とも言える話だ。特に、中盤は読み進めるのに苦労を要するが、そこは作者を信じて乗り越えるべきだろう。夢野久作は色物やナンセンス物で決して済まされないものを書く、真摯な作家だ。それまでの全てが、いや、それまでの全てを含み、かつそれから派生した厖大な何もかもが押し寄せてきて渦巻くような、終盤のものすごさは究極。
夢野久作『ドグラ・マグラ』の再読を終えた。この物語で示される夢は、なんと深刻な意味とリアリティとを備えているんだろう。自己の在りか、知性の行き先、人の業、精神狂乱、人類愛、怪奇殺人、唯物文明批判…様々なテーマを盛り込み、信じ難いほど精緻に構成された、濃密この上ない長篇小説。
『ドグラ・マグラ』は内容のほとんどが伏線とも言える話だ。特に、中盤は読み進めるのに苦労を要するが、そこは作者を信じて乗り越えるべきだろう。夢野久作は色物やナンセンス物で決して済まされないものを書く、真摯な作家だ。それまでの全てが、いや、それまでの全てを含み、かつそれから派生した厖大な何もかもが押し寄せてきて渦巻くような、終盤のものすごさは究極。
R.A.ラファティ『昔には帰れない』
「SF界のホラ吹きじいさん」と呼ばれたラファティの短篇集。彼の小説の全貌は、そのあだ名に反してSFの範疇のみに収まるとは到底思えない。人間や動物はもちろん異星人や異星生物、機械、神、悪魔、幽霊、想像を絶する謎の存在などが繰り広げる独特の物語世界なのだ。
大河とその河岸を丸ごと封じ込めた長大な絵、笛を吹くと地上に降りてくる小さな月、漫画を書く猿人や命を持つおが屑人形頭の巡りの極めて悪い発明の天才…ラファティの他の作品と同じく、とても考えつかないアイデアが本書にもたくさん詰め込まれており、愉快なキャラクターや事件で溢れ返った軽快な語り口の物語は実におもしろく読める。しかも、その語りとは裏腹の、深遠な哲学と世界や社会への絶大な賛美や痛切な批判が散りばめられているように思われるのだ。だから、この本に収録された短篇の多くは読者の心に余韻を残し、何らかの種を蒔く秀作であると言えるだろう。それでは、その一端を示す作中の台詞の抜粋を以下に挙げて結びとします。
「(この世界は)人間も含めて、ありとあらゆるものが完全で、どれも似たりよったりだ。何もかもを手に入れ、きちんと並べてしまった。わたしみたいながらくたがいる場所は、この世にはないんだ」【「素顔のユリーマ」より】
「過去のできごと―そのすさまじい総体というものは急速に嵩をなくしていく。かつて起こったことは、どんどん起こらなかったことにされていく。もちろん実質的な中身は、圧縮されながらも、行間から苦しみの悲鳴をあげているかもしれない」【「行間からはみだすものを読め」より】
「SF界のホラ吹きじいさん」と呼ばれたラファティの短篇集。彼の小説の全貌は、そのあだ名に反してSFの範疇のみに収まるとは到底思えない。人間や動物はもちろん異星人や異星生物、機械、神、悪魔、幽霊、想像を絶する謎の存在などが繰り広げる独特の物語世界なのだ。
大河とその河岸を丸ごと封じ込めた長大な絵、笛を吹くと地上に降りてくる小さな月、漫画を書く猿人や命を持つおが屑人形頭の巡りの極めて悪い発明の天才…ラファティの他の作品と同じく、とても考えつかないアイデアが本書にもたくさん詰め込まれており、愉快なキャラクターや事件で溢れ返った軽快な語り口の物語は実におもしろく読める。しかも、その語りとは裏腹の、深遠な哲学と世界や社会への絶大な賛美や痛切な批判が散りばめられているように思われるのだ。だから、この本に収録された短篇の多くは読者の心に余韻を残し、何らかの種を蒔く秀作であると言えるだろう。それでは、その一端を示す作中の台詞の抜粋を以下に挙げて結びとします。
「(この世界は)人間も含めて、ありとあらゆるものが完全で、どれも似たりよったりだ。何もかもを手に入れ、きちんと並べてしまった。わたしみたいながらくたがいる場所は、この世にはないんだ」【「素顔のユリーマ」より】
「過去のできごと―そのすさまじい総体というものは急速に嵩をなくしていく。かつて起こったことは、どんどん起こらなかったことにされていく。もちろん実質的な中身は、圧縮されながらも、行間から苦しみの悲鳴をあげているかもしれない」【「行間からはみだすものを読め」より】
グスタフ・マイリンク『ゴーレム』
20世紀の前半まで、この物語の舞台となったプラハのユダヤ人街は貧しく、入り組んだ独特の街を形成していたという。暗渠が多く、建物が犇めきあい、そのなかには窓がたった一つしかない、どこからも入ることのできない部屋などもある…。
主人公のペルナートは記憶を喪失しており、気違いだと言われることもある。彼に救いを求める女性、おもしろい話を聞かせる友人、教えを授ける恩人、懐疑を抱く商人などがペルナートを取り巻き、記憶回復や人生を見出す助けとなる。もちろん、恐怖や不安を煽ることもあるが。
33年ごとに現れては街全体を恐慌に陥れる「ゴーレム」の伝説、ユダヤの神秘主義思想であるカバラやタロットカード、錬金術や古代エジプトの神などがそれらの人間模様や恋愛、失踪、殺人事件と複雑に混じり合い、絡み合いつつ幻惑的な物語は進む。
このように書くと、様々なオカルトに関する知識に通じていないと読み進めづらいように思われるかも知れないが、そんなことは決してない。主人公の独白や登場人物の台詞、さりげない訳注などが助けになるし、何よりも謎が謎を呼ぶ物語としての大きな引力に魅せられる。スピード感や派手さはさほどないが、精緻な心象表現や美しい情景描写、奇怪な事件や象徴的で意味深長な台詞が頻繁に現れ、非常に濃密な読書体験をえられる。
その時限りの快楽にとどまらず、生涯と密接に関わりうる優れた作品。この本には何度も読み返す価値があるだろうし、その度に多くの発見があるだろう。
20世紀の前半まで、この物語の舞台となったプラハのユダヤ人街は貧しく、入り組んだ独特の街を形成していたという。暗渠が多く、建物が犇めきあい、そのなかには窓がたった一つしかない、どこからも入ることのできない部屋などもある…。
主人公のペルナートは記憶を喪失しており、気違いだと言われることもある。彼に救いを求める女性、おもしろい話を聞かせる友人、教えを授ける恩人、懐疑を抱く商人などがペルナートを取り巻き、記憶回復や人生を見出す助けとなる。もちろん、恐怖や不安を煽ることもあるが。
33年ごとに現れては街全体を恐慌に陥れる「ゴーレム」の伝説、ユダヤの神秘主義思想であるカバラやタロットカード、錬金術や古代エジプトの神などがそれらの人間模様や恋愛、失踪、殺人事件と複雑に混じり合い、絡み合いつつ幻惑的な物語は進む。
このように書くと、様々なオカルトに関する知識に通じていないと読み進めづらいように思われるかも知れないが、そんなことは決してない。主人公の独白や登場人物の台詞、さりげない訳注などが助けになるし、何よりも謎が謎を呼ぶ物語としての大きな引力に魅せられる。スピード感や派手さはさほどないが、精緻な心象表現や美しい情景描写、奇怪な事件や象徴的で意味深長な台詞が頻繁に現れ、非常に濃密な読書体験をえられる。
その時限りの快楽にとどまらず、生涯と密接に関わりうる優れた作品。この本には何度も読み返す価値があるだろうし、その度に多くの発見があるだろう。
ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』
インドへ渡った欧州人と現地の少女による恋愛を描く、半自伝的な小説。異性間や異文化間の衝突、インド文化の神秘と不条理、生々しくも美しい性愛の描写、激烈な相互の慕情、誤解と破局とすれ違い…読みながら涙が流れた。また、この大恋愛がエリアーデのその後の活動に根本的な影響を及ぼしたであろうことが分かった。以下、本文より抜粋。「大きすぎる悦びや苦悩をそのさなかにあって表現するのは不可能なのだ。私は、それを蘇らせ得るのは記憶のみ、距離のみだと思うに至った」「≪すべては過ぎ去るだろう、すべては過ぎ去るのだ≫とつぶやいた。(そのときに学んだこのリフレーンが後に私の人生のライトモチーフになった)」
インドへ渡った欧州人と現地の少女による恋愛を描く、半自伝的な小説。異性間や異文化間の衝突、インド文化の神秘と不条理、生々しくも美しい性愛の描写、激烈な相互の慕情、誤解と破局とすれ違い…読みながら涙が流れた。また、この大恋愛がエリアーデのその後の活動に根本的な影響を及ぼしたであろうことが分かった。以下、本文より抜粋。「大きすぎる悦びや苦悩をそのさなかにあって表現するのは不可能なのだ。私は、それを蘇らせ得るのは記憶のみ、距離のみだと思うに至った」「≪すべては過ぎ去るだろう、すべては過ぎ去るのだ≫とつぶやいた。(そのときに学んだこのリフレーンが後に私の人生のライトモチーフになった)」
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』
主人公の中で別れていた聖なる世界と俗なる世界を統合させる役割を担う、謎めいた登場人物であるデミアンが題名の由来。多数の中で生きづらい一人の少年が友や師の助けを得て、独立独歩に向かう成長譚。孤独で険しい道をどこまでも行こうとする、額に「しるし」のある者たちの交感が描かれる。
若いようにも老いているようにも見える、美しく神秘的であり、かつ地に足のついたデミアン。その母親で、想像を絶する包容力と魅力に溢れたエヴァ。オルガン奏者であり、新しい宗教を打ち立てることを渇望しながらも古い象徴や神話を必要とするピストリウス。永久に古びないであろう人々がそこにいる。
この作品は傑作だ。傷口を抉られるように痛々しい現実も、天にも昇るような解放感を覚える幻想もあり、それらが混然一体となっている。この物語はいささか青い、つまり幼いかも知れない。だが、生涯大切にするべき瑞々しさや真摯さが濃縮されている。繰り返し読む値打ちのある一冊だろう。
主人公の中で別れていた聖なる世界と俗なる世界を統合させる役割を担う、謎めいた登場人物であるデミアンが題名の由来。多数の中で生きづらい一人の少年が友や師の助けを得て、独立独歩に向かう成長譚。孤独で険しい道をどこまでも行こうとする、額に「しるし」のある者たちの交感が描かれる。
若いようにも老いているようにも見える、美しく神秘的であり、かつ地に足のついたデミアン。その母親で、想像を絶する包容力と魅力に溢れたエヴァ。オルガン奏者であり、新しい宗教を打ち立てることを渇望しながらも古い象徴や神話を必要とするピストリウス。永久に古びないであろう人々がそこにいる。
この作品は傑作だ。傷口を抉られるように痛々しい現実も、天にも昇るような解放感を覚える幻想もあり、それらが混然一体となっている。この物語はいささか青い、つまり幼いかも知れない。だが、生涯大切にするべき瑞々しさや真摯さが濃縮されている。繰り返し読む値打ちのある一冊だろう。
ヘルマン・ヘッセ『知と愛』
信仰の道を志す無邪気な美少年が、賢明な友人に導かれて自分の天性を知る。彼は放浪して女たちと愛し合い、ペストの脅威や殺人を経験し、芸術への道を見出す。そして、いつも心を離れなかった賢明な友人と再会し…。究極の感性と知性とが近しい場所へ向かうことを示した大作。
この作品では、現実の善さや美しさと同じく、その無常や厳しさが描かれる。主人公は成らず者であると同時に聖者でもあるような人物。彼は恍惚と苦痛が女の顔に同じ表情を生むことを知り、愛と死の両方に強く惹かれる。彼にとって、そのような二つの極を結合し、永続させる最適な方法が芸術の制作だった。
ヘッセは優れた作家であり、優れた人物だったのではないか思う。そうでなければ、自然の風景や登場人物の各人に対する、あれほどまでの描写の丹念さは成しえない。『知と愛』(新潮文庫)の解説によると、彼もまた『デミアン』と『知と愛』の主人公のように、激しく葛藤しながら青年時代を送ったという。
「われわれの内に持続的に宿り、われわれからもはや離れることのないような平和は存在しない。常に繰り返し不断の戦いによって勝ち取られ、毎日毎日あらたに勝ち取らなければならないような平和があるばかりだ。それは(中略)正しいすべての生活がそうであるように、(中略)戦いと犠牲なのだ」−本作より
信仰の道を志す無邪気な美少年が、賢明な友人に導かれて自分の天性を知る。彼は放浪して女たちと愛し合い、ペストの脅威や殺人を経験し、芸術への道を見出す。そして、いつも心を離れなかった賢明な友人と再会し…。究極の感性と知性とが近しい場所へ向かうことを示した大作。
この作品では、現実の善さや美しさと同じく、その無常や厳しさが描かれる。主人公は成らず者であると同時に聖者でもあるような人物。彼は恍惚と苦痛が女の顔に同じ表情を生むことを知り、愛と死の両方に強く惹かれる。彼にとって、そのような二つの極を結合し、永続させる最適な方法が芸術の制作だった。
ヘッセは優れた作家であり、優れた人物だったのではないか思う。そうでなければ、自然の風景や登場人物の各人に対する、あれほどまでの描写の丹念さは成しえない。『知と愛』(新潮文庫)の解説によると、彼もまた『デミアン』と『知と愛』の主人公のように、激しく葛藤しながら青年時代を送ったという。
「われわれの内に持続的に宿り、われわれからもはや離れることのないような平和は存在しない。常に繰り返し不断の戦いによって勝ち取られ、毎日毎日あらたに勝ち取らなければならないような平和があるばかりだ。それは(中略)正しいすべての生活がそうであるように、(中略)戦いと犠牲なのだ」−本作より
Agostino Arrivabene
存命中のイタリアの画家。死や闇を感じさせる「暗い」と言われそうな作品が多いものの、彼の取り上げる題材は驚くほど広い。人、動物、植物、虫、菌類、水棲無脊椎動物、微生物、光、火、水、都市、などなどを幻想的に変身させる。しかも、それらは緻密に、往々にして息づくようにして描かれ、あたかも現存しているかのようだ。これらの作品と実際に対面したら、どんな体験ができるだろうか。
彼の作品を見ていると、生と死の連環が実感できる。人が闇に沈む、朽ち果てる、あるいは死に向かうことで、他の生物や無生物たちが光を得て、活気に満ちる。あるものが死ぬと別のものが生き、変化しながらその環が続いていくという神秘。それをここまで鮮烈に知らしめる芸術作品は稀有に思える。
存命中のイタリアの画家。死や闇を感じさせる「暗い」と言われそうな作品が多いものの、彼の取り上げる題材は驚くほど広い。人、動物、植物、虫、菌類、水棲無脊椎動物、微生物、光、火、水、都市、などなどを幻想的に変身させる。しかも、それらは緻密に、往々にして息づくようにして描かれ、あたかも現存しているかのようだ。これらの作品と実際に対面したら、どんな体験ができるだろうか。
彼の作品を見ていると、生と死の連環が実感できる。人が闇に沈む、朽ち果てる、あるいは死に向かうことで、他の生物や無生物たちが光を得て、活気に満ちる。あるものが死ぬと別のものが生き、変化しながらその環が続いていくという神秘。それをここまで鮮烈に知らしめる芸術作品は稀有に思える。
ミルチャ・エリアーデ『若さなき若さ』
エリアーデ『若さなき若さ』を再読。時は第二次世界大戦前。70歳超の老人が雷に打たれ、全身の皮膚を焼かれる。回復すると、40歳以前に若返ったばかりか、過去に勉強した様々な外国語を当時よりも鮮明に理解できるようになる。彼は政治勢力、科学者、ジャーナリストなどから逃れ、亡命をするが…。濃密な中篇小説。
驚異的な知識や長寿を得たとき、いかにして人生をたのしむか。人が核戦争などによる破局と引き換えに突然変異するとしたら、そこにどんな意義を見出すべきか…。若返った主人公を中心に、多数の勢力や人や事件が絡み合い、謎が謎を呼ぶ。単行本化されないのが不思議なくらい、優れた小説だ。
「彼は目覚めのまさにその瞬間に、名状しがたい大きな喜びを見出すのだった。それは疑いもなく、全き健やかな生を感じる喜びであるが、しかしそれに加えて、ほかの人々が存在していたという喜び、季節が存在し、どの一日も他の一日と異なるという喜び、動物や花々を見ることができる喜び、木々を撫でることができる喜びであった。街へ出ると、周りに目をやったりしなくても、自分が膨大なコミュニティに属しているということ、世界の一部であることを感じた。醜いものでさえも − 汚泥や鉄屑だらけの空き地でも − なにか神秘的で、内部から虹色に輝いていた」 − 『若さなき若さ』より
エリアーデ『若さなき若さ』を再読。時は第二次世界大戦前。70歳超の老人が雷に打たれ、全身の皮膚を焼かれる。回復すると、40歳以前に若返ったばかりか、過去に勉強した様々な外国語を当時よりも鮮明に理解できるようになる。彼は政治勢力、科学者、ジャーナリストなどから逃れ、亡命をするが…。濃密な中篇小説。
驚異的な知識や長寿を得たとき、いかにして人生をたのしむか。人が核戦争などによる破局と引き換えに突然変異するとしたら、そこにどんな意義を見出すべきか…。若返った主人公を中心に、多数の勢力や人や事件が絡み合い、謎が謎を呼ぶ。単行本化されないのが不思議なくらい、優れた小説だ。
「彼は目覚めのまさにその瞬間に、名状しがたい大きな喜びを見出すのだった。それは疑いもなく、全き健やかな生を感じる喜びであるが、しかしそれに加えて、ほかの人々が存在していたという喜び、季節が存在し、どの一日も他の一日と異なるという喜び、動物や花々を見ることができる喜び、木々を撫でることができる喜びであった。街へ出ると、周りに目をやったりしなくても、自分が膨大なコミュニティに属しているということ、世界の一部であることを感じた。醜いものでさえも − 汚泥や鉄屑だらけの空き地でも − なにか神秘的で、内部から虹色に輝いていた」 − 『若さなき若さ』より
ペーター・ハントケ『反復』
ペーター・ハントケ(1942-)はオーストリア出身の小説家、劇作家、脚本家。国際的には名高い作家だというが、日本ではヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』の脚本家だと言った方が多くの人の認識を得られるかもしれない。
４５歳の「僕」が、２０歳くらいの頃に行方不明の兄の足跡を追って行ったオーストリアからスロヴェニアへの旅のことを思い出す。その２０歳くらいの僕が、さらに昔のことを思い出していて…。この作品は単なる回想記ではない。どこにも居場所がないと感じながら生きてきた青年の転回を語るものでもあり、主人公の母方の言葉であるドイツ語と、父方の言葉であるスロヴェニア語の奇妙な共存を語るものでもある。また、主人公の回想のなかに、両親や姉や恩師による回想の話が差し挟まれる場面もある。さらに、２０歳以上年長の、ろくに接したことのない兄の残した二冊の本(兄の農学校時代の作業ノートと辞書)が重要な役割を果たす。そして、若い主人公の瑞々しい心情や体験が、４５歳の彼の熟成された回想によって生き返るのだ。
回想が入れ子になったり、枝分かれしたりする。時系列が前後する。いくつかの書物の内容が語られる。そのような場面が多くあるため、話の筋は追いやすくない。しかし、本作は情景が鮮やかに見え、音が生々しく聴こえる描写に満ちている。都市の描写も少しはあるが、それ以上に自然の多い田舎での暮らしや旅の描写が豊かで、概して静かな時間が流れている。
濃密な作品のため、読了まで二週間以上かかった。十数ページ読んではやめ、また少し読んではやめを繰り返したが、それだけにじっくりと味わえた。やきもきすることも多少はあったが、総じてすばらしい時間だった。また、『反復』という題名にふさわしく、再読する度に非常に多くの発見を得られる作品ではないかと思う。
本書には、馴染みの浅い地名や単語を説明する丁寧な訳注、スロヴェニアとオーストリアの風土・歴史や作者の来歴を記す訳者あとがきがついており、物語の重層性を深めてくれる。結びとして、本書で特に印象深く思われた文章を以下に記す。
“それを語っているのは僕などではなかった、体験そのものが語っているのだった。そしてこのひそやかな語り手は、僕の内部深くにあって、僕以上の何ものかだった。(中略)僕は自分の中に最高に繊細な力を感じていた。そしてその力は僕に「跳べ！」とうながしていた”
“辞書は「一つのコトバのメルヘン」を集めたもののように見えた。(中略)世界をイメージする力によって、辞書はメルヘンとなった。そうなのだ。どの言葉でも、その言葉を前にしてじっと考えにふけるとき、世界が生まれた”
“回想とは、過去にあったことがただ蘇ることを言うのではない。過去にあったことが、蘇ることによって、それぞれの場所を占めることだ。(中略)そうして初めて、その体験は僕にとって意識され、名付けうるもの、声を持つもの、口にしうるものとなる。(中略)体験を生かしておくのは物語だ。ひとつながりの物語の中で、体験はそれぞれの場所を与えられるのだ”
ペーター・ハントケ(1942-)はオーストリア出身の小説家、劇作家、脚本家。国際的には名高い作家だというが、日本ではヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン・天使の詩』の脚本家だと言った方が多くの人の認識を得られるかもしれない。
４５歳の「僕」が、２０歳くらいの頃に行方不明の兄の足跡を追って行ったオーストリアからスロヴェニアへの旅のことを思い出す。その２０歳くらいの僕が、さらに昔のことを思い出していて…。この作品は単なる回想記ではない。どこにも居場所がないと感じながら生きてきた青年の転回を語るものでもあり、主人公の母方の言葉であるドイツ語と、父方の言葉であるスロヴェニア語の奇妙な共存を語るものでもある。また、主人公の回想のなかに、両親や姉や恩師による回想の話が差し挟まれる場面もある。さらに、２０歳以上年長の、ろくに接したことのない兄の残した二冊の本(兄の農学校時代の作業ノートと辞書)が重要な役割を果たす。そして、若い主人公の瑞々しい心情や体験が、４５歳の彼の熟成された回想によって生き返るのだ。
回想が入れ子になったり、枝分かれしたりする。時系列が前後する。いくつかの書物の内容が語られる。そのような場面が多くあるため、話の筋は追いやすくない。しかし、本作は情景が鮮やかに見え、音が生々しく聴こえる描写に満ちている。都市の描写も少しはあるが、それ以上に自然の多い田舎での暮らしや旅の描写が豊かで、概して静かな時間が流れている。
濃密な作品のため、読了まで二週間以上かかった。十数ページ読んではやめ、また少し読んではやめを繰り返したが、それだけにじっくりと味わえた。やきもきすることも多少はあったが、総じてすばらしい時間だった。また、『反復』という題名にふさわしく、再読する度に非常に多くの発見を得られる作品ではないかと思う。
本書には、馴染みの浅い地名や単語を説明する丁寧な訳注、スロヴェニアとオーストリアの風土・歴史や作者の来歴を記す訳者あとがきがついており、物語の重層性を深めてくれる。結びとして、本書で特に印象深く思われた文章を以下に記す。
“それを語っているのは僕などではなかった、体験そのものが語っているのだった。そしてこのひそやかな語り手は、僕の内部深くにあって、僕以上の何ものかだった。(中略)僕は自分の中に最高に繊細な力を感じていた。そしてその力は僕に「跳べ！」とうながしていた”
“辞書は「一つのコトバのメルヘン」を集めたもののように見えた。(中略)世界をイメージする力によって、辞書はメルヘンとなった。そうなのだ。どの言葉でも、その言葉を前にしてじっと考えにふけるとき、世界が生まれた”
“回想とは、過去にあったことがただ蘇ることを言うのではない。過去にあったことが、蘇ることによって、それぞれの場所を占めることだ。(中略)そうして初めて、その体験は僕にとって意識され、名付けうるもの、声を持つもの、口にしうるものとなる。(中略)体験を生かしておくのは物語だ。ひとつながりの物語の中で、体験はそれぞれの場所を与えられるのだ”
ペーター・ハントケ『ドン・フアン（本人が語る）』
ドン・フアンはスペインの伝説上の放蕩児であり、多くの戯曲や詩の題材にされてきた。妻がいるのに女を誘惑し、決闘で騎士を殺す。そして、冗談でその死んだ騎士の石像を晩餐に誘うと、本当にその石像がやって来て、ドン・フアンを地獄に落とす。その伝説の大筋は以上の通りだ。
本作の語り手は料理人である。彼はまず、伝説とは反対にドン・フアンに食事を作ってふるまう。それから一週間にわたり、毎晩夕食のあとでドン・フアン本人から話を聴く。ちょうど一週間前にドン・フアン自身が体験したことを。つまり、月曜には一つ前の月曜の体験を、火曜には一つ前の火曜の体験を…という具合に。本作はドン・フアンが語った話を、その聴き手が再話することによって成立している。つまり、聴き手が語り手を兼ねているのだ。
訳者があとがきで記すとおり、本作のドン・フアンは「物語る」ドン・フアン、「誘惑者ではない」「誠実な」ドン・フアン、「哀しみ」にひたされたドン・フアン、殺人など禍々しいもの、あるいは「きわどい細部」とは何も関わるところのない、前代未聞のドン・フアンだ。ただし、本作においても、彼は女と大いに関係する。彼は一日ごとに違った土地で別の女と過ごす。そして、彼は女と過ごす時間を静止として体験する。つまり、一方向に流れる時間から解放され、瞬間が永遠に通じるのだ。ドン・フアンの体験は彼のみのものではなく、普遍的なものである。それを“私は、ドン・フアンが自分の物語の中で非常にしばしば「私は」と言うかわりに「人は」という言い方をすることに気づいていた。まるで、自分の体験が普遍的なもの、だれにでも当てはまるものであることは言うまでもないと言わんばかりに”という文が示していると思われる。それを裏打ちするように、ドン・ファンと女との物語は日を追うごとに細部を失っていく。そして場所、つまり空間からも解放され、普遍により近づくのだ。また、ドン・フアンが訪れる全ての土地にはポプラの綿毛が漂っている。“綿毛が通り過ぎていくと、物質はその重量を失っていくように見えた”という一文が表すように、それは重力からの解放を暗示し、物語はさらなる普遍性を得る。以上は、本書から読み解けるものの、ほんの一部でしかない。歴史や文学、地理や神話などに通じていなければ作者の意図を理解できない箇所も少なからずある。訳注やあとがきで補ってほしかったとも思うが、多様な読みを制限しないためには、それで良かったのかもしれない。１５０ページ足らずの本篇に、よくぞこれほど多くの暗示と思想を詰めこんだものだと感心するばかりだ。しかし、本作が無味乾燥な思想で占められているかと言えば、そうではない。生々しい景色や音や種々の感覚を想起させる表現がそこここにあり、それが暗示や思想を肉付けし、拡張する。
この作品は、優れた物語の種子のようだと思う。文章を目で追うだけでは完成されないが、読者がそれに想像や思考をもって参加することで、数知れない根や枝葉や花や実をつける巨樹に成長する。それは時間も空間も重力も超える巨樹だ。それを伝えるため、以下に今少しの引用を載せる。
“「一週間前の日曜」、そう語り始めるだけで、さまざまな映像、その日一日の映像がおのずと浮かんできた。ちょうど七日前の日の、そのときには見えていなかった映像が、目覚め、立ち現れ、そしてそれぞれの場を占め、順序正しく並ぶ。小さなものも大きなものも等しく。いや、もはや大きなものも小さなものもない”
“哀しみそのものが、逆に彼に力を取り戻させた。哀しみによって、人は自分自身を超え出る。哀しみが、人をして個を超えさせる。哀しみの存在は、奇跡を起こす。漆黒の嵐の夜に、色彩が生じる”
“それがどのように起こったのであれ、二人はたがいに交じり合い重なり合っていく。そのことによって別の時間が流れはじめる。それが彼らを目に見えない存在にする。ちょうど、人間の眼には、もっと遅い動きか、速い動きでないと動いていることが認識できない、そんなあわいの速度で動いている物体＝身体(ケルパー)のように”
“ドン・フアンの到来は、私の内部を文字通り押し広げ、内部の限界を取り払ってくれた。それはふつう、ものすごく興奮するような(あるいは恐れ駆りたてられるような)至福の読書でしか得られないことだ”
最後の引用が、本書の魅力をいみじくも言い表しているように思われてならない。
ドン・フアンはスペインの伝説上の放蕩児であり、多くの戯曲や詩の題材にされてきた。妻がいるのに女を誘惑し、決闘で騎士を殺す。そして、冗談でその死んだ騎士の石像を晩餐に誘うと、本当にその石像がやって来て、ドン・フアンを地獄に落とす。その伝説の大筋は以上の通りだ。
本作の語り手は料理人である。彼はまず、伝説とは反対にドン・フアンに食事を作ってふるまう。それから一週間にわたり、毎晩夕食のあとでドン・フアン本人から話を聴く。ちょうど一週間前にドン・フアン自身が体験したことを。つまり、月曜には一つ前の月曜の体験を、火曜には一つ前の火曜の体験を…という具合に。本作はドン・フアンが語った話を、その聴き手が再話することによって成立している。つまり、聴き手が語り手を兼ねているのだ。
訳者があとがきで記すとおり、本作のドン・フアンは「物語る」ドン・フアン、「誘惑者ではない」「誠実な」ドン・フアン、「哀しみ」にひたされたドン・フアン、殺人など禍々しいもの、あるいは「きわどい細部」とは何も関わるところのない、前代未聞のドン・フアンだ。ただし、本作においても、彼は女と大いに関係する。彼は一日ごとに違った土地で別の女と過ごす。そして、彼は女と過ごす時間を静止として体験する。つまり、一方向に流れる時間から解放され、瞬間が永遠に通じるのだ。ドン・フアンの体験は彼のみのものではなく、普遍的なものである。それを“私は、ドン・フアンが自分の物語の中で非常にしばしば「私は」と言うかわりに「人は」という言い方をすることに気づいていた。まるで、自分の体験が普遍的なもの、だれにでも当てはまるものであることは言うまでもないと言わんばかりに”という文が示していると思われる。それを裏打ちするように、ドン・ファンと女との物語は日を追うごとに細部を失っていく。そして場所、つまり空間からも解放され、普遍により近づくのだ。また、ドン・フアンが訪れる全ての土地にはポプラの綿毛が漂っている。“綿毛が通り過ぎていくと、物質はその重量を失っていくように見えた”という一文が表すように、それは重力からの解放を暗示し、物語はさらなる普遍性を得る。以上は、本書から読み解けるものの、ほんの一部でしかない。歴史や文学、地理や神話などに通じていなければ作者の意図を理解できない箇所も少なからずある。訳注やあとがきで補ってほしかったとも思うが、多様な読みを制限しないためには、それで良かったのかもしれない。１５０ページ足らずの本篇に、よくぞこれほど多くの暗示と思想を詰めこんだものだと感心するばかりだ。しかし、本作が無味乾燥な思想で占められているかと言えば、そうではない。生々しい景色や音や種々の感覚を想起させる表現がそこここにあり、それが暗示や思想を肉付けし、拡張する。
この作品は、優れた物語の種子のようだと思う。文章を目で追うだけでは完成されないが、読者がそれに想像や思考をもって参加することで、数知れない根や枝葉や花や実をつける巨樹に成長する。それは時間も空間も重力も超える巨樹だ。それを伝えるため、以下に今少しの引用を載せる。
“「一週間前の日曜」、そう語り始めるだけで、さまざまな映像、その日一日の映像がおのずと浮かんできた。ちょうど七日前の日の、そのときには見えていなかった映像が、目覚め、立ち現れ、そしてそれぞれの場を占め、順序正しく並ぶ。小さなものも大きなものも等しく。いや、もはや大きなものも小さなものもない”
“哀しみそのものが、逆に彼に力を取り戻させた。哀しみによって、人は自分自身を超え出る。哀しみが、人をして個を超えさせる。哀しみの存在は、奇跡を起こす。漆黒の嵐の夜に、色彩が生じる”
“それがどのように起こったのであれ、二人はたがいに交じり合い重なり合っていく。そのことによって別の時間が流れはじめる。それが彼らを目に見えない存在にする。ちょうど、人間の眼には、もっと遅い動きか、速い動きでないと動いていることが認識できない、そんなあわいの速度で動いている物体＝身体(ケルパー)のように”
“ドン・フアンの到来は、私の内部を文字通り押し広げ、内部の限界を取り払ってくれた。それはふつう、ものすごく興奮するような(あるいは恐れ駆りたてられるような)至福の読書でしか得られないことだ”
最後の引用が、本書の魅力をいみじくも言い表しているように思われてならない。
ベン・オクリ『満たされぬ道』
作者のベン・オクリ(1959‐)はナイジェリア生まれの小説家・詩人。本書はブッカ―賞受賞作の長篇小説『THE FAMISHED ROAD』を和訳したもの。
主人公は精霊アビクの少年である。アビクはアフリカの精霊で、生まれてからすぐに亡くなる子どもの姿をとり、何度も生まれては亡くなりながら人間界と精霊界を往復する存在だ。しかし、本作の主人公は人間界で生きていくことを決意する。彼が生きるのは貧民街に住む父母の元であり、そこには激しい暑さの乾季と大雨の降り続ける雨季、金持ち党と貧乏党というならず者たちの争う政治劇、何よりも貧困にあえぐ日々の暮らしがあった。元々が死と隣り合わせの生活であるうえに、仲間の精霊たちが幾度となくやって来て、あの手この手を使って主人公を精霊界に戻そうと、つまり殺そうと試みる…。
この物語は非常にゆっくりと進む。なぜなら、物語が水平方向に進むと同時に垂直方向にも展開するからだ。人間と精霊の境に身を置く主人公が体験するのは、単なる俗世の出来事ではない。森を歩いていても街を歩いていても、家にいても主人公が手伝いをするバーにいても、そこが切れ目なく精霊界とつながっていく。つまり、人間界の出来事と精霊界の出来事とが重なり、干渉し合うのだ。本書においては話の筋よりも、貧民街の人びとや事件の描写、そこに精霊が介入することでそれらがいかに美しくなるか、恐ろしくなるか、あるいは奇天烈なものに変わるかという描写にページの多くが占められている。ある批評家が本作を評した「こんな本が人間に書けるなんて、とても信じられない」という言葉が納得できるほど、それらの描写は壮大かつ緻密にして奇想天外だ。
聖と俗、人間と精霊、美と醜、私小説と神話…往々にして相反するとされる二極がいかに近しいか。この物語はそれを思い知らせてくれる。女神のように神々しいかと思えば金や物にも執着するバーの女主人、いくじなしかと思えば英雄や魔法使いのようにもなる写真家、乱暴者で自己中心的かと思えば悟りをえた聖者のようにもなる主人公の父…時に一瞬にして、ある極から反対の極に変容する彼らの存在がそれを体現しているように思える。平易な訳文が採用されているにもかかわらず、かなり読みにくく、ところどころが冗長にも感じられるが、すさまじいエネルギーをもった作品であることは確かだろう。
ベン・オクリは現在に至るまで、十作に及ぶ長篇小説を発表している。しかし、和訳されているのは本作と大傑作である『見えざる神々の島』のみであり、その二作さえも絶版という状況にある。彼ほど優れた作家は滅多にいないと思うので、本書の続篇である『Songs of Enchantment』を含む他の作品が訳されること、既出の二作が復刊されることを切望する。
作者のベン・オクリ(1959‐)はナイジェリア生まれの小説家・詩人。本書はブッカ―賞受賞作の長篇小説『THE FAMISHED ROAD』を和訳したもの。
主人公は精霊アビクの少年である。アビクはアフリカの精霊で、生まれてからすぐに亡くなる子どもの姿をとり、何度も生まれては亡くなりながら人間界と精霊界を往復する存在だ。しかし、本作の主人公は人間界で生きていくことを決意する。彼が生きるのは貧民街に住む父母の元であり、そこには激しい暑さの乾季と大雨の降り続ける雨季、金持ち党と貧乏党というならず者たちの争う政治劇、何よりも貧困にあえぐ日々の暮らしがあった。元々が死と隣り合わせの生活であるうえに、仲間の精霊たちが幾度となくやって来て、あの手この手を使って主人公を精霊界に戻そうと、つまり殺そうと試みる…。
この物語は非常にゆっくりと進む。なぜなら、物語が水平方向に進むと同時に垂直方向にも展開するからだ。人間と精霊の境に身を置く主人公が体験するのは、単なる俗世の出来事ではない。森を歩いていても街を歩いていても、家にいても主人公が手伝いをするバーにいても、そこが切れ目なく精霊界とつながっていく。つまり、人間界の出来事と精霊界の出来事とが重なり、干渉し合うのだ。本書においては話の筋よりも、貧民街の人びとや事件の描写、そこに精霊が介入することでそれらがいかに美しくなるか、恐ろしくなるか、あるいは奇天烈なものに変わるかという描写にページの多くが占められている。ある批評家が本作を評した「こんな本が人間に書けるなんて、とても信じられない」という言葉が納得できるほど、それらの描写は壮大かつ緻密にして奇想天外だ。
聖と俗、人間と精霊、美と醜、私小説と神話…往々にして相反するとされる二極がいかに近しいか。この物語はそれを思い知らせてくれる。女神のように神々しいかと思えば金や物にも執着するバーの女主人、いくじなしかと思えば英雄や魔法使いのようにもなる写真家、乱暴者で自己中心的かと思えば悟りをえた聖者のようにもなる主人公の父…時に一瞬にして、ある極から反対の極に変容する彼らの存在がそれを体現しているように思える。平易な訳文が採用されているにもかかわらず、かなり読みにくく、ところどころが冗長にも感じられるが、すさまじいエネルギーをもった作品であることは確かだろう。
ベン・オクリは現在に至るまで、十作に及ぶ長篇小説を発表している。しかし、和訳されているのは本作と大傑作である『見えざる神々の島』のみであり、その二作さえも絶版という状況にある。彼ほど優れた作家は滅多にいないと思うので、本書の続篇である『Songs of Enchantment』を含む他の作品が訳されること、既出の二作が復刊されることを切望する。
ベン・オクリ『見えざる神々の島』
作者のベン・オクリ(1959‐)はナイジェリア生まれの小説家・詩人。本書は1995年作の長篇小説『Astonishing the Gods』を和訳したものである。
自分が人から「みえない」ことを知った主人公が、自分自身の「みえない」理由と「みえる」ということの秘密を探すために旅に出る。さまざまな場所を巡る七年間の船旅の末に、彼は不思議な島に辿りつく。その島では、みえない人びとが魅惑的な言葉を話し、歌い、音楽を奏でていた。主人公はどこまでも続くような鏡の道、光や空気や感情でできているようにもみえる霧の橋、夢のような古代宮殿や広間などのある街をさまよい、目にみえない案内役や住人や指導者などと話をする。だが、全てがあまりにも謎めいていて…。
ユニークかつストイックな神秘小説である。まず、この小説には人物名や地名が一切出てこない。そして、文字だけを目で追って理解できる事件や会話がほとんどない。しかし、それらの多くには意味が隠されており、読者の感受と思索によって始めて捉えられる。そのようにしてこの小説を読めば、大いに力づけられる読者は多いはずだ。本書に込められた哲学の一端を示す例として、以下に引用を載せる。
“「ものは、あるがままのもの。それがものの力だ。ものは、われわれがそうであると考えるすべてのものであり、われわれがそうと感じるすべてのものであり、それ以上のものでもある。ものは、ものそのものなのだから。もし、ものがなにかを意味するのであれば、それはもの以下のものになってしまうだろう」”
“「わたしたちの子ども時代って、どのくらいまえかしら。二十年。三十年。五十年。それとも十年。わたしは思うんだけど、それは何千年もまえなんじゃないかしら。どんな民族も覚えていないくらい昔なんじゃないかしら。なにかにあこがれるとするでしょう。そのあこがれは、ずっと深いところからこみあげてくるじゃない。深い記憶の底から、祖先たちが混じりあっていた頃の忘れられた夢のなかから」”
“自分が小さくなっていき、それゆえに大きくなっていくような感じがしていた。自分が隠れてしまい、それゆえにみることを学ぶことができるような感じがしていた。自分が秘密になってしまい、それゆえにあらゆる真実を受け入れられるような感じがしていた。自分が自分自身の謎になってしまい、それゆえに理解し始めることができるような感じがしていた”
とは言っても、理解に力を要する場面ばかりが続くわけではない。本書には光や闇、霧や炎や水、音楽や街や女性、そして想像上の動物や神や天使などに関する美しい描写がとても多い。ダイヤモンド、エメラルド、トパーズ、金、銀、銅、大理石、ヒスイ、アダマント…以上のような鉱物の名前が頻出するのも印象的だ。
全体として、未加工の結晶体や薄められていない原液で満たされているかのような作品である。同じような景色や音や香り、人物などが間を置いて現れることも多く、暗示に富んでいる。一度通読するだけでは取りこぼしが多かったので、二度続けて読み通した。そして、時を置いて再読するつもりでいる。
作者のベン・オクリ(1959‐)はナイジェリア生まれの小説家・詩人。本書は1995年作の長篇小説『Astonishing the Gods』を和訳したものである。
自分が人から「みえない」ことを知った主人公が、自分自身の「みえない」理由と「みえる」ということの秘密を探すために旅に出る。さまざまな場所を巡る七年間の船旅の末に、彼は不思議な島に辿りつく。その島では、みえない人びとが魅惑的な言葉を話し、歌い、音楽を奏でていた。主人公はどこまでも続くような鏡の道、光や空気や感情でできているようにもみえる霧の橋、夢のような古代宮殿や広間などのある街をさまよい、目にみえない案内役や住人や指導者などと話をする。だが、全てがあまりにも謎めいていて…。
ユニークかつストイックな神秘小説である。まず、この小説には人物名や地名が一切出てこない。そして、文字だけを目で追って理解できる事件や会話がほとんどない。しかし、それらの多くには意味が隠されており、読者の感受と思索によって始めて捉えられる。そのようにしてこの小説を読めば、大いに力づけられる読者は多いはずだ。本書に込められた哲学の一端を示す例として、以下に引用を載せる。
“「ものは、あるがままのもの。それがものの力だ。ものは、われわれがそうであると考えるすべてのものであり、われわれがそうと感じるすべてのものであり、それ以上のものでもある。ものは、ものそのものなのだから。もし、ものがなにかを意味するのであれば、それはもの以下のものになってしまうだろう」”
“「わたしたちの子ども時代って、どのくらいまえかしら。二十年。三十年。五十年。それとも十年。わたしは思うんだけど、それは何千年もまえなんじゃないかしら。どんな民族も覚えていないくらい昔なんじゃないかしら。なにかにあこがれるとするでしょう。そのあこがれは、ずっと深いところからこみあげてくるじゃない。深い記憶の底から、祖先たちが混じりあっていた頃の忘れられた夢のなかから」”
“自分が小さくなっていき、それゆえに大きくなっていくような感じがしていた。自分が隠れてしまい、それゆえにみることを学ぶことができるような感じがしていた。自分が秘密になってしまい、それゆえにあらゆる真実を受け入れられるような感じがしていた。自分が自分自身の謎になってしまい、それゆえに理解し始めることができるような感じがしていた”
とは言っても、理解に力を要する場面ばかりが続くわけではない。本書には光や闇、霧や炎や水、音楽や街や女性、そして想像上の動物や神や天使などに関する美しい描写がとても多い。ダイヤモンド、エメラルド、トパーズ、金、銀、銅、大理石、ヒスイ、アダマント…以上のような鉱物の名前が頻出するのも印象的だ。
全体として、未加工の結晶体や薄められていない原液で満たされているかのような作品である。同じような景色や音や香り、人物などが間を置いて現れることも多く、暗示に富んでいる。一度通読するだけでは取りこぼしが多かったので、二度続けて読み通した。そして、時を置いて再読するつもりでいる。
岩田慶治『カミと神』のレビューを投稿。アニミズムのカミと人間中心的な神を対比させつつ、神や精霊や魂を探った良書。実に多様なアプローチによって抽象的な存在が具体的に立ち上がる、文化人類学者の手による一冊。万人に多くの示唆を与えそうだ。https://www.amazon.co.jp/dp/4061588648
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“もっとも進んだものがもっとも遅れたものを包括しなければならない。もっとも遅れたもののうちに、もっとも進んだものを支える基盤がある。ほんとうの進化は双方向的なものでなければならないということである”
− 岩田慶治『カミと神』より
はっとした。大切だが、見落としがちなことかも。
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深く納得できる、魂に関する説明だ
“魂は生成し、成熟し、増殖し、転移する。(中略)ということは、魂は成熟するにしたがって個性を脱却するということである。魂がその所有者を超えるのである。いや、所有者自身を超えるからこそ魂でありうるのである”
− 岩田慶治『カミと神』より
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“もっとも進んだものがもっとも遅れたものを包括しなければならない。もっとも遅れたもののうちに、もっとも進んだものを支える基盤がある。ほんとうの進化は双方向的なものでなければならないということである”
− 岩田慶治『カミと神』より
はっとした。大切だが、見落としがちなことかも。
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深く納得できる、魂に関する説明だ
“魂は生成し、成熟し、増殖し、転移する。(中略)ということは、魂は成熟するにしたがって個性を脱却するということである。魂がその所有者を超えるのである。いや、所有者自身を超えるからこそ魂でありうるのである”
− 岩田慶治『カミと神』より
ジョヴァンニ・パピーニ『逃げてゆく鏡 (バベルの図書館 30)』
ジョヴァンニ・パピーニ(1881-1956)はイタリアの小説家、詩人、思想家。青年時代には未来派に参加して数年でそれを脱退し、中年時代においては無神論者からキリスト教に回心し、晩年に至っては視力も聴力も失い、全身が麻痺していく奇病を患うなど、波乱の多い人生をおくったという。
この本には１０の短篇がおさめられている。分身を扱ったもの、夢を扱ったもの、物語を扱ったもの、時間を扱ったものなど、編者であるボルヘスの好みを反映した作品が集められているようだ。
分身、夢、物語、時間…それらの題材自体は決して珍しくないが、アイデアに優れた作品が揃っている。作品の一つ「泉水のなかの二つの顔」では現在の“わたし”と七年前の“わたし”が穏やかならぬ付き合いをし、「完全に馬鹿げた物語」では自分の人生を克明に描いた物語と“わたし”が衝撃的に出会い、「＜病める紳士＞の最後の訪問」では夢によって形づくられた人物の悩み多き人生が描かれ、「返済されなかった一日」では若かりし頃に自分の一年間を貸しだした絶世の美女が老年になってからその日々を少しずつ返済される。自我とは何かという問題がほとんどの作品で取り上げられているのも特徴的だ。その問題は多くの作品において深刻で痛ましくすらあり、「もはやいまのままのわたしではいたくない」という一篇で最も直截的に語られる。かと言って、全ての作品は読みやすいとさえ思える。情景描写と心理描写、そして哲学的描写の配分が良いからかもしれない。明快な訳文によるところも大きいだろう。
他のレビュアー様も書かれているとおり、本書はボルヘスが編纂と序文の執筆を担当した『バベルの図書館』シリーズの最終巻である。そのため、付属の月報にはパピーニの小伝「見出された物語」に加えて「図書館落成のことば」が載せられている。後者は『バベルの図書館』シリーズ全体をより広く、より深く読むための助けになる、特におすすめできる読みものだ。
ジョヴァンニ・パピーニ(1881-1956)はイタリアの小説家、詩人、思想家。青年時代には未来派に参加して数年でそれを脱退し、中年時代においては無神論者からキリスト教に回心し、晩年に至っては視力も聴力も失い、全身が麻痺していく奇病を患うなど、波乱の多い人生をおくったという。
この本には１０の短篇がおさめられている。分身を扱ったもの、夢を扱ったもの、物語を扱ったもの、時間を扱ったものなど、編者であるボルヘスの好みを反映した作品が集められているようだ。
分身、夢、物語、時間…それらの題材自体は決して珍しくないが、アイデアに優れた作品が揃っている。作品の一つ「泉水のなかの二つの顔」では現在の“わたし”と七年前の“わたし”が穏やかならぬ付き合いをし、「完全に馬鹿げた物語」では自分の人生を克明に描いた物語と“わたし”が衝撃的に出会い、「＜病める紳士＞の最後の訪問」では夢によって形づくられた人物の悩み多き人生が描かれ、「返済されなかった一日」では若かりし頃に自分の一年間を貸しだした絶世の美女が老年になってからその日々を少しずつ返済される。自我とは何かという問題がほとんどの作品で取り上げられているのも特徴的だ。その問題は多くの作品において深刻で痛ましくすらあり、「もはやいまのままのわたしではいたくない」という一篇で最も直截的に語られる。かと言って、全ての作品は読みやすいとさえ思える。情景描写と心理描写、そして哲学的描写の配分が良いからかもしれない。明快な訳文によるところも大きいだろう。
他のレビュアー様も書かれているとおり、本書はボルヘスが編纂と序文の執筆を担当した『バベルの図書館』シリーズの最終巻である。そのため、付属の月報にはパピーニの小伝「見出された物語」に加えて「図書館落成のことば」が載せられている。後者は『バベルの図書館』シリーズ全体をより広く、より深く読むための助けになる、特におすすめできる読みものだ。
『ヴァレリー全集〈3〉対話篇』
収録作品は「エウパリノス」、「魂と舞踏」、「樹についての対話」、「固定観念」、「対談」、「雑集」、「手紙」。そのうち、「雑集」は箴言集めいたもの、「手紙」は「エウパリノス」と「魂と舞踏」の成立についてヴァレリーが記した書簡である。
「エウパリノス」は建築をめぐって哲学者のソクラテスと弟子のパイドロスが対話をする作品。彼らが死後に対話をしているという設定がおもしろく、その内容は建築家のエウパリノスや造船家のトリドンの人物像や哲学について触れつつ、建築と他の芸術との差異や類似は何か、自然と人工の違いは何か、もしもソクラテスが哲学者でなければ何を成していたか、などに及ぶ。
「魂と舞踏について」はソクラテス、パイドロスに加えて医者のエリュクシマコスが舞踏を観ながら対話をする短い作品。作者自身による説明にあるとおり、美しい踊りの姿態への言及と哲学的な発言が入れ替わり立ち替わり踊るようにして現れ、眩暈のなかでそれらが合体する。
「樹についての対話」は詩人にして哲学者のルクレティウスが羊飼いのティティルスと樹について話し合う、これまた短い作品。植物の樹についての話が樹のような精神についての話に及び、最後には詩的な言葉の樹が現出する。
「固定観念」はヴァレリーのつくった人物のテスト氏とある医者が対話をする。テスト氏が自分自身の思考から逃れるために起伏や障害物の多い危険な道を必死で進むと、海岸に出る。そこで、知人の医者が釣り道具と絵の道具を持っているところと出くわす。本書にあって最も長い作品で、観念とは何かという対話が精神とは何か、肉体とは何か、宇宙とは何か、時間とは何かにまで広がる。生物学、量子力学、神話、哲学などにふれながら、話はユーモアをまじえながらも真摯に進み、結びでは人の温かみを感じさせる。
以前に『ムッシュー・テスト (岩波文庫)』を読み、ヴァレリーは知性の人という印象が強かった。しかし、本書を読む限り、彼は知性の人であると同時に感性の人であるように思えた。しかも、それらが大変高度に融合している。一昔前の翻訳のため、そしておそらく原文自体が易しくはないために、理解できたとは言えない部分もある。しかし、ほとんどの作品が哲学的であると同時に詩的であり、知性と感性の両方にうったえるものがあっておもしろい。さまざまな思索や行動への手がかりになる言葉の宝庫だ。特に、あまり有名ではない「固定観念」がすばらしい。
収録作品は「エウパリノス」、「魂と舞踏」、「樹についての対話」、「固定観念」、「対談」、「雑集」、「手紙」。そのうち、「雑集」は箴言集めいたもの、「手紙」は「エウパリノス」と「魂と舞踏」の成立についてヴァレリーが記した書簡である。
「エウパリノス」は建築をめぐって哲学者のソクラテスと弟子のパイドロスが対話をする作品。彼らが死後に対話をしているという設定がおもしろく、その内容は建築家のエウパリノスや造船家のトリドンの人物像や哲学について触れつつ、建築と他の芸術との差異や類似は何か、自然と人工の違いは何か、もしもソクラテスが哲学者でなければ何を成していたか、などに及ぶ。
「魂と舞踏について」はソクラテス、パイドロスに加えて医者のエリュクシマコスが舞踏を観ながら対話をする短い作品。作者自身による説明にあるとおり、美しい踊りの姿態への言及と哲学的な発言が入れ替わり立ち替わり踊るようにして現れ、眩暈のなかでそれらが合体する。
「樹についての対話」は詩人にして哲学者のルクレティウスが羊飼いのティティルスと樹について話し合う、これまた短い作品。植物の樹についての話が樹のような精神についての話に及び、最後には詩的な言葉の樹が現出する。
「固定観念」はヴァレリーのつくった人物のテスト氏とある医者が対話をする。テスト氏が自分自身の思考から逃れるために起伏や障害物の多い危険な道を必死で進むと、海岸に出る。そこで、知人の医者が釣り道具と絵の道具を持っているところと出くわす。本書にあって最も長い作品で、観念とは何かという対話が精神とは何か、肉体とは何か、宇宙とは何か、時間とは何かにまで広がる。生物学、量子力学、神話、哲学などにふれながら、話はユーモアをまじえながらも真摯に進み、結びでは人の温かみを感じさせる。
以前に『ムッシュー・テスト (岩波文庫)』を読み、ヴァレリーは知性の人という印象が強かった。しかし、本書を読む限り、彼は知性の人であると同時に感性の人であるように思えた。しかも、それらが大変高度に融合している。一昔前の翻訳のため、そしておそらく原文自体が易しくはないために、理解できたとは言えない部分もある。しかし、ほとんどの作品が哲学的であると同時に詩的であり、知性と感性の両方にうったえるものがあっておもしろい。さまざまな思索や行動への手がかりになる言葉の宝庫だ。特に、あまり有名ではない「固定観念」がすばらしい。
『オディロン・ルドン パステル画』
フランスの画家オディロン・ルドン(1840〜1916)のパステル画を取りあげた、すばらしいとしか言いようのない大判の画集。70点の図版をオールカラーで収録している。すべての作品が1ページ丸ごとを使って載せられており、印刷の質も良好だ。本書のサイズは縦34.2cm x 横25.8cmであり、緻密に描きこまれたものの多いルドンの絵の魅力を存分に伝える。本書の構成は以下の通り。
ロズリーヌ・バクーによる序文 P13〜
ルドンの生活写真 P31〜
オディロン・ルドン「芸術家の打ち明け話」 P49〜
図版と解説 P65〜
年譜 P207〜
引用文献 P210〜
欧米で行われたルドンの主要な展覧会 P211〜
ルドンをめぐる人々 P215〜
訳者あとがき P219〜
特筆すべきは、ルドン自身による「芸術家の打ち明け話」である。画家が自分の来歴と芸術論を記したものであり、『ルドン 私自身に』にも収録されている文章だ。だが、訳者が異なり、本書で読める訳文の方が基本的にかなり明快で、しかも丁寧な注釈が付されている。ルドンの文章は詩的かつ哲学的であり、とても興味深い。
「不気味」「恐ろしい」などと言われがちなルドンの作品であるが、もともと神秘性やユーモアの感じられる作品もある。しかも、彼が50歳以降に手がけた色を多用した作品には、神秘性のみならず神聖さすら感じられる作品が多い。本書に収録されている作品の全てが傑作というわけではないが、非常に優れた作品が多く収録されている。そのような作品には具象性と抽象性の絶妙なバランスがあり、放射されるような色の輝きや重なりや深みがある。それを観たあとも、観た者の内部で光を放ちながら運動をするような作品だ。ルドンは唯一無二の画家だ。自分の知る限り、本書は彼のパステル画を収録した最良の画集である。
フランスの画家オディロン・ルドン(1840〜1916)のパステル画を取りあげた、すばらしいとしか言いようのない大判の画集。70点の図版をオールカラーで収録している。すべての作品が1ページ丸ごとを使って載せられており、印刷の質も良好だ。本書のサイズは縦34.2cm x 横25.8cmであり、緻密に描きこまれたものの多いルドンの絵の魅力を存分に伝える。本書の構成は以下の通り。
ロズリーヌ・バクーによる序文 P13〜
ルドンの生活写真 P31〜
オディロン・ルドン「芸術家の打ち明け話」 P49〜
図版と解説 P65〜
年譜 P207〜
引用文献 P210〜
欧米で行われたルドンの主要な展覧会 P211〜
ルドンをめぐる人々 P215〜
訳者あとがき P219〜
特筆すべきは、ルドン自身による「芸術家の打ち明け話」である。画家が自分の来歴と芸術論を記したものであり、『ルドン 私自身に』にも収録されている文章だ。だが、訳者が異なり、本書で読める訳文の方が基本的にかなり明快で、しかも丁寧な注釈が付されている。ルドンの文章は詩的かつ哲学的であり、とても興味深い。
「不気味」「恐ろしい」などと言われがちなルドンの作品であるが、もともと神秘性やユーモアの感じられる作品もある。しかも、彼が50歳以降に手がけた色を多用した作品には、神秘性のみならず神聖さすら感じられる作品が多い。本書に収録されている作品の全てが傑作というわけではないが、非常に優れた作品が多く収録されている。そのような作品には具象性と抽象性の絶妙なバランスがあり、放射されるような色の輝きや重なりや深みがある。それを観たあとも、観た者の内部で光を放ちながら運動をするような作品だ。ルドンは唯一無二の画家だ。自分の知る限り、本書は彼のパステル画を収録した最良の画集である。
ポウイス『ウルフ・ソレント�機�
ものすごい小説だ。個人的でしばしば俗悪ですらある田舎の出来事が驚くべき普遍性を付与され、神話にまで高められている…という感がある。
“私はこの作品を五年かけて挑んだが、まだ読み終えた気がしない。それにしても、この長さは、ドストエフスキーのように罪深い長さでありながら、内容は老子かD.H.ロレンスのように淡く、宇宙的なのだ。ポウイスは星の一生を書くようにして、ひとりの頼りなげな男の生涯を書いている”(荒俣宏による帯文より)
主人公のウルフ・ソレントは三十代半ばの男性。十代から暮らしたロンドンで教師の職を失い、故郷であるドーセットで新たな職を得る。それは姦淫や殺人や密通などの挿話ばかりを集めた＜ドーセット年代記＞という歴史研究書をつくるため、地主のアーカートの秘書になることだった…。前任者の謎めいた死、魅力的な二人の女性との出会い、存命の母と亡くなった父の間での葛藤、近親相姦や私生児たちの存在…ウルフは＜ドーセット年代記＞を現実にしたような、さまざまな事件に巻きこまれていく。
それでも本作が下品になりすぎないのは、夢見がちとも言える主人公の性格によるところが大きいだろう。ウルフは自然のなかでの散策を好み、この物語には鮮烈な自然描写や人物描写の数々が彼の幻想により、さらなる美しさを得る場面が多々登場する。しかも、自分の触れた自然や人物などによって別の記憶を彼自身が呼び起こされる場面も多く、おもしろい。ただし、彼が下世話であったり醜悪であったりする妄想を抱く場面も度々あるが。
本作に登場するのは個性的な人物ばかりであり、その数もかなり多い。彼らが織りなす渦巻くような人間模様に、先述の克明な自然や幻想の描写が加わる。そのうえ、哲学的な思考や対話も繰り返し登場するので、濃密極まりない。だからこそ、この物語は決して読みやすくない。だが、本作は生と死、聖と俗、善と悪、美と醜、肉体と精神など、さまざまな二元の両極を含んで浸透し合わせる、偉大な物語だと思う。適度に硬質で詩的な訳文も心地いい。
最後に、この巻のなかで特に印象に残った一文を引用する。
“私がいいたいことというのは(中略)私が個々の哲学を『真理』としてではなく、自分が旅することのできる、特定の国のようなものとしてとらえているだけだということです――特徴のある光とか、ゴシック建築とか、とんがり屋根とか、並木道とかのある、ひとつひとつの国として”(p.124より)
ものすごい小説だ。個人的でしばしば俗悪ですらある田舎の出来事が驚くべき普遍性を付与され、神話にまで高められている…という感がある。
“私はこの作品を五年かけて挑んだが、まだ読み終えた気がしない。それにしても、この長さは、ドストエフスキーのように罪深い長さでありながら、内容は老子かD.H.ロレンスのように淡く、宇宙的なのだ。ポウイスは星の一生を書くようにして、ひとりの頼りなげな男の生涯を書いている”(荒俣宏による帯文より)
主人公のウルフ・ソレントは三十代半ばの男性。十代から暮らしたロンドンで教師の職を失い、故郷であるドーセットで新たな職を得る。それは姦淫や殺人や密通などの挿話ばかりを集めた＜ドーセット年代記＞という歴史研究書をつくるため、地主のアーカートの秘書になることだった…。前任者の謎めいた死、魅力的な二人の女性との出会い、存命の母と亡くなった父の間での葛藤、近親相姦や私生児たちの存在…ウルフは＜ドーセット年代記＞を現実にしたような、さまざまな事件に巻きこまれていく。
それでも本作が下品になりすぎないのは、夢見がちとも言える主人公の性格によるところが大きいだろう。ウルフは自然のなかでの散策を好み、この物語には鮮烈な自然描写や人物描写の数々が彼の幻想により、さらなる美しさを得る場面が多々登場する。しかも、自分の触れた自然や人物などによって別の記憶を彼自身が呼び起こされる場面も多く、おもしろい。ただし、彼が下世話であったり醜悪であったりする妄想を抱く場面も度々あるが。
本作に登場するのは個性的な人物ばかりであり、その数もかなり多い。彼らが織りなす渦巻くような人間模様に、先述の克明な自然や幻想の描写が加わる。そのうえ、哲学的な思考や対話も繰り返し登場するので、濃密極まりない。だからこそ、この物語は決して読みやすくない。だが、本作は生と死、聖と俗、善と悪、美と醜、肉体と精神など、さまざまな二元の両極を含んで浸透し合わせる、偉大な物語だと思う。適度に硬質で詩的な訳文も心地いい。
最後に、この巻のなかで特に印象に残った一文を引用する。
“私がいいたいことというのは(中略)私が個々の哲学を『真理』としてではなく、自分が旅することのできる、特定の国のようなものとしてとらえているだけだということです――特徴のある光とか、ゴシック建築とか、とんがり屋根とか、並木道とかのある、ひとつひとつの国として”(p.124より)
ポウイス『ウルフ・ソレント �供�
『ウルフ・ソレント �機戮陵鵑吠�語全体を通じたレビューを載せたため、こちらには作品の紹介の助けになると思われる、この巻の帯文と本文の引用を載せる。この物語の濃密さの一端がうかがえるものばかりを選んだつもりだ。
“ポウイスという破格で多面的で反逆的で非時代的な作家の本質が、この処女長編には横溢している”(紀田順一郎による帯文より)
“頭上から黒歌鳥のさえずりを模した口笛が聞こえてきたのだ！最初はかすかに、低く、澄んだフルートのような音のひとつひとつが、それぞれ真珠のように透きとおる不滅の露の雫であるかのように、風に乗って漂い出した。(中略)天上的な旋律の水滴が、現世をはるかに超えて浮遊し、浮遊し続け、彼の魂を運んでいった”(p.72より。実際には「遊」の字が旧字で印刷されている)
“なにか隠されていた戸口のようなものをとおって、不意にべつの世界に足を踏み入れたような気がした。どこまでも広がる、ひややかな、沈黙につつまれて繁茂する植物のみでつくられた世界。ひとも、獣も、鳥も、苔に覆われた静謐を破ることのない世界。樹液と湿潤さとうなだれた羊歯の世界。(中略)一枚また一枚、木の葉が木の葉のうえに舞い降り、草の葉が草の葉のうえに積み重なって、沈黙の秘密の中枢のうちにある、なにかひややかで、湿った、暗い、名状しがたい次元に向けて、それ自体が緩慢に下降し定着しようとしている世界！”(p.118より)
“孤独であれ！彼を生みおとした厳めしい女性から学んだのはそういうことだ。すべての魂は孤独であるということ。(中略)耐えよ、しからずんば逃れよ。これからさきに出会うみじめな瞬間のすべてのうえにその言葉の叡智を撒き散らさなければならない”(p.437より)
ちなみに、最後の引用は本作の終盤に登場する文章だ。本作を通読することで、さほど目新しくもないこの文章の内容が厚みのある実感をそなえるようになった。この物語のさまざまな場面が想起され、大きな説得力をもつようになったのだ。以上のことも含めて、筆舌に尽くしがたいほど充実した、すばらしい読書体験ができた。
『ウルフ・ソレント �機戮陵鵑吠�語全体を通じたレビューを載せたため、こちらには作品の紹介の助けになると思われる、この巻の帯文と本文の引用を載せる。この物語の濃密さの一端がうかがえるものばかりを選んだつもりだ。
“ポウイスという破格で多面的で反逆的で非時代的な作家の本質が、この処女長編には横溢している”(紀田順一郎による帯文より)
“頭上から黒歌鳥のさえずりを模した口笛が聞こえてきたのだ！最初はかすかに、低く、澄んだフルートのような音のひとつひとつが、それぞれ真珠のように透きとおる不滅の露の雫であるかのように、風に乗って漂い出した。(中略)天上的な旋律の水滴が、現世をはるかに超えて浮遊し、浮遊し続け、彼の魂を運んでいった”(p.72より。実際には「遊」の字が旧字で印刷されている)
“なにか隠されていた戸口のようなものをとおって、不意にべつの世界に足を踏み入れたような気がした。どこまでも広がる、ひややかな、沈黙につつまれて繁茂する植物のみでつくられた世界。ひとも、獣も、鳥も、苔に覆われた静謐を破ることのない世界。樹液と湿潤さとうなだれた羊歯の世界。(中略)一枚また一枚、木の葉が木の葉のうえに舞い降り、草の葉が草の葉のうえに積み重なって、沈黙の秘密の中枢のうちにある、なにかひややかで、湿った、暗い、名状しがたい次元に向けて、それ自体が緩慢に下降し定着しようとしている世界！”(p.118より)
“孤独であれ！彼を生みおとした厳めしい女性から学んだのはそういうことだ。すべての魂は孤独であるということ。(中略)耐えよ、しからずんば逃れよ。これからさきに出会うみじめな瞬間のすべてのうえにその言葉の叡智を撒き散らさなければならない”(p.437より)
ちなみに、最後の引用は本作の終盤に登場する文章だ。本作を通読することで、さほど目新しくもないこの文章の内容が厚みのある実感をそなえるようになった。この物語のさまざまな場面が想起され、大きな説得力をもつようになったのだ。以上のことも含めて、筆舌に尽くしがたいほど充実した、すばらしい読書体験ができた。
ト田隆嗣『声の力―ボルネオ島プナンのうたと出すことの美学』
東南アジアのボルネオ島に住むプナンという少数民族。民族音楽学者である著者が三度にわたって現地に赴き、プナンの人々と共に生活しながら行った調査をまとめたものが本書である。著者はプナンの「うた」を通じて、プナンの人々がどのような世界観をもってどのように生活し、それをどのように感じ、捉えているかを探る。しかも、知識や考察のみならず、自分の五感をも通じて探ろうとする。
本書は５章から成る。第１章《うたとことば》、第２章《カミ・音声・人間》、第３章《出すことの美学》、第４章《たくさんのことば、よいことば》第５章《声の力》。また、それらの前に序論、それらの後にあとがきと文献と索引がある。序論では著者のプナン来訪記が当地の人々の生活や慣習、それに「うた」との接触などを交えて生き生きと語られ、加えてプナンの地理的な説明や外部の文明の介入による近年の変化などが記される。章ごとの内容については、複雑な部分も多いために割愛する。ただし、第２章の章名にある「カミ」という語の意味を記すと、それはアニミズム(万物に霊や神が宿っているとする信仰)的な宗教観における神を示すものである。ちなみに、プナン滞在中のある夜に「うた」のカミが著者に宿り、半睡状態のままで「うた」を歌い続けたときの経験談が本書にはある。飽くまでも理性的に語られる、感覚や意識の変化の詳述をまじえたその体験談は大変おもしろい。
本書のなかで特に興味深いのは、プナンにおける「うた」と排泄との強い結びつきだ。鳥の声の聞きなしと「うた」、食事と排泄がそれぞれに対応する。プナンの人々は鳥の鳴き声をカミの声として聞きなす。鳥の種類や鳴き方に応じ、それを特定のプナン語に翻訳する。「猪をとりに行け」「果実が落ちている」「雨になる」「お前の家族が死ぬぞ」などの伝言として理解し、プナンの人々はそれに従って行動を変える。反対に、プナンの人々の歌う「うた」は内なるカミの力を借りつつ、外なるカミに呼びかける行為だ。同じように、カミを外から取り入れる行為が食事で、内なるカミの力を借りてそれを外に出す行為が排泄だと言える。だからこそ、プナンの人々は「うた」の長さや音韻や力強さなどを詳細に検討するのと同じように、排泄物の長さや色や臭いなどを詳細に検討するという。鳥の声の聞きなしは獣を狩ったり果物をとったりすることにも関係するため、排泄と間接的に関わっているというのもおもしろい。さらを言うと、何を食べたかによって「うた」のパフォーマンスも如実に変わる。
本書にはプナンの「うた」の歌詞や譜面、さまざまな言葉の一覧表や地図、生活の写真などが随所に載せられており、内容の理解を助ける。また、本書の特徴にプナンの人々の話し言葉が関西弁で記されているということがある(それが出てくる箇所はさほど多くないが)。そのような表現を採用した理由も本文に書かれている。それは著者とプナンの言葉や「うた」との関係を鑑みると、納得のいくものだった。残念なのは、本書がかなり高価なことだ。専門的な読みものだから仕方がないのかもしれないが、一般の読者にとっても興味深い内容を多く含み、さらにかなり親しみやすい文章で書かれているので勿体ない。
東南アジアのボルネオ島に住むプナンという少数民族。民族音楽学者である著者が三度にわたって現地に赴き、プナンの人々と共に生活しながら行った調査をまとめたものが本書である。著者はプナンの「うた」を通じて、プナンの人々がどのような世界観をもってどのように生活し、それをどのように感じ、捉えているかを探る。しかも、知識や考察のみならず、自分の五感をも通じて探ろうとする。
本書は５章から成る。第１章《うたとことば》、第２章《カミ・音声・人間》、第３章《出すことの美学》、第４章《たくさんのことば、よいことば》第５章《声の力》。また、それらの前に序論、それらの後にあとがきと文献と索引がある。序論では著者のプナン来訪記が当地の人々の生活や慣習、それに「うた」との接触などを交えて生き生きと語られ、加えてプナンの地理的な説明や外部の文明の介入による近年の変化などが記される。章ごとの内容については、複雑な部分も多いために割愛する。ただし、第２章の章名にある「カミ」という語の意味を記すと、それはアニミズム(万物に霊や神が宿っているとする信仰)的な宗教観における神を示すものである。ちなみに、プナン滞在中のある夜に「うた」のカミが著者に宿り、半睡状態のままで「うた」を歌い続けたときの経験談が本書にはある。飽くまでも理性的に語られる、感覚や意識の変化の詳述をまじえたその体験談は大変おもしろい。
本書のなかで特に興味深いのは、プナンにおける「うた」と排泄との強い結びつきだ。鳥の声の聞きなしと「うた」、食事と排泄がそれぞれに対応する。プナンの人々は鳥の鳴き声をカミの声として聞きなす。鳥の種類や鳴き方に応じ、それを特定のプナン語に翻訳する。「猪をとりに行け」「果実が落ちている」「雨になる」「お前の家族が死ぬぞ」などの伝言として理解し、プナンの人々はそれに従って行動を変える。反対に、プナンの人々の歌う「うた」は内なるカミの力を借りつつ、外なるカミに呼びかける行為だ。同じように、カミを外から取り入れる行為が食事で、内なるカミの力を借りてそれを外に出す行為が排泄だと言える。だからこそ、プナンの人々は「うた」の長さや音韻や力強さなどを詳細に検討するのと同じように、排泄物の長さや色や臭いなどを詳細に検討するという。鳥の声の聞きなしは獣を狩ったり果物をとったりすることにも関係するため、排泄と間接的に関わっているというのもおもしろい。さらを言うと、何を食べたかによって「うた」のパフォーマンスも如実に変わる。
本書にはプナンの「うた」の歌詞や譜面、さまざまな言葉の一覧表や地図、生活の写真などが随所に載せられており、内容の理解を助ける。また、本書の特徴にプナンの人々の話し言葉が関西弁で記されているということがある(それが出てくる箇所はさほど多くないが)。そのような表現を採用した理由も本文に書かれている。それは著者とプナンの言葉や「うた」との関係を鑑みると、納得のいくものだった。残念なのは、本書がかなり高価なことだ。専門的な読みものだから仕方がないのかもしれないが、一般の読者にとっても興味深い内容を多く含み、さらにかなり親しみやすい文章で書かれているので勿体ない。
ミシェル・ビュトール『段階』
作者のミシェル・ビュトール(1926-2016)はフランスの小説家・詩人・批評家。２０世紀半ばのフランスでおこったヌーヴォー・ロマン(「新しい小説」という意味)という潮流の旗手と目される。ただし、ヌーヴォー・ロマンはジャーナリスティックな呼称であり、党派性に乏しいとされるため、各作家や各作品によって手法やテーマなどが全く異なる場合も多い。
本書は三部構成となっており、一部ごとに語り手が変わる。一部は地理と歴史の教師であるピエール・ヴェルニエ、二部はその甥でヴェルニエの勤める高等中学校に通う学生のピエール・エレール、そして三部はピエール・エレールの別の叔父であり、フランス語とラテン語とギリシア語の教師としてヴェルニエの同僚でもあるアンリ・ジューレによって語られる。舞台の中心は学校であり、登場人物は三十一人の生徒たち、彼らの各教科の担当教師たち、それら双方の家族や関係者たちだ。ほぼ同じ期間中の、ほぼ同じ生活圏内でおこった出来事を異なる三人が語ることで、現実が建築されるという感がある。時にずれ、時に合わさり、時に衝突する三人それぞれの観点によってである。本書において、現実を語ることの大変な困難さが示されている点も印象的だ。それぞれの語り手は書くために周囲の人びとの情報をできるだけ収集し、それでも足りない大部分は想像によって補う。それを正確に行うためには自分の時間や労力を、ひいては生活を犠牲にしなければならない。それでも、満足に行うことはほとんどできない。また、それによって周りをかぎまわるスパイのように見られることもある。
本書はとても読みづらい。名前のある登場人物がとても多いし、描写される出来事の大体は学校やその周辺で繰り広げられる人々の日常些事であり、一貫した物語性に欠けるからだ。それを和らげるのが、授業中に発される“地球はどこにあるかね”、“一日とはどういうことであるか言えるかね”、“一時間というのはどういうことか”などの問いの数々や“夏休み中の思い出で、最も印象深く残っている一日のことを物語れ。なぜその日が記憶に残るに最もふさわしく思えるのか、その理由を説明すること”という課題の文章の興味深さであり、時に主題とリンクするコロンブスやホメロスやラブレーやラシーヌなどによる著作からの引用の数々である。また、本作の主人公はピエール・エレールとピエール・ヴェルニエだと言えるが、それ以上に「物語そのもの」が主人公だと言えそうなところもおもしろい。最後に、本書のなかで特に重要だと思われる文章を下に載せる。
“私は、<マピオン>でコーヒーを飲んでいた、きみ、数年後のきみ、これらすべてのことを忘れ果てたころのきみに向けて書いているこのノートのことを考えながら、忘れ果てたとはいっても、これを読むことによって、それらのことはすべて、ほかのたくさんのことといっしょに、それを捉え、固定し、全体のなかに位置づけて観賞することを可能にするような一種の秩序のうちに、ある形式と構造に従って記憶によみがえってくるだろう、(中略)そして、いまはわけもわからず、運び去られるがままになって、きみがその渦巻く濁流のなかにでもいるようにしているあのおびただしい情報の流れ、(中略)われわれのあいだを、われわれの周囲をすべってゆく、あのおびただしい情報の量を、正しくつかみ直すことが、きみにはできるようになるだろう”(p.77より抜粋)
“その本がきみのために書かれたのだということ、そのために彼が死ぬのだということをきみは知らない、それでもきみは彼を許した”(p.390より抜粋)
作者のミシェル・ビュトール(1926-2016)はフランスの小説家・詩人・批評家。２０世紀半ばのフランスでおこったヌーヴォー・ロマン(「新しい小説」という意味)という潮流の旗手と目される。ただし、ヌーヴォー・ロマンはジャーナリスティックな呼称であり、党派性に乏しいとされるため、各作家や各作品によって手法やテーマなどが全く異なる場合も多い。
本書は三部構成となっており、一部ごとに語り手が変わる。一部は地理と歴史の教師であるピエール・ヴェルニエ、二部はその甥でヴェルニエの勤める高等中学校に通う学生のピエール・エレール、そして三部はピエール・エレールの別の叔父であり、フランス語とラテン語とギリシア語の教師としてヴェルニエの同僚でもあるアンリ・ジューレによって語られる。舞台の中心は学校であり、登場人物は三十一人の生徒たち、彼らの各教科の担当教師たち、それら双方の家族や関係者たちだ。ほぼ同じ期間中の、ほぼ同じ生活圏内でおこった出来事を異なる三人が語ることで、現実が建築されるという感がある。時にずれ、時に合わさり、時に衝突する三人それぞれの観点によってである。本書において、現実を語ることの大変な困難さが示されている点も印象的だ。それぞれの語り手は書くために周囲の人びとの情報をできるだけ収集し、それでも足りない大部分は想像によって補う。それを正確に行うためには自分の時間や労力を、ひいては生活を犠牲にしなければならない。それでも、満足に行うことはほとんどできない。また、それによって周りをかぎまわるスパイのように見られることもある。
本書はとても読みづらい。名前のある登場人物がとても多いし、描写される出来事の大体は学校やその周辺で繰り広げられる人々の日常些事であり、一貫した物語性に欠けるからだ。それを和らげるのが、授業中に発される“地球はどこにあるかね”、“一日とはどういうことであるか言えるかね”、“一時間というのはどういうことか”などの問いの数々や“夏休み中の思い出で、最も印象深く残っている一日のことを物語れ。なぜその日が記憶に残るに最もふさわしく思えるのか、その理由を説明すること”という課題の文章の興味深さであり、時に主題とリンクするコロンブスやホメロスやラブレーやラシーヌなどによる著作からの引用の数々である。また、本作の主人公はピエール・エレールとピエール・ヴェルニエだと言えるが、それ以上に「物語そのもの」が主人公だと言えそうなところもおもしろい。最後に、本書のなかで特に重要だと思われる文章を下に載せる。
“私は、<マピオン>でコーヒーを飲んでいた、きみ、数年後のきみ、これらすべてのことを忘れ果てたころのきみに向けて書いているこのノートのことを考えながら、忘れ果てたとはいっても、これを読むことによって、それらのことはすべて、ほかのたくさんのことといっしょに、それを捉え、固定し、全体のなかに位置づけて観賞することを可能にするような一種の秩序のうちに、ある形式と構造に従って記憶によみがえってくるだろう、(中略)そして、いまはわけもわからず、運び去られるがままになって、きみがその渦巻く濁流のなかにでもいるようにしているあのおびただしい情報の流れ、(中略)われわれのあいだを、われわれの周囲をすべってゆく、あのおびただしい情報の量を、正しくつかみ直すことが、きみにはできるようになるだろう”(p.77より抜粋)
“その本がきみのために書かれたのだということ、そのために彼が死ぬのだということをきみは知らない、それでもきみは彼を許した”(p.390より抜粋)
ミシェル・ビュトール『段階』
作者のミシェル・ビュトール(1926-2016)はフランスの小説家・詩人・批評家・ブックアーティスト。２０世紀半ばのフランスでおこったヌーヴォー・ロマン(「新しい小説」という意味)という潮流の旗手と目される。ただし、ヌーヴォー・ロマンはジャーナリスティックな呼称であり、党派性に乏しいとされるため、作家や作品ごとに手法やテーマなどが全く異なる場合も多い。
本書は三部構成となっており、一部ごとに語り手が変わる。一部は地理と歴史の教師であるピエール・ヴェルニエ、二部はその甥でヴェルニエの勤める高等中学校に通う学生のピエール・エレール、そして三部はピエール・エレールの別の叔父であり、フランス語とラテン語とギリシア語の教師としてヴェルニエの同僚でもあるアンリ・ジューレによって語られる。舞台の中心は学校であり、登場人物は三十一人の生徒たち、彼らの各教科の担当教師たち、それら双方の家族や関係者たちだ。ほぼ同じ期間中の、ほぼ同じ生活圏内でおこった出来事を異なる三人が語ることで、現実が建築されるという感がある。時にずれ、時に合わさり、時に衝突する三人それぞれの観点によってである。本書において、現実を語ることの大変な困難さが示されている点も印象的だ。それぞれの語り手は書くために周囲の人びとの情報をできるだけ収集し、それでも足りない大部分は想像によって補う。それを正確に行うためには自分の時間や労力を、ひいては生活を犠牲にしなければならない。それでも、満足に行うことはほとんどできない。また、それによって周りをかぎまわるスパイのように見られることもある。
本書はとても読みづらい。名前のある登場人物がとても多いし、描写される出来事の大体は学校やその周辺で繰り広げられる人々の日常些事であり、一貫した物語性に欠けるからだ。それを和らげるのが、授業中に発される“地球はどこにあるかね”、“一日とはどういうことであるか言えるかね”、“一時間というのはどういうことか”などの問いの数々や“夏休み中の思い出で、最も印象深く残っている一日のことを物語れ。なぜその日が記憶に残るに最もふさわしく思えるのか、その理由を説明すること”という課題の文章の興味深さであり、時に主題とリンクするマルコ・ポーロやモンテーニュやホメロスやラブレーなどによる著作からの引用の数々である。また、本作の主人公はピエール・エレールとピエール・ヴェルニエだと言えるが、それ以上に「物語そのもの」が主人公だと言えそうなところもおもしろい。最後に、本書のなかで特に重要だと思われる文章を下に載せる。
“私は、<マピオン>でコーヒーを飲んでいた、きみ、数年後のきみ、これらすべてのことを忘れ果てたころのきみに向けて書いているこのノートのことを考えながら、忘れ果てたとはいっても、これを読むことによって、それらのことはすべて、ほかのたくさんのことといっしょに、それを捉え、固定し、全体のなかに位置づけて観賞することを可能にするような一種の秩序のうちに、ある形式と構造に従って記憶によみがえってくるだろう、(中略)そして、いまはわけもわからず、運び去られるがままになって、きみがその渦巻く濁流のなかにでもいるようにしているあのおびただしい情報の流れ、(中略)われわれのあいだを、われわれの周囲をすべってゆく、あのおびただしい情報の量を、正しくつかみ直すことが、きみにはできるようになるだろう”(p.77より抜粋)
“その本がきみのために書かれたのだということ、そのために彼が死ぬのだということをきみは知らない、それでもきみは彼を許した”(p.390より抜粋)
作者のミシェル・ビュトール(1926-2016)はフランスの小説家・詩人・批評家・ブックアーティスト。２０世紀半ばのフランスでおこったヌーヴォー・ロマン(「新しい小説」という意味)という潮流の旗手と目される。ただし、ヌーヴォー・ロマンはジャーナリスティックな呼称であり、党派性に乏しいとされるため、作家や作品ごとに手法やテーマなどが全く異なる場合も多い。
本書は三部構成となっており、一部ごとに語り手が変わる。一部は地理と歴史の教師であるピエール・ヴェルニエ、二部はその甥でヴェルニエの勤める高等中学校に通う学生のピエール・エレール、そして三部はピエール・エレールの別の叔父であり、フランス語とラテン語とギリシア語の教師としてヴェルニエの同僚でもあるアンリ・ジューレによって語られる。舞台の中心は学校であり、登場人物は三十一人の生徒たち、彼らの各教科の担当教師たち、それら双方の家族や関係者たちだ。ほぼ同じ期間中の、ほぼ同じ生活圏内でおこった出来事を異なる三人が語ることで、現実が建築されるという感がある。時にずれ、時に合わさり、時に衝突する三人それぞれの観点によってである。本書において、現実を語ることの大変な困難さが示されている点も印象的だ。それぞれの語り手は書くために周囲の人びとの情報をできるだけ収集し、それでも足りない大部分は想像によって補う。それを正確に行うためには自分の時間や労力を、ひいては生活を犠牲にしなければならない。それでも、満足に行うことはほとんどできない。また、それによって周りをかぎまわるスパイのように見られることもある。
本書はとても読みづらい。名前のある登場人物がとても多いし、描写される出来事の大体は学校やその周辺で繰り広げられる人々の日常些事であり、一貫した物語性に欠けるからだ。それを和らげるのが、授業中に発される“地球はどこにあるかね”、“一日とはどういうことであるか言えるかね”、“一時間というのはどういうことか”などの問いの数々や“夏休み中の思い出で、最も印象深く残っている一日のことを物語れ。なぜその日が記憶に残るに最もふさわしく思えるのか、その理由を説明すること”という課題の文章の興味深さであり、時に主題とリンクするマルコ・ポーロやモンテーニュやホメロスやラブレーなどによる著作からの引用の数々である。また、本作の主人公はピエール・エレールとピエール・ヴェルニエだと言えるが、それ以上に「物語そのもの」が主人公だと言えそうなところもおもしろい。最後に、本書のなかで特に重要だと思われる文章を下に載せる。
“私は、<マピオン>でコーヒーを飲んでいた、きみ、数年後のきみ、これらすべてのことを忘れ果てたころのきみに向けて書いているこのノートのことを考えながら、忘れ果てたとはいっても、これを読むことによって、それらのことはすべて、ほかのたくさんのことといっしょに、それを捉え、固定し、全体のなかに位置づけて観賞することを可能にするような一種の秩序のうちに、ある形式と構造に従って記憶によみがえってくるだろう、(中略)そして、いまはわけもわからず、運び去られるがままになって、きみがその渦巻く濁流のなかにでもいるようにしているあのおびただしい情報の流れ、(中略)われわれのあいだを、われわれの周囲をすべってゆく、あのおびただしい情報の量を、正しくつかみ直すことが、きみにはできるようになるだろう”(p.77より抜粋)
“その本がきみのために書かれたのだということ、そのために彼が死ぬのだということをきみは知らない、それでもきみは彼を許した”(p.390より抜粋)
ビュトール/シャルボニエ『ビュトールとの対話』
ミシェル・ビュトール(1926-2016)はフランスの小説家・詩人・批評家・ブックアーティスト。２０世紀半ばのフランスでおこったヌーヴォー・ロマン(「新しい小説」という意味)という潮流の旗手と目される。ただし、ヌーヴォー・ロマンはジャーナリスティックな呼称であり、党派性に乏しいとされるため、作家や作品ごとに手法やテーマなどが全く異なる場合も多い。
本書に載せられた対話は1967年1月〜2月にORTF(フランス国営放送)の教養番組として数回にわたって放送されたもの。そのため、文章が不自然に途切れる箇所や同じ意味の言葉を言い直す箇所もある。冒頭に記したとおり、ビュトールは単に「作家」と形容するだけではおさまらない、様々な仕事を手がけた。本書は主に作家としてのビュトールに焦点を当てている。特に、彼の著作である『ミラノ通り』、『時間割』、『段階』、『モビール』、『毎秒6,810,000リットルの水』への言及が多いが、『モビール』と『毎秒6,810,000リットルの水』に関しては和訳書が存在しない。なので、その二作を論じる本書の中盤〜後半にかけては、対話が抽象的に感じられる部分もある。
とは言え、この本はビュトールの好奇心の広さと深さ、文化や社会を捉える彼の明晰さや感受性の豊かさなどをうかがうことのできる良書だと言えるだろう。特に、本書を読みながら、作品をつくるビュトールの態度の真摯さ、その作品の優れた主題や手法を支える思考の強度の高さに驚かされた。ビュトールは言葉を“洗い清め”、“その豊かさと、発展の可能性を再発見”しようとする。本書を読む限り、彼は言葉をふくむ、さまざまな固定観念を洗い清めようとしていたのかもしれないと思う。ビュトールは以下のように言う。
“理想的なのは、言うまでもなく私たち一人一人が言葉の帝国の全体性を再発見し、言葉の帝国全体が私たち一人一人にとって眼に見えるものになることであり、さらに私たちの一人一人が、再び光に満ち完全な明るさを取りもどしたその帝国を散歩できるようになることです。言葉の帝国が光に満ちているということは、現実全体が光に満ちているということを含むのであって、さらに言えば歴史全体が光に満ちた明るいものになるということです。言い換えれば、私たちが、自分の望みをはっきりと知ることをも含むものです”(p.29より抜粋)
“新しいものの中には、何ものにも還元しえない未来への戸口があります。しかし、それは何か古いものとも繋がっているのです。新しさの中には全て、未来に向かって開かれた一面があり、同時に遡行する光があり、そこで姿を現す一種の根があるのです。私にとってはそれこそが真の新しさの徴(しるし)そのものだと言えます”(p.258-259より抜粋)
以上の言葉は、ビュトールが単なる前衛作家ではないことを示しているのではないだろうか。彼の試みには普遍性があるのだ。にもかかわらず、和訳された彼の著作の大部分は絶版になっている。厳密には彼の著作とは言えないが、本書もその例外ではない。新しい古典として読まれてもいいような著作が多いので、復刊されてほしい。さらに、ビュトールの作品の多くは未訳である。それらが翻訳されてほしいとも思う。
ミシェル・ビュトール(1926-2016)はフランスの小説家・詩人・批評家・ブックアーティスト。２０世紀半ばのフランスでおこったヌーヴォー・ロマン(「新しい小説」という意味)という潮流の旗手と目される。ただし、ヌーヴォー・ロマンはジャーナリスティックな呼称であり、党派性に乏しいとされるため、作家や作品ごとに手法やテーマなどが全く異なる場合も多い。
本書に載せられた対話は1967年1月〜2月にORTF(フランス国営放送)の教養番組として数回にわたって放送されたもの。そのため、文章が不自然に途切れる箇所や同じ意味の言葉を言い直す箇所もある。冒頭に記したとおり、ビュトールは単に「作家」と形容するだけではおさまらない、様々な仕事を手がけた。本書は主に作家としてのビュトールに焦点を当てている。特に、彼の著作である『ミラノ通り』、『時間割』、『段階』、『モビール』、『毎秒6,810,000リットルの水』への言及が多いが、『モビール』と『毎秒6,810,000リットルの水』に関しては和訳書が存在しない。なので、その二作を論じる本書の中盤〜後半にかけては、対話が抽象的に感じられる部分もある。
とは言え、この本はビュトールの好奇心の広さと深さ、文化や社会を捉える彼の明晰さや感受性の豊かさなどをうかがうことのできる良書だと言えるだろう。特に、本書を読みながら、作品をつくるビュトールの態度の真摯さ、その作品の優れた主題や手法を支える思考の強度の高さに驚かされた。ビュトールは言葉を“洗い清め”、“その豊かさと、発展の可能性を再発見”しようとする。本書を読む限り、彼は言葉をふくむ、さまざまな固定観念を洗い清めようとしていたのかもしれないと思う。ビュトールは以下のように言う。
“理想的なのは、言うまでもなく私たち一人一人が言葉の帝国の全体性を再発見し、言葉の帝国全体が私たち一人一人にとって眼に見えるものになることであり、さらに私たちの一人一人が、再び光に満ち完全な明るさを取りもどしたその帝国を散歩できるようになることです。言葉の帝国が光に満ちているということは、現実全体が光に満ちているということを含むのであって、さらに言えば歴史全体が光に満ちた明るいものになるということです。言い換えれば、私たちが、自分の望みをはっきりと知ることをも含むものです”(p.29より抜粋)
“新しいものの中には、何ものにも還元しえない未来への戸口があります。しかし、それは何か古いものとも繋がっているのです。新しさの中には全て、未来に向かって開かれた一面があり、同時に遡行する光があり、そこで姿を現す一種の根があるのです。私にとってはそれこそが真の新しさの徴(しるし)そのものだと言えます”(p.258-259より抜粋)
以上の言葉は、ビュトールが単なる前衛作家ではないことを示しているのではないだろうか。彼の試みには普遍性があるのだ。にもかかわらず、和訳された彼の著作の大部分は絶版になっている。厳密には彼の著作とは言えないが、本書もその例外ではない。新しい古典として読まれてもいいような著作が多いので、復刊されてほしい。さらに、ビュトールの作品の多くは未訳である。それらが翻訳されてほしいとも思う。
『美人画の輝き 上村松園画集』
この本は日本画家・上村松園(1875-1949)の画集。箱入り、二冊組の豪華な大判本だ。収録作は二冊合わせて２２０と多く、なめらかさと明瞭さの兼ね備わった、発色のいい印刷が優れている。彼女の展覧会図録を何冊か見たが、この画集の印刷の良さは他を大きく引き離していた。それらの図録を見たり、展覧会で作品を実際に観たりして感じたことは、実物を観なければ松園の絵の魅力は伝わりにくいということだった。だが、この画集からはその魅力をかなり強く感じられる。しばしば拡大図が収録されていたり、稀にページが折り畳まれていて大きく展開できる図版があったりするのもうれしい。
松園の作品には、女性の髪型や服飾品やその柄などが実に多様に描かれている。彼女の絵を観ると、それらが想像以上に豊かな世界をもちうることを感じさせられる。特に、さまざまな植物、鳥や蝶や雲や水の波紋、蜘蛛の巣や海藻や珊瑚などをふくむ多様な着物の柄からは、小宇宙を感じられると言っても過言ではないと思う。松園はしばしば着物を重ねて描くので、それらの柄が調和してより複雑に、より美しく見える。
記事の充実ぶりも本書の特徴だ。各作品に簡潔な解説が付けられ、そのなかに松園自身が記した文章が引用されることもしばしばある。先述した、松園が描いた髪型のバリエーションについての記事があったり、彼女の孫の上村淳之による「祖母松園の思い出」という記事があったりと、飽きさせない。
注意するべきは、この本ではテーマごとに作品が収録されていることだろう。年代順ではないので不便を感じることもあるが、似た題材が制作時期によってどのように描かれるかが比較しやすいという長所もある。
ちなみに、この本は通信販売されたときに、別冊「美人画の誕生」をつけていた。56ページ/オールカラーの小冊子で、松園作品の下絵や彼女自身の手による日本画の模写や写生が収録されている。本書を中古で購入される際には、その冊子が付属するかを確認されるといいかもしれない。
この本は日本画家・上村松園(1875-1949)の画集。箱入り、二冊組の豪華な大判本だ。収録作は二冊合わせて２２０と多く、なめらかさと明瞭さの兼ね備わった、発色のいい印刷が優れている。彼女の展覧会図録を何冊か見たが、この画集の印刷の良さは他を大きく引き離していた。それらの図録を見たり、展覧会で作品を実際に観たりして感じたことは、実物を観なければ松園の絵の魅力は伝わりにくいということだった。だが、この画集からはその魅力をかなり強く感じられる。しばしば拡大図が収録されていたり、稀にページが折り畳まれていて大きく展開できる図版があったりするのもうれしい。
松園の作品には、女性の髪型や服飾品やその柄などが実に多様に描かれている。彼女の絵を観ると、それらが想像以上に豊かな世界をもちうることを感じさせられる。特に、さまざまな植物、鳥や蝶や雲や水の波紋、蜘蛛の巣や海藻や珊瑚などをふくむ多様な着物の柄からは、小宇宙を感じられると言っても過言ではないと思う。松園はしばしば着物を重ねて描くので、それらの柄が調和してより複雑に、より美しく見える。
記事の充実ぶりも本書の特徴だ。各作品に簡潔な解説が付けられ、そのなかに松園自身が記した文章が引用されることもしばしばある。先述した、松園が描いた髪型のバリエーションについての記事があったり、彼女の孫の上村淳之による「祖母松園の思い出」という記事があったりと、飽きさせない。
注意するべきは、この本ではテーマごとに作品が収録されていることだろう。年代順ではないので不便を感じることもあるが、似た題材が制作時期によってどのように描かれるかが比較しやすいという長所もある。
ちなみに、この本は通信販売されたときに、別冊「美人画の誕生」をつけていた。56ページ/オールカラーの小冊子で、松園作品の下絵や彼女自身の手による日本画の模写や写生が収録されている。本書を中古で購入される際には、その冊子が付属するかを確認されるといいかもしれない。
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