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東アジア歴史文化研究会コミュの『日本人が知ってはならない歴史』?

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『日本人が知ってはならない歴史』?

16.ハル・ノートはコミンテルン製

 ハルノートとして知られる「覚書」について書いておきましょう。ハリー・D・ホワイト財務副長官の書いた「一般案」(原則論だから強硬です)と、コーデル・ハル国務長官の記したもの(暫定案だから妥協的です・・・例えば南部仏印の兵力は二万五千人以内とかいうように日本の乙案に対応したものでした)と二つの「ハル・ノート」が存在していたことが、この書(ロバート・B・スティネット著『真珠湾の真実』)でも確認できました。他の書は多くがこの点で混乱しています。ハル長官の記したものは日本に通告されていません。通告されたのはホワイト作成のものです。
 ハル作成のものは極めて融和的なものであり、提示された中国・イギリス・オランダは一様に反発しました。それを確認したルーズベルトは、強硬な内容で日本が到底のめない「ハル・ノート」を日本にだけ通告し たのです。英蘭支が知らない「ハル・ノート」に日本は絶望しました。牛場秘書官がバレていると忠告した暗号で東京のアメリカ大使館に伝えられ、解読した日本政府は絶望したのです。11月26日にハル・ノートは野村大使に手交されましたが、東京の日本外務省は事前に解読して知っていたのです。日本は暗号を解読して親米英派は絶望し、沈黙しました。
 だから機動部隊は一日前の25日に、ヒトカップ湾を出撃していたのです。ハリー・D・ホワイト財務副長官はコミンテルンの要員だったことが確定していますが、日本には哀し過ぎる事実です。コミンテルン製のハル・ノートで日本は開戦を決意したのです(戦後に彼は「自殺」します)。・・・・
 ルーズベルトは何を考えていたのでしょうか。1941(昭和十六)年に入ると彼は外交的解決を考えなくなっていました。外交的解決ではなく経済制裁を強め「最悪の事態」「日本の明白な戦争行為」を促進させることに集中するようになっていました。特に、八月のチャーチルとの洋上会談で「バック・ドアー・ ツー・ウォー」(裏口からの参戦)を密約して以来は、マッカラムの「八項目」のエスカレーションの実行に移っていたのです。七月になると日本船舶のパナマ運河通過を禁止し、八月には石油。金属等の全面禁輸に踏み切ります。
 ルーズベルトの最大の「敵」は共和党です。三選目の時にルーズベルトの絶対の公約は「不戦」でした。「あなたたちの息子や夫を戦場に送らないことを誓う。重ねて、重ねて、重ねて誓う」と彼は誓って当選していたのです。日本に政治家がいたなら、日本の窮状をアメリカ国民に、「石油の全面禁輸など宣戦布告だ」と訴えるべきでした。現に、ケロッグ元国務長官はブリアン仏外相との協定(不戦条約)締結にあたり、全く同じことを宣言しているのです。・・・・そして日本はハル・ノートを公表して、アメリカ国民に訴えるべきでした。アメリカ国民はどのように反応したのでしょうか。
 12月2日、首脳会談の道を断たれた時に、これは戦争への謀略だと考えた日本の政治家はいなかった模様です。「ハル・ノート」に接した時に二つのハル・ノートの存在は知らなくても、これは謀略ではと疑うか判断する政治家を、日本は欠いていました。やに涙あれ、です。・・・
 チャーチルも蒋介石も知らないハル・ノートが、日本には手交されていたのです。チャーチルや蒋介石が見たのは、ハル国務長官の書いたハル・ノートなのです。これの甘さに彼らは怒り、ルーズベルトはこれを撤回し別のホワイト筆の原則論のみの「強硬な」ハル・ノートを日本のみが見たという奸智の前の日本が哀しい。しかもバレている暗号で東京のアメリカ大使館に打電しているのです。奸謀の巧技に息を呑みます。・・・
 東条英機首相兼陸軍大臣は、真珠湾攻撃を翌朝のニュースで知ったのです。(直前に告げられたという説もありますが、どちらにしても同じです)。ミッドウェーの敗戦については、東条英機は敗北の半年後に知ったのです。首相東条英機は統帥権の独立により統帥から疎外され、陸軍大臣東条英機は国務大臣のゆえに同じく作戦から疎外され、陸軍大臣東条英機は真珠湾攻撃をニュースで知るのです。
 ルーズベルトの部下は、日本機動部隊の通路の北太平洋を「真空海域」と指定しました。日本艦隊がヒトカップ湾を出航した11月25日(ワシントン時間)の約一時間後に、この指定を行っています(同書)。つまり日本艦隊は発見されないようにアメリカから手厚く保護されながら、奇襲への航海を続けたのです。
 日本艦隊は、厳重な無電封鎖をしていたというのは嘘です。同書の第十二章は「無線封止神話の崩壊」であり、日本艦隊の交信が実に克明に記されています。日本艦隊はガラガラ蛇のように、「沈黙」の「艦隊行動」を続けていたわけです。ハワイのアメリカ軍は、実は情報操作のもとにおかれていました。ハワイにアメリカ海軍の基地をおくことに反対したアメリカ艦隊司令官リチャードソン大将はクビになり、ルーズベルト腹心のウォルター・アンダーソン大佐が少将に抜擢されて「戦艦部隊」の司令官となりました。これは何のためでしょうか。そして太平洋艦隊の司令官にはキンメル大将が任命され、日本軍の攻撃により全滅に近い被害を被った責任を問われて、キンメル大将は降格の上解任されたのです。1999年にはキンメル大将と陸軍司令官のショーター中将の遺族が名誉回復の宣告を受けているので、その審議の記録を読みたいものの、公開されていないため望みは果せないでいます。同書の第七章は「奇襲受け入れ準備完了」。193ページ以下を精読するべきです。

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