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東アジア歴史文化研究会コミュの安重根と伊藤博文

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中野泰雄先生(亜細亜大学名誉教授)

二回目は、第4回東アジア歴史文化研究会(1998年6月11日)講師の中野泰雄先生(亜細亜大学名誉教授)です。

この時のテーマは『安重根と伊藤博文−日韓関係の原像を探る』でした。日本人にとって安重根は伊藤博文を暗殺(1909年10月26日)したテロリストでしかありませんが、韓国では国民的英雄、義士として称えられています。ソウル南山の麓に安重根記念館があります。

当時、私はその安重根にたいへん興味がありました。安重根はなぜ伊藤博文を暗殺しなければならなかったのか。そして、安重根とは如何なる人物なのか。ところで、安を実際に会ったことのある人は口々に安重根の立派な人格を褒めているのである。

中野泰雄先生もその一人でした。著書『安重根と伊藤博文』に詳しく描かれているので省略しますが、処刑直前まで東洋平和論の執筆をしています。処刑寸前に看守千葉十七に絶筆となる書をしたため、潔く処刑台に消えていった。その生き様は一番近くにいた看守千葉十七がもっともよく知っていました。その千葉十七が晩年安重根を回想しています。人生の中でもっとも尊敬すべき人物は「安重根」であったと。

その時代はまさに、1905年保護条約によって日本は韓国を保護国として統治し、その朝鮮統監としての立場に立っていたのが伊藤博文であった。朝鮮の主権を取り戻すために立ち上がったのが安重根等のような人々(韓国では義兵と呼ばれている)でした。

安重根は伊藤博文にまったく恨み、私怨はなかった。むしろ申し訳ないとさえ思っていた。しかし、東洋平和のためにどうしても行動をおこさなければならないと思ったのであろう。安重根は単なる朝鮮だけの視野から考えではなく、もっと大きな視点から東洋平和論を考えていたのである。

中野泰雄先生は、戦中東條英機(当時首相)と真っ向から対立し、最後に自刃した中野正剛(朝日新聞記者、政治家、福岡出身、玄洋社の頭山満の影響を受ける)の四男です。そして明治、大正、昭和と活躍した三宅雪嶺の孫でもあります。やはり親の影響か東條英機に対してはたいへんなアレルギーをもっておられました。

当時、安重根といってもあまり日本では関心をもつ人が少なかったので、残念ながら参加者は多くありませんでした。それでも中野先生は火の出るような講演をされました。たいへん思い出深い研究会でした。

著書「安重根と伊藤博文」参照

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