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日田の歴史って面白くて凄い!コミュの石井の地名で日本古代史の謎が解けてくる

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石井の地名で日本古代史の謎が解けてくる
〜石井神社の”りきさん”とは猿田彦?〜
『豊西記』に「石井源太夫高明公」、当郡に下向き、来来里の着御あり。これによって村名としその後大原に館し昿田を開きという。また『豊後国志』には「鳥羽の宿禰」が日田国造となり刃連に住まい常に庶民に会す。以て耕の事を教え常に同居し、名づけて会所宮というのは是なり。日田で初めて水田が開かれたことから“田始播”=田島と呼ばれるようになったと記されている。「石井源太夫高明公」と「鳥羽の宿禰」は同一人物の可能性があるという説もある。
 鳥羽の宿禰は、13代成務天皇の頃に国造として中央から派遣されている。『豊後国風土記』に登場する日田の古代の女王「久津媛」の頃に12代景行天皇が日田に凱旋している記述がみられ、成務天皇は、景行天皇の子どもである。
 『日本書紀』の景行天皇の九州遠征では大分−日向(宮崎)−熊本−八女−浮羽−日向に行き、ヤマトへと帰っているのだが、『豊後国風土記』では日田に凱旋している。『日本書紀』と『豊後国風土記』の記述の違いがみられるのだが、日田は古代から「日高」「日向」という記述も残っているのも事実であるから、景行天皇の最終目的地は「日田」だったという可能性も秘めている。
 実は、石井神社の祭神の鳥羽の宿禰は、今の田島と刃連の間にある水道タンクの会所山の中腹に鳥羽塚として残されている。ちなみに山頂には「久津媛神社」も存在している。
 石井は古代の郷駅が置かれた土地で、この石井神社も日田では大原八幡宮に次ぐ由緒のある神社である。鳥羽の宿禰は三芳の会所宮に庁を設けたと伝えられるが、後に日田郡司大蔵永弘が宿称をこの石井神社に祀ったというから石井神社の元は会所山だという事になる。
 会所山には神功皇后伝承と久津媛伝承が残り、多くの著書で、久津媛は神功皇后の可能性が高いとされている。また神功皇后が九州各地から会所山に軍勢を集め軍略し三韓征伐に向かったという伝承も残る。
 これを証明するのが、景行天皇の動きであり、日本最古の豪族居館跡の「小迫辻原遺跡」で、この遺跡は、東海、北陸、畿内、山陰などの土器が持ち込まれ、ヤマト勢力の出城だと考古学では言われているのだが、要するに、豊臣と徳川が九州を統治すのに、日田に楔を打ち込み、九州を統治した歴史と同じだというのがわかる。
 私見、鳥羽の宿禰の末裔が石井源太夫高明公であり石井は磐井(磐井の乱)の事で、『日本書紀』は石井と記述している。『日本書紀』では磐井はヤマトの軍勢から逃げる為に豊の国に逃げ込んだと記述されている。磐井の時代に「ガランドヤ古墳」と「穴観音古墳」は造られ、日田出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の文様が筑後川の装飾古墳に描かれているのも偶然なのだろうか。また「原の長者伝説」の日下部は筑後川下流域に広がっていったとされ、日田の古代豪族「日下部氏」との接点もみえてくる。
 筑紫の君磐井は九州の権力者であり、石井と磐井がつながってくれば、日田という地の利と軍事的な意味がわかってくる。古代の都は、大河の上流部の盆地的な場所に置かれる事が多いのもお分かりだろう。
 詳細は避けるが、天孫降臨に登場する「猿田彦」は鳥羽(鷹)の海で溺れ、宇佐神宮伝説の「鷹伝承」と折り重なり、日田古代の地名「ひだか」とは「日鷹」であり。猿田彦=武内宿禰=鷹だと思われる。その証拠に高木彬光氏、関裕二氏などの有名な著書で日田と天孫降臨の関係が紹介されているのも事実である。

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