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日田の歴史って面白くて凄い!コミュの4世紀日田のヤマト化

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最古の居館・小迫辻原遺跡

小迫辻原台地周辺に台地が点在すると同様に・それら台地上には古代の遺跡が多数点在する。小迫辻原遺跡の東方の隣接する丘陵上には弥生時代後期から古墳時代中ころまでの方形周溝墓・土壙墓・甕棺墓など二百基を越す墳丘が確認された草場第二遺跡が位置し・小迫原遺跡の集落との関係が注目されている。宮原台地には朝日宮の原遺跡・吹上台地には吹上遺跡が存在し・いずれも弥生時代前期から古墳時代前期までの集落遺跡である。また近年山田原台地の後迫遺跡では弥生時代後期の大規模集落の調査が行われている。このほか宮原台地上には古墳時代後期(六世紀代)の市内最大規模の天満前方後円墳二基が立地し、宮原(天神原)・吹上・山田原の各台地の断崖には多数の横穴墓が群集する。このように各台地とも弥生時代から古墳時代の間は集落や墓地として利用され・そこには市内でも重要かつ大規模な遺跡が集中している。

小迫辻原遺跡

集落の変遷
 1期
 この時期は一号環濠が出現しその廃絶までの期間で・概ね庄内式古段階並行期に当たる。そもそもこの台地上に集落が営まれるのは弥生時代前期後半以降で・その中心は台地の西側から南側縁辺部にかけての範囲に限定され台地全体へと広がることはない。このようなことは台地上に水源がなく・水の確保を台地下の湧水地や小河川に求めたことがその立地場所を限定させた大きな要因と考えられ・少なくとも一号環濠の立地の選定にも大きく左右していると思われる。この時期は一号環濠の内と外に同時期の竪穴住居が存在することから・環濠を中心とした集落内部に社会的・政治的な差が生じていることがうかがえる。

 2期
 この時期は環濠が一号から二号へと移りその廃絶するまでの期間で・庄内式新段階併行期に当たる。二号環濠の移動にともなう場所の選定は一号に接近して二号が存在していることからして一号環濠同様やはり水質源の確保によるところが大きいと考えられる。さらに二号環濠においても内部には少なくとも数基の竪穴住居が存在し・その外側にも竪穴住居が散在するなど基本的な集落の様相は?期と同じである。ただ注意したいのが二号環濠の濠の東側中央部で・当初は直線に掘りあがった壕を使用することなく埋め戻すと同時に張り出し部を新設した点で・一号から二号への環濠の移動には急を要する濠の設計変更が必要であったことが分かる。

3期 
 この時期は布留式最古段階に当たり・環濠が三号へと再び移動すると同時に台地を南北に縦断する一号条溝の掘削と一号居館の建設など・集落の変遷過程の中にあってもっとも大きな画期に当たる。まず三号環濠の立地場所についてはこれまでの一・二号と同じ条件が影響しているようで・一・三号環濠の重複状況から一号環濠を基本とした掘削がなされている。しかし三号環濠配置・二号と比較したとき・張り出し部がなくなりその形態は方形へと変化し・規模も大きくなるなど環濠の構造に違いを見いだすことができる。特に形態の方形かはそれまで不整形であった一・二号の発展後の完成した姿とも観ることができそうである。また一号条溝の掘削はそれまでの環濠の内と外という集落の構造に対して・さらに条溝の西と東という新たな集落内の区画割りが加わったことになる。それは環濠の内側・環濠の外側である一号条溝の西側・さらには一号居館を含む一号条溝の東側という・より重層化した集落構造への変換である。

4期
 次のこの時期は布留式古段階並行期に当たり・三号環濠は存続するが居館が一号から二号へと移り代わり・集落が廃絶するまでの期間である。この二号居館への移動は土器からでは想定しがたい。しかし両居館の壕が共有することなく近接し・類似する構造面などから同じ性格の施設である可能性が高いことから・同時存在したとするよりは時間的な差として捉える方を選択したい。また三号居館についても時期の特定は難しいが・二・三号には構造面で注目される共通性がみられる。それは一号にはみられない・外壕の南側壕内での焦土と炭化材の検出である。この共通点はその出土状況からして居館の廃棄行為とみられ・三号の造営時期については判断できないが・廃絶時期は二号と同時と考えられる。この廃棄行為をもって集落は終結する。

次ぎに遺物の大半を占める土器は畿内や山陰を中心とした外来系模倣土器や在地土器・両者の折衷様式の土器がみられ・その量は在地土器に比べ外来系要素の強い土器を主体とする特色がみられる。これらの土器の中には遺跡で焼かれた土器もあるが・明らかに胎土や焼成状況が異なり他地域から搬入された土器も見受けられる。市内にあってはこうした外来系の土器群を主体とし・他地域から搬入された土器の量が目立つような遺跡は例はなく・土器の様相からだけでもこの集落の特異性がうかがえる。

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 小迫辻原遺跡は、卑弥呼〜台与の時代に発展した遺跡であり、注目すべき遺跡である。

 この時代の布留式土器(ヤマト・出雲)の土器が小迫辻原に出土するのも、日田の全域がヤマト化でなく、小迫辻を中心とした山田台地のヤマト化が想像できるのかもしれない。小迫辻は日田でも孤立した民族の場所だったのである。

 終焉をむかえる小迫辻は焦土と炭化材が発見される。ヤマト化した小迫辻を廃棄する理由も、九州勢力によるヤマト征伐か、ヤマトによるヤマトの征伐とが考えられる。関裕二氏は日田のヤマト「神功皇后」と「武内宿禰」が身内のヤマトかから反逆されたとの仮説をとなえている。

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