ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日田の歴史って面白くて凄い!コミュの金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の謎解き

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の謎(以下、邪馬台国の会ホームページ)

「八咫の鏡」は、天照大御神が天の岩屋に隠れた時に作られた鏡で、神武天皇の東遷の際に大和に移動して、代々の天皇の宮殿に祀られていた。

第10代崇神天皇のときに「八咫の鏡」のレプリカを作り、これを宮中に残して本物を宮殿の外に出し、大和の笠縫邑で祀った。さらにその後、近江、美濃を巡り、最後に伊勢の皇太神宮で祀られるようになった。

「八咫の鏡」はどのような鏡なのか。これについては次のような説がある。


内行花文鏡とみる説
原田大六氏の『実在した神話』や、森浩一氏の『日本の神話の考古学』では、「八咫の鏡」は内行花文鏡であるとされる。

三角縁神獣鏡とみる説
出口宗和が『三種の神器の謎』のなかで主張している。

鉄鏡とみる説
飯田武郷は『日本書紀通釈』で、「八咫の鏡」は鉄鏡であると説く。

八陵鏡や八花鏡とみる説
本居宣長が『古事記伝』のなかで、「八咫の鏡」は円形ではないことを説いている。

柄鏡とみる説
伴信友が『宝鏡秘考』の中で述べたが、柄鏡は中国の宋代から、日本では室町時代から使われたもので、鏡の入れ物の寸法や形状から考えて、まずありえない。

鉄鏡
『古事記』は「八咫の鏡」を製作した時の状況を次のように述べ、「八咫の鏡」が鉄鏡であったと記している。
八百万の神は、天の安の河の河上の天の堅岩を取り、天の金山の鉄を取って、鍛人の天津麻羅(あまつまら)をたずね求め、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命に命じて、鏡を作らせた。

『古事記』で「天の金山の鉄」とあるものが、文献の編纂される時代とともに下記のように変化している。
「天の金山(かなやま)の鉄(くろがね)」 (711年成立『古事記』)
「天の香山(かぐやま)の金(かね)」 (720年成立『日本書紀』一書)
「天の香山(かぐやま)の銅(あかがね)」 (807年成立『古語拾遺』)
「天の金山(かなやま)の銅(あかがね)」 (830年頃成立かとみられる『先代旧事本紀』)
「天の香山(かぐやま)の銅(あかがね)」 (830年頃成立かとみられる『先代旧事本紀』)

しかし、『古事記』の表記が妥当ではないかと思われる次のような根拠も挙げることができる。
銅の中に含まれる鉛同位体比の研究によれば、弥生時代から古墳時代にかけての銅は、原材料が全て中国産と見られること。

卑弥呼が交渉を持った魏では、鉄鏡が作られていた。

魏代に近いころ作られたとおもわれる鉄鏡が、岐阜県高山市国府の名張一之宮神社古墳や大分県日田市のダンワラ古墳から出土している。

以上参照

江戸時代には飯田武郷や平田篤胤が八咫の鏡(三種の神器)が鉄鏡であるという説があった事は知られていないのだが、『古事記』の 記述などからも鉄鏡説が想像されるのではないでしょうか。

 実は、このホームページの内容もも季刊「邪馬台国」(安本先生主幹)の本で紹介されていたもので、安本美典先生が日田での講演会後に掲載されている事からも、日田での講演はある意味日田の重要性に気づいた証拠だろう。
 また安本先生は低温でも鉄鏡を作ることは可能であるとおっしゃっており、古代、国内で鉄鏡のレプリカにトライした可能性もある。
 八咫の鏡は大きいと思われがちだが、木箱で何重も保護されているという説もありそうなると日田の鉄鏡の21cmでも充分可能性が強まる。日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を研いだ白木原教授も日田での講演で「この鏡は重大な事が隠されているのでお話出来ない」という言いようだ。天照大神の岩戸開きに使われた八咫の鏡は、金銀で輝く「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」である可能性が充分あると思われる。

なんて言っても。明治天皇まで伯家神道が八百年以上にわたって皇室祭祀と天皇の行法を伝承してきた。そしてそのメンバーだった平田篤胤が鉄鏡説をとなえたのも・・・想像してみれば・・・知っていたからこそ・・・ではなかったか。


コメント(1)

地震だぁ。
震源地は日田ですね。

投稿直後に地震。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日田の歴史って面白くて凄い! 更新情報

日田の歴史って面白くて凄い!のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。