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仏教を楽しむ会(^^)コミュの般若心経を語ってみよう

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・読むだけでもスゴイ
『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』とは『大品般若経』全600巻のエッセンスをわずか262文字(だったか?)にまとめているらしい…。

・秘められたパワーとは
お経でありながら最後に呪文らしきものがあり、なにか言霊的なパワーがあるらしい…。

・「色即是空」に込められた謎!
色とは物質で空とは真空の場におけるエネルギーとすると、一般相対性理論のE=mc^2を表現していることにならないだろうか…。

日本一有名なお経でありながら、般若心経とは何なのかさらっと説明できる人は少ないと思う。ウチは浄土真宗だが、なぜか般若心経がメインの檀家もいるし、「浄土真宗では使いません」の一言で終わらせるのは恥ずかしい気がします。2〜3ほどワシの拙い知識を書かせていただきましたが、間違いの指摘も含めて皆様の素敵なうんちくや高尚な知識、あるいは「もっと楽しい読み方があるぞ」等々をご披露くださいませ。

コメント(70)

『般若心經祕鍵』では、般若心経が仏説であることを証明するのに鳩摩羅什さんの旧訳(大本)の紹介をしています。この旧訳では觀世音菩薩と記載されているのですから、異訳として引用した以上、新訳の觀自在菩薩が同じ対象の記載として扱われないと矛盾しませんか?

真言宗ですから呪が中心になるのは当然ですが、観自在菩薩を般若菩薩として維摩居士のような扱いをする理由は何でしょうか?
すえぞーさん



一般的解釈において般若心経の観自在菩薩は、
顕教の般若智を行じている菩薩ですが。

空海さんの解釈では、
般若心経は顕教的な意味を超え、すべての真理を含んでいることになっていますので、
観自在の行は一元的な意味ではなく
各宗派の行を総合したものを行じている事になります。

なので観自在は諸宗派の行人・行果の総合的人格であると表現するために
「観自在はいうならば諸宗の行人である」
と言っているだけで、
空海さんの解釈でも
やはり観自在は観音菩薩の事を言っているのだと思います。


私個人は
その辺のことはあまり詳しくないので、
おそらくは・・・ってことです。
>こふじさん

なるほど、そうゆうことなら理解できます。
ウチらの方でも経典の登場人物すべてが仏の化身だ、な〜んて言い方してますもん。


>あなんさん

玄奘訳に「一切」が付いた理由として、可能性の高い推察(個人的)に過ぎません。他の可能性としては「一切」付きの玄奘訳が、はじめっから出回ってたのかも。
それでも真言宗が呪を重要視して構築されたとするならば、日本での般若心経の普及に相当な影響力を持っていたはず。『般若心經祕鍵』では「一切」についても(ちょっぴり)解説されていますので、空海様の手元には「一切」無しの玄奘訳があり、その上で他の異訳と校合した結果、玄奘訳にも「一切」をわざわざ付加したと考えたほうが合理的かと…。

お経を書き写す時に間違えたっ!とかですとロマンがなさすぎです。(笑)
>きんぜん和尚さん

観音さんのルーツのご講義ありがとうございます。
観音さんとは大ざっぱにいうと、大乗菩薩道を歩むものの理想化された象徴で、それを擬人化した菩薩であるという理解でよろしいでしょうか?
(せっかく詳細に調べてくださった労力を踏みにじるようでごめんなさい)
それにくらべて今の日本にある観音さんのお姿見てると、ものすごく進化してますなあ。悲母観音とか馬頭観音とか魚籃観音とか。一応仏教の菩薩さんですけど、「観音教」って分類でくくったほうがいいくらい。(笑)

で、般若心経ではそこら辺の観音さんではなく、もっと起源的な観音さんと読むのですな。

> ポイント1: 『般若経』本体に観音さんの記述があるかどうか?あるとしたら梵文はどうなっているか?

うはっ。本体読むのイヤだから般若心経読んでるワシって…。


--
呪(咒)について

> 「よっしゃ、がんば〜」なんて掛け声かけながら走る方が、なぜか速く走れるし、隊列が乱れない。

すいません。真言宗のこと誤解してました。もうちょっと超常的なの期待してたんで…。(汗)
ちなみに浄土真宗でも呪術的な註釈書を使ってますよ。曇鸞大師の著述で、結構おまじない的なたとえ話がおもしろいです。

「呪」の読み方ですが、ちょっと前の陰陽師ブームのおかげで「しゅ」って読んでますよ。

梵字フォントってインストしたらIEとかのブラウザで使えるのかな?
ちなみにローマ字入力で「般若心経」打つと、「はんやしんぎょう」になって困ってるのはワシだけでしょうか。(泣)
> ポイント1: 『般若経』本体に観音さんの記述があるかどうか?あるとしたら梵文はどうなっているか?

とても読めませんのでズルして調べました。
『大般若經』全600巻に「觀自在菩薩」は5箇所出てきます。いずれも説法の立会い者として、他の菩薩さんたちと連名で記載されていますので、『般若心経』に「觀自在菩薩」が出てくるのは不思議ですね。
もしかしたら『大般若經』と『般若心経』は別系統で、般若経の研究者グループが自分たちを「観自在菩薩(般若菩薩)」として、作成したのかもしれませんね。

※研究者グループの作成と仏説云々はおいといての話ですよ。イメージ的には職能集団龍樹菩薩みたいな感じです。
>きんぜん和尚さん

たくさん調べて下さったんですね。とりあえず般若菩薩が何なのかわかりました。

>私も含めてレスをくださってる皆さんへ

実は私も反省してるんですけど、話の流れが高度(専門的)すぎて、仏教ビギナーな方には読みづらくなっていると思います。
皆さんの碩学ぶりに、厚かましいのを承知でお願いしますが、もう少し簡単にまとめて頂けませんか。
このコミュの主旨は「仏教を楽しむ」ことです。できるだけ大勢の人が理解できるように、もう少し平易に書いて下さった方が、より仏教そのものへの貢献となると思います。
すみません。ちょっと入っていくのが恥ずかしいのですが、私は心を病んでいる人に、仏教を楽しもうと声をかけています。
わけが分からなくても、念仏を唱えているだけで心が安らぎます。
それで、本当に恥ずかしい話なんですが、仏さんの教えを誰にでも分かるように、しかも楽しめるように書かれた本などありましたら、お教え願えませんでしょうか。
高尚な場に、素人が飛び込んできて、申し訳ないのですが。

分からないながらにも、全文を読ませてもらいました。
ご賛同いただけたので、もういちどまとめてみます。
おかしい所、お気づきの所があれば指摘してください。


★☆★『般若心経』のまとめ★☆★

・『大品般若経』全600巻を読んだのと同じ効果(功徳)がある。

・菩薩の説法なのでタイトルに「仏説」とつかない。(真言宗ではつけます)

・普通見かけるのは、西遊記で有名な玄奘三蔵の翻訳。ほかにもいくつか異訳があり、鳩摩羅什訳では観世音菩薩(観自在菩薩と同じ)が説法する“いきさつ”がお経の前文にある。

釈尊「観音さん、あんた今の瞑想はわしのレベルと一緒やったで」
   「ちょっとエエとこを舎利弗さんにおしえたり」
観音「ほんじゃ、説法して見ますね」
   「私が感得した真理の境地ですけど…」

・真言宗ではタイトルに「仏説」をつける。真言宗の教義では、観自在菩薩は釈尊の化身(般若菩薩)として説法しているとみなすので『仏説般若心経』となる。ちなみに『大品般若経』での観自在菩薩は、釈尊の説法の聴衆でしかない。

・『般若心経』の最後の部分は漢訳されずに、サンスクリットの発音がそのまま漢字に置き換えられてある。これは呪文(真言)として使用すべき部分であることが理由である。

---------------------------
これでよろしければ、次は意訳に進みましょうか?
すえぞーさん


>・『般若心経』の最後の部分は漢訳されずに、サンスクリットの発音がそのまま漢字に置き換えられてある。これは呪文(真言)として使用すべき部分であることが理由である。


般若心経は最後の「ぎゃてい〜」の真言を説く為だけの経だという説もあるみたいですよ。

「三世の諸仏は般若波羅蜜多に依るがゆえ菩提を得た。
 ゆえに知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神呪なり、大明呪なり、無上呪なり、無等等呪なり、
よく一切の苦を除き真実なり、虚ろならざるがゆえに、
般若波羅蜜多なる呪を説く。すなわち呪を説いていわく
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか。」

前半は、この真言に含まれる功徳を意訳しただけとか。


このように考えないと後半の言葉が意味不明になるそ〜な。
ある仏教学者は
「般若心経の作者は、後半部分でとち狂ってしまったのだ。」
と言ったとか(笑)


調べれば調べるほど心経は奥が深いですわ。
>こふじさん

「一切皆空」を説いてから「ぎゃあていぎゃあてい」では無く、「ぎゃあていぎゃあてい」そのものを説くお経なんですね。
よくもまあ、ぶっ飛んだお経ですこと。

それでは前半部の意訳ではなく、最後の「呪」の部分をみんなで意訳しましょう。

すえぞー訳
「掲帝掲帝般羅掲帝般羅僧掲帝菩提僧莎訶」
「さあ行こう みんなで心をそろえて 合言葉は はんにゃはらみたァ お彼岸ゲットだぜェ」
あぁ、呪の部分はよくおちゃらけて
「GO!GO!Let's GO」と言ってます。
”ギャーテー”と”GO”は語根(?)は合ってますよね(笑)?
こう考えると般若心経は
難しい空の思想を説いた難行道のお経ではなく。
浄土教に近い易行道のお経ってことになりますかね?

実際に心経を唱えていた一般の人たちは
「なんかこ難しいこと書いてるけど、
とりあえず唱えときゃ功徳あるらしいな。
よーわからんけど唱えとくか!」
って感じだったと思います。

なので、心経は伝統的に厄除けみたいな
けっこうアバウトかつ多目的な用途に使われてるんじゃないかなぁと思ったりもします。
てえことは、玄奘さんやら鳩摩さんが、何で「呪」の部分を中国語に翻訳しなかったのか?
もちろん「呪」を勧める経典であるのは疑いないが、原語を尊重する理由がきっとある。

「呪」が持つ功徳や意味は説明済みであるのだから、経を読む者が好きなように読めと言うメッセージではあるまいか。原語の発音を重視して貝葉を研究するもよし、インドに行って土地の空気を吸ってくるのもよし、あるいは自分のために自分にあった言葉で仏法の深奥な世界を表現するもよし。そして、そのまま読むのもなお良し。


>あなんさん

> 「GO!GO!Let's GO」
名訳ですね。簡潔であり、お経の雰囲気をまったく損なわないし。
>nonboさん

別トピでもお答えしてますが、まんじゅうの味を教えるなら食べさせるのが一番、温泉の良さを教えるのなら浸からせるのが一番。
既成仏教の巨大な伽藍に入ってみて「へ〜〜〜っ♪」って、感じるのが一番早い。日本人が日本の文化の中で作り上げた、日本仏教の教えが色・型・匂い・手触りとなって表現されています。ついでに読経も聞けたら五感の総動員で仏教がわかります。

釈尊が説法したのは、高弟や菩薩さんだけじゃありません。そこら辺にいるオッちゃんやオバちゃん相手に仏法を伝えてらっしゃるのです。仏教とはいのちのあり方を仏(真実)の立場から語っただけです。

ワシが薦めるとしたら…、
相田みつをさんの詩とか、
小泉吉宏さんのマンガ「ブッタとシッタカブッタ」がいいかな。
>諸音さん

スルーになってすいません。塙保己一さんって知らんかったんで、ぐぐってみてました。日に百二十回以上も般若心経を誦えたのもすごいけど、超人的な記憶者だったとは。
さいたま行って墓石カチ割って、粉末を飲みたいくらい。(笑)

ワシがMIXIで皆さんの話に何とかついていけるのも、ひとえにコンピューターのおかげですもん。ワシって自慢やないけど記憶力はかなり悪いです。(おそらく前世で鶏をバカにした報いやな)
私が持っている唯一の本
「般若心経」金岡秀友校注、講談社文庫、p.131-132
によれば

最後の呪(サンスクリット語ではmantra、ヴェーダでは"rc:賛歌,yajus:祭詞,saman:歌詠"の意とのこと)ですが、

中村 元解釈
掲帝(gate)の呼格、於格という訳の違いにより、2種類の意味が生じる。
「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸せあれ」
「往けるときに、往けるときに、彼岸に往けるときに、彼岸に往きつきて、さとりあり」
渡辺照宏解釈
掲帝(gate)を動詞の完了形として訳す。
「到れり、到れり。彼岸に至れり。彼岸に到着せり。悟りにめでたし。」
マックスミューラー訳
"O wisdom, Gone, Gone, Gone to the other shore, landed at the other shore, svaha!"

といった記述があります。
ちなみに、弘法大師の解釈も載っていました。

上記本によれば、Let's go!という乗りよりも、どちらかといえば、もっと静かな心境に近いかな?という感じです。
>"O wisdom, Gone, Gone, Gone to the other shore, landed at the other shore, svaha!"

なんか英語だと、流れるようにきれいですね。

最後の、svaha というのは、訳すのはむつかしいですね。
この音の響きじたいが、“オーム”みたいな聖音なんじゃないかと思います。
中学一年にて英語という文化から完全に置いてけぼりくらいました。だから意味はわからんのですが、雰囲気のキレイさはそれなりに感じます。

エキサイトで機械翻訳すると
「○ 知恵(Gone、Gone、もう片方の岸へのGone)はもう片方の岸、svaha!で決着しました」
こんな感じでよけいわかりません。レッツゴーよりも落ち着いた感じですが、能動的な元気さも備わってるような気もしますね。
マックスミューラーさんの(般若心経の)悟りは、涅槃寂静って〜のじゃなくって、自らが自由自在の救済者(仏)として活動できる喜びなんじゃないでしょうか。
E=MC二乗(すいません、どうやって変換するかわからなかったので)
別のところで、このことを考えていまして書き込んじゃいました。
E=エネルギーですよね
全てを手放して、得られるもの
それは、愛なんじゃないかと思います。
一般相対性理論の解 E=mc^2 とは、1gの物質はcmで表示した光速の2乗エルグ、つまり9x10の20乗エルグのエネルギーと等価であるという意味です。(今はエルグ使いませんね:10の7乗エルグ=1ジュールです)
『般若心経』の「色即是空空即是色」と同様に一方通行ではないことをあらわしています。(このへんはトンデモ仏教ですよw)

だから「全てを手放して」と言う表現ですと非可逆的行為になりますので、ちょっと違うのでは?って気がします。
ちなみに仏教での「愛」は感情より起因する現象ですので、煩悩の一種と言うくらいの扱いです。ですから高僧方が「愛」について語られたら、そういったことを踏まえたうえであえて語られる「愛」ですので、凡人が理解するレベルの愛と同一視してはなりません。

おそらく。わたむしさんが書いてらっしゃる愛とはキリスト教的な愛ではありませんか。
たとえば、自らの全てをそそぎ込んで「何ひとつ得られない愛」というのもアリなんじゃないですか。
>すえぞーさん

「非可逆的」って一方通行って事ですよね?
「手放す」というのはつまり「握っていない」って事です
固執しないってことになりますかね?執着しないって事です。

全てをそれがそのように在りたいと望むように、自分の中に引き込まずに
あるいは、いったん手にしたものを自由にする

集団意識の中で自己同一化しないことで
意識は何処へでも自由に飛んでいける

菩薩の愛は慈悲の愛
菩薩の愛はすべてを許すことから始まり
それが「空」なんじゃないかと思っているんですが・・・

「全てを許す」という意味ではキリストの愛ともつながりますね

手を放すと自分は自由に動けます
口が狭く中の広い瓶があったとします
その中に自分のほしいものがあったとします
手を入れることはできますが
それを握ってしまうと小さい口からは目的の物を取り出すことができませんね

どうしてもそれがほしいと考え、悧巧な人は
手を放し、瓶をさかさまにしてそれを得ることもできますが
いざそれをてにして見ますと
案外あれほど自分がほしがっていたほどのことでもなかったりします

ここに価値観の転換が起こります
光り輝いていたダイヤモンドが、ただの墨になってしまっています、無用なものとして

でも、物質事態が変化したわけではありません
見るものの目の価値観か変化したのです

「手放す」とは客観的に観照することにもつながると思います

手に入れることではなく、そこに自然のままで在る事に意味があったりします

自然のままに在ることを許す
自分の価値観でものを判断しない
それが愛かなって、思っています

物質として在るものは全て、エネルギーに変換できるんですよね?

愛は形として存在しない、
しかし、エネルギーとしては存在する
ものを大切にする心、これも愛でしょう?
気持ちって物質ではない
でも、エネルギーです
なぜって、何かを変える力を持っているから・・・・

それは、人の心に作用したり、身体に作用したりします
ほら、病は気から・・・
なんて、いうじゃないですかあ〜

一般相対性理論の解って
数式ではシンプルですけども
ものすごいエネルギー量なんでしょう?
だから
人の気持ちや、それこそサイキックパワーなんていう
物質も変形させてしまうようなエネルギーは
すざまじいのではないかと想像いたしております
(想像の域はでませんが)

そのように慈悲の愛にはエネルギーが在るって事を言いたかったわけです。

「何一つ得られない愛」というより
「見返りを求めない、無条件に与える愛」

これが、菩薩の愛かな?
なんて、考えています
> 物質として在るものは全て、エネルギーに変換できるんですよね?

理論的にはその通りですが、「全て」エネルギーに変換させるには反物質と物質の対消滅しか無いらしいです。逆にエネルギーを物質に変換させる方は、加速器の衝突実験でそこそこ成功してますよね。
面白いのは化学の質量保存の法則も一般相対性理論の近似値に過ぎないのであって、実際にはほんのわずかですが質量の変化があるそうです。

さて、仏教のお話に戻りますが、53で書いたように仏教での「愛」に対する評価は低いのです。ですから通常は「慈悲の愛」などといった表現はいたしません。「慈悲」だけで菩薩の活動相は完結するのです。
「愛」でしたら、わたむしさんがお書きのように「見返りを求めない、無条件に与える愛」 と言う表現が出来ますが、「慈悲」ならば元から見返りなどありませんし、仏の大慈悲であればその上に無条件であります。いわば相対と絶対の違いです。
それと、「許す」と言う概念もキリスト教と混ざってるんじゃないですか?
菩薩道の考え方の基本は、迷い(苦しみ)の世界からの救済ですよ。たとえばね、悪業で地獄に落ちるのも罰を受けてるんじゃないんですよ。自分の業の力で堕ちていくのです。だから仏教での救い「許す」ではなくって、そのままの私を肯定し受け入れることです。
赤塚不二夫さんの『天才バカボン』の有名なセリフで「これでいいのだ」ってあるでしょ。冗談抜きで仏教の救いとはこの通りなんですよ。もちろん仏様から言ってもらうわけですけど。

どうしても文字で書くと同じ「愛」なのでややこしいのですが、キリスト教圏の思想で出てくる隣人愛とか人類愛の精神と、単に仏教で言う「愛」は別物です。そういう大きな愛については慈悲と置き換えたほうが近いですね。
相対と絶対ですか・・・。
専門家の方とお話しすると、自分がいかにいい加減にわかりますね。
また、お勉強させてくださいね
ありがとうございました。
>すえぞーさん

結論を出さずにしばらく寝かせておこうかと思いましたがやっぱり気になるので、戻ってきました

相対と絶対が何をさしたいるのかはっきりしません

それから、大慈悲心は無条件というのは理解できますが、愛ではないんですね?

そして、仏教で言う「愛」は愛欲の欲に属する
「無条件の愛」という、言い方をするのであれば
「慈悲」というほうが適切だ
ということになりますか?

大慈悲心とは、無条件の「なに」にあたりますか?
無条件のは形容詞ですから、それにかかる名刺がないと完結しませんので・・・。

すみませんが、もう少し解説をお願いいたします。
>吉祥天女さん

上の話から「愛」という言葉は、仏教的には価値が低いと
すえぞーさんがおっしゃっていますが
別のトピで、吉祥天女さんがおっしゃっている
「愛心」とは何をさして使っていらっしゃるんでしょう

自分的には、「慈しんで包み込むような大きな愛」だと思っていましたが・・・
つまりは、すえぞーさんがおっしゃっている「大慈悲心」
と、共通項でつながっていると解釈いたしておりましたが・・・

厳密には違うのでしょうか?
>ひつぎさん

ありがとうございました。
今日はもう、パソコンの前からいつになったら離れられるのだろう
と、青ざめておりました・・・・
今日はぐっすり眠れそうです(感謝)

でも、吉祥天女さんのおっしゃっていた「愛心」って・・・?
でも、吉祥天女さん今お留守のようですから、帰ったらコメントくださいって、メッセージ入れときますね

とりあえず、ありがとうございました(合掌です)
トピックのお題からだいぶ離れてますが、一種の有効活用だからいいですよね。

>ひつぎさん
微妙なニュアンスの違いはありますが、ほぼ満点の解答かと思います。
慈悲の発生する動機ですが、三つほどあります。一つは(修行により)正しく物事を見ることができるようになったために、衆生が煩悩で苦しむ相が感じ取れるようになったからです。二つめは無分別智といいますが、自他の区別が無くなるので、他人の苦悩も自分のこととして対処せざるを得ないからです。三つめは菩薩としての自覚を持つ時に、自らの誓願を立てそれを完成させることで自己の仏果の完成とするのです。この時の誓願に「衆生を救済しよう」というのが含まれます。

>わたむしさん
ちょっと説明が言葉足らずでしたね。
相対と絶対ですが、『般若心経』でいいますと観自在菩薩の「自在」という言葉で考えるとわかりやすいです。同じような言葉として「自由」と言うのがありますが、自由という言葉には不自由という派生語が成立します。ところが自在ですと不自在などという言葉はないのです。つまり自在という語は絶対的な自由という概念といえますね。
コレを踏まえて、「慈悲」と「愛」を比較するならば、絶対と相対の違いとして説明していることをご理解いただけると思います。

「大慈悲」について
慈悲に大中小の三種あります。小慈悲は親が我が子に対して起こす程度の慈悲です。中慈悲とは有縁の対象(親類・縁者)に向けられる慈悲です。大慈悲とは無縁の対象、すなはち一切衆生に対して向けられる慈悲のことです。よく無縁仏なんて言いかたしてますけど、阿弥陀仏とかの有名所の仏様は基本的に無縁仏です。何の縁もない私に対してさえも、大慈悲を起こして救いとろうとしてくださいます。
無条件の「なに」なら、母親が我が子に乳を与えるのと同じ事だと思ってみればいかがですか。それこそ「あげたいからあげる」でいいんじゃないですか?
仏様のなさることも同じですよ。
一晩寝てから自分のカキコを読み直したら、あいかわらず抜けてます。(恥)

62の7〜9行目
> 自らの誓願を立てそれを完成させることで自己の仏果の完成とするのです。この時の誓願に「衆生を救済しよう」というのが含まれます。

二つ目の無分別智と合わせて考えるといいのですが、最初に誓願を立てる時点では「自己の仏果の完成」だったのが、修行が進むにつれて無分別智も同様に完成されていきますので、いつのまにか自分だけでなく「一切衆生の仏果の完成(成仏)」が、自らの成仏の条件となってしまうのです。
そんなわけで、いつまでたっても成仏できないのが観音菩薩(観自在菩薩)さんです。逆に衆生救済に力を入れすぎて、すでに自分が成仏してるにもかかわらず、ずうっと修行者の格好(菩薩相)で活動なさってるのが地蔵菩薩さん。

大乗仏教とは菩薩の仏教とも言えますね。
>すえぞーさん

すえぞーさんがトピ立てのところでおっしゃっている「色即是空」と「E=MC~2(二乗)」をイコールで結んでいらっしゃいますが
その理由について、もう少しご説明いただけますか?
すえぞう様

素粒子が崩壊する(物質でなくなりエネルギーに転換する=同じなんですが)時間と、距離について最近実験がなされ、新聞に載っていました。

以下

『如是我聞』より、ご報告いたします。


物質とエネルギーが互いに転換するということは確認できますか。

素粒子物理学の『小林・益川理論』で予測されていた、物質がエネルギーに転換する際の振動は
1秒間に2兆8000億回であるということがアメリカのフェルミ国立加速器研究所で筑波大学などの国際共同実験チームが観測しました。これは陽子と反陽子を正面衝突させてBs中間子という素粒子を作り出し、その崩壊過程を観測したものです。Bs中間子は0.5ミリ程飛んで別の素粒子へと崩壊する過程で、粒子(物質)から反粒子(物質でないものつまりエネルギー)へとなったりまた戻ったりする『粒子反粒子振動』という振動を2〜3回繰り返したのです。この回数は一秒間にすると2兆8000億回であったと言うのです。

これはまさに『空』間で繰り返されている物質とエネルギー『もの』と『意図』の変換現象を実際に確認した事実と言えるでしょう。

原始天体の形成についてお話下さい。

百四十億年前に大爆発して誕生した直後の宇宙は熱く電離していましたが、その30万年後には温度が下がって水素原子核と電子が結合して中性化し、その後再び電離して現在の宇宙になったとされています。京都大学大学院の戸谷友則先生はハワイの『すばる望遠鏡』で観測された大規模の爆発『ガンマ線バースト』の残光を分析して、誕生後9億年の宇宙における中性水素の割合は17%以下であることを示し、誕生後7億年頃には初期の天体が形成され、再電離の過程に入ったのではないかとしています。

つまり、2兆8000億分の1秒という瞬間に起こっている振動を10億年も繰り返しながら、現在の地球の姿に近ずいていったということなのでしょう。

0. 5ミリの距離を2.31往復とすると、1往路=0.108ミリ=0.0108cm
=0.000108m=0.000000108?m

2.8兆回=2,800,000,000,000回/秒×0.000000108?m
=300,000?m/秒、これは秒速30万?mつまり光速ですね。

つまり、色即是空・空即是色の『即』とは、2.8兆×2.31×2=約14兆分の1秒の『瞬間』ことだったのです。


醸造家 萬乃釀
すみません。
「即」については、以前にもご説明いただきましたので了解いたしました。

「色即是空」とは「E=MC^2(二乗)」である
して、そのこころは・・・・

の、「して、そのこころは」
を、お聞きしたいのです。
>わたむしさん

> 「色即是空」とは「E=MC^2(二乗)」である

こんなの53で書いてるとおり、まともな仏教の話じゃないですよ。多様な意見でトピックが盛り上がりやすいように、雑談として書いてるだけです。だからもう一度読んでいただけば判るはずですが、仮定の話ですし断定もしておりませんよ。

> して、そのこころは・・・・

ネット用語ですと、いわゆる“釣り”です。
堅苦しい話ばっかりじゃ、楽しくないでしょ。


>萬乃醸さん
またこのコピペですか。
「即」は数学で言うとイコールですよ。短い時間の変化でしたら「刹那無常」という仏教用語があります。
>すえぞーさん

そーなんですか。ちょっとがっかりでした
もとより、まともな仏教の話は期待しておりませんでしたよ
すえぞーさんなりの、科学と宗教の壮大なロマンがお聞きできるかと思っておりましたので・・・
不勉強で、すみませんでした。

1番から68番まで、目を通させていただきました。

『空海に訊く』は、中今呑さんが、萬乃釀私に良く分かるようにと、

空海から直接聞いてきたと言う形で解説文を書いていただいたものです。

僕の生徒さんに感想を訊いたところ、読めませんということであったので、振り仮名を、振りました。

実際の印刷文では、ルビになっているので、そんなに読み辛くはありませんが、このページに落とすと、(ルビ)に入ってしまい、とんでもないことになってしまいまして、ご迷惑をおかけいたしました。

65番の文章は、私が、新聞記事を読んで、素粒子崩壊時の振動の時間帯と、距離の計算をしてみただけのことであります。


萬乃釀
>萬乃釀さん

> 0. 5ミリの距離を2.31往復とすると、

いきなり2.31往復って出てくるのが、ダメなんだと思いますよ。
光速を基準にお話を進めたいために出してきた数値でしょうけど、量子力学で言う量子の振動数やら移動距離は、もともと光速を物差しの基準値にして導き出してるんですから、数値や式をいじれば光速がでてくるのは当たり前です。

個人的には『般若心経』が一般相対性理論の予言であったなんて話は大好きなんですが、それこそ仏法誘引のための方便として使うべきで、ひとたび興味を持ってくださったような人々には、本筋に向いてもらうように捨てさるべき話題でしょうね。

階段はどんなに立派でも、二階に上がるための施設に過ぎません。階段でとどまっている人には、二階のすばらしさを伝えることが真の仏道なのです。

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