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仏教を楽しむ会(^^)コミュの仏教に詳しい方に聞きたいです

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小生、映画を製作しております、赤間という者です。
実は現在、お坊さんを主役にした映画を企画しているのですが。
まだ企画段階で分からない事がたくさんありまして。
良かったら誰か、教えていただけないかと思い、トピックを出しました。
質問は大きくは2つです。
○ 原始仏教では天国とか地獄の考えがないと聞いたのですが、いつごろからその考えが生まれたのか
○ 自殺などは、仏教で禁止されてたりはしないのか
誰か教えていただければと思います。
宜しくお願いいたします。

コメント(44)

ジェフさん、

私は仏教に関しては素人ですが、大学の教養学部時代、専門学部に進学の折は、一時、印度哲学科進学も考えておりましたので、ほんのわずかですが、知っていることもあります。

仏教と言っても、いろいろな時代の考えに対して、現在の学者の方達がいろいろ言ってるので、キリスト教のように、二ケーア宗教会議(でしたっけ?)で、xxxが正統とされた、というようなことはありません。

しかし、現在の日本の(大学の)仏教学では、仏陀は、死後の世界等の形而上的な質問に対しては、「無記」を貫き通したということが、一般的に教えられていると思います。

また、私は仕事の関係でアメリカに5年以上住んでいましたが、その時に、女優ユマ・サーマンのお父さんで、有名な仏教学の教授のロバート・サーマンが書いた文章を読みましたが、やはり仏陀は、死後の世界等の形而上的な質問に対しては、無記を貫き通したと、はっきり書いていたことを覚えております。

恐らくこの意見の違いは、どの経典が、歴史上の仏陀が言ったことに近いか、ということに対する解釈の違いだと思います。

基本的に仏教には、いろんな考えがあって良いものだと思います。たとえば、チベット仏教のお坊さんに、上記のようなことを言うと、きっとそれは間違いと言われると思います。私が述べたことは、日本の現在の大学の仏教学が、一般に教えていることです。また、私個人としては、最近は、段々と、死後の世界というか、生まれ変わり等もあるように思っております。
 よく勘違いされるところですが、お釈迦様が説かなかった「無記」の中に、「死後の世界の存在」というのは入っていません。

 無記というのはごく簡単に書くと、

・世界は永遠に続くのかどうか、
・宇宙は無限なのかどうか、
・如来は死後存在するのかどうか、
・肉体と魂は同じなのかどうか、

 これらについてお釈迦様は答えませんでした。それが無記です。

 ですからこれは「解釈の違い」ではなくて、無記という言葉を曖昧にとらえている場合の過失ではないかと思います。

 「無記」が説かれているのと同じ原始仏典において、お釈迦様は、死後、これこれのことをすると天に生まれるとか、地獄に生まれるとか、そういうことをたくさん説かれています。


 ですから、

>どの経典が、歴史上の仏陀が言ったことに近いか、ということに対する解釈の違いだと思います。

ということにはなりません。同じ原始仏典の中での話ですから。

無記が説かれているのは原始仏典であり、
輪廻転生が説かれているのも原始仏典であり、
輪廻転生がないとか、輪廻転生についてお釈迦様は無記だったなどという経典は、どこにもありません。


Shavari様、

詳しい解説ありがとうございます。

ただ私が習った時は、「人は死後存在するか」という質問があったように聞きました。確かによく本を読めば、「如来は死後存在するのか」とも書いてあります。そうすると、如来は、人なのか、人でないのか、ということかもしれません。

後、私の解釈ですが、無記と言っても、仏陀が死後の世界を否定していたのではないと、最近は段々思うようになっています。
自己レスです。

恐らく、如来は仏陀自身のことなので、「悟った人は死後存在するか」とするのが正確かもしれません。しかし悟った人も、やはり人なので、一般的には「人は死後存在するか」と言ってるのだと思います。

無記でネット検索すると、いろいろ面白い話が出てきますね。個人的には、下記が結構気に入りました。
「すなわち、死後の世界がどうこう議論する前に、人生の向上のためにまずあなたがすべきことは他にありますよ、........。あの世のことについての質問に釈尊は答えなかった(無記)。だから仏教はあの世を否定した、だから仏教は唯物論だ、と誤解している人もいます。」
よたろうさま

 確かにこの場合の「如来」を「衆生」と解釈する場合もあるようですね。
 しかし私はやはり如来は如来なのではないかと思うのですが(笑)。どういう経緯でこの場合だけ「如来(タターガタ)」を「衆生」と解釈する説が生まれたのかはよくわかりませんが、ちょっと無理があるように感じますね。解釈者の観念が含まれているように感じます。

 しかし何度も言うように、輪廻転生をお釈迦様が説いたかどうかは、それとはまた全く別の話としてとらえるべきではないかと思います。原始仏典を読む限り、お釈迦様は明らかに輪廻転生を説いていますから。

 そもそも、お釈迦様をはじめ弟子たちが解脱の境地を得たときの決まり文句である「私は三明を得た」というときの三明のうちの二つは、過去世を知る力と、死後衆生がどのように転生するかを知る力ですから・・・



 私自身の解釈としては、われわれが「この現世」を「ある」と認識しているうちは、来世も、天も地獄も「ある」のだと思います。
 では修行完成者(如来)の境地に達したらどうなのか? そもそもこの世も輪廻も、すべて無なのだろうか? 夢のようなものなのだろうか? ではその夢から覚めたらそこには何かあるのだろうか? 何もない無なのだろうか?――これらについてはお釈迦様は答えなかった、ということではないかと思います。それは言葉では表現できない、悟るしかない領域ですから。


よたろう様

>しかし、現在の日本の(大学の)仏教学では、仏陀は、死後の世界等の形而上的な質問に対しては、「無記」を貫き通したということが、一般的に教えられていると思います。


唯物論の基盤の上で生まれ育った一般の若者の場合、唯識論と阿毘達磨などをよく勉強するまで転生の過程を説かなくていいでしょう。しかし貴殿が言った「無記」は衆生の死後に相当するのではない。仏陀がこの世を去ったらどうなるかに関する質問でした。ブッダは明らかに輪廻転生を説きました。


>基本的に仏教には、いろんな考えがあって良いものだと思います。

そうですね。しかし仏教に基本的な教義が無ければ、例えば無常・苦・空・涅槃・転生など、仏教の思想ではなくなってしまいます。


>私が述べたことは、日本の現在の大学の仏教学が、一般に教えていることです。

私はそういうことを見ていません。日本の仏教学の中に色々な意見があります。残念ながら誤解も見たことがあります。
私が理解している範囲で書かせていただきます。

○ 原始仏教では天国とか地獄の考えがないと聞いたのですが、いつごろからその考えが生まれたのか

原始仏教にも天国(天界)や地獄の考えがあります。

これに対して、天国や地獄は心の象徴として持ち出されているもので、
実体として存在するものではないと考える人たちもいます。

しかし、初期の仏典には明確に天国や地獄が出てきますし、
象徴であるとは書いてありません。


余談かもしれませんが、仏教でいう天国(天界)は、キリスト教的な天国とは
意味あいが異なります。
天界は永遠の場所ではなく、また死を迎えるところです。

ですからキリスト教的天国に近い概念としては、涅槃の方が相応しいかもしれません。
如来となり涅槃に往った人は、二度と死なず、二度と生まれ変わらないとされます。
ですから、涅槃に往くことを「不死を得る」とも書かれています。

しかし、涅槃がどのようなところか、この世で生を終えた如来がその後どうなるのか
については、ブッダは何も答えません。


○ 自殺などは、仏教で禁止されてたりはしないのか

すべての仏教は分かりませんが、原始仏教においては、明確に自殺を禁止する
決まり(戒律)はありません。

覚りを得た人が自殺した場合、ブッダは、「その人は涅槃に往き、二度とこの世に
生まれることはない」と言います。
そこでは、褒めることもありませんが、格別に非難するところはありません。


ブッダの時代に、修行中の弟子たちが大量に自殺するということがありました。
それを聞いたブッダは、その後そのようなことがないように、修行法の変更と
戒律の制定を行います。

そこで制定された戒律は、死を賛美したり、他人に死を勧めたり、他人の死に
手を貸すことなどを禁止しています。
しかし、自殺そのものを禁止する規則は作られませんでした。


これは個人的な見解ですが、当時は痛み止めの薬なども少なく、重病によって
耐え難い苦しみに悩まされる人は、僧侶にも在家者にも多かったようです。
そのような人にも、決して死を勧めるものではなく、もちろん死に手を貸すことは
ないのですが、(安楽死に手を貸さない)
自分の人生をどうするのかは、最後は本人が決断することという考えなのかもしれません。


もちろん覚りを得ていない人が自殺すれば、輪廻してまた苦のある世界に生まれ
変わりますから、決して勧められるものではありません。

高弟シャーリプトラが、重病で自殺しようとする僧侶に対して、「刀を執るな。生きよ。
われわれは君に生きていて欲しい。」と語りかけるところがあります。

仏教徒の心は、原始仏教の時代から変わらないと思います。
先ず、自分的な仏教論理として、日本にはいろいろな各宗派が存在しています。


でも慈悲なくして仏教は語れないと私は思います。


何故?それは日蓮は知学を説きました。そして知学に基づいた生き方を主張しました。


禅でも有名な道元は難しい哲学を説きました。でも本当にそれで成仏がかないますか?


天台大師も難しい学問を民衆に説きました。


当時学問も学べなかった民衆が本当に、このような教えで成仏がかなうものだったのかを今ひしひしと感じております。


慈悲。


それを考えた時、もう少し仏教とは何かを考えさせられます。
一遍上人さん


>でも慈悲なくして仏教は語れないと私は思います。


その通りです。しかし慈悲だけではなく成仏するためには般若(智慧)と無量の功徳が必要です。外教の信奉者も他愛の行為をよくしても、仏陀が説いた空と無常などの真実を理解しない限り、大悟は不可能です。そのため、仏教は慈悲だけではなく必要な学びと瞑想を強調しています。


>禅でも有名な道元は難しい哲学を説きました。でも本当にそれで成仏がかないますか?

成仏とは必ずしも悟りというわけではない。大乗仏教では成仏する前に菩薩の複数の階梯を究めなければなりません。ただ悟りを開くのは成仏ではない。阿羅漢(転生する原因が削除されたため、涅槃に入る者)も仏陀と菩薩と異なる道です。


>当時学問も学べなかった民衆が本当に、このような教えで成仏がかなうものだったのかを今ひしひしと感じております。

仏教は基本的に難しい道です。仏法に遭遇することも珍しいです。いわんや仏法を本当に学ぶこと。仏教の教義を聞いておぞましいことだと考える人もいます。性欲を抑制したり、瞑想したり、肉食を止めたり、妬みと怒りそれらの困難を克服したり、かかる行為は多くの人間にとって非常に難しいことです。ですから歴史的に僧院と寺院などがありました。
赤間さん

先ず、貴方は仏教を正しく認識せねばなりません

仏教を歴史的にみると

➀ゴータマ・シッダッタが究極の真理に目覚め、ブッダとなって
 教えを説きサンガを形成し、彼の没後100年〜200年後(BC3世紀)に
 教団が伝統派の上座部(テーラヴァーダ)と改革派の大衆部(マハーサンギカ)に分かれる(この頃にブッダの教えとしての法が集成され、その全体を経蔵と名付けられその中の諸経典を総称して阿含経という)

➁BC1世紀ごろに大乗仏教とアビダルマ仏教とに大別されるようになり
 AD800年までに、金剛般若経、大無量寿経、阿弥陀経、法華経、般若心経、大日経などの大乗経典が創作される
 
➂その後大乗仏教がチベットから中国に伝わり、朝鮮を経て聖徳太子の頃、日本に伝来した。平安時代に、天台宗、真言宗が興った

?鎌倉時代に、道元、法然、親鸞、日蓮等によって日本独自の仏教になり今日に至る

このように、仏教と一言でいっても、どの時代の仏教、どの経典、宗派によるかで考え方が異なります
貴方が企画されている映画の主人公はどの時代のどの宗派に属するのですか
仮に禅宗であるなら禅宗の視点、観点で答えを求めたほうが良いのではありませんか

わたくし仏弟子になる意思はあると思う。廃寺かってそこで朽ち果てたら、仏弟子としては、いけてますか?
仏弟子とは僧侶になりたいことですか?
仏教徒になりたいということですか?

その後の意味が少し分からないのですがまさか廃寺で
自殺したら仏弟子とは言えないですか?という意味じゃあないですよね・・
ありがとうございます。
自殺はもちろんしません。僧侶になるのは教師になりたいとは違うと思います。
在家で釈迦の教えをこいたいのです。
で、廃寺もしくは、廃村を入手するのをおもいついたのです。
便乗して質問させていただきます。

仏教について本を読んで勉強したいと考えているのですが、
どのような本が適しているのでしょうか。

蜻蛉日記を読んでいると、どうも願かけだけではなく、時間をもてあましたときにお参りしたり、
女性達の物見遊山のような形になっていたようにも思われます。
そこで、時代ごとの仏教の捉えられ方や、生活への影響などを知りたいと思うようになりました。

私自身が悟りを開きたい、というよりも仏教への知識を深めたいという思いなので、
細かい教えについてというよりも大学の仏教概論でとりあげるような本を探しています。
自分でも探してみたのですが、あまりにも関連本が多く、内容も平易なようで難解なものが多いようで・・・皆様のお力添えをいただけたら嬉しいです。
宗派や解釈により、さまざまな違いがあるかとは思いますが、素人でも読める、お勧めの本を教えていただけませんか?
Shavariさんが下記の事をお書きになっておられます

>>無記というのはごく簡単に書くと、
・世界は永遠に続くのかどうか、
・宇宙は無限なのかどうか、
・如来は死後存在するのかどうか、
・肉体と魂は同じなのかどうか、?? >>

つまり、無記というのは、不可知、すなわち、知り得ようが無い事に対して空想論をいくら語っても正しい答えかどうかすら、誰も知りえないような事は
「知らない」と、しておく。無理矢理先へ進まない。
それは、真実と、空想や妄想とを常に区別して認識しなくてはいけないというような
意味の考えが釈尊の考えだとするならば、
釈尊ならば、言った事も無い、知り得ようも無い天国や地獄などについて、、しらないので『知らない」と認識するはずなので、知らない事は書けないはずですが、
釈迦はそもそも、仏教教団も教典も作っていないので、
原始仏教にはあてはまらないので、答えにはなっていませんが(^.^;
>>[025]
今晩は。初めまして。
十二支による守り本尊(念持仏)は、古くから伝わる、十二支占いにて、
そう示されているに過ぎず、
本来の念持仏は、ご自身が生涯を通じて念持できる仏様の意味で、
仏前にて一心に信仰の念をこめて供養礼拝し、啓示を受け、決めるというものらしいです。
 まぁ、生まれ年の干支に こだわらず、阿弥陀様のほうが良いのなら、阿弥陀様が良いでしょう。お願い
質問します冷や汗

隣町に
“真言宗成田山薬師寺”があるのですが、
本堂階段の上には“不動堂”と書いてあり
不動明王様がいらっしゃると思うのですが、
入口左の壁には“空海の説明”と、“南無大師返照金剛”と書かれているので
大日如来様になりますね。

…私の逢いたいお薬師様は何処にいらっしゃるのでしょうか泣き顔泣き顔

「救世尊」とは何か
分かる方いますか目exclamation & question
お昼に久渡寺に着きました。
これがあの心霊スポットやらで噂の公衆電話ですが…
…インターネット参照冷や汗

長い石段を登ります。
途中にある手形を踏むと祟りがあるという噂が…
インターネット上流れていますがあくまで噂です。

不動明王様ですが
うちのお不動さんの方がかっこいいかもほっとした顔

時計回りに念珠 経文 祭壇用魔除け 津軽お化け珈琲(反魂香とオシラサマ)
この念珠にしようか、輪袈裟にしようか、
やめようかをずっと考えていて、タクシー屋さんが来るまで決めかねて、
やっぱり買おうと決め、もう一度タクシー屋さんと上まで買いに行きました。
祭壇用にします。

しかしながら冷や汗
念珠の持ち方 使い方が分かりません冷や汗

曹洞宗 真言宗 日蓮宗 天台宗 みんな念珠も違うんですね冷や汗


質問です。

御札のまわりの白い薄紙は剥がすのかはがしてはいけないのか。
8月は墓参り お盆
この時期が近づいてくると毎年分からなくなる。

お盆に帰ってくるのなら
なぜ毎日線香もご飯も仏壇にあげるのか?

お盆に地獄の釜の蓋が開いて
悪霊も ご先祖様も帰ってくることが出来るなら
何故毎日何処に向かって線香もご飯もあげているのか?

33年経ち浄土から涅槃に到達したご先祖様はお盆に帰ってきても
浄土から涅槃に到達出来ずに生まれ変わったご先祖様は
別の姿に生まれ変わっても以前の姿で帰って来れるのか?


そうなると
即身成仏を唱える真言宗の教えだと
お盆は必要ないことになりませんか?
本来の先祖供養とは、亡くなった方は業のみで修行ができない。
ですので縁ある子孫が変わりに仏道修行をし積んだ功徳を回してあげる、回向するのが正しい意味です。
そして、良く亡くなった方を仏さんと言いますがこれは間違った使い方です。
仏法は因果ですから生前に何の徳も積んでないのに亡くなったら仏になるなんて教えは仏法にはありません。

ですから仏に御給仕するというのは先祖への給仕ではありません。
あくまでも仏様に御給仕し徳を積む修行です。
誰も答えられる人がいないので(そりゃそうだたらーっ(汗))
調べて分かったところまでを書くと
儒教と言う教えがあるみたいです。
それが仏教と混ざって混乱した。
そこに輪をかけたようにスピリチュアルが流れ込んできて
仏教は混乱を極めた。

そんなところでしょうか。
いくら八百万の国とは言え、主体性のない日本国ですたらーっ(汗)
>>[35]
そもそもお盆の元になった盂蘭盆経はそんな教えではありませんね。
お釈迦様の弟子の目連尊者がお得意の神通力で亡くなってから餓鬼道で苦しんでいる母親のために食べ物等をあげるが食べようとすると炎となり、より苦しめてしまう、何度やっても同じなのでお釈迦様にどうやったら母を助けられるか?と質問にあなたが正しい信仰をすればその功徳で助けられると。

不思議な力が有っても救いにはならないし、幸せになれない。
幸せになるために必要なのは正しい信仰を正しく行じて行くことと諭した教えが起源ですからね。
>>[037]

こんにちは。
番号もコメント返しも、コメント返信お知らせも無かったので
独り言のつぶやきかと思っていました。

返信でしたか。

ありがとうございます。

子供の頃から正しい教えをしてもらわなかったツケが今に回ってきているのだと思っています。
それが親のやり方だったのだから仕方ありません。

たくさんの宗派があり、またそこにスピリチュアルが入り込み、日本の国は矛盾した宗教観になっています。
チコちゃんじゃないけど、果たしてきちんと答えられる人のなんといないことか…
私もそうですが。
>>[38]
私は母から何でも神様仏様が先と育てられました。そのお陰で宗教アレルギー無く育つ中20歳でこれこそ間違い無いという仏教に出会いました。
そして30年、本当に変わったと思ってます。親孝行や人を思う思いやそして劣等感の塊だった私が将来の私を信じられるがゆえに今の私をそのまま受け入れられるようになりました。
>>[039]

ありがとうございます。
そうでしたか。
羨ましいです。
自信を持って自分の道を進んで下さい。

私はもっか研磨中。
今、荒削りする前ウッシッシ

いろんな職人さんの手を煩わせていますウッシッシ

学べば学ぶほどどんな宗教より仏教が優れていると感じます。
仏教とその他の宗教(変な新興宗教は除く)は大きく違ってます。

仏教以外はいわゆる神的などこにどう存在しているのか分からないものを信仰する教えです。
仏教は現実に存在した人の真理を悟り、そこから来る教えです。
そして、絶対的な神のようなものを信仰することで所謂「神様いう通り」的な言われたままに生きるのとは違い、仏様が歩み悟った道を示し、我々も同じように仏になれると説き仏になれるよ導く教えです。

そして、仏の悟りは一つです。
二つも三つもあるはずがありません。
なぜなら完全な円が一つしかないように
円に近い図形は無数に有りますが
それはどれも円ではないのと同じです。

ということが、30年近く信心して
経験値から確信しました。
買い物途中に、昔住んでいた場所に行ってみました。

「天台宗 千手院 重盛山 妙泉寺」

生まれてから小学低学年くらいまで住んでいました。
その後、お寺は裏の農家からの飛び火にあい類焼。
裏の、たくさんの仲良かった馬や豚や鳥が焼け死にました。

お寺に住み、当時は砂利道を馬が歩いていた時代、千曲バスの運転手だった父親が車を持っていて、
子供の足で40分の道のりを車送迎してもらった、
それだけでだいぶイジメられました。

保育園の頃までの記憶はあるのですが、その後の記憶はありません。

今でも覚えている間取り、
閉め切った暗い本堂に射し込む格子戸からの光の線。
奥の真っ暗な場所に鎮座した不気味なたくさんの仏様。

家の前にはまだ井戸があって、お向かいの小泉さんちは禅寺だったようです。

その前に滑車の井戸があり、その前に時々アイスキャンデー屋さんや、豆腐屋さん、鋳掛けやさんも来ていました。

それが最初の、仏様との出会いです。
仏様ですが、お婆ちゃんや親は「神さん」と、読んでいました。

天台宗と記念碑には書いてありましたが、天台宗にもおじゃんぼんの人達が来ていたので、
私は日連宗かと思っていました。
天台宗でも「南無妙法蓮華経」や「南無阿弥陀佛」は唱えるのですか?
天台宗でも「南無釈迦牟尼佛」は唱えるのですか?

子供の頃にはそのお経を聞いていたので不思議です。

もっとよく、お婆ちゃんに聞いておけば良かったです。


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