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離れても、忘れない。阪神大震災コミュの震災20年へ向けて みなさんは?

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 副管理人 K&Nです。
 震災18年を前に、今回は準備遅れました。
 管理人まリこさんに更新頂けていないので、TOPページはそのままですが。

 18年目だけでなく、20年それ以降へ向けて、みなさんの「今」そして
「この先」さらに「あの95年」自由な気持ちで語ってみてください。
 2013.1.17 まだスケジュール固まっていないひとりです。

よろしくお願いします!

【2013.01.17】東公園の写真追加しました。
  その他スナップは、K&Nのアルバムにアップ予定です。

【追記】
 この写真は、某サイトに昨年12月からアップされているので
副管理人のご挨拶としてアップしておくことにしました。
 当時30代でも今年はもう54歳。歳月の流れ感じます。

 もしどこかで見かけることがあれば、「Mixiの離れても
コミュの副管理人?」って気軽に声をかけてください。

コメント(32)

阪神・淡路大震災で被災してから、最低限ライト、ラジオ、救急用品などを持ち歩いていて、いつも荷物持っているな。と時々からかわれますが、しかし約2年前の東日本大震災のように、いつ日本は、自然災害に襲われるかもしれない。からかわれてもいい。災害は忘れたころにやってくることを、阪神・淡路大震災で体験しているから。
いま、震災の集いに向かってます。
あの出来事を体験し、いま自分に何が出来るのか?

それを考えながら自分の体験によって一人でも多くの人が『命』について考えてもらえたらと思います。
1.17

オレンジ服着て、初めての『実戦』が18年前の今日でした。

瓦礫の下から助け出した子に「なぁ、お母ちゃんは?」て聴かれて、周りを見回したら皆顔を背けてた(母親らしき女性は、その前に遺体で発見されてて)のが未だに...
ここを読んで、私と同じく、
立ち直れないでいる人もいるのだと知って、
少しだけ自分が許された気がしました。

当時は小学校6年生でした。
震災によって、絶対的な死の恐怖に取り憑かれました。

理由は震災ではなくても、自分を含めた人間は、
いつ何があって死んでもおかしくないのだと怯え、
中学生になる前に、私は余震で死ぬのだと、
固く信じていたほど、です。

多分普通の人は、
自分が明日死ぬかもしれないなどと、
感じながら生きることって少ないと思うんですが、
私は、その恐怖を感じながら、
今日までずっと、生きて来ました。

夜に寝るのが怖いです。
寝ることで死んでしまうような感じがするのです。

そのため私は、あれから18年経った今も、
PTSDのため、病気療養中です。

そんな私に出来ることは、
とてもちっぽけかも知れないけれど、
阪神淡路大震災でなくても、
私のような思いに苦しんでいる人は、
いるんじゃないかなって思うんです。

私と同じような人が、
他の震災経験者の中にもいるかも知れない。
もしそういう人に出会ったらまっさきに
「あなただけじゃないよ」と、伝えたい。

嫌でも時は流れていきますが、
時間だけでは解決できない何かが、
あるような気が、します。
そういう意味でも、風化して欲しくない。

個人的な感傷かもしれませんが、
ここで吐き出させて頂いたことで、
ホンの少しだけ楽になりました。

長文になってしまってごめんなさい。
発生当日の夕方。
停電で照明が落ちてる所に夜の帳が降りてきて暗闇のなかで懐中電灯を頼りに地図を広げて、地元の消防団員(市内の消防局は自身も被災して、出て来れていない人や怪我人も多数いた為、稼働人員が全く足りず、消防団の人も応援部隊の地理案内に付いて貰ってた)の地理案内を受けながら生存者を検索してると、グシャグシャに崩れた民家の下から赤ん坊の泣き声が聴こえてるのを近所の人が報せてくれて、声を頼りに検索すると、僅かな生存空間で母親が赤ん坊を庇う様に多い被さって、母親は梁と床に頭を挟まれたまま事切れてて、父親も和箪笥の下敷きになって事切れてて、赤ん坊は地震発生から救出まで12時間以上も独りでいて、救出にあたった隊員は半泣きの顔で唇噛んだまま必死で堪えながら赤ん坊を防寒着で包んで救護の医師に引き継いでた。
遺体発見の目印だけお願いして(発生当日である為「まだ生きてる人」が優先で遺体の収容は後回しになってた)その隊員は「あの子どないなるんやろ。まだ物心つく前に.....」て呟いてた。

初めての「実戦」が、あまりにも強烈過ぎて現場で心折れそうになってたのを覚えてる。
あれから18年。第一線を退いて後進の育成と指導に当たっているが、子供の頃に震災を経験して「将来は絶対にこの道に進もう。て心に決めてた」て言う訓練生にも何人か遭遇してきた事ある。
自分は民間企業からの転職組であるから、そこまで強い希望でこの仕事に就いた訳じゃないけど、そういう強い意志でやってくる後進に技術や知識を伝授するのが今の自分の役目や。て日々自分に言い聞かせる様にやってる。

一昨年、子供の頃に神戸で被災した経験のある隊員も東北に出動していった。
阪神・淡路大震災、東日本大震災など日本は自然災害が普通に起きる島。
「災害は忘れたころにやってくる」
節目に思い出すだけでなく、この言葉をいつも忘れないようにしたいです。
2012年辺りから、激しいフラッシュバックに襲われるようになりました。
綺麗なルミナリエの方に目が向かず、げえげえという吐き気をこらえていました。

1995.1.17
私は、和室で1人で寝ていましたが、夢を見ていました。
小学校の教室で、急に揺れ始めるという地震の夢です。

近くに寝ていた母が私を起こそうとして何度も身体を揺らしたそうです。
私が寝ていた和室のすぐ脇にタンスがあり、そのタンスが今にも私の上に倒れてくるんじゃないかと気が気でなかったといいました。

小さな地震であれば、短時間のものは何度か経験していましたが、揺れが長く続いて不安になり、家族全員(私、弟、父、母)の全員が起きだしました。

すぐにテレビを付けました。
直ぐに目に入ってきたのは、神戸の何処かの役所の激し揺れにより、物が全て落ちてしまうというか、横向きに吹っ飛んだと表現するほうが近いような光景でした。

カメラすら揺れていたので、ブレブレでしたけど、何度も何度も流れたので目に焼き付きました。
電話がやっとつながって、その日の小学校は臨時休校になるという旨が、連絡網で回ってきました。

翌日は、午前だけ授業があて、帰りは集団下校でした。
お腹をすかせて帰った私に、「ごめん、食べるものはないねん」という母の声が耳に飛び込んできました。

不安になった人々が、店という店から米を買い占めたらしいと母に聞きました。
だから「餅しか無いけど」と母に言われ、餅を口にしながらテレビを見ました。

光景が、一瞬で変わっていました。
それは、大火災の風景でした。
大火災が全て鎮火するまで、3日間くらいかかったのではないでしょうか。

来る日も来る日も震災のニュースばかり。
読み上げられていく死亡者名に、1人だけ、私のすぐ東側に住んでいた人が亡くなったことを知りました。

正直つらいのですが、語り継いでいきたいという一心でこれを書きました。
東日本大震災の方では、よく「がんばろうニッポン」と叫ばれていますが、個人的には「もう十分頑張ってるよニッポン!」という方が、私にはしっくりと来ます。

私達の体験が東日本大震災に活かされたのだとしたら、逆に東日本大震災から私達が学ぶ、という事は、出来ないのでしょうか、難しいのでしょうか。

そんなことをふと考える今日このごろです。

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