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日本の歴史を語るコミュの古墳時代

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古墳時代とは、日本で盛んに古墳が造られた3世紀から7世紀ごろまでを指す時代区分です。およそ350年続いたとされています。弥生時代と飛鳥時代の間に当たり、この時代に日本の国家の基礎となるかたちが成立されました。まだまだうやむやでミステリーな時代が続きます。

コメント(32)

古墳時代は、米作りの為の水田の面積が前の弥生時代に比べると非常に大きくなります。縄文時代からの狩りや採集のほかに稲作が普及し、主食が木の実からお米をはじめとする穀物になると生活は安定し、あまった米を貯えることもできるようになります。人々が定住化したことで、その地域の有力者が権力を示そうと山のように大きなお墓を作った時代でもあります。
卑弥呼の亡きあと
邪馬台国連合は
王国を守るために
勢力を結集していました。
外部勢力ヤマト政権の侵攻を受けて
滅亡した。
しかしそれは
戦闘に敗れた結果ではなかったと
言われています。
ヤマト政権の侵略が始まったとき
今まで静かにしていた
邪馬台国の前身「出雲王国」が
騒ぎだします。
ここでは
私が好き勝手にまとめた説を
書き込んでますが
いろいろな説があります。
縄文時代は原生林に
覆われていて
元来は傾斜の強い扇状地と
河川敷地帯であり
農業用水に適した自然流がなく
水田稲作には適していなかった。
しかしアソベやツボケ
アイヌが融合した三内丸山遺跡には
すでに水田跡があった。
夏王朝「禹」から始まった集団が
水を治める技術を
持っていたからです。
少し遅れて
新羅が、唐と結んで
百済や高句麗を制圧した動乱期に
朝鮮半島からの亡命貴族が
海を渡ってたくさん日本列島へ
逃げてきたと言われています。

そのなかに
高句麗王朝・朱蒙の息子の
布流がいた。

そして
日本で産まれた息子は布都斯。
出雲神話のスサノオです。

布都斯の息子が不留。
ニギハヤヒ。

彼らは新天地を求めて移動していた
津軽からきたアソベやツボケ
アイヌの一部たちと
出雲王国を築きます。
出雲王国が安定感した頃
百済の戦乱から日本へ逃げてきた
百済の王子「温羅」たちが
出雲勢力に加わります。
温羅は
製鉄の技術を持った集団でした。
水路を築く集団と
稲作や農業の技術がある集団、
そして
製鉄技術のある集団が
両者が混血融合して誕生したのが
邪馬台国だったのでは
ないのだろうか。

実際、このような縄文人と弥生人の
融合現象は
あちらこちらで発見されている。
争いが少なかったのは
征服というカタチではなく
姉妹国家のような
カタチだったのかも知れない。
歴史のなかで
出雲王国は影が薄い。
だが
スサノオを初めとする出雲王朝は
15代続いたと記録に残されている。
あ![8]に
採掘技師や
クスリや医療の技術を持つ
徐福の集団のことを
書くを忘れた。
本来
ヤマト政権は
出雲王国と徐福の3代目勢力によって
共同で作られた国家でした。

しかしその巨大国家は
内部争いが絶えず
ヤマトの王が
何度も変わっていきます。

そこで出てきたのが
女の王である卑弥呼だったのです。
卑弥呼の亡きあと
力を失くした邪馬台国に
九州で発足していた
高句麗から南下してきた奴国の勢力
(のちのヤマト政権)が
東征を開始し戦争になりました。

そっくりそのまま政権ごと
奪われてしまったのです。

その強さに
出雲王国もヤマト王国も圧倒され
王族たちは
散り散りになってしまいました。
散り散りになったグループのなかに
ヤマト政権(のちの神武天皇)一行に
抵抗したヤマト王国を拠点とする
豪族の長として描かれている
ナガスネヒコとアビヒコがいました。
命からがら
アビヒコの故郷である津軽に
逃げて行きます。
青森
津軽半島十三湖一帯に出来ていた
アラハバキ王国に
逃げてきた旧邪馬台国の残党と
郡公子一族
津軽先住民族が融合。

五王制による国家組織を発足。

ナガスネヒコとアビヒコは
新アラハバキ王国の王になる。

この頃
モヤ山ピラミッドを作ったと
されています。


歴代天皇一覧表をみると
神武天皇以降は
架空の欠史八代と書かれている本が
たくさんあります。

神武から歴史として顕れて来る
祟神天皇のうち何代かの天皇は
アラハバキ族から出ている為に
欠史八代天皇などとも
呼ばれています。

外三郡誌では
八代目九代目は
アラハバキ族から立君したと
書いていますが
詳しいことは分かっていません。
ナガスネヒコとアビヒコが
新アラハバキ王国に加わってから
ヤマト政権に対して反撃を開始。

ここからは
勝ったり負けたりを繰り返す
時代です。

そしてようやく
八代目孝元天皇の時代に
奈良の土地を奪還。
この時、奪い返した大和王朝の
基礎を作ったといわれている。

そして
神武天皇に関する記録を抹消する。

景行天皇の時代になっても
まだ神武天皇の残党が
抵抗を続けていたので此れを一掃。

此れで神武の一族は
完全に止めを刺される。

その後、天皇家利用して
国体の中枢に入り込んで来た
外国人勢力は
日本の歴史を混乱させ
国力を弱体化する為
『古事記』『日本書紀』を捏造し
真相を隠蔽。

神武の記録も
アラハバキ王国記録も
両方とも削除されて
訳の分らない国史が誕生する。
この一覧表
ひと目でわかるから
面白いとおもったのだが
載せるとボケてしまう…Σ(ノд<)
日本史は
欠史八代どころか
16代の仁徳天皇の前の天皇たちが
実在したのかどうか
ハッキリ明らかにされていない。
私が
古墳時代に活躍した
天皇を思い浮かべるとしたら
継体天皇でしょうか。

応仁からみて5代目の孫。

この時代、再び新羅の勢力が拡大し
ヤマト王権が危機に陥る。
日本海を掌握して
水路を支配。
統治範囲を越・近江・美濃・尾張・
若狭に拡大して
外からの攻撃を防ぎ日本を守った。

ヤマト政権が確立された
古墳時代末期には
すでに
それ以降の
渡来人の侵入は禁止されていたと
いうことになるのかな。
外交による基盤が出来たためか
その後は
武力で奪おうとする
外国との交戦も増えだします。
古墳の周りにはいつも
壺みたいなやつとか
ヒト型とか、動物型とか
色んな埴輪が並べられているけど
なんでそういうものを
並べだしたのか?
不思議ですよね。
何となくはわかるが
それすら憶測でしかないし…。
古墳時代末期は
渡来人の行き来を禁止していたと
されています。

それどころか
渡来系の部族の抹消にも
力を入れていたような気がします。

高松塚古墳やキトラ古墳も
その時代のお墓です。
私は
キトラ古墳に埋葬されていたのは
秦族の子孫であり
女性のような気がしています。

女性というのは
私がなんとなく感じているだけで
根拠はない…。

秦の始皇帝は
禹王の教えを大切にしていた。

しかし
秦はあまりにも急激かつ厳格に
法令による政治をとったため
短時日で亡んでしまう。

その後
生き残った秦の王族たちは
中国から朝鮮半島を経由し
4〜5世紀ごろ
朝鮮半島の新羅の弓月君たちと共に 日本に渡ってきて
禹王を祖先に持つ一族と
合流したのではなかろうか。

全然解明されていないので
ホント想像でしかないのだけど…。
渡来系氏族のなかには
奈良の明日香周辺に集まった
蘇我氏や阿倍氏がいました。

彼らは大和朝廷を操れるほどの
力を持っていました。

飛鳥時代に繰り返された
殺し合いは
血統を重要視する民族を排除し
日本をひとつの民族として
統一させるためには
避けられない
争いだったのかも知れません。

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