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文芸冬夏コミュの読み切り『緑の夢・後編』著:幽一

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□□□後編□□□


 子供の頃だった。もはやおぼろげにしかその記憶は蘇ってこない。その日の光景も風景も,はたして本当にそのようなものだったのか自分には分からない。歳を重ねる度に,その記憶は泡沫のように薄れていくのであった。
 やがて目の前が赤く染まる。夕日の色ではない。顔にとても不快な感触がこびりついている。手で拭うと,それも真っ赤だった。足下は水たまりが出来ていた。真っ黒に見えたが,それも赤だった。そして赤い視界の先には,三つほどの塊が横たわっている。その塊には顔があり,その顔には見覚えがあった。弟だ。折り重なって倒れているのは両親だった。そして,三人とも赤く黒く染まっていた。そして動かない。
 自分の腹部からも同じような赤黒い液体が際限なくこぼれ落ちていた。足下の水たまりはそのためだった。自分は白いシャツを着ているはずだった。しかしその液体のせいでまったく別色の物となっていた。
 ふと気がつけば,目の前にはひとりの男が立っていた。自分と同じくらいの年頃の若者だ。手は真っ赤に汚れ,握られているのは包丁だった。
 彼は悲しそうに自分を見た。そしてすまない,っと頭を下げて謝った。
「う…ぁ…」
 老人は呻きながら目を覚ました。体中があせびっしょりで,寝間着が湿っていた。息遣いが荒く,鼓動も速くなっていた。しばらく肺に冷たい空気を吸い込んで,至る所を落ち着かせようとした。
 腹部が痛かった。
 さすって見ると,腹の表面に浮き上がりがあるのを指先で感じた。古い傷跡だった。痛いわけが無いのに,と老人は不思議そうにそこをさすった。
 腹部よりももっと痛いところがあった。だがそこをさする術はなかった。
 枕元に気配を感じたのはその時だった。振り向くと,そこにはあの少女の形をした機械が座っていた。手には水を持っていた。
「だれがこの部屋に入って良いと言った?」
 そう問いかけると,少女はすこし喋るのを躊躇するような仕草をした。騙されるものか,と老人は思った。
「すいません…しかしうめき声が聞こえたので」
 そう言って少女は手にしていたコップを差し出す。取りあえず無言で受け取って,それを飲み干すとコップを少女に返した。騰がっていた身体の体温が徐々に冷めるのが分かった。
「もういい,速く部屋を出て行け」
 そう命令すると,彼女はそこで困ったような顔をした。そして細い首を動かし部屋の中を見回した。
「本が多くありますね」
 老人の部屋には本が山のようにあった。さまざまな年代の物で,どれも古びて風化が始まりかけていた。
「全部ご自分で書かれたのですか」
「んなわけあるか」
 彼は起きあがり,布団の上であぐらを組むと枕元に数冊置いてある中から一冊を取りだした。
「あの三冊とこの一冊だけだ。もう,世界にはここにしか無いだろう」
「ではなぜ破かれたのですか?」
「破いてはいけないのか?」
 そう言って彼は本を元の場所に戻した。部屋の電気はついていなかったが,部屋は少女の姿や,置いてある物が識別できるくらいの視界だった。夜目きくほうではなかったが,なぜかくっきりと部屋の中が見渡すことが老人には出来た。
「あなたが薄れて見えます」
 少女は無表情に,しかしどこか緊張をはらんだ声音でそう老人に告げた。
「先ほどのよりも,あなたの気配や存在はとても薄くなっていました。とても危険です」
 老人はそこで苦笑した。
「それは死ぬということか」
 彼女は答えなかった。老人は低く押し殺したような声で愉快に笑う。
「そうかもしれんな」
「先ほどは,悪夢でも見られていたのですか?」
 彼はそこで笑うのを止め,いつもの不機嫌そうな顔になった。
「おまえのような奴に悪夢…いや,夢など分かるはずもないだろう」
「いいえ,私は夢を見ます」
「ならそれは夢ではない。おまえが夢を見るわけがないんだ」
「どうしてですか」
 少女は無表情で,いたって冷静そうな口調を保っていたが,わずかに納得のいかなそうな部分を垣間見せた。
「機械には感情などない。おまえらはどうせ木々を見ても美しいと分からず,音楽を聴いてもただの雑音にしか聞こえず,本を読んでもその内容に感動することできない」
「そんなことはありません。夕方あなたの書いた本を読ませてもらって,私は感動しました」
「そんな訳がない!」
 彼は怒鳴りそのまま立ち上がった。
 沈黙が続いた。薄暗い部屋の中で聞こえるのは,老人の荒い吐息だけだった。
「私は…」
「黙れ!もう何もいうんじゃあない!」そう言って彼は彼女を押しのけ,部屋を飛び出した。あわてて少女も彼の後を追って階段を下りる。彼は庭に出て,夜空を見上げていた。彼女はそこに駆け寄った。
「来るんじゃない!」
「私はあなたに仕えるためにここにいるんです」
「それはおまえの意志じゃないだろう,命令されているからだろうが!」
 そこで少女は言葉に詰まった。彼は振り向いて,彼女と向かい合うとさらに言葉を続けた。
「人殺しの命令でも従うのか…?」
 そこで少女は目を見開いた。明らかに顔に動揺が走った。
「知らないのか?教えてやろうか?僕はおまえを買えるような,そんな大金は持ってなんかいやしない。だが,おまえを買うことの出来たのはどうしてだと思う?」
 少女は何も答えず,老人の喋る言葉を聞いていた。
「僕の両親と兄弟はある男に殺されたんだ。ずっと昔だ。僕も刺されて血まみれだった。今でも鮮明に覚えているぞ,僕の着ていたシャツは白のはずだった。でも,血に汚れて真っ黒に染まってた。僕の脇腹からは中身が漏れだして,足下には水たまりが出来ていたんだ。血の水たまりだ。そいつは,僕に罪をなすりつけて逃げやがった。そいつはな,この世の富と権力の一部を手にする一族の御曹司だったんだ。僕は家族を殺して自殺したことにされたんだ。だけど,そいつの親父はとても正義感の強い奴で,あとで後悔したんだろうな。だが可笑しいものさ。そんな正義感の強い人間でもやっぱり自分の息子は可愛いらしい。結局僕という人間は家族を殺して自殺したいかれた犯罪者として葬られたんだ」
 自分の手を見ながら自嘲するかのように彼は笑う。
「奴は死んだことになって入院していた僕の所にやってきて一生,不自由のないように暮らしていけるようにしてやる,欲しい物は出来る限りのものは用意してやる,って言った。それで僕は言ってやったんだ。誰も居ない森に僕の住んでいた家をそのままそっくり移動させてな。そうしたら本当に移動させたんだ,そいつは」
 そう言って,彼は後の家屋を指さした。
「おまえが寝ている部屋は,僕の家族が殺された場所だ」
 顔に笑みを浮かべながら老人は可笑しそうに続けた。
「それからずっと僕は一人で暮らしてたんだ。もともと人間が嫌いなふしもあったからな。一生何不自由のない生活が手に入ったんだ。この森も,この空気も,この家も,全部僕の物になったんだ。僕はようやく幸福を手に入れたんだ…なのに」
 そこで彼は少女を睨んで,呼吸を整えるかのように息を吸った。それから言葉の一つ一つを確かめるかのように淡々と語り続ける。
「僕の身体にガタが来て,一人では何も出来なくなった。かといって,いまさら人間の家政婦でも雇う気なんてさらさらない。人間は鬱陶しい。醜い。煩わしい。だから僕の周りには必要なかった…。そうだ,たまたまあの日,食料品を届けに来た業者の持ってきたチラシの中におまえらの話が載っていた。もう実用化されている,だが値段は高い。写真がなかったから想像もつかなかったが,僕は奴に電話した。何年ぶりかな,電話で人と話したのは。出たのはその家の子供か誰かだったかな。すぐに他の執事か誰かに代わって,それから僕はおまえを要求したんだ。人間でないおまえらなような存在を知って残り少ない僕の世話でもして貰おうと思っていたのに…」
 そこで彼は少女から視線をそらして,池の方へと歩き始めた。そしてそこに疲れたように座りこんだ。
「どうして…おまえのような,人間のようなのが届いたんだ」
 老人は後悔するかのように呟き深くうなだれた。空には幾千物星が輝いている。空気はひんやりとして澄んでいた。けっしてここ以外には存在しない,美しく綺麗な大気なのだろう,と彼女は思った。ふと,流れ星が空を横切り,老人は顔を上げた。森の彼方に瞬く間に消えていった流れ星の余韻が深く印象的だった。
 彼女は,空を見上げたまま呆けたように口を開けている彼の側に歩み寄った。彼は何も言わず,すっと空ばかり見上げている。
「どうして…みんな死んだんだ…」
 独り言のように彼は呟いた。眼鏡を取って,横に置くと,彼はしばらく瞬きもせずに目を見開いて周りを見回した。すると彼女の姿が無かった。
 立ち上がって,もう一度辺りを見回すが視界の先には薄暗い森の影しか映らない。あの少女は煙の如く消えてしまった。まるで達の悪い夢のようだ。いったい何なんだと言うのだろう。彼は今までに感じたことのない寂しさに襲われた。喪失感は,家族が殺された時にすでに味わい尽くしているつもりだった。しかし,胸を絞める不思議で不快な感覚,感情はそれをさらに上回っていた。
「そうだ…それでいいんだ」
 彼女はおそらく,出て行ったのだろう。再び,池の前に座りこんだ老人の後ろ姿は,色を失い白く透けているようだった。


 翌朝,老人はいつものように外に出た。朝靄が庭にうっすらと立ちこめていた。そこに朝日が差し込んで,白く光っていた。
 今日は手には何も持っていない。いつも座っている長椅子を抱えているだけだった。木陰の側まで来ると,彼は椅子を広げてその上に腰を沈めた。静かな朝だった。彼にはとても静かに感じられた。違和感を感じるくらい,今日の目覚めは静寂に満ちていた。
 いつもなら下の階で,あの少女が料理を作っている音が聞こえてくるはずだ。その音がやかましくてこうして庭に出て,いつものように何もせず庭や池を眺めている。そうすると,今度は少女が食事が出来ました,とお盆に料理をのせて目の前に運んでくる。自分はそれを不機嫌そうに受け取って,結局半分しか食べなかった。
 それから,少女はそのお盆をもって家に戻ると食器を洗う音が聞こえてくる。間に彼は庭の隅の緑色の絨毯のそばの小さな畑の手入れをする。手早くやらねば,掃除をすませた少女がやってくる。またこの前のように大根の芽を抜かれてはたまらない。そして気がつくと,少女が傍らに屈み込んで自分の作業を見ている。掃除は終わったのか,と聞けば終わりましたと丁寧な口調で答えてくれた。なぜかそれがむずがゆく,畑の手入れをほっぽり出して自分は木陰の椅子の所に戻ってしまう。そして少女が代わりに畑の手入れをしているのだ。最初は無視するが,段々その危なっかしい手つきに我慢ならず,立ち上がってそちらの方に行ってしまうのだ。
 そんな記憶が蘇って,彼は苦笑する。
 まさか,とは思っていたが。彼は自分が思い出に浸っていることに驚いた。昔の記憶と言えば,あの血の海の記憶しか蘇らないのでそれに感傷などは一切感じないはずなに。自分はあのたかが,二,三日ぐらいしかここに居なかったあの少女の形に,懐かしいと感じている。それと同時に,寂しいという感情をも彼は思い出していた。
「私はあなたに仕えるためにきました…か」
 彼は静かにそう呟くと,ゆっくりと立ち上がった。そうだ。今日もあの場所に行こう。まだ,あの少女には教えていない,秘密の場所だ。
 歩き始めると,驚いたことに思うように身体が動かなかった。やはり,身体には限界が来ていた。もう死期が近いことを彼は悟っていた。だが,それを怖いとは思ってはいない。むしろ切望しているような節が彼にはあった。
 重い足を引きずりながら,林の小道を歩いていく。緑色の天井から太陽の光が漏れて,地面を照らしている。涼しい風が,道の奥からこちらに向かって吹いてくる。それを受けなると,ごうっ,と耳元で自然の響きが聞こえた。
 林を抜けると,目の前に小さな空き地が姿を現した。周りは木々に囲まれ,黄緑色の芝生が地面を覆っていた。ここだけ,自分の庭には無い,花が数輪咲いていた。白い花だった。
 足下のその花を摘み,彼は中央の石碑へとよろよろ歩み寄った。石碑は風化して壊れかけていて,至る所に緑色の苔がこびりついていた。何か文字が書いてあるようだが,もはや読めるほどこの石の状態は良くない。
「どうやら…もうそろそろかもしれないね」
 彼は石碑に語りかける。自分にでも馬鹿な事だと思っていた。石碑の下には家族が眠っている。だからどうしたというのだ。こんな石に話しかけたところでなんの意味もない。無意味な行動だ。なのに自分はこの無意味な行為をこうしてやめることなく続けている。不思議なことだ,と彼は思った。
「そろそろ,とは死ぬということですか?」
 背後からの声に彼は驚いた。ふり返ると,やはりそこにはあの少女が立っていた。腰まで伸びている黒い髪に,月の光しか知らないような白い肌。何を考えているのか分からない無表情なその顔に,どうして自分はこんなに嬉しいと感じるのだろうか。おもわず何も言えない老人はそのまま視線をそらした。
「今のあなたは…もう,薄れて色がわかりません」
 そこで彼は己の手を見た。いつも道理のしわがれた手がそこにあった。何を言うのだろう,と思ったが考え直して口を閉ざした。
「たしかに,僕はもう長くない…」
 彼は俯き,手にした花を見つめた。
「だが,よく戻ってきた」
 自分の口からこんな言葉が出るのが信じられなかった。彼女はいたって無表情のまま,唇だけを動かし言った。
「私はあなたに仕えるためにここに来たのです」
 その言葉を聞いて,彼はようやく苦笑でもなく,自嘲でもない笑みを顔に浮かべた。しかしそれを少女に見られるのが気恥ずかしく,顔をそらして石碑と向かい合った。
 そこで彼は涙腺が急に緩んで,涙がぼろぼろっと溢れた。
「…ここは,家族の墓ですね」
 彼女はやはり無表情に言う。だが腹は立たない。無言で彼は頷いた。
「あなたは,あなたの家族を殺したあの人を憎みますか?」
 彼女の問いに,何を答えればいいのか,彼は皆目分からなかった。
「…憎んでなど…いない」
 口から出たのは,汚れた偽善の言葉だった。
「…嘘ばっかりです」
 少女にそう言われれ、彼は一瞬目を見開いた。どうか本当のことを言ってください。そのように少女の目が語りかけている。機械の目のくせに,なんて真っ直ぐな目をしているのだろう。その吸い込まれそうな黒い瞳に,嘘をつく気は失せてしまった。
「…憎い…」
 彼はそう呟くと,地面に座り込んだ。
「憎い,憎すぎる。憎くて憎くてたまらない。殺してやりたい。もし許されるなら,望めるなら奴にも同じ思いをさせてやりたい。奴の血族を一人でもいいから殺してやりたい…」
 彼自身ではなく,彼の家族を。そうすることで,自分と同じ思いを奴にも思い知られてやりたい。
「憎い…」
 老人は屈み込んで嗚咽した。酷く咳き込んだ。少女が近寄り,彼の背中を撫でた。
「私も…実は嘘をついています」
 ふいに少女は彼の耳元でそうささやいた。悲しそうな声音であった。
 彼女は手に包丁を握っていた。それを彼の目の前に差し出すと,やはり悲しそうな瞳で彼を見た。
「私を…殺してください」


■■■ ■■■


 彼は私の言った事を一瞬理解できずに呆然とした。そして説明を求めるような顔になった。
この包丁はいったい何なんだ,と彼は困惑した表情だった。
「私は,機械と偽ってあなたに仕えました」
 彼に話すのがとても辛かった。
 私が彼に話した事の大半は嘘だったからだ。彼が思っているような機械の人形は存在しない。在るとしても心を持たない,それこそ彼の望んできたような機械ぐらいだが,やはりそれはまだ不完全だった。
「どうして,そんな嘘をついたんだ」
 納得の行かない,といった彼の顔を見ていると後悔の念が沸き起こった。
「ごめんなさい…」
 ふと気がつくと私は泣いていた。指先が小刻みに震えて,うまく喋ることが出来ない。ただ彼の失望したような顔を見ているのがとても辛い。機械だと思っていたから,彼は私を受け入れた。人間だと知って,彼はとてつもなく怒りを感じているだろう。そう思うと,とても申し訳ない。ごめんなさい,ともう一度声にならないような声音で呟いた。
「なんで謝るんだ…」
 彼ははやり悲しそうな顔をしていた。やはり辛い。
「僕は…君が人間であってくれて嬉しかった」
 彼はそのように言った。信じられなかった。もしかしたら,私の耳が壊れていて都合の良いように脳にその言葉を変換しているのではないのか,とさえ思った。
「でも…私は」
 言わなければ,ならない事だった。私は覚悟して,その言葉を紡ぎ始める。
「あなたの家族を殺した男を今でも憎んでいるのですよね。当然ですよね,家族を殺した人殺しです。憎まれて当然です…しかし,今から言うことを信じて聞いて欲しいんです。彼は,その後,父の会社を継いで,やはり同じような権力の地位に就きました。人を殺したという事実も存在しない,選ばれた存在として富の行き交う世界に君臨していました。でも,彼はやはり重荷に思っていたんです。後悔していたんです。自分のしたことについて…とても後悔していたんです」
 彼は驚いたような顔をしてそれを聞いていた。にわかにそれを信じることはできないのだろう。しかし私は続ける。
「その男は…祖父は,後悔していたんです」
 そこで老人は目を見開いて,後に後ずさった。
「な,君が…祖父だと…いや,あの男の…」
「はい,孫です」
 私は頷いた。すると彼は,それこそ信じられないといった顔をした。
「すいません…ごめんなさい」
「…君が…」
 私は地面に額を擦りつけて彼に謝った。涙が止めどなく,目の端から流れ落ちて土が顔に付着する。顔が汚れることは気にならなかった。ただひたすら頭を下げた。
「だから祖父からその話を聞いたとき,私はあなたに仕えようと決めたんです。丁度,あなたが電話してきた時,電話に出た子供。あれは私なんです。あなたはいきなり,僕の世話をする機械の人形をよこせ,と言ってきましたよね。驚きました,いきなりなんなんだろうって…それから,私は声を裏返して執事の物まねをして,あなたから詳しい話を聞いたんです…」
 すべては私の独断だった。彼に仕える。祖父の犯した罪を自分が償おう,とその時に決めたのだ。
「ねえ,さっき言いましたよね?憎いって…あの男が…祖父が憎いって…,彼の家族も殺してやりたいって…」
 そう言って私は彼が手にしている包丁に手を伸ばし,自分に向けさせる。怖いとは,思わなかった。だが,身体が震え涙は止まらない。死の恐怖とは違う何かが,身体をここまで怯えさせている。だが,それでも私は決めていた。
 だから,だから私を…
「私を…殺してください」
 そうしてあなたと私の一族との因縁を断ち切りましょう。あなたの恨みも,祖父の苦しみも断ち切りましょう。私一人でいいですから,それでおわりにしてください。
 私は目を瞑って,刺されるのを待った。
「君が…あの男の」
 彼が手に力を籠めたのが分かった。手をそっと引き,その瞬間が訪れるのを私は震えながら待ち望んだ。
 だが,その瞬間は…いつまで経ってもやってはこなかった。
「君が,そんな重荷を背負う必要は,ない」
 彼は包丁を遠くに投げた。私は目を開ける。彼は酷く,穏やかそうな顔をしている。
「これは,僕の…僕の問題なんだ。だから,君が不幸になる必要はどこにもないんだ」
「だ…だめ…」
 私は彼にすがりついた。
「駄目よ…殺さないと…あなたが消えてしまう!」
 彼の姿はすでに,半透明に近かった。彼をつなぎ止めている存在が消えかかっていた。
「もう,いいんだ」
 彼は優しく微笑んだ。そうして石碑のほうに視線をやって,悲しそうな目をした。
「見てご覧。あれが僕の本当の姿なんだ」
 石碑にもたれかかって,そこには彼の身体があった。茶色く風化して,骨と草が絡み合い,虚ろな髑髏の目からは花が咲いていた。
「僕は…とっくに昔に死んでいたんだ」
 恨むことで,存在を維持し,憎むことを押し殺すことで己の姿をこの世に縛り付けていた。もし,私はを殺せば新たな恨みが起こり,そして彼が死ぬことはないはずだった。そうして循環することによって彼の存在は続くはずだった。なのに…
「どうしてです?」
「永遠に,この世に止まることは誰にも出来ないんだ」
「いいえ違います」
 私は顔を上げて,もう大気の色に近い彼の姿を見上げた。
「あなたは…私の記憶に残ります」
 たとえ,その存在が今ここで消えようとも,肉体が朽ちて塵芥になって消えようとも,人は死んでも…記憶の中で生き続ける。そう思う。
 私は泣きながら,薄れ逝く彼の像に抱きついた。すでに彼は老人の姿ではなく,彼の魂は若き姿をした少年だった。色はすでに失せ,白い輪郭と後の緑色の背景のなかおそらく何十年も代わることなくこの森を愛し続けたのだろう,彼は慈しむようにそれらを見ていた。
「まるで…夢のような日々だった」
 消えゆく中,彼は最後に愛おしいかのように私を強く抱擁した。自体は無いはずなのに,彼の腕の暖かみは確かに感じることが出来た。その瞬間,とても短すぎる彼と過ごした日々の光景が脳裏に浮かんでくるのだ。短期で,すぐ不機嫌そうな顔になる。意地っ張りで頑固で,好き嫌いが激しくて私の作った料理も半分しか食べてくれない。でも,不味いとは言わなかった。 小さな畑の手入れが分からなかった時,あなたは私に嫌々ながらも教えてくれましたよね。間違ってまた大根の芽を抜くんじゃないかと心配させてしまいました。でも,こんどは間違えたりはしません。掃除も完璧にやりました。あなたは椅子をどうしても自分で運びたがっていましたよね。見ていて,こっちがどきどきしたんですよ。
 とても愉しく,そして辛い記憶。だが,その過ごした日々の記憶の中に“後悔”だけは決して存在しません。
「君の…名前をまだ,聞いていなかった」
 彼の姿はもう,ほとんど光の中に包まれていた。声だけが耳に届いた。
「ミドリです…」
「ミドリ…」
「はい」
「ありがとう…」
 そうして彼の魂は,大気に霧散し,緑の自然に溶けこんでいった。
 きっと彼は幸せな気持ちに違いない。後悔などしていないに違いない。この世界で唯一自然残ったこの庭で,安らかに眠っているのだろう。そしてきっと日の日差しや,この緑色の景色や涼しい風を思いだしているに違いない。
 そして…そこで…
 きっと…いい夢を見ているのでしょうね。


                      ■■■END■■■

コメント(1)

あとがきのような文

 物語を書いている時感じる茫漠としたイメージを形にするのに、他の人はどうかは知らないけど僕はなんの設定も考えないまま勢いで書いてしまうことが多い。勿論、ちゃんと世界観を決めて、主人公の名前や土地、人数などをちゃんと決めて書くときだってある。いや、むしろそれは長編のような小説を書くときは必然だろうし、当然なんだろうと思います。
 ただ、僕にはまだ長編を書けるだけの体力が在るかどうか未知数です(自分で自己分析してみても)。勢いに乗れば、そりゃー、一週間学校にも行かず、家で一日中小説を書いて暮らすことが出来れば長編なんてすぐに書けるかも知れません。でも、現実的な問題として学校に行かなきゃいけないし、進路のための勉強もしなくちゃいけない。高卒ですぐに小説家になれるというほど世の中そんなに甘くないでしょう。そりゃ、僕にそれほどの才能があれば別ですが、今のところ才能と呼べるだけの輝く何かが評価されているわけではないので、どちらにしろ現実と歩調を合わせて行かなければならないわけであります。
…って堅苦しい話になってしまいましたけど、あとがきってもっと、こう、「はっちゃけー」「いただきマンモスー」みたいにハイテンションで読んで笑えるようなものじゃないといけないような気がします。勘違いかも知れませんが、僕はこれから面白いあとがきを書けるように努力を重ねていこうと思います。ん?誰ですか?努力をする方向を間違っている?
…たしかにそうと思いますが、あえてそれを聞かぬというのが男の意地です(安い意地です)。
 さて、作品について触れるのはまだ読了されてない読者(いてくだされば感涙のかぎりです)の皆様が「っけ、あとがきに内容書いてあると読む気、失せるじゃねーか」みたいなことになって、それが段々と殺意に変わり、いずれ革命的思想に発展していき、幽一排斥運動が起こるかも知れません。もしかしたら、魔女裁判に掛けられて火あぶりにされるかもしれません。いや、踏み絵をやらされるかのうせいだって在るわけです。恐ろしくて夜も眠れなくなった僕は、結果的に円形脱毛症となって若禿の称号を与えられるのかもしれません。
 そしてそれは僕の考え過ぎかも知れません。でも、もしかしたら、と思うと一人でトイレに行けなくなってしまいました。…つまらぬことをこれほど書ける自分にすこし感心してしまいました。
 あとがきはそろそろ終わりにします。もし、読んでくださって感想、批評があられたらコメントに書き込んでいただけると幸いです。感涙して踊り狂い、電柱柱に当たって砕けるほど喜びます。
 なお、私的な宣伝ですが、自分のミクに日記の代わりに連載している小説もあるので、御暇が在られたら読みにいらしてくださいませ。
 こんな駄文を読んでくださる読者(いるのかな?)の皆様に、満天の星の如くの幸福があらんことをお祈りいたします。
 では、また次作でお会いできれば。

by、幽一

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