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信仰と対話コミュの「縁起」と「他力」と「阿弥陀仏」

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ややこしくなりそうなのでトピックを別に立てておきます。

阿弥陀如来とゾロアスター教の関係 より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29979335&comment_count=5&comm_id=2135313


【あつし】
阿弥陀仏の起源に関しては、ゾロアスター教などとの関連を想定する他にも、仏教の中からの内発的な要素を重要視する指摘もいっぱいありますよね。

阿弥陀仏の成立に関しての内発的な観点を重視する議論としては、私が読んだ少ない知識の範囲なので、もっと他にもいろいろあるのかもしれませんが、小川一乗さんの著作がとても面白かったです。
小川一乗さんによれば、縁起の法をわかりやすく言ったのが「阿弥陀仏」であり、今のこの自分のいのちを支える無量無数のご縁のことを、「無量寿仏」・「無量寿仏」と表現したのであり、そのような無量無数の縁はとても思議し尽くすことができないから「不可思議光仏」と表現されたのだと言います。
阿弥陀経の六方恒河沙の諸仏のことも、無量無数のご縁のことの象徴だとしています。
つまり、阿弥陀仏=縁起の法・空 ということであり、般舟三昧経にも「念仏を用いる故に、空三昧を得る」と書かれ、無量寿経や観無量寿経でも念仏が「無生法忍(空の認識)」に至ると書かれております。

縁起の法をわかりやすく言ったのが阿弥陀仏や本願ということだという見解は、小川一乗さんだけではなくて、浄土宗の方では椎尾弁匡さんや林霊法さんの御著書でも読んだ記憶があります。

それらの意見を見ますと、阿弥陀仏の名号も阿弥陀仏に関する経典の内容も、もともと仏教の縁起の法との深い密接な関係のもとに構築されておりますので、空や縁起の法への洞察と無関係なイランのゾロアスター教とは、やはりかなり異質な要素の方が多いと思いますし、根底は異なっているのではないかと思います。

阿弥陀仏への信仰・浄土教と、キリスト教の類似性を指摘する声もよくありますが、阿弥陀仏の名号や信心が空や縁起と密接に関係している点が、やはり根本的に異なっていると思うんですよね。

ですので、もちろん当時のインドとイランの文化的な交流は活発だったと思いますし、なんらかの相互刺激や触発はあったのかもしれませんが、内容としてはゾロアスター教と浄土門仏教はだいぶ異なりますし、あまり関係はないのではないでしょうか。



【tonia_ir 】
こちらでははじめまして。

>0 あつしさん
>小川一乗さんによれば、縁起の法をわかりやすく言ったのが「阿弥陀仏」であり、

つい最近別コミュで「親鸞の『他力』というのは縁起のことなのだ」
というお話がチラと出まして、「え?」と思ったばかりなんですけど、
それはこのことと関係があるんでしょうか。

私は親鸞上人についてはまだ歎異抄しか読んでないんですけど、
歎異抄を読んだ限りでは、親鸞上人が阿弥陀如来や他力のことを
縁起の法のことだと考えておられたとは思えないんです。

もちろん根底には四法印・縁起・空の真理があるはずです。
でも、そのものイコール・・・なんですか・・・?

阿弥陀如来には人を救うという意志を感じます。
縁起の法には意志はないですよね?

ゾロアスター教と無関係の質問ですみません。



【あつし】
<tonia irさん

その方がどういう意味で「親鸞の『他力』というのは縁起のことなのだ」 とおっしゃったのかは、前後の文脈を見てみないとわからないのですが、

おそらくは、小川一乗さんの御著作と同じような意味でおっしゃっていたのかもしれませんね。

縁起の理法と他力ないし阿弥陀仏がイコールかどうかというのは、縁起の理法をどう定義し、また他力や阿弥陀仏をどう定義するかということによって大きく変わってくると思います。

他力や阿弥陀仏の定義が、そもそも一般的には誤解だらけなので、そのことから論じないとかなり誤解を生じる場合も多いですよね(^^;w

縁起の理法・真如(真理)に意思があるかないか、という問題ですよね。

真如に意思があるかどうか、というのは、けっこう仏教だと長い議論の蓄積があるように思います。

私も単なる在家の素人なので、他のいろんな方の意見をお聞きしたいところですが、

一般的な仏教史だと、唯識が真如は静的なものであって人を救うような意思や働きが積極的にあるとはみなさないのに対して、華厳等は真如は動的なものであって人を救うように働きかけてくる、という見方だとまとめていると思います。
法華や浄土教も、唯識より華厳と同じ傾向ではないかと思います。

また、三身ということがよく大乗仏教では言われますが、真如・空性の理・縁起の理法のことを法身、それが動的に人格的なものとなり救済の意志を持ったものとなったのが報身、具体的に歴史的な人間としてあらわれたのが応身とされますよね。
で、法身=大日如来、報身=阿弥陀如来、応身=釈迦如来とされ、かつ三身は即一とされていると思います。

ややこしい話ですし、もっと仏教が専門の詳しい方もいると思うので、皆様の意見を仰ぎたいところです(^^;w

別にトピックを立てた方がいいかもしれませんね〜^^

コメント(53)

<阿呆陀羅經さん

「摂大乗論」は、以前上下二巻本の分厚い和訳のやつで読んだことがあるのですが、乏しい私の理解力ではいまいち全部明瞭に理解し切れませんでした(^^;w

私も含めて、「摂大乗論」をあんまり読んだことがない人も多いと思うので、お時間や余力のある時にでも、

「法界等流の悲」をわかりやすくご説明いただけたらありがたいです。
>あつしさん
阿弥陀仏が名号になってくれてるから、凡夫が対象化することができて、
「南無阿弥陀仏」できることになるんでしょうね〜。

確か、向坊さんの『阿弥陀仏の源流をたずねて』に、このあたりが、
エライわかりやすく書かれていた気がしたんで、
また後で見直してみたいと思います。

あと、『教相十八通』にそんな議論があったような気がするんですが、
十年近く前に読んだきりでほったらかしなんで、これもまた後で見直してみますね。


>阿呆陀羅經さん
おお!『摂大乗論』にそんなおもしろそうなことが書かれているんですか!
これもちょっとチェックしたいと思います。

学生時代に勢いで買ったものの、ちゃんと読むこともなくほったらかした、
長尾先生の本がこんな所で役に立つとは!!
真宗を個人でぼちぼちと勉強しているものです。

先の「他力=すべてのご縁」とするか否か、、、の問題でふと思ったことを。


「本願他力」= 「 「全てのご縁が阿弥陀仏のはたらきなんだ」と気付かせてくれる全てのご縁」

と、最近は味わっております。。。。論理的では決してないですけれど。。。。

文章にすると、なんのこっちゃ、、な感じやけれども。。。


いったん本願他力の教えに出会うと、

「すべてのご縁=仏のはたらき=本願他力」

となるように思います。



教行信証の総序の御文で、
ダイバダッタはアジャセをそそのかせた。アジャセはお父さんを牢屋に閉じ込めた。
苦悩する母に釈尊はお浄土の姿を説いた。

ここの人物は全部「権化の仁(菩薩が救済のために化けたもの)」で阿弥陀様が釈尊を通じて、
自分たちに救いの内容を知らせたもの、、、と、親鸞聖人は書かれております。


ダイバダッタの悪知恵も、アジャセの悪業も、お父さんの不幸も、母親の苦悩も、
親鸞聖人にとっては、聖人自らの愚かさ、弱さをに気づかせ、
また、お浄土の相を知らせ、信仰を深めさせてくれる、
阿弥陀仏のはからいのように写ったのではないでしょうか。

天災に関しても、
親鸞聖人は「お経を1000回読むぞ!」となったり、
でも挫折したり、、、あとから振り返って、
「あれもまた、私の自分の力をたのもうとしていた」と、
そして、「念仏のほかになにもいらなかったんだ」、と、気付いた事を述べております。どこかで。

天災が念仏を味わうきっかけになってる。

世の中にとっての不幸が、仏法の現場に転換されている。


念仏に出会うと、すべてのご縁が念仏の味わいを深め、
自己の愚かさに気づかせてくれる、
阿弥陀様のはたらきと味わえるようになるのだと思います。



なんとなく、念仏、阿弥陀仏に限らずとも、仏教ってそういうもののような気がする。
んー?自分で書いてて、途中で意味が分からなくなってる。。。


阿弥陀仏=「「全てのものやご縁が阿弥陀仏のはたらきだ」、と気付かせるようなはたらき」

自分の頭の中では

「仏法=私にとっての全てのものや、全てのご縁を仏法にするもの」、となった。

(仏法=縁起の法則に気付いた人の教え、自分が縁起の法則に気付いていく教え)。

「縁起に気付いた人の教え(仏法)=
   無智な私にとって全てのものやご縁を、私が「縁起」に気付いていく」ご縁に変換するもの」。


もうちょっと細密なことを話すためのボキャブラリーが自分には必要だと思えてきました。


みなさんのお話を聞かせてください。
いとーさん、あつしさん、皆さん、いろいろお話をありがとうございます。
私は夫の実家が浄土真宗なので、浄土真宗に馴染むのが一番いいかなと思ってるんですけど、
個人的には浄土真宗より浄土宗のほうが自分に合うんじゃないかなあと思ったりします。

世の不条理がどんなに酷いものかを、いろいろと見てきましたし、自分でも経験しました。
それらが意志のない公平な縁起によって起こると思えば納得もいくんですけど、
もし誰かが何かの意志でもって、こんな悲しい酷いことをなしてるんだとしたら、
私はその何かを絶対にゆるすことができないでしょう。

修羅のような煩悩だなあと自分でも思います。
でも自分でもどうしようもない煩悩です。
こんな哀しい苦しいことが阿弥陀如来の意志で起こされているとしたら・・・
言葉もありません。

なので、いとーさんが3番で引用してくださったお話のように、
災害や病気や事件や事故を何かの意志によるものと考える必要はないと思うし、
ましてそれが阿弥陀如来の意志だと考える必要もないと思います。

私のような凡夫は、念仏していれば浄土に往生できる
ということだけ分かってればそれでいいんだろうとも思います。
それ以上に難しいことは今はよく分かりませんけど、
これからも少しずつ学んでいきたいと思います。
ただ私は仏教を、学者の学問のように学ぶつもりはないんです。
信じることができるかどうかが大切だし、
日々の生活の中で生かせる生き方として学んでいきたいと思います。
tonia_irさん

>私のような凡夫は、念仏していれば浄土に往生できるということだけ分かってればそれでいいんだろうとも思います。
>それ以上に難しいことは今はよく分かりませんけど、これからも少しずつ学んでいきたいと思います。

ほんと、それ、同感です!
<曜さん

そうですね〜。

「すべてのご縁=仏のはたらき=本願他力」

というのは、面白い見解だと思います。

ただ、おそらく、


もともと「すべてのご縁」しか存在せず、「私」などは存在していなかった、「すべてのご縁をいただく私」ではなくて、「すべてのご縁=私(と思っていたもの)」であった、

しかし、私は「私」という考えから離れることができず、長く迷い輪廻してきた、

その私を、「私」という概念を叩いて、「私」をとってくれるのが、

「南無阿弥陀仏」という名号(ことば)である、

というのが、

浄土真宗のものの見方かなあと思います。

ですので、

阿弥陀仏=「「全てのものやご縁が阿弥陀仏のはたらきだ」、と気付かせるようなはたらき」

というよりは、

「南無阿弥陀仏の名号の働き」(本願力)=「私」は存在せず「すべてのものやご縁の働きのみが存在するという本当のいのちの世界」に「私」を目覚めさせてくれる働き

という方が、いいんじゃないかと思いました。

なかなか、ややこしいところですね(^^;w



<tonia irさん

ええっと、念のために言っておきますが、私も災害等が阿弥陀如来の「意思」で起こるとは考えていません(^^;

っというか、浄土宗のみならず、浄土真宗も、いろんな人生の災厄等は、べつに阿弥陀如来の意思で起きているとはしません。
キリスト教のような「神」と阿弥陀如来はぜんぜん違う存在です。
仏教は、自分の運命のつくり主に、何か神のような意思を持った大きな存在がいるとは仮定しません。
浄土真宗も浄土宗も、あくまで「自業自得」の教えです。

もちろん、浄土宗もすばらしい教えですし、あんまり浄土真宗と違いもないと思うので、tonia irさんが浄土真宗より浄土宗の方が自分にあうと思われることはぜんぜんかまわないと思いますし、それで浄土宗の教えを聞かれることも大いにお勧めしたいと思いますが、

ただ、浄土宗と浄土真宗の違いは、その点では全くないことはご理解いただきたいと思います。

私も、仏教を学者や僧侶のように学ぶつもりは全くありません。
この人生の苦悩の解決にならないような仏教は、学者や僧侶には学問や生計のために必要かもしれませんが、在家の素人には何の意味もありませんもんね(^^;w

ただ、自身の問題の解決のためにも、経典や七祖がどういうことを言っているのかをきちんと理解して、自分の見解とは異なるそれらの教えを聞いてみるのも、意味はあることだと私は思っています。

そうですね〜。
浄土宗でも「縁起=他力」という理解に近い方もいますので、
浄土真宗だけでなく、浄土宗においても若干「他力」の理解にブレがあるとは思いますが、

親鸞聖人においても、

●他力といふは如来の本願力なり。『教行信証』行巻

というように、「他力=本願力」と定義されていて、
さらに『高祖和讚』にも、

●本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
『高祖和讚』天親讚

●天親論主は一心に 無礙光に帰命す
本願力に乘ずれば 報土にいたるとのべたまう
『高祖和讚』天親讚

●煩惱具足と信知して 本願力に乗ずれば
すなわち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ
『高祖和讚』善導讚

という「本願力」の用例がありますから、少なくとも法然上人と親鸞聖人に関しては、「他力」の理解に違いはないと思います。


あと、所謂阿弥陀仏の「お育て」は「光明」ということで位置づければ、「縁起=他力」とする際に発生する問題もクリアーできるのではないかと思います。

●光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。覚如上人『執持抄』四
>19 どろさん
>ほんと、それ、同感です!

おう!(^o^)/
>20 あつしさん
>浄土宗のみならず、浄土真宗も、いろんな人生の災厄等は、
>べつに阿弥陀如来の意思で起きているとはしません。

そうなんですかあ、安心しました。
私、もうちょっとで固まるところでした。
自業自得も縁起によるんですよね、災害や戦争なども縁起によるんですよね。
だからやっぱり縁起は公平な法則のようなもので意志はない
と思うほうが私には自然なんですけど、違うのかなあ・・・。

>ただ、浄土宗と浄土真宗の違いは、
>その点では全くないことはご理解いただきたいと思います。

どこが違うのか教えていただけますか?
体系的に勉強したことがないので、全体像がよく見えないんです。

>私も、仏教を学者や僧侶のように学ぶつもりは全くありません。

小川一乗さんてかたを私はまだ存じ上げないんですけど、検索したら仏教学者さんで、
そのかたの著書を引用してあつしさんが難しいことを書いてらしたので・・・(^^;

学者さんの仏教の学問は、信心からではなく
知的好奇心からくるように思えて、あまり好きになれないんです。
僧侶のかたは違います。
浄土真宗では親鸞上人は弟子はとらないと言われたそうなので
師弟関係がどうなってるかは知らないんですけど、
仏教では普通は師弟関係で学んでいくんでしょう?
師の師のそのまた師の・・・と遡っていったら釈尊までつながるんだろうと思うんですね。
ですから僧侶のかたの仰ることは生きた教えだし、
含蓄のある感じがするし、信心からくるものだと思いますし。
ていうか、そうでない僧侶がいたらヘンでしょう。いるのかも知れないけど・・・。

>「南無阿弥陀仏の名号の働き」(本願力)=「私」は存在せず
>「すべてのものやご縁の働きのみが存在するという本当のいのちの世界」に
>「私」を目覚めさせてくれる働き

いや、南無阿弥陀仏と称えるだけでそこまでの目覚めはないでしょう、凡夫は普通。
目覚めがあったら、その時点で悟れたということなんでしょう?
称名念仏は、悟れない凡夫のための教えですよね。
ごく普通に「極楽浄土へ往生できます」ではいけないんでしょうか・・・。

あの、でも私、本当はできれば浄土真宗に馴染みたいと思ってますので、
どうかお見捨てなく、いろいろ教えてください・・・。
>19 どろさん  20 tonia_irさん
「往生のためには念仏第一なり。学問すべからず。
 ただし念仏往生を信ぜんほどは、これを学すべし」
by.法然上人(諸人伝説の詞、昭法全p .468)

それでOKです!!
ただ、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になる程度には、勉強してください。

あと、僕の場合は仕事でやってますんで、もうちょい勉強します(笑)。


>tonia_irさん 23
簡単ですが、親鸞聖人の用例を挙げておきました。
私も法然上人と親鸞聖人の「他力」理解に違いがないという立場です。
>20 あつしさん
>「南無阿弥陀仏の名号の働き」(本願力)=「私」は存在せず
>「すべてのものやご縁の働きのみが存在するという本当のいのちの世界」に
>「私」を目覚めさせてくれる働き

すみません、あつしさんのこのコメントに対する私の23番の意見を訂正します。
阿弥陀仏の誓願は「わが名を呼ぶ者はいかなる人間でも
浄土へ迎えて、必ず仏とする」だったんですよね。
ですからあつしさんのこの本願力のご説明は、
この「仏とする」という誓いのことなんだなと思いました。
「南無阿弥陀仏」ととなえることによって、凡夫であっても浄土に生まれ変わり、
そして「すべてのものやご縁の働きのみが存在するという本当のいのちの世界に目覚める」
ことができる、ということで納得です。

でもだからといって、他力や阿弥陀仏が縁起と
イコールであることにはならないんじゃないかなあ?って思います。
なので他宗の人に「浄土真宗では、他力=縁起なんですね」って言われたら、
そういう解釈もありますけど、親鸞聖人の直接の教えがそうだというわけではありません、
って答えてもいいでしょうか?
<21 いとーさん

補足ありがとうございます^^

いとーさんのおっしゃるとおりと思うのですが、

他力に関しての親鸞聖人の定義としては、もうひとつ、

「横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。」
(教行信証・化土巻)

も注目すべきところですよね。

つまり、「自力の心を離れる」ことが、他力とされているわけで、

この「自力の心」を、「自我意識」や「私」という意識の心と受けとめれば、

これが存在しない状態、離れた状態が「他力」ということになり、

つまり、通仏教でいうところの、自我が滅却した縁起の理法のみ存在する状態と受けとめることができると思います。

とすると、いとーさんが挙げてくださったことと、他力=縁起、ということも、やっぱり矛盾なく一貫して解釈することができるような気がしますね〜^^
<tonia irさん 23

縁起が意思があるかないか、公平な法則なのかどうかという問題に関連して、ふと思い出したことがあります。

ちょっと難しい用語になっちゃうのですが、唯識ではものの見方に三種類を挙げていて、

遍計執性・依他起性・円成実性、という三つを述べているそうです。

私もあんまり詳しいことは知らないのですが、

遍計執性というのは、ものごとを実体的に見る、普通の凡夫の見方で、「私が」とか、「あの人が」とか、ものごとがそのものだけで実体として固定的に存在し、したがって自我意識も強い状態のようです。

依他起性というのは、それに対して、ものごとは実体としては存在せず、すべて原因と条件によって暫定的に存在しているというものの見方のようです。
原因と条件(因縁果報)は、客観的な法則として理解されているようです。

円成実性というのは、依他起性を踏まえたうえで、この世の中に、なにいのちを生かしめ、生ましめ、育てるような、そんな働きがあり、かついのちを向上させて真実のいのちにめざめさせようとする、そうした性質というか働きがあるということらしいです。
ただ、どうも人によって円成実性の解説が異なっていて、私が今のべたような円実成性の解釈は、山崎弁栄という浄土宗の高僧の方の本によるのですが、他の唯識の解説本(岡野守也さんなど)では、円実成性というのは、「一から多を見る」、つまり依他起性ではまだ全体の認識に至ってなかったのが、円実成性では一即一切、一切即一の、すべてをひとつと見る見方からつながりを発見していく、そういう見方なんだというような解説もされていたように記憶します。

おそらく、依他起性において見えてくる縁起が「業感縁起」、つまり自業自得の法則としての縁起であって、円実成性において見えてくる縁起が「真如縁起」あるいは「如来蔵縁起」というやつなのかなあと思います。

いとーさん、どろさん、補足をお願いします(^^;w
<tonia irさん 23 (続き)

浄土宗と浄土真宗の違いについては、私見だと、以下のような三点の違いがあると思います。

まず、一番大きな違いは、「南無阿弥陀仏」の「南無」(=帰命)の意味の解釈が違うということがあると思います。

浄土宗だと、「南無」は私が「南無」すること、つまり私が阿弥陀仏に帰命する、という意味だと説くようです(いとーさん、違ったら補足お願いします(^^;w)

つまり、「阿弥陀様にお任せします」あるいは「阿弥陀様、おたすけください」と、私が阿弥陀様に頼む、請求希願の意味に「南無阿弥陀仏」を受け取るみたいです。

で、浄土真宗だと、「南無」、つまり「帰命」を、「帰せよの命」と受け取ります。
つまり、阿弥陀仏が、「私にたのみなさい」「私に帰ってきなさい」という、私の側のはからいではなくて、阿弥陀仏の側の呼び声と解釈するんですよね。
ですので、「南無阿弥陀仏」は、「たのめ・たすくる」という如来の側の呼び声であり、わがはからいではないということになります。

ですので、浄土真宗は、自分が称えるのではありますが、同時に「聞く念仏」ということが言われます。

どちらが良いとか悪いとか、正しいか間違っているかということではなくて、そういう違いがあるとは言えると思います。

まぁ、ただ、称えなくちゃ聞けませんし、称えていれば聞いているのでしょうから、とても御念仏されている浄土宗の念仏者と、ぜんぜん称名しない浄土真宗の念仏者では、断然浄土宗の念仏者の方が結果として聴いていることにもなるんじゃないかなあと私は思います(^^;w
逆もまたしかりかもしれません。


次に、二つ目の違いとして、浄土宗では「称名正定業」、浄土真宗では「信心正因・称名報恩」ということが強調されます。
で、この二つはべつに矛盾することではなくて、同じことなのですが、説き方が違うんですよね。

法然上人が、「称名正定業」ということをお説きになられ、その心を親鸞聖人・蓮如上人が「信心正因・称名報恩」とわかりやすく細かく説明された、ということだと私は思います。

「称名正定業」というのはどういうことかと申しますと、tonia irさんやどろさんが上記でおっしゃってくださっているように、「凡夫は称名念仏で浄土往生する」ということです。
これ以外に難しい理屈や難行苦行は要らない、ということです。

一方、「信心正因・称名報恩」とはどういうことかというと、「称名正定業」に間違いはなくて、そのとおりなのだけれど、では何が浄土往生の原因になるのか、ということに着目したことです。

「称名正定業」というと、私が称えた念仏の功徳で浄土に往生するように勘違いしてしまい、実際にそのように間違えて多念義という異安心に陥る人も当時いたようです。
多念義とは、たくさん自分が努力して念仏を称え、一万、十万と称えた、そのはからいの功徳によって浄土往生するという考えです。

ですが、法然上人も善導大師も、そうは言ってないんですね。
でも、あんまり詳しくはその点については説いてらっしゃるず、まずはお念仏なさいということに力点を置いていたわけです。

そこで、親鸞聖人が、浄土往生はあくまで如来様の働きにあり、その如来様の働きを受けとめた信心によって浄土に往生することが決定する、したがって称名の功力ではない、ということを説かれて、称名念仏はあくまでも浄土往生が決定したことへの感謝・御恩報謝の念仏だと説かれたわけです。

ただ、まぁ、これはどう説くかの力点の置き方の違いですから、べつに「称名正定業」が間違っているとかいうことでは決してありません。
親鸞聖人は「信別開」といいまして、その中でさらに「信心」を開いて精緻に解説してくださった教えを説いた、ということだと思います。

(続く)
(上記の続き)

三つ目の違いとして、やっぱり歴史的な経緯が違うと思うんです。

浄土宗は、法然上人の弟子の聖光上人・源智上人・証空上人といった方を中心に法然上人の教えが伝えられたものであり、浄土真宗は法然上人の弟子の親鸞聖人を中心に法然上人の教えを伝えたものですから、おおもとは法然上人で同じですが、その後の歴史的な経緯が違います。

特に、浄土真宗は戦国時代に一向一揆として武士や権力層と対決し、江戸時代においても農民や町人に主に支持された、いわば庶民の宗教だったのに対し、浄土宗は徳川家康が深く帰依して歴代将軍の菩提寺になった関係もあり、幕藩体制において幕府権力の強い庇護のもとに発展したという経緯はあったと思います。

ただし、浄土宗でももちろん庶民で帰依する人も多かったでしょうし、浄土真宗の側も時の権力に迎合したような時代もあったでしょうから、一概には反権力と権力の側と単純には言えないと思います。

また、もうひとつ歴史的な経緯ということになるのでしょうが、江戸時代までは、浄土宗ではわりと戒律が重視され、僧侶は肉食妻帯は禁じられていたようです(これは禅宗や密教などの他の宗派もすべて禁じられていました)。
一方、浄土真宗は、江戸時代から肉食妻帯が許可されていました。
明治以後、どの宗派も肉食妻帯を僧侶が行うようになってしまったので、今はあんまり違いがわかりにくくなっていますが、そういう歴史的な経緯はあるみたいです。

あと、浄土宗では「五重相伝」という儀式が重要視されるようで、在家の人も在家用の五重相伝が受けられるそうですが、そういった儀式面で浄土真宗と違う特色があるみたいです。
浄土真宗では、「帰敬式」などの儀式があることはありますが、概して簡略なようです。

また、浄土宗が「称名正定業」を重視するせいか、「別時念仏会」など、みんなで集まって木魚をたたきながら念仏を集中していっぱい称えるという集まりがあるのに対し、浄土真宗ではあまりそうしたことはないようです。
その代わり、浄土真宗では「信心正因」と、「信心をとる」「信心をいただく」ことが大変重要視されるので、報恩講や永代経といった行事で、各お寺で盛んに御法話を聴く場が設けられ、「聴聞」ということが重視されます。
浄土宗でも御法話はもちろんされるようですが、どちらかというと浄土真宗の方が聴聞重視のようです。

以上のような違いが、あるのではないかと思います。
<tonia irさん 23と26

26でtonia irさんがおっしゃってくださっているように、本当にめざめる、つまりさとりが開けるのは、浄土に往生してからだと思います^^

ですので、多かれ少なかれ、この身が今生にある間は、完全なさとりからはどうしても程遠いのが凡夫というものの悲しさなのでしょうけれど、

今生この身の生きている間も、では念仏や聴聞がなんのめざめももたらさないかというと、そうではなくて、完全なさとりではないとしても、何かしらのめざめをもたらすのが念仏や聴聞というものだと思います。

凡夫という言葉も、凡夫だからとひらきなおってそこに居直るためのことばではなくて、念仏を申し仏法を聴聞しながら、凡夫というのは浅ましいものだ、悲しいものだと、それまで見えていなかったわが身を愧じて省みることができるようになるのが、本当の浄土真宗というもののあり方と思います。
そして、そのように省みることが徐々にできるようになっていくというのは、その分、そこになにがしかのめざめが働いているということだと思うんですよね。

次に、

「他力=縁起」

かどうか、ということですが、

先ほど書きました、業感縁起や如来蔵縁起(真如縁起)など、縁起にもいろんな意味やレベルがあるみたいなので、どの意味で縁起を受けとめるかということにもなってくると思うんです。

また、他力の定義にもよりますよね。

いま、その御話を、tonia irさんやいとーさんのおかげで進めているわけですけれども、他力と縁起の定義と、どの部分でもし同じと言えるならば言えるのか、ということを確定することが大事なのかもしれませんね。

「=」というのも、まったく同じ、というわけじゃなくて、同じ部分を含むとか、部分的には同じ、ということなのかもしれませんね〜。

ですので、「≒」の記号を使った方がいいのかもしれませんが、その場合も、どの部分が「=」かを確定しないといけないのかもしれませんね。


あぁ、あと、蛇足なのですが、学者と僧侶とどちらが生きた教えかというのは、一概には言えないと思うんです。

というのは、小川一乗先生のように学者として活躍されていて(僧籍も持っておられるようですけれど)、とても難しい学術書も書いているけれど、ものすごくわかりやすい講話もされている方もけっこう多いと思うんですよね。

ですし、僧侶も、今は世襲が多いですから、なんの求道心もないのに、ただ寺のぼんぼんというだけで坊さんになって、単に行事や葬儀の進行役なって、ろくな教学もない人も多いと思うんですよ(^^;w
もちろん、世襲ではない僧侶や、世襲でもすごく立派な方もいるのはよく知っているのですが。

要は、生きた仏教かどうかというのは、立場や地位に関係なく、本人にどれだけ求道心があるかどうかだと思うんですよね。

まぁ、蛇足というか、私の感想です(^^;w
>21 24 25 いとーさん
>●他力といふは如来の本願力なり。『教行信証』行巻
>私も法然上人と親鸞聖人の「他力」理解に違いがないという立場です。

いろいろとお話ありがとうございます。
いとーさんのお話は分かりやすくて勉強になります。

>あと、僕の場合は仕事でやってますんで、もうちょい勉強します(笑)。

いとーさんは僧侶でいらっしゃるんですか?
あの、一度どなたかにお訊ねしたいと思いつつ・・・
あまりに初歩的なことなんですけど・・・

仏教徒になるための帰依三宝ってありますよね。
仏に帰依、法に帰依、というのはなんとなく分かるんですけど、
僧に帰依、というのは具体的にどういうことなんでしょうか?
お坊さんの教えを聞いて守りなさいというようなことでいいんでしょうか?

あの、それからもうひとつ、
親鸞聖人は親鸞上人でなくて聖人なんですか?
法然上人は上人ですよね、なんで違うんでしょう?

トピずれですみません・・・。
>あつしさん

>28
>唯識ではものの見方に三種類を挙げていて、
>遍計執性・依他起性・円成実性、という三つを述べているそうです。

唯識論は少し前にかじりかけて、難しくて挫折したんですよう・・・。
遍計執性は虚妄分別した「我」への執着、
依他起性は縁起・空性・無自性のこと、
円成実性は依他起性を正覚して虚妄分別を離れること、
というのが今のところの私の理解です。
ちゃんと勉強したらまた変わるかも知れません。

「依他起性」による自業自得や災害や戦争などに関わる縁起は、
公平な法則のようなもので意志はない、ということでいいんでしょうか?

>29 30

浄土宗と浄土真宗の違いについて、
分かりやすく教えてくださってありがとうございました。
浄土真宗における南無阿弥陀仏の南無の意味を初めて知りましたけど、
やはりこれが一番大きいですね。
これからは、阿弥陀仏からの呼び声なんだという意識で念仏してみたいと思います。

そういえば最近「うちのお寺は浄土真宗」という本を買って、
3分の1くらい読んでたんですよね。
年末年始や何やでバタバタしてる間に中断してしまってました。
また読みます。

>31
>凡夫という言葉も、凡夫だからとひらきなおってそこに居直るためのことばではなくて、
>念仏を申し仏法を聴聞しながら、凡夫というのは浅ましいものだ、悲しいものだと、
>それまで見えていなかったわが身を愧じて省みることができるようになるのが、
>本当の浄土真宗というもののあり方と思います。

私の場合、凡夫であることが悲しいことなのではなく、
浅ましくて哀しいものであるから凡夫なんですよね。
それは開き直って居直るものではなく、どんなに念仏しても聴聞しても学んでも、
この浅ましくて哀しい私は今生の最後まで凡夫のままなんだ、
という自覚なんだと思います。

いろいろと哀しくて苦しくて迷ってた時期に諸法無我の教えに出会いました。
それが仏教に惹かれた最初です。
でも仏教を学び始めてまだ2年たっていません。
それもワーッと集中して勉強するわけじゃないですから、めざめは遅々としたものです。
いえ、詰めて勉強してたとしても知識が増えるだけで、
めざめにはつながらないんだろうなとも思います。
大切なのは日々の生活の中での気持ちの持ちようだし、
今でもいろいろ気持ちがやり切れなく苦しくなるときもあるけど、
般若心経やお念仏で少し落ち着いたり楽になったりしますから、それでいいかなと。

>次に、
>「他力=縁起」
>かどうか、ということですが、

私は「他力<縁起」だと思うんですけど・・・。

>あぁ、あと、蛇足なのですが、学者と僧侶とどちらが生きた教えかというのは、
>一概には言えないと思うんです。

そのとおりですね。
学者はこう、僧侶はこう、と決め付けるのは良くない先入観でした(^^;
<tonia irさん 33

念仏はお呼び声。
そう思って称えると、また味わいがちがってくるかもしれませんよね^^

なお、浄土真宗だと、「南無阿弥陀仏の名号」のいわれを聴く、ということがとても重視されます。
つまり、「南無阿弥陀仏」という言葉の由来や来歴、どのような願いがこめられてできた言葉かを聴く、ということが重視されているみたいです。
それを聴くのが「御聴聞」といって、お寺の法座などに行って御法話を聴くことなんですけれど、ずっと聴いていくと如来のお呼び声が聞こえる時が来るとされていて、それを「聞即信」といい、「信心」というんですよね。
ですので、「聞」でない「信心」はなく、通常の宗派で言う信心と浄土真宗の信心の意味は、同じ言葉でもかなり違う意味で使用されているみたいです。

なるほど。
そうだったのですね。
仏法に遇う時は、人は大なり小なり、順縁ではなくて逆縁によるのかもしれませんね。。

これはあんまり言う必要はないかもしれませんし、べつに般若心経でもtonia irさんの御心が落ち着くのであれば良いとは思うのですが、

上記でお家の宗派は浄土真宗とお聞きしてたのですが、いちおう浄土真宗だと般若心経はあんまり日ごろの読誦用には使わないみたいです。
もちろん、般若心経が悪いとか間違っているとかそういうことではなくて、般若心経はやや難解なので凡夫にはなかなか理解しがたく、浄土三部経の方が凡夫にダイレクトに服用できる薬、という見解のようです。
お経は意味が理解できて読まないと詮無いことで、呪文ではないはずなのですが、般若心経は略文が多く、文字面だけではなかなか理解しがたいですよね(^^;
あくまで個人的な見解ですが、

縁起に気付かしめる働き=本願他力=説法

でいかがでしょう?
>34 あつしさん
>それを聴くのが「御聴聞」といって、
>お寺の法座などに行って御法話を聴くことなんですけれど、

そういうのがあれば是非行ってみたいです。
義父母は行ってるのかなあ?そういう話は聞いたことがないです。
私は全然仏教に縁のない環境で育って最近まで仏教に無関心だったし、
義父母とも同居じゃないし、
主人は仏教的ではあるけどどっちかと言うと無宗教という感じだし、
今まで何も分からないままで来ちゃってるんですね。
今度たずねてみますね。

>いちおう浄土真宗だと般若心経はあんまり日ごろの読誦用には使わないみたいです。

そうなんですかあ、般若心経は好きなんですけど。
私は仏教は浄土真宗からじゃなくて諸法無我に惹かれたところから入ったので、
最初に釈尊の教えを知らなくちゃと思って、テーラワーダにも興味があったんですけど、
やっぱり日本人は大乗仏教かなって思って、
そしたら般若心経が一番有名なお経かなって思って。
意味は、初心者向きのすごく楽しく読める現代語訳の本
(臨済宗僧侶の玄侑宗久さん著)は読みましたから、最低限のことは分かります。
「無苦集滅道」くらいまで読むとすごい壮絶な気分になるんですけど、
そのあとはすうっと光がひらけて来る感じ。

>浄土三部経の方が凡夫にダイレクトに服用できる薬、という見解のようです。

じゃあそれも読んでみます(^o^)
>5 sweetmangoさん
>縁起に気付かしめる働き=本願他力=説法
>でいかがでしょう?

うん、そういう感じならいい感じですよね。
<tonia irさん 36


私も、御聴聞に行くようになったのはここ二、三年です。
なかなか、ご縁がないと、行かないものですよね(^^;w

toniaさんの御家は、浄土真宗でしたら、たぶん義父母様はお取次ぎのお寺の御法座には参られているかもしれませんね〜。
法座のお知らせが、たぶんお取次ぎのお寺から案内が来たりしているのではないかと思われます。

大谷派(お東)のことはよくわからないのですが、本願寺派(お西)だと、たとえば近畿地方でしたら、神戸別院や大阪の津村別院や、京都の本山などに行くと、頻繁に法座も開かれていて、その地域のお寺で開かれる報恩講や永代経の法座の日程表ももらえるみたいです。

報恩講や永代経になると、ちょっとずつ日にちをずらしてそれぞれのお寺で法座があるので、日程表を見て、熱心な御門徒さんは、毎日のようにお寺に足を運んで御聴聞されているみたいです^^

せっかく御聴聞されるならば、良い御講師(お話をするお坊さん)から聴かれるのがいいと思うのですが、誰の話が良いとか最初はよくわからないですよね(^^;w
他にもいっぱい良い御講師もいらっしゃるとは思うのですが、私が聴いたことがある方で、たぶん近畿方面ではよく御話をされていると思う方では、梯実円・石川欣也・天岸浄円といった御講師の先生方は、本当すばらしいお話でした。

テーラワーダにも御関心があったんですね^^
だったら、すでに読まれたことがあるかもしれませんが、
「般若心経は間違い?」スマナサーラ著・宝島社新書、が最近読んで、かなり面白かったです^^
テーラワーダの見地から般若心経について書かれていていました。

諸法無我や縁起の観点から仏教に御関心があるならば、本当、ぜひ小川一乗さんの御本がお勧めです。
小川一乗講話選集というシリーズが三冊で出ていて、一巻が「縁起に生きる」という本で、諸法無我や縁起の観点から浄土真宗についてわかりやすく説かれていました。
小川先生の本は学術書は難しいですが、講話選集はとてもわかりやすいです。
他の方からは異論もあるようですが、小川先生は、「無量無数のご縁」をわかりやすく言ったのが「阿弥陀」(無量寿・無量光)という見解で、仏教の縁起の教えと浄土真宗がどのような関係があるのかを明晰に説いている稀有な学者さんだと思います。

浄土三部経は、岩波文庫からも上下巻で現代語訳も出ています^^
上巻が無量寿経、下巻に観無量寿経と阿弥陀経が収録されてました^^
>tonia_irさん 32
私への質問を、以下のトピックに簡単に解答しておきました。

質問コーナー 251 252
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=18073965&comm_id=2135313


トピックに複数の論点が混在すると、読みにくく整理しずらくなりますので、
トピズレと思われる質問等がありましたが、
以後、こちらのトピックに質問していただきたいと思います。
>tonia_irさん、あつしさん、皆様

このトピックだと混雑しそうなので、トピックを別に立てておきました。

浄土宗と浄土真宗の違い
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39225416&comm_id=2135313

そちらに、後ほど私見をコメントしたいと思います。
>38 あつしさん

ああ残念、ウチは大谷派です。
派の違いとか今まで意識したことがなかったので、すみません。
検索してみたら真宗大谷派というコミュもあるみたいですので、
これからそちらのほうもチェックします。ありがとうございます。

テーラワーダは、釈尊の教えを大乗よりも
直接的に伝えてるということだったので、興味を持ちました。
でも日本人である自分の感性に合うのはやはり大乗のほうで、
日本仏教のほうが自分には馴染めるんじゃないかなあって思ってます。
テーラワーダから見れば大乗は誤って伝えられてるという見解かも知れないですし、
日本仏教はなおさら間違いだらけということになるのかも知れないですね。
でも私は般若心経が好きですから、
「般若心経は間違い?」という本は読みたくないです、ごめんなさい。

>諸法無我や縁起の観点から仏教に御関心があるならば、
>本当、ぜひ小川一乗さんの御本がお勧めです。

うーん、でも小川一乗さんは私の考え方とは異なる見解なんでしょう?

人と人との出会いはすべて縁だと私も思いますけど、
無差別殺人者に路上で出会って
殺されてしまうことも縁だということになりますよね。
それも阿弥陀如来のなさること?
私はそうは思いません。絶対に違います。

私はそうやって歩道で殺された人の流血のあとが2か月も残り続けた道を
毎日、日々の用事のために歩いていたことがあります。
その人には小学生の子供さんがいましたよ。
私の次男とクラスメートでした。
犯人はまだ捕まっていません。

不運であったこと、不幸であること、
つらいこと、苦しいことは、世の中にあふれてるじゃないですか。

縁起は意志のない公平な法則だと思う以外に私が救われる道はありません。
>39 いとーさん

ありがとうございます。
お手数をおかけしました。m(_ _)m

質問コーナーのほうにものちほどまたコメントさせていただきます。
<tonia irさん

まぁ、何事も人生はご縁ですからね(^^;w

縁を生かすも殺すも自分次第。

見解が異なるか同じかも、とりあえず耳を傾けてみないことには始まらないと思いますが、それでは私はこの辺で・・・。
不運不幸が阿弥陀仏の意思かどうかは知りませんが、そこから仏の教えを読み取るべき阿弥陀仏の声であることが阿弥陀経に説かれていますね。
阿弥陀仏はただひたすらに救う存在であってほしいのです。
縁起についての私の考え方は間違えてるかも知れないですけど、
そんな難しいことを知らなくても間違えていても、
ただ南無阿弥陀仏と称えれば救ってくださる存在であってほしいのです。
縁起についてはこれからも自分なりに学んだり考えたりしていきたいけど、
今生の最期まで私には分からないかも知れません。
縁起のことなんか分からなくても、救ってくださる存在であってほしいのです。
今生のうちに縁起のことが全部分かるようにはきっとなれないから、
だから阿弥陀仏の救いがあるんでしょう。
縁起は意志のない公平な法則だという思いにしがみついているのは私の煩悩です。
煩悩のあるままでも救ってくださるのが、阿弥陀仏だと思います。

あつしさん。
いろいろありがとうございました。
ごめんね。
大丈夫ですよ!
実はもう救い終わっているから阿弥陀仏なんです(*^-')b
>sweetmangoさん 46

>>大丈夫ですよ!
>>実はもう救い終わっているから阿弥陀仏なんです(*^-')b

親鸞聖人は『無量寿経』の一文を引いて以下のように述べておられます。

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、
本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、
人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。
『尊号真像銘文』

私逹を救うために、阿弥陀仏が極楽浄土を建設して、
念仏を作って衆生に与えようとして、さらに光明でもって照らすなどして、
「本願力に乗ずれば救われる」システムを構築してくれているわけですが、

衆生がそれを信じないで、そのシステムを活用しなものだから、
極楽浄土に往生できない人が出てきてしまうのです。


これに関して蓮如上人が、

 阿弥陀には 隔つる心はなけれども
 蓋ある水に 月は宿らじ

と読まれた歌は浄土真宗文化では、かなりメジャーなようです。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=954505460&owner_id=8715268


さらに、法然上人にも、

 月影の 至らぬ里は 無けれども 眺むる人の 心にぞすむ

という歌があるわけですし、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=953272671&owner_id=8715268

 往生は、不定と思えば、やがて不定なり。
 一定と思えば、一定する事にて候ふなり。
(訳)
 往生できるかどうかが定まらないと思っているのであれば、いつまでも定まらない。
 往生することが間違いないと思えたならば、往生できることは間違いない。
『勅伝』巻二十二、「御消息」(昭法全五八一頁)

と仰っておられますので、これは浄土真宗のみに限定された文化ではなく、
浄土宗においても適応される文化であると思います。

sweetmangoさん個人が上記のように思われるのは、
個人の信仰としては自由ですが、
法然上人や親鸞聖人の教えとは異なるものであると思います。
参考  了恵道光上人『選択集大綱抄』より


 大海を渡すの舟も、乗らざるの人をば未だ渡さず。
 他力を施す弥陀も、願わざるの者をば未だ救わず。
 他力の願に乗ずるは、これ行者の自功、
 極楽に生ずるは、即ち仏の他力なり。
 善くこれを思念せよ。

(試訳)
 大海を渡してくれる舟であっても、乘らない人を渡すことはない。
 他力でもって働きかけ極楽浄土に救ってくれる阿弥陀仏であっても、
 極楽浄土に往生したいと願わない人を救うことはない。
 阿弥陀仏の他力本願に乗ずるのは、
 極楽浄土に往生したいと願う人がすることである。
 そして極楽浄土に往生させてくれるのが、阿弥陀仏の他力なのである。
 これをよく理解しなさい!
これは失礼しました(^^ゞ
おっしゃる通りだと思いますし、唯除五逆の文も抑止文というより、単純にそういうこと(どんな人でも差別なく乗れる船だが船に乗らない人を渡すことはできない)だと個人的には受け取っております。
<いとーさん、sweetmangoさん

とても微妙な、難しい機微のところですよね(^^;w

おそらく、唯除五逆文は、抑止文と受け取るべきですし、如来の側の願いとしては、常にどんな人も救いたいと願われているんでしょうけれど、

願いを受け取るべきこちら側、人間の側(機)が、自分で蓋をしたりはねのけてしまうのが、問題なんでしょうね。

自分で蓋をしたりせっかくの仏縁を拒んだり殺したりしている人が救われないのは、如来の側の落ち度ではなくて、自業自得ってことなんですよね。

無帰命安心や十劫安心の異安心にならぬように、その点には本当気をつけなくちゃいけないんだろうなあと思います。
>sweetmangoさん、あつしさん
阿弥陀仏がありとあらゆる手段を尽くして、
なんとかして衆生を救おうと働きかけてくださっているのは確かですが、
阿弥陀仏が成仏して十劫もたつのに、
未だに全ての衆生が救われていないのは確かですから、

やっぱ自分で蓋をして、阿弥陀仏の光明をはねのけてしまっている人は、
阿弥陀仏でも救うことができないんだろうと思います。

阿弥陀仏に救われるためには、勝手な計らいで救いを疑っちゃいけませんが、
ぼんやりとなんにもしない、無帰命安心や十劫安心になっちゃあかんなと思いますね〜。
>46 sweetmangoさん

励ましのエール(かな?)ありがとうございました。

「唯除五逆の文」って何ですか?
親を殺したり師を殺したりしたら阿弥陀如来でも救えない
というお話だったでしょうか・・・
うろ覚えですみません・・・
>tonia_irさん 52

今まで、いろんな所に書いたものをまとめてみました。

唯除五逆誹謗正法について
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39365864&comm_id=2135313

参考にしてください。

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