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信仰と対話コミュの信仰って何ですか?

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例によって「質問コーナー」に埋もれてしまった、面白いテーマです。

トピックを立てておきますので、
このテーマもボチボチ話を進めてみたいです!


【63 2007年08月05日 20:25 ☆俊(トシ)★】
時々、考えるのですが、信仰を持たぬ方から、もし『信仰って何ですか?』と問われたらば、何と答えるか?
短い文章で、理解して貰う最適な表現は…。
皆様は、何と答えますか?


【64 2007年08月05日 20:57 あつし】
<俊さん

えっと、信仰一般の定義、ということではなく、自分にとって信仰とはどういうものか、自分にとっての信仰生活とは何か、ということですよね。
辞書的な定義とは別の質問ですよね。

私にとっては、信仰生活とは、阿弥陀仏との関係、ということになるかと思います。
阿弥陀仏の呼び声に耳を傾けて、どう応答して生きていくか。
そのことを念頭に置き、意識し続ける、生活や人生というものではないかと思います。

ですので、その阿弥陀仏という言葉を、人によっては神とか別の仏さまの名前に置き換えてもいいと思うけれど、私にとってはそういうものです、という風に答えるしかないのかなあと思います。

いろんな方の、いろんな意見を聞いてみたいテーマですよね^^


【65 2007年08月05日 22:36 ☆俊(トシ)★】
>あつしさんへ

>辞書的な定義とは別の質問ですよね。

そうです。
信仰への理解に繋がる表現が無いでしょうか?と考えるこの頃です。

>阿弥陀仏の呼び声に耳を傾けて、どう応答して生きていくか。
そのことを念頭に置き、意識し続ける、生活や人生というものではないかと思います。

とても分かりやすいですね。
これならば、信仰を持たぬ方にも理解していただけそうですね。

私がもし答えるとしますと・・・
『世の中が変わろうとも、人の心が変わろうとも、神様は私達の中で変わることがなく、私達を正しく導いていただけるので、安心してその御言葉に拠り頼み、日々を過ごすこと・・・それが信仰です。』
となりますでしょう。

信仰を実感として伝えるのは、難しいですね。
と言いますか、無理があるかもしれませんね。


【66 2007年08月05日 23:07 いとー】
>俊さん、あつしさん

いかにもこのコミュニティらしい、とても面白いテーマですね。

う〜ん。
そうですね。僕にとっての「信仰」は、

「安心できる生き方の枠ぐみ」

なんじゃないかなと思います。

そして僕にとってそれは、
阿弥陀様の本願を信じてお念仏申していく生き方なんですよね。

そして、自分はその枠ぐみから出ることはないんですが、
別の枠組みの人であっても、凄い人は凄いと思うし、
学ぶべきことは学ぶべきだと思うし、
いろんな疑問があったら、それを放っておかないで、
自分なりに答えをみつけようと思っているんですよね。

この「安心できる生き方の枠ぐみ」は、
他宗教を信仰している俊さんとは勿論異なっていると思うし、
それぞれの信仰によって、また違うだと思います。

そんでもって、信仰を持というとしない人というのは、
やっぱり「安心できる生き方の枠ぐみ」を必要としてない人だと思いますから、
信仰を実感として伝えようとすると、やっぱりちょっと難しいですよね。


そういえば井上洋治先生が『人はなぜ生きるか』で、
イエスやお釈迦様や法然上人のような宗教的天才でない限り、
型というものが必要であると仰っておられて、
なるほどな〜と思ったことがあります。


【68 2007年08月05日 23:52 あつし】
<俊さん、いとーさん

なるほど。

俊さんは、世間や人の心が無常なものであるのに対して、神という不変なものをよりどころとすることによって得られる安心や生き方という側面から。

いとーさんも、安心を得ることができる枠組み・型という側面から。

主に信仰をとらえてらっしゃるということですよね。

おっしゃるとおり、信仰を考える時には、世の中の無常と対置される不変・永遠という要素、と、生活や心を秩序立てていく枠組み・型という面と、その二点を考えるのはとても大事だと思います。

簡単なことばで言い換えると、「永遠」の問題と、「型(儀礼?)」の問題ですよね。

それと、私が上記にあげた阿弥陀仏(ないし神etc)との「人格的応答」、という要素も、信仰生活を考える際のひとつのポイントになるのではないかとおもいます。

つまり、信仰生活には、「永遠」と「型」と「人格的応答」の三つの要素が、密接に関わってくるとまとめられるかもしれませんね。
それらを、いかに信仰とは何かを説明する際に過不足なく説明できるかが、大事なのかもしれませんね。

そこで思うに、この中で、いちばん宗教によって異なってくるのは、「型」や儀礼の部分ではないかと思われます。
この点は、お互いに尊重するという態度が大事なのかもしれませんね。

あと、神仏との人格的な応答関係や、永遠をめぐる考察に関しては、宗教や宗派によって浅深の差が若干あるような気がしますが、
キリスト教や浄土門仏教は、この問題に関しては、世界の宗教の中では最も深い考察と体験に達しているものではないかと思われます。(もちろん、この二つの教え以外にも、いろいろ深いものはあると思います。)

ぱっと、そんなことを考え付きました。

ただ、信仰生活というのは、あくまで実感の問題なので、実際に体験してみないとわからない部分も大きいと思いますし、ある程度の参考は伝えられるとしても、信仰生活それ自体がいかなるものかは、結局その人本人に長いこと体験してもらうしかない、という種類のものかもしれませんよね。

コメント(46)

私にとっての「信仰」とは

信念

ですね。
『あの人は、信仰心がある』なんていった表現があるぐらいですから、

“心”つまりは、精神的な要素だと考えますが…

このテーマは、各々によって答えは異なりますが、すべて正答でしょうね…なんたって、『信仰』ですから
信仰とは、いつも前向きになれる術です。
どんな時でも、希望を見出せる術。決して絶望がないことを保障する術。裏からいうと、自分で希望を失い、自ら命を絶つ可能性を最小限にする術です。
何かわからないけど、神さまがあたしのところに来てくださったんです。

というと、まるでキツネ憑きみたいですねっあせあせ(飛び散る汗)

う−ん、こまったなぁ。
ほんとにうまく言えないですね。

神さまから愛されて包まれている実感・・・て言ったらただのシアワセな人と変わんないし。

あはは、わかんないや、お手上げ !(^^)!
二年ぐらい前の自分の文章を読みなおしてみると、こんなことを考えていたのか?!と、恥ずかしいような、驚きのようなものもありますねw

<<
私にとっては、信仰生活とは、阿弥陀仏との関係、ということになるかと思います。
阿弥陀仏の呼び声に耳を傾けて、どう応答して生きていくか。
そのことを念頭に置き、意識し続ける、生活や人生というものではないかと思います。
<<

うーん、ちゃんと如来の呼び声に耳を傾け、きちんと応答できてきたか。。
二年間を振り返ってみると、若干忸怩たるものもあります(^^;w

「永遠」と「型」と「人格的応答」と、いろいろ考えさせられますね。

ただ、振り返ってみると、自分は逃げよう逃げようとしているのに、いつも如来に追われてつかめられてすくいとられてきたような気もしますw

「踏み外しましたが、ここも仏の道でごさいました」という榎本栄一さんの詩のことばが、信ということかなぁとこのごろ味わわされます。

考えてみれば、いつの間にやら、如来の慈悲の中にいて、浄土真宗の門徒の型の中にいて、という気が自分の場合はします^^w
南無阿弥陀仏一つに生きること以外にないんじゃないかなぁ…と最近思います。

なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。
←RED DRAGON†Fly←さん はじめまして。

なるほど、そういう捉え方もあるのかな?
というか、何か信仰を持っている人を外側から眺めるとそんな風に見えるのだろうか?

あたしは、自分が仏教徒(真言密教系の)って自覚がありますけど、←RED DRAGON†Fly←さんの例で言えば

CさんがAと言ってる。そこでAについて自分なりに調べたり考えたりしてみて「なるほどAとはこういうものか」と納得した。って状態です。
で、Aは信じるに値すると納得できたので信じようと自分で決めた。
これがあたしの信仰の様ですね。
みなさん はじめまして。おもしろく拝読しています。

「信仰」という言葉は、日本語にまだなじまない新しい概念(おそらく明治以降)だと思うので、自分にとっての「信仰」を語るのにフィットした言葉がみつからないのですが、浄土真宗の門徒である私の感じをそのままいうと、「こっちがたくんだのではないのに、むこうからきてしまった」という感じにつきます。

それは11のアルペジオさんの神様に対する感じと同じようだと思います。

むこうからきてくださってて、ときには、えーーって迷惑な感じもするんだけど、でも気がついてみると、むわーんと包まれていて安心する。南無阿弥陀仏も仏さんが私の口で言ってくださっている。南無阿弥陀仏が自分の口からでるのをきいて、へーーそうなんだ、南無阿弥陀仏なんだ!って感じる。そんなようなものです。

で、「信仰 信仰」ってことさら言挙げしないでもいいやって感じです。

自然ですよね。それも、「自然を守ろう」とか「自然を大切に」とかいうような、自力でなんとかできる自然ではなく、自力無効の自然。それにたいして、ただほーーーと賛嘆するようなものかなって、思います。
信仰とは何か。
苦悩を乗り越える力ではないでしょうか。


<阿呆陀羅經さん 20

うーん、のちの俗流マルクス主義者はともかくとして、マルクスは現実を鋭く直視して自分の頭で考え抜こうとしたという点では、単なる快楽原理ではなくて、事実に即して考えようとした人ではあったかと思います。
もちろん、その結論がすべて正しかったかどうかは別にして。

仏教、少なくとも初期仏教は、人間の抜きがたい快楽原理や幻想を突き抜けて、現実を直視するところから出発したものかなぁと思います。
その点で、理性を眠らせて幻想を盲信することを内容とする「信仰」とは、だいぶ異質なものだったのかもしれませんね〜。
<阿呆陀羅經さん

おっしゃるとおりですね。

人間の善意が容易に地獄に変わってしまう、そのことまで深くすでに洞察していたのが、法然や親鸞だったのでしょうね。

<<
後世の夾雑物に満ちたドグマの体系については、良くて「個人の信念」、有体に言えば「単なる嗜好品」として捉えるのが妥当でしょう。
<<

全く同感です(笑)
<24 阿呆陀羅經さん

そのような団体は世に多いかもしれませんね〜。
まったくおっしゃるとおりと思います。

ただ、まぁ、自分自身の内容が空っぽだったり無宿善の機でありながら、なんらかの団体に属しているからだけという理由で誰か特定の個人に対して無礼な態度をとる人間も、仏教からは逸脱した人間だと思います。
<阿呆陀羅經さん 26

いや〜、何をおっしゃっているのかさっぱりわかりません(^^;

ということで、他に遊び相手を見つけてください(^^;w

私も何分忙しい身ですし、綺語はなるべく慎みたいと思います。
信仰とは、私は自分が信じた方に対し忠誠を誓い、そして崇める事だと思ってます

私は神様を信じてます

何故なら、神様は神様なので

そして、私は信仰宗教を一切信じてません

何故なら、信仰宗教は神様がやってるのでなく人間がやってるから
> 真さん


スミマセンm(__)m

確かに字を間違えてましたあせあせ(飛び散る汗)あせあせ

私はS学会やK会みたいな団体を見てると尚更新興宗教が嫌いに成ってくるんですよね

私は今年の夏に御嶽教の方々と共に御嶽山へ登ったり御嶽神社本宮や八海山神社等へ参拝してきたりしました

けど、基本的に私は何処に属する事もなく自分1人で龍神様に忠誠を誓い、そして毎日崇めています

これからもずっと

せっかく龍神様からの導きを受けたので
横からすみません。

>「物質は一切存在しない」

仏教の唯識論でしょうか。

でも唯識は「山よ動け」と命じたら山は動く、
というような教えではないような気がします。
詳しいことは知らないですけど・・・。

ナタラージャさんは「山よ動け」と命じたら山は動く、
と信じていらっしゃるのでしょうか。
どうもです。わーい(嬉しい顔)

信仰とは・・・ 
バーチャルリズムによる 脱却と 
バーチャルリズムによる 帰依信でございます。

言うなれば 

バー茶の バー茶による バー茶のための 教え

これが 信仰です。

'`ィ (゚д゚)/


私にとって信仰とは。

「釈尊は悟りをひらくことで幸せになったと信じること」かな。
信仰とは、生まれた意味、生きる意味、いずれは死ぬ意味を、
自ら求め、納得のいく答を見つけて、それを守ること。かな。

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