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信仰と対話コミュの※『選択本願念仏集』の読書会(三章)※

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二章にはコメントが全然入ってないのですが、
約一ヶ月が経過しましたので、三章をまとめておきます。

第三章テキストはこちら

http://www.jodo.or.jp/800/namu/index_3.html

過去のトピックはこちら

第一章
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21698084&comm_id=2135313
第二章
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=22685609&comm_id=2135313


二章において、善導大師の『観経疏』に基づいて、
浄土門の実践方法である五種正行が明らかにされ、
称名正行が正定之業、他の四つが助業であることが明らかになりましたが、

この章では、その正定之業である称名正行が、
阿弥陀仏の本願であり、阿弥陀仏の選択であることが、
『無量寿経』に基づいて明らかにされています。

以下は三章の概要です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【三章の概要】

§タイトル
阿弥陀如来が、念仏以外の行を往生の本願とせず、ただ念仏のみを往生の本願とされた文

§『無量寿経』巻上、第十八願の引用
もし、私が仏になったとき、あらゆる方角の人々が心から信じ願い、私の国に生まれたいと思って、最低「十念」したとして、もし生まれることができなかったならば私は仏とはなるまい。

§善導『観念法門』の引用
もし、私が仏になったとき、あらゆる方角の人々が、私の国に生まれたいと願って、私の名を称えること、最低「十声」であっても、私の願いの力に乗じて生まれることができなかったならば、私は仏とはなるまい。

§善導『往生礼讃』の引用
もし、私が仏になったとき、あらゆる方角の人々が、私の名を称えること、最低「十声」であっても、もし生まれることができなかったならば、私は仏とはなるまい。
かの阿弥陀仏はいま現に世にあって成仏しておられる。まさに知るべきである。本願は達成されているから、衆生が阿弥陀仏の名を称えれば必ず往生できると。

§法然の私釈
●仏願・・総願+別願
 ・総願・・一切の仏が共通に起こす願=四弘誓願
 ・別願・・釈迦五百大願、薬師十二上願など
●阿弥陀仏の四十八願は別願にあたる。

Q 阿弥陀仏は、いつ何という仏の下で発願されたか?
A 『無量寿経』によれば 、遥か昔、世自在王仏のした、法蔵と名乗ってである。
その際、世自在王仏は法蔵のために、二百一十億の仏土の長所・短所を説き、ことごとくこれを見せた。
法蔵は、五劫の間、思惟して「二百一十億の諸仏の妙土、清浄の行」を「摂取」した。
『大阿弥陀経』では「摂取」の語が「選択」となっている。

●「選択」は取捨の意味であり、「摂取」も同様である。
法蔵は、自らの仏国土を構想するに当たって、世自在王仏の示す諸仏国土のうち、善妙なるを採用し、粗悪なるを捨てた。
四十八願は、みなこのような「選択」の結果である。

●第十八願について言えば、世自在王仏が示した仏国の中には、布施・持戒・忍辱などを往生のための修行とする様々な国があったが、法蔵は「専称仏号」を往生のための修行として選択した。

Q 善妙なるを採用し、粗悪なるを捨てたというならば、なぜ法蔵は往生のための行として念仏を選び取ったのか?
A 仏の意図は測り難いが、試みに「勝劣」「難易」の二つの観点から解釈しよう。

●勝劣の義(念仏は優れ、余の諸行は劣っている)
阿弥陀仏の呼び名は、その中に阿弥陀仏の、内に覚られ、外に働く(内証・外用)の一切の功徳が納まっているから優れている。
余の行は各々「一隅を守る」のみであるから劣っている。

●難易の義(念仏は易しく、余の諸行は難しい)
易しい念仏は万人に可能であり、難しい余の行はそうでない。
法蔵は一切衆生を平等に往生させるため、難を捨て、易を取られたのではないか。
そうでなければ、大多数の人々が往生の望みを断たれたであろう。

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

Q 引用文の中、経では「十念」と説くのに善導の解釈では「十声」という。「念」と「声」との意味はどうか?
A 「念」とあるのは「声」の意味である(念声是一)。『観経』下品下生の文、および『大集月(日)蔵経』とそれに対する懐感の解釈によって明らかである。

Q 経に「乃至」とあるのを善導の解釈では「下至」と言い換えてあるが、両者の意味はどうか?
A 両者とも「最低限、何々に至るまで」と、多から少に至る意味である。
上は一生涯、下は十声、一声まで念仏する意である。

ゆえに第十八願を、「十念往生願」と呼ぶのは意味が限定されるため不適当であり、
善導のように「念仏往生願」と呼ぶべきである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この章を読む際のポイントを、以下に挙げておきたいと思います。


★「念仏が往生のための正定之業」である根拠となる『無量寿経』の文

法然上人は『無量寿経釈』の中で、
「ここにはこういうことが説かれてあり、それらにはこんなことが説かれている。
 だからこの経典は、念仏往生を説く経典なのだ!」
ということを、七つの部分を挙げて証明されております。

 経の文に依りて念仏の行を釈するなり。その文に七あり。
 一には、前の四十八願の中の「乃至十念若不生生」の御文なり。
 二には、願成就の「諸有衆生聞其名号」等の御文なり。
 三には、三輩往生を明かす中の上輩生の一向専念の文、
 四には、同じく中輩生の中の一向専念の文、
 五には、同じく下輩生の中の一向専念の文、
 六には、流通の初めに「其有得聞彼仏名号」等の御文、
 七には、同じく流通の中の「当来之世」等の文なり。
 この七文は、皆専ら一向に念仏往生を明かす。
(『無量寿経釈』昭法全p.87)

このうち、『選択集』の三章では一と二が挙げられています。

ちなみに四章では三〜五が、五章では六が、六章では七が挙げられています。
そして七章から十二章は『観経』からの引用、
十三章から十六章は『阿弥陀経』からの引用になるのですが、
『選択集』の三章以下は、「念仏が往生のための正定之業」
であることを証明するために、浄土三部経の文を挙げる構造になっています。

なんで、こんなことをするかと言うと、
仏教において、ある説を教説として確立するためには、
教証(教えによる証明、お釈迦様が説いたものであることを提示)と、
理証(理論的証明、直接知覚と推理による証明)とがあるんですが、
一章、二章では理証のうちの推理にはなっているけど、
実際に浄土に行って阿弥陀仏に会ったわけではないから、
直接知覚はないので、仏教の教説として確立するには不十分で、
されに教証を加えていく必要があるんです。

それが、『選択集』の三章以下でなされているんですよね。


★仏教の大転換「選択」

実は、この章で「選択」という概念が登場するということは、
当時の仏教会にとって空前絶後の出来事なんです。

なぜならそれまでの仏教会では、煩悩をもった僕達人間が、
その煩悩をもった偏った視点から、
「これがもっとも尊いお経だ!すぐれた修行だ!」というように、
教えを選び取って優越を定めていました。
教えを選ぶ主人公が僕達人間だったんですよね。

しかし法然上人は、人間のありのままの現実の姿と、
その限界をしっかりと見つめられて、
僕達が修めるべき行の選び取りの主人公を、
弥陀・釈迦・諸仏という仏様へと転換したんです。

人間がその小賢しい計らいで選んだのではなくて、
弥陀・釈迦・諸仏という絶対的な存在が「選択」した行であるから、
「念仏」によって間違いなく往生することができるということが、
『選択集』では、浄土三部経典によって教証されているわけです。

そして、その「選択」は、
人間の常識ではなくて仏様の常識によってなされているから、

難しいもろもろの行=劣った功徳=あらゆる人々に通じないから
易しいお念仏   =優れた功徳=あらゆる人々に通じているから

ということになって、
全ての人が救われるお念仏の教えが開花することになるんですよね。


★「選択本願念仏説」→「諸行非本願説」≠「諸行不往生説」

これは以前、別のトピックであつしさんの質問に答えて書いたのですが、
この章に関係するので掲載します。

○浄土門仏教においては、宿業を超越するのは念仏の行だけで、
 その他の行では超越できないのか?

この問題に関しては、「諸行往生の可否」ということで、最近活発な議論がなされています。
代表的なものを挙げると、以下の四つぐらいが挙げられると思いますので、
簡単にその意見を整理しておきますね。

1)平雅行『日本中世の社会と宗教』第V章「法然の思想構造とその歴史的位置」(pp.157-214)

●「選択本願念仏説とは、『称名念仏は阿弥が選択した唯一の往生行であるから、念仏以外では往生できない』という思想」(p.173)

●「諸行を無価値と断じた法然の選択本願念仏説」(p.195)


2)安達俊英「法然浄土教における諸行往生の可否―『選択集』第二章・第十二章を中心に―」(『仏教文化研究』第四十一号)」(pp.21-38)

●「法然上人の教え」=「私達の往生は阿弥陀仏が選取(選択)されたところの称名念仏を専らに行ずることによってはじめて可能となる。」(p.21)


3)松本史朗『法然親鸞思想論』第一章「選択本願念仏説と悪人正因説―平雅行氏の所論をめぐって―」」(pp.69-126)

●「平氏の解釈に賛同することはできない」(p.2)


4)安達俊英「『選択集』における諸行往生的表現の理解」(『阿川文正教授古希記念論集法然浄土教の思想と伝歴』)」(pp.103-131)

●「法然は実際の布教にあたってはともかくとして、教義的には諸行による往生の可能性を否定している」(p.103)


これらを全部読んだんですが、僕自身としては、
どう考えても松本史朗先生の意見が妥当だと思っています。

ですから松本史朗先生の見解の結論部分(pp.16-19)を以下に書いておきますが、
できたらあつしさんは、松本先生以外の意見も読んでもらって、
松本先生の意見を相対化した上で、
意見を聞かせていただきたけたらと思っています。



平氏の所説の中心は、“選択本願念仏”説を“「念仏以外では往生できない」という思想”と見なすことにあるが、

第一に、『選択集』には“念仏以外の諸行による往生の可能性”を認める記述が多数存在する。

第二に、『選択集』に説かれる「廃立」義は、一見すると、“諸行によっては往生できない”という解釈を認める根拠となるようにも思われるが、
私見によれば、「廃立」とは“阿弥陀仏が諸行を捨て、念仏一行を本願として取った”という“選択”以外のことを意味しない。
従って、“諸行を廃する”とは“諸行を本願としなかった”という意味にしかすぎず、
ここから帰結するのは“諸行の非本願”説、つまり、“諸行は本願の行ではない”という説であって、
“諸行不往生”説、つまり、“諸行によっては往生できない”という説ではないのである。
しかも、『選択集』が多数の記述において、“諸行による往生の可能性”を認めていることを考えれば、
この場合の“諸行非本願”説は、“諸行は本願の行ではないが、諸行によって往生することも可能である”という意味になる。
とすれば、これは、“諸行によっては往生できない”という“諸行不往生”説とは、矛盾することになる。

“選択本願念仏”説に関する以上の私見をまとめれば、次のようになる。

●「選択本願念仏説」(阿弥陀が諸行を捨て念仏一行を選択して本願とした)
→「諸行非本願説」(念仏以外の諸行は本願ではないが、諸行によって往生することもできる)
≠「諸行不往生説」(諸行によっては往生できない)

(中略)

『選択集』は、結論として「速やかに生死を離れたい」と思う人に、“念仏一行の専修”を勧めるものである。
何故かと言えば、阿弥陀仏が余行を捨てて念仏を本願の行として選択したが故に、
余行は往生について「不定」であり、念仏は「決定往生」の業であるという決定的な対立が生じたからである。

では何故に、念仏が本願の行とされることによって、「決定往生」の業になったかと言えば、
阿弥陀仏(法蔵菩薩)が、「念仏を修したものが往生しなければ、悟りを取らない」と述べたからであり、
この阿弥陀仏が第十八願を述べた言葉が真実であるとすれば、念仏が「決定往生」の業であることは、明らかであるからというのである。

・・以上が、松本史朗先生の結論部分なのですが、
ちょっとだけ僕の意見を書かせていただくと、

法然上人が諸行往生に関して、『選択集』の引用部分においては僅かながらも認めておられ、
私釈段においては断固として否定されておられるところを見ると、
あくまでも、

●自己の問題として諸行往生を「私にはできない」と否定した。

というのが法然上人の立場ではないかと思うんですよね。
その立場が、前回挙げた、

「かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん」

という激しい懺悔と内省の言葉に表れていると思うんです。

  速やかに生死(しょうじ)を離れんと欲さば、
  二種の勝法の中には、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、
  選んで浄土門に入れ。
  浄土門に入らんと欲さば、正雑二行の中には、
  しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選んで正行に帰すべし。
  正行を修せんと欲さば、正助二業の中には、
  なお助業を傍(かたわら)にして、選んで正定を専(もっぱ)らにすべし。
  正定の業とは、すなわち仏名を称するなり。
  名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願に依るが故に。

だから、この法然上人の実践面での結論ともいうべき『選択集』の第十六章の言葉も、
確かに聖道門を「閣(さしお)き」雑行を「抛(なげう)ち」助業を「傍(かたわら)に」すると書いてありますが、
あくまで「速やかに生死を離れん」と欲し「浄土門に入らん」と欲し「正行を修せん」と欲する自己の問題であり、
あくまで自分自身の内面の問題として受け取るべきだと思います。

その上で法然上人は、その自己の問題としての言葉を誤って解釈されるのを恐れ、
『選択集』の末に、「一度ご覧になった後は、壁の底に埋めてしまい窓の前に残してはいけません」と述べられたのではないかと思います。

その法然上人の御意思に反して『選択集』が世に流通してしまったために、
「諸行を無価値と断じた」というように、法然上人の考え方が誤解されてしまったと思うんです。

以前、平先生の論をまとめたことがあって、これはあつしさんにも読んでもらったんですが、

http://blog.livedoor.jp/kyoseidb/archives/50647378.html
http://blog.livedoor.jp/kyoseidb/archives/50649916.html

平先生の説は、どうも法然上人の言葉そのものではなくて、
法然上人の言葉を誤解して、法然上人を批判した明恵上人の意見に基づいている気がするんですよね。
そして、それは当時の社会への影響などを論じるには適した資料なのですが、
浄土門のあり方、法然上人の真意を理解するには適さない資料な気がするんです。


あと、安達先生の「教義レベルと布教レベルで意見が違う」という説も、
ちょっと「?」な感じなんですよ。

「教義レベルと布教レベル」で矛盾しない解釈・自然な解釈をするのが、
どう考えても正しい解釈のあり方だと思うんですよね。

そんでもって、安達先生の挙げてくれた資料をみたら、
「やっぱり、諸行往生を勧めてはいないけど、完全に否定はしていない」
ということがわかるんですよね。


★法身のいけどり

これは、大正大学の林田康順先生が『現代人における法然上人の受けとめ方』
でお書きになって、おられるんですが、
なるほどなあと思ったので、以下のそのまま掲載します。(pp.45-46)


まず、「阿弥陀=無量寿・無量光=内証の功徳に限定」という点です。
この「内証の功徳に限定」というのは、法然上人は、
法身の功徳を阿弥陀さまの悟りの内容である内証の功徳の中に
限定してくださったということです。

話がややこしくなるといけませんので簡単に申し上げますと、
「法身」というとりとめのない、つかみ所のない概念、
聖道門ではこれが魑魅魍魎のようにそこら中を跳梁跋扈しておりますが、
そういうものを法然上人は『選択集』第三章段において
「四智・三身(法身を含む)・十力・四無畏」といって、
阿弥陀さまの内証の功徳の中に生け捕りにしてくださったのです。

これは、実に大切なことであり、この上なく画期的なことであります。
なぜなら、そのように生け捕りにしておかないと、
再び「法身」が暴れ馬のようにそこら中を駆けめぐりはじめ、
それが「浄土三部経」に説かれる阿弥陀さまと結びついてしまい、
宇宙そのものとしての阿弥陀であるとか、私の心そのものとしての阿弥陀仏
であるなどと千変万化してしまいかえんあいからです。

法然上人はそうした事態になってしまうことをいたく危惧されたのでありましょう。
阿弥陀さまの内証の功徳の中に法身をビシッと生け捕りにしてくださったのです。
なんともありがたいことです。
これによってはじめて「浄土三部経」で説かれる
浄土宗の阿弥陀さまとお浄土が一段と明瞭になってくるのです。

しなわち、次の「本願成就身=阿弥陀仏、指方立相=極楽浄土」です。
つまり、五劫思惟、兆歳永劫のご修行の結果、四十八の本願を成就され、
『選択集』第三章段にいう「相好・光明・説法・利生」という外用の功徳を
お具えになった阿弥陀さまがいらっしゃり、
西方十万億土の彼方に方を指し示し相を立てたお浄土があるんだよと
しっかりと主張できるのです。




本当はもっとポイントがあるのかもしれませんが、
とりあえずこのぐらいにしておきます。

以上を踏まえて第三章を読んでいただいて、
意見や感想を交換していきたいと思います。

今度は、誰か書いてくれるかな。。

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