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愛(ai)コミュの連載小説: 哀愁のアクエレッロ 第6章

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フィレンツェを舞台にした私のノンフィクション小説です。
1章から5章まではトピックにあがっているので、
そちらをご一読してから読んでくださいね。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

六章 名もなき絵描きの幸福


 翌日、夜の八時少し前に約束通りAcquerelloに到着した。今度はまるで我が家のように慣れた態度で店内に入ると、ルイゼッラが例の大黒様スマイルで迎えてくれた。相変わらず体が重たそうだ。今夜はお客も三、四組入っているようで、フランチェスコは厨房で忙しく仕事をしていた。ウェイターのサマンタも例の如くピンと背筋を伸ばした姿勢を崩すことなく、店内をあちこち歩き回りながら愛想をふりまいていたが、僕の顔を見ると、

「チャオ!」

 と、手を挙げて挨拶してくれた。ルイゼッラは僕をテーブルに案内すると、早速カプチーノを淹れてくれ、

「よく来てくれたわね。色鉛筆はちゃんと持ってきた?」

 と、聞いてきた。

「うん、ほら、これ。」

 例の薄汚いリュックサックから色鉛筆を取り出しながら応えた。二十四色のごくありふれた色鉛筆である。

「空いているテーブルならどこでもいいのよ。好きなところから描いて。」

 描きたい角度はすでに前日のベッドの中でいろいろ考えていたので、だいたい見当はついていた。入り口を入った正面奥のテーブルに陣取り、バーをかすめるように店内を見渡した眺めを切り取るのである。この角度からならワインボトルの並ぶ具合、おしゃれな壁の飾りと弱めの照明の調和、テーブルや棚のアレンジの様子などをすべて一枚に描ききれる気がしたからだ。
シャツの袖を肩のところまで捲くって準備を整えると、まず鉛筆と消しゴムで下書きに取り掛かる。全体の調和を考えた上で、はじめに大雑把な構図を粗めに描くのだ。それから絵の中で一番重要と思われる向こうのテーブルのあたりに集中して細かく描写する。あとは気の向くまま好き勝手に描きちらし、徐々にタッチを細かくして下書きを完成させるだけである。この時点では100%を求めない。詰めは色をつけてからでいいのだ。
 下書きにそこそこ満足すると、そのまま鉛筆を色鉛筆に持ち替え、色を加えていく。この段階になって初めて気づいたのは、実はそれまであまり色をつけて絵を描いたことがなかったということだ。道中常に色鉛筆を持ち歩いていたにも拘らず、時間の都合などであまり使ってこなかったのである。僕のスケッチブックの中でも、色を加えた絵はプラハの街を描いたそれのみで、あとはもっぱらペン画と鉛筆画なのであった。慣れない作業にやや苦戦したが、おしゃれなレストランの内装を両目でじっくりとなぞりながら、ああでもない、こうでもない、と色を選び抜きつつ描き勧めていく過程はとても愉しかった。
 興に乗ってくると、絵に関わる現実意外はまったく眼中になくなる。テーブルの周りではサマンタが相変わらずきびきびと動き回って飲み物や料理をお客に出しているはずであったし、ルイゼッラも重い体をゆさゆさ揺らしながら、いくらかフランチェスコの手伝いをしているはずであったが、そんな様子は僕の目にまったく入らない。まるで時空の観念を忘れてしまったかのように、ただただ黙々と瞳や指先を動かし続けるのであった。

「よしっ。」

 と、日本語で小さくつぶやいて色鉛筆を置いた瞬間、ふと我に返った。いつになく集中したせいでだいぶ疲労した目を、掛け時計のほうに移してみると、焦点がピタリと合わないまでも、時計の針がすでに十一時をまわっていることはわかった。ぼやけた視界をゆっくりと店内に広げていくにしたがい、お客はもうみんな帰ったあとであることにも気づいた。フランチェスコやルイゼッラはすでに店の後片付けを一部始めていた。

「あ、ごめんなさい。夢中で描いてたら時間のこと忘れちゃって。」

「あら、できあがった?どれどれ、見せてごらんなさい。」

 と、ルイゼッラが言いながらゆっくりとこちらのテーブルに向かってきた。少し後ろからフランチェスコとサマンタもやってくる。再び緊張の一瞬である。初めてスケッチブックを見せたときはしばらく無言のまま絵を見ていたフランチェスコとルイゼッラであったが、今度はすぐさま反応した。

「わぁー、すごい!私たちのAcquerelloが絵になってる。」

「いいねぇ。色の軽さがこのレストランにあってるよ。」

「コミカルで愉しそうな絵!」

 など、三人は口々に言っている。その様子を脇でみつめながら、こめかみに滲んだ汗をハンカチで拭った。汗はこの場合、安堵感と幸福感の印なのであった。感激を露わにしたルイゼッラは、少し間をおいてこう言った。

「ねえ。この絵、私にプレゼントしてくれるわね?」

 描き手にとっては最高級の賛辞である。

「もちろん。はじめからそのつもりで描いたから。」

「じゃあ、ここにサインしてくれる?」

「え?サインか・・・。いいけど・・・。」

 意外な展開に一瞬躊躇したが、筆をとって無造作に?Fumiki?と筆記体でサインした。今考えると、なんて適当に書いてしまったのだろうと思う。しかしこのときは、まさか後であんなことになろうとは夢にも思わなかったのだから仕方あるまい。
 ついでにお店の名前、?Acquerello?も同じく無造作に書き足すと、できあがったその絵を丁寧にスケッチブックから切り取ってルイゼッラに手渡した。しわくちゃの小さな手を広げてそれを受け取ったルイゼッラは、すべての哀しみを吸い尽くしてしまうようなやわらかい笑みを浮かべ、控えめに僕を抱きしめて、

「グラッツィエ」

 と、消え入りそうな声でささやいた。僕もなんとなくルイゼッラの肩を抱き、

「プレーゴ」

 と言った。

「ご飯、まだ食べてないでしょう?ここで食べていきなさい。」

「でも、もう遅いから悪いよ。」

 時間のこともそうだが、実はお金のことも心配な貧乏学生の僕であった。ところがルイゼッラは、

「私たちはいつもこの時間から食べるから問題ないの。それにお金のことだったら心配しないで。こんな素敵な絵をプレゼントしてくれたんだもの、全部おごりよ。」

 そう間髪入れずに言ってくれた。例のゆったりとした弾力のある語調である。まるで彼女の人生経験のすべてを凝縮したようなそのしゃべり方に、僕は抗しがたい魅力を感じるのであった。なんとあたたかく、可愛らしいおばさんであろう。

「ほら、そこに座って。フランチェスコ、パスタから持ってきなさい。」

 言われるがままにテーブルにつき、計ったようなタイミングで鳴り出したお腹を、珍しく褒めてやりたい気になった。こいつもたまには空気を読めるらしい。
フランチェスコはルイゼッラに促されると、その端整なポーカーフェースにウィンクを残して厨房へと立ち去り、すぐさま我々のために料理を始めてくれた。その間にまずワインで乾杯。ドライなイタリアワインはすきっ腹に効き、いつもより早くホンワカした気分になれた。アルコールがまわると舌も幾分滑らかになる。イタリア語が少しうまくなったような気になって、正しいか正しくないかを問わず、大胆にペラペラとしゃべり始めた。
 その夜、フランチェスコが出してくれた料理は決してうまかったとは言えない。パスタはチーズが少しきつすぎたように思うし、肉は微妙に硬かった。しかし、その夜の食事は、これまでの二十年足らずの人生の中でも、抜群に満足度の高いものであったことは、間違いない。相手の言っていることの50%ぐらいしかわからずとも、たまに辞書をひきながら夜中まで談笑し続けたその夜は、とても思い出深いイタリア一人旅のワンシーンとなったのである。
 食後のカプチーノをいただき、みんなで写真も撮り終えてそろそろユースに帰ろうかというとき、フランチェスコが無言でレストランのバーの方へ向かい、突然店のワインを物色しだした。何かと思えば僕にワインをプレゼントしてくれるというではないか。

「キャンティ・クラシコだよ。94年だ。持っていくといい。」

 僕は健気な日本人のはしくれらしく、完全に恐縮してしまったが、フランチェスコが選んでくれたそのワインボトルを大事に受け取って別れを告げた。僕はキャンティ・クラシコというワインの名前をその時初めて聴いたのだが、何か運命めいた縁を直感したのは、ただの偶然ではなかったようだ。その後、僕はこれがきっけで人生の舵を大きくきることを決意したのだから。
 店を出ると、路地の曲がり角にさしかかるまで、三人がずっと手を振ってくれていた。

「チャオー!」

 夜中であることなどかまいもせず、一番得意なイタリア語を大声で叫んでから角を曲がった。夏とはいえ、フィレンツェの朝晩は想像以上に冷え込む。僕は腕組みをして寒さに耐えながらも、どうしようもなくあふれてくる笑みをおさえきれずにいた。その笑みにはいろいろな要素が含まれていたように思う。素晴らしい出会いにめぐりあえた喜び、自分の趣味が人に幸福を分け与えることにつながった嬉しさ、フランチェスコのうまくない料理が逆に思い出に花を添えてくれた可笑しさ、ルイゼッラの親切に対する無限の感謝の念・・・。これらの全てが、寒さに打ち克ってほころぶ自分の笑顔に含まれていたような気がしてならないのである。


(つづく)

“変幻自在”店主
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“民間の外交官”



株式会社 愛
代表取り締まられ役
湯川史樹(ゆかわ・ふみき)
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(了)

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