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a:b:r:a:x:a:sコミュの鳥は卵から抜け出ようともがく

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《鳥は卵から脱け出ようともがく。その卵は世界だ。生まれ出ようとするものは、一個の世界を破壊しなければならない。鳥は神を目指して飛ぶ。その神の名はアブラクサス。》
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』にでてくる魔法の言葉、心揺さぶられます。僕の最も好きな言葉、否、ほとんど聖句のようにさえ思っている言葉でしたので参加させていただきます。

ただこのコミュの説明文では、その神を目指して飛ぶ鳥自体がアブラクサスと呼ばれていると読めます。そのことが一層深遠で、そして何だか我が意を得たりという感銘を受けました。

上の絵はカルロス・サンタナのセカンドアルバム『Abraxas』のカバーを飾ったアブドゥル・マティ・クラーワインの『Annonciation』という作品です。サンタナにはこの絵の中央にいる不可思議な赤い天使がアブラクサスに見えたのかもしれませんね。

コメント(5)

ご参加ありがとうございます。

ご指摘の通り、ヘッセの『デミアン』では鳥が目指す神がabraxasと名づけられます。ただ、初期グノーシスでは(トップ画像の紋章にあるように)鳥頭に蛇足の神がすなわちかの神とする向きがありました。たいへん神妙な石を投げていただきました。まさに、向かう者、向かわれる者、その間のかすかで奥深い揺れをこそ大切にしたいと思っています。
Der Vogel kaempft sich aus dem Ei.
Das Ei ist die Welt.

鳥は卵の中から抜け出ようと戦う
卵は世界だ

ヘッセのドイツ語の原文と高橋健二さんの訳です。
ドイツ語の原文のほう、続きを忘れてしまいました…。
きっと鳥は
人間の 生活を見て 話を聞いて
なんでこんなにがんばってんだろうな
って
思ってるんだろうな…
※日記より転載します

*****

いかにして鳥は卵を出るか



自民党総裁候補者だった3人ともが加入している組織がある。
「日本会議」という。
http://www.nipponkaigi.org/

つまり3人ともイデオロギーの根本は大差ない。

加入・支持している団体をみてみよう。
目につくのは、キリスト教系、仏教系、神道系、新旧入り乱れての宗教法人の多さだ。また、表だってはいないものの、この組織はかねてから勝共連合系(つまり統一教会)との関係も深い。創価学会は加入していないが、政党として自民党に接続されている。神道系や日蓮宗系の戦前からの宗教右翼だけではない宗教団体が利害、目的、主張を一致して保守に連合している事実がある。


ある種の宗教と国家主義は親和性が高い。
個人よりも、それを超えたより大きなものへの帰属を是とする構造が相似だからだ。


会長である元最高裁長官・三好達の挨拶から抜粋する。
http://www.nipponkaigi.org/0100-toha/0140-kaicho.html


「現今の我が国の有様は、どちらをみても、只々あきれ果てる事ばかりであります。どうして、このようになってしまったのでしょうか−。私は、いわゆる戦後民主主義による欠陥教育のツケが廻ってきたと考えております。それは、人それぞれの誇りを喪失させ、徒な個の尊重が、「自分勝手至上主義」を風靡させ、それによる精神の荒廃が、今や我が国全体を覆うに至ったからであります。その背景にあるものの一つは、愛国心の欠如でありましょう。「自分勝手至上主義」は、国家というものに対する意識を欠如させ、必然的に愛国心を欠如させます。」

「人は、倫理として、道徳として「他を慮る気持ち」、「他を大切に思う心」を持たなければならないということです。人は、人である限り自分勝手は許されず、生まれながらにして義務を負っています。その理由は、第一に、人は自分一人で生きているのではないし、また自分一人で生きることは不可能であること、第二に、人は祖先からこの世の中を引き継ぎ、これを子々孫々に引き渡していかなければならないことにあります。」

「我が国の体質改善のためには、この「倫理としての愛」の精神とその発露としての行動の大切さを、子女、後輩に叩き込まなければなりません。習い性となるまで、叩き込むことが必要です。」


諸悪の源はいたずらな「個の尊重」にあり、ゆえに「他の尊重」が必要であるという論理だ。そして、こうした論理が、ごく普通の保守寄りの人々から巨大な政治・宗教団体にまで共有されている。

「個」が増長することが、「他」を傷つけ損なうことになるということはよく理解できる。わたしも、「他を慮る気持ち」「他を大切に思う心」「他との共存」が「倫理」だと思う。

しかし、ここでいう「他」とはなんだろうか。
実は、ここですり替えが生じている。
「他」とは、未知の「他者」のことではないのである。
「他」とは、家族であり、血族であり、会社・組織であり、国家である。また、性であり、民族であり、神である。つまり、それはあらかじめ帰属が決定している「より大きなもの」なのだ。それは外でなく内の足下にすでにしてあるものである。それは「他」というよりは、超越的な「自分」なのではないか。いったい、人はそうしたものに帰属することで、本当に倫理を手にすることができるのだろうか。


例として、ミクシィでのできごとを紹介する。

とある宗教家についてのコミュニティがある。いわゆる“精神世界”と呼ばれるジャンルだ。そこで、インドの、遠隔超能力による修行法についての書き込みがあった。それを受講すれば、チャクラ(ヨガにおける体内の精神的エネルギー点)が目覚めていくというものだ。それに対し、賛否両側から書き込みがなされた。「その遠隔超能力はチャクラに良い」、「いやそれはチャクラを過度に刺激するため逆効果である」、また野次馬は「それがいったい悟りやヒーリングに効果があるのか否か」と尋ねる。ここで特徴的なのは、誰しもが擬似的な「超越的」な視点を持つが、その枠組みそのものを問う「超越論的」な視点を持つことには失敗しているということだ。

事態を解説する。

「遠隔超能力でチャクラを覚醒させる」ということは、現実を超えた、その意味で話の上では「超越的」な次元にある。逆に言えば、彼らは、自分を・肉体を・現実を超越したいという欲望から、そのような「超越的」なモノを要請している。ところが、それが見かけ上とはいえ超越的であるまさにそのために、彼らはいまだ現実を超えざる自分たちにおいてそれが真か偽かを決定することができない。つまり、超越的な点を設定したまさにそのことによって、彼らは彼ら自身の内部にとどまり、そこから出ることができない。

本当の問題は、「遠隔超能力」が真であるか偽であるか、ではない。それは内部を出るためにあるのに、内部にいては接触できない。そのため彼らは夢を見るしかない。自分の修行が、自分の才能が、それを突破すると信じる。しかし、そのベクトルがすでに内に収束している。欲望を捨てた境地に至りたいがために、まさにその欲望に囚われている。

これはグノーシス主義の問題といってもいい。グノーシスは古代オリエントで発生し、キリスト教異端として西洋思想史に伏流する超越思想である。彼らは自分たち・現実が不完全なのは、この世界が偽の神に創られた不完全なものだからだとし、そこからの離脱を求める。そのシンボルは卵から抜け出る鳥である。しかし、いかなる超越的な神を設定しようとも、離脱したところでそこにはもう一つの不完全な世界があるだけである。そこが真であるとは誰も決定できず、悲劇は繰り返す。(ゆえに、卵のシンボルとは、一つの世界の超越ではなく、超越するという認識そのものの臨界を指すのでなくてはならない。その時、鳥は生まれる。)

誰も、どの「神」がもっとも尊いかを証拠立てることはできない(もっとも、本来信仰とは証拠立てられないところに拠って立つのだが)。ほぼすべての場合、信者はあくまで現実における超越性を非・信者に示す。超能力や予言による経済・恋愛・健康における優越の授与である。

そのように内部において超越を背比べするいっさいの超越的なものは不毛である。それらが偽であるからではない。はっきり言ってしまえば真だろうが偽だろうが、どちらでもいい。もっと言えばどうでもいいのだ。いかなる力を持とうとも、それらは構造的に内部を出ることができない。外部を空想することもできない。「他者」との出会いに永遠に失敗し続ける。内部における背丈に多少の違いがあるだけのことだ。


寓話風に語ってみよう。
地球の外に「宇宙人」がいるかどうかを探索する人々がいる。賛成派も、否定派も、そこに酸素や水があるかどうか、温度や重力が適当かどうかを探索する。しかし、彼らは何千年経っても「宇宙人」に出会うことができなかった。賛成派はそれでもいると言い、否定派はいないと言った。しかし、「宇宙人」は実は酸素と水が苦手であり、温度も重力も無関係な肉体を持っていた。つまり、彼らは超越的なものを自分たちの尺度で(内部に)探していたのであり、その限り、永遠に「宇宙人」に出会うことに失敗し続ける。

人は、自分が不完全だからこそ、「個」を捨て、超越的なもの=「より大きなもの」に身をゆだねるようとする。だが、それによって、本当に「個」を超越し、他者を尊重する倫理に至る超越的な視点を獲得できるのだろうか?

否、である。それは、より大きな「内部」にすぎない。そこは「わたし」の延長なのである。卵の殻を破ったと信じるそこは、一回り大きな卵の殻の中なのだ。むしろ、超越的なものの内部にとどまる閉塞した一体感・安心感・快感はその内部以外のものへの侮蔑と憎悪を加速する。
ふたたび、日本会議会長の挨拶から抜粋。


「愛国心は世界共栄への道でもある

愛国心の大切さを訴える者は、即ち偏狭な国家主義者であるという「レッテル」が誤りであることは、本日お集まり頂いている皆様には、十分ご理解頂いていると存じますが、私は、更に進んで、愛国心こそ、世界各国が共栄する道であると考えております。
世界には、沢山の国家がありますが、それぞれの国が、それぞれの国民の愛国心とそれに基づく国民の営みによって支えられ、それによってそれぞれの国家が健全な発展を遂げ、良い意味で国家が競い合うこと、このようなそれぞれの国家の良い意味での競い合いこそが、人類全体の発展につながるものである、
と私は考えております。」


ごく素朴に、わたしは何故彼らが過去に大失敗したソリューションをなんの留保もつけずに再び採用するのか、その戦略の理路を疑うが、それは置いておく。問題は、それぞれの人々が、それぞれの「より大きなもの」への快感に身をゆだね、それを「誇り」だとか「愛国心」と呼び、内部の超越化を励行することは、「世界各国が共栄する道」では到底ありえないということだ。何度も言うが、それは卵の殻を補強するだけであり、孵化の、無限の空への羽ばたくことの、永遠の失敗である。「競い合いこそが、人類全体の発展につながる」ことは決してない。それは内部同士の殺戮を生み、外部の、「他」=他者との出会いを拒否する。

むろん、「孤」であり「独」である「個」は寂しく不安である。自分がつまらない人間であればあるほど、安定した「より大きなもの」に擦り寄りたくなる。例えば、不安を恐れる人間は己を見つめない。見つめないことで自分と身体の「性」のゆらぎを感覚できない。だからこそ所与の「性」に帰属し、そこからはみ出す「他」を攻撃する。自分があらかじめ優れているかのような錯覚は快感である。同じことを「地位」で、「民族」で、「神」で行ってしまうのだ。

人は不安を抱えて生きる。ゆえに超越的なものを志向する。その時、あなたの前に二人が立ち、それぞれがそれぞれの神こそが真であると告げた時、あなたはいかにそれを決定できる?それは、たかだが、心の中が読めるとか、宙に浮かぶことができるとか、まったくもって現実・内部における「すごさ」でしかないのだ。「遠隔超能力」によって覚醒したチャクラとは、まったくもって内部の尺度の延長にすぎない。それは、外部のどこにも到達しない。魂の高度が1cmだろうが1万キロだろうが、それは尺度内の差にすぎない。

そこで唱えられる「愛国心」の正体はすでにして明らかだ。それは「遠隔超能力」であり「宇宙人生存の証拠」であり、疑似超越的なしかし内部に引きこもるための、内側にしか開くことのないドアなのだ。


・・・ごく端的に言うならば、他への倫理の一歩はつねに「すべての他者について自分と交換可能かどうかを問う」ことから始まるのではないかと思う。むろん、そんな想像は「他者」を自分の内部に矮小化することだという批判があるだろう。そうではない。それは「他者」を自分の内に招く試みだ。自分を自分の外に放り出す試みだ。あそこに倒れている旅人と、自分とを交換できるか。できるならばなぜだ?できないならばなぜだ?そのような問いが引き起こす揺れは、あらかじめ帰属する「より大きなもの」の殻に亀裂を入れ、身をひきはがす。それは「他者」との交換を拒絶する「愛国心」と真逆のダイナミズムであり、ドアをすこしだけ、外側に開く。「他者」を自分の延長・巨大化である疑似的な超越性にすり替える者たちの野合は、構造的にそのような外への可能性を欠いている。

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