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福音書の暗号解読コミュの時間のコード

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時間のコード

時間のコードにはいくつかの各論があるが今回は一般論と受難物語に少し触れておく。元来第3の時間帯で行われているこの神話劇が、受難物語だけは主として第1の時間帯で行われているということに注目しよう。

各論には1.第1の時間帯の特徴を示すものへの言及。邪悪で不義な時代、笛吹けど踊らず、など。2.時間帯間の比較の箇所 旧約の預言者・ヨハネ・イエスの三つが比較される箇所。3.第3の時間帯の特徴・終末のビジョン、神殿の崩壊、偽預言者の出現など、いろいろあるが今回は触れない。

さてマルコ福音書冒頭には
旧約の預言者が 洗礼者ヨハネの到来を予告
洗礼者ヨハネが イエス・キリストの到来を予告
イエス・キリストが神の国の到来を予告
という三つの予告が記されている
冒頭に書かれているものは、それがコードらしきものであれば、この事件が起こっていることの要約であるというのが我々の考え方である。マタイが系図で空間を扱っているとすれば、マルコは時間を扱っていると見ることが出来る。その時間とは、魂の発展段階の時間である。我々はここにプラトンの「魂が最後に善のイデアを認識する」ということとの並行性を確認する。
最初の二つは予告と予告の成就により、時間帯が区切られている。三つ目の予告は成就せずにそのまま「近づいた」でサスペンディッドのままであるが、ともあれ、これらを三つの時間帯と見なすと、ただちに我々は三日三晩という言葉との対応関係を確認してみたくなる。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(マタイ12:40)という宣言である。そして事実、ここには明確な対応関係が存在する。
この問題を扱うに当たって、禅仏教の「十牛図」との並行関係に触れ、ライプニッツのモナドとの並行関係、なども確認していこう

第1の時間帯は混沌の時代。心の中が極性不在でその意味ではコントロール不能の時代。ただ子供が与えられた規則を守るような時代→旧約の十戒
第2の時間帯は 極性を発見し、人によっては宗教体験で自分の心を知り分けて霊魂についての教えに興味を持つ。だが、この時代はまだ未熟で洞察が浅く、真理から容易に離れる。漠然と真理が捉えられている時代。
第3の時間帯は神話の構造である隠喩体系を媒介にして自らの心の構造を認知する時代。と一応分けることが出来る。

福音書の読み方も区別しておこう。福音書を字義通りに直解的に読むのを「水平読み」とする。福音書を空間と時間のコードに基づいて象徴体系を再合成し、存在論的・形而上学的な生の原理として把握しようとする読み方を「垂直読み」とする。
第1の時間帯 水平読みの時代 
第2の時間帯 水平読みから垂直読みへ移行する時代
第3の時間帯 垂直読みの時代 ( 禅の公案を粘提する態度)

  受難物語はペテロの否定によって第3の時間帯から第1の時間帯へと逆行する。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(マタイ26:34)というイエスの予告にしたがってペテロは3回イエスを否定する。既にイエスの弟子として3日目の中にいたペテロは1日目の朝、つまり第1の時間帯のはじめの混沌まで3回の否定を通して戻されるのである。そして墓に埋められたイエスが3日後に蘇るということで、今度は時間が進行して、それぞれの時間帯を貫通しながら3日目の朝が来る。
  受難物語の最後は再び第3の時間帯へ我々を連れ戻す。3日目の朝、つまり第3の時間帯のはじめに、女達が墓を見に行くと墓が空になっていた。ビックリした女達に傍らにいた若い男がガリラヤに行けばイエスに会えると告知する。墓の中が空になっていたということは死体としてのイエスが消えたことで、文字通りに読む読み方から垂直に読む読み方へ転化したので、字義通りに読まなくなり水平読みの世界にある福音書=死んだイエスが消えてしまったのである。(禅の十牛図では一円相と言って、修行が向上して人も牛も共に消え去った境地である。そこから返本還元の世界へはいる。)
そしてこの指示に従って、このマルコ福音書のページをはじめの方へ戻してガリラヤへ行くと、イエスの第一声、「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)を我々は発見する。第3の時間帯に入ってはじめて「やっと時は満ちて神の国が近づいた」ということなのである。そうでなく、普通、紀元1世紀になってイエス・キリストが来たということが時が満ちたことなのだ、などということはほんとうは見当違いなのである。
  神の認知、あるいは生の構造の認知は第2の時間帯から第3の時間帯へ移行するときに得られるのであるが、すべてを形而上学的比喩体系としてみる、啓示の本来意図する視点は系図、物語の構造という神話全体のコードの空間関係としてだけではなく、「神の子の死」という、意味論的なコンテクストからも像の存在を保証する。すなわちそこでは、昆虫の標本のように「神の子の死の姿」=「神が停止したときの像」が十字架上で血を流している形姿として生の分裂態を表現するのである。系図=物語の構造=十字架のキリストとそれらの基本形態は同じである。いずれも生成の原理の空間関係を表現している。
  形而上学的原理の認知として如何にして我々にとって神が生の像として認知されうるかにすべてが掛かっているから、福音書は系図・物語の構造・十字架のキリストと、3重の方法で神の像を設定しているのである。そこまではハッキリしなくても、それに準じた象徴として最後の晩餐の聖杯などがある。
  時間帯の区切りを入れることで、魂の発展段階を表現すると共に、第1の時間帯の否定的極致が、逆説的に神顕現の場になることを可能とする。神の認知、究極的実在の認知には対比が必要である。それはハイデガーと共に顕れと隠れの対比である。悪と善の対比である。神の死と神の生の対比である。時間帯を区切ることによって神顕現の場を示唆し、神認知の本質を系図、物語の構造と共に、十字架によって重合的に示している。内観によって像を把握する標準を念を入れて3重の方法で示しているのである。

  形而上学の原理として、プラトンの善のイデアと並んで重要なのは近代ではライプニッツのモナド(単子=魂)であろう。ヘーゲルの「弁証法」やホワイトヘッドの「現実的生起」などはすべてモナドの応用・焼き直しである。時間のコードを理解するに当たってライプニッツのモナドをも引き合いに出して説明してみよう。
  モナドの基本は表象でありその表象を錯雑から判明へ移行させる欲求である。そして、以前はそのように判明に見えなかった秩序を発見する。その秩序とは結局、神と相まみえる秩序である。モナドロジーを一口で要約するとこのようになる。私見ではモナドの本性が「多を一において表現する」ということと、現象の光があらゆるものを見えるものとすること、そして内なる本体の光が言語を通してあらゆるものに秩序を与える、は並行関係にある。またライプニッツによると、神は原初的モナドであり、その他は派生的モナドである。
  ライプニッツは空間を「同時に生起する秩序」、時間を「順番に生起する秩序」と定義している。判明なモナドは混沌の中にやがて秩序を見出す。
  第1の時間帯は秩序が見出せない状態、第2の時間帯は漠然とした秩序を見出す状態、第3の時間帯は一と多のあいだの生の根源的運動の秩序を見出す状態。
  秩序立った認知の視点から、元来、バラバラに存在していた象徴が、実は根源的秩序の下に可能的に存在しており、生成の原理という一定の秩序の下に参与することで意味のある連結が行われる。
  時間のコードはライプニッツのモナドが判明になる過程と捉えることである。モナドは精神であり、はじめは微少表象であるが反省力をつけて、精神自身を認知するようになる。その精神の根本運動を秩序立って認知することが善のイデアを認知することであり、神を認知することである。それは同時にモナドが自己自身を表象するという事態である。自己自身の生の論理形式を表象するという事態である。
 したがって、福音書の存在のキリストは善のイデアであり、神のモナドの表象である。福音書の物語の構造は善のイデアと神のモナドの論理形式である。

福音書の構造は自己自身の表象に対して多における一の秩序が入ること
第1の時間帯は多のままの無秩序
第2の時間帯は漠然とした秩序
第3の時間帯は一と多の、一の元型的運動による秩序

  モナドロジーは福音書のコードに比べるとやや一本調子であることは否めない。錯雑から判明へ、さらに判明は神を知る判明へ、これを判明さの視点から福音書を並行させると1.旧約の預言者の予告:今にもう少し判明になる時が来る。2.バプテスマのヨハネの予告:もっと判明になって、しっかり秩序が見える。3.イエス・キリストの予告:さらに完全に判明になって行く。と置き換えることが出来る。ライプニッツの言葉で言えば 「自然の國から恩寵の國へ」Monadology 87,88近づくことである。時間性の本質は錯雑から判明へ、さらに善のイデアを認知する高度な判明さへと3つの時間帯を経過して、自己の内にキリストを発見し、それを模倣するということになる。

コメント(7)

時間のコードの補遺
補遺1 物語の構造が系図や十字架と同型であることの説明が不足していた。
福音書は物語の構造によって、つまり物語を基本的に構成する人物・背景・筋によって心の構造を写像している。このときの空間とは人物・背景・筋が心の構成要素(元型)・場・運動に対応する。物語の構造と言っている、ここでの意味は、そこで空間を作る背景=場としてのイスラエルの地理関係となる。平面としてみたイスラエルの地理関係はガリラヤ、ティルスとシドン、エルサレムがそれぞれ4つの象限の第1象限、第2象限、第3象限に配分され、スペクトルの青・赤・黄色に対応する。そしてイスラエルの中央を上下に走るヨルダン川が洗礼者ヨハネの洗礼という、エゴの衝動を上から下へ落とす行為の行われる場所となっている。

補遺2 十字架のキリストは図のように左から右へ徐々に移行させると同じ形態であることが分かりやすくなる。解読モデルの右下にある「原形」が十字架のキリストである。(この解読
モデルが青・赤・黄色に緑を入れた4分割にデフォルメされる以前の図)
第1の時間帯をめぐって

第1時間帯の意味を理解するには福音書中の「時」について言及する箇所を拾っていくと分かってくる。たとえば、悪霊憑きが来る箇所では以下のようになっている。
マタイ8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。 8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」

このような発言は第1の時間帯で混沌として心の中が見えない「時」にいる場合である。

第1の時間帯は心の中が未だ上下左右の秩序が入っていない「時」である。それは時間的には一番最初であるから洗礼者ヨハネの洗礼に象徴される「回心」による上下の区別すらつかないうちはいたしかたないことではある。福音書はこの第1の時間帯に属する者たちにはいたって冷たい。
第1の時間帯に属する人たちは存在論的洞察によってイエス・キリストを自らの内に復活させるのでなく、文字通り死んだイエスが蘇ったという事実を信じるという、勘違いをしていることに言及して、
マタイ12:39イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」と第1の時間帯にいる人たちの信仰の在り方を否定する。「復活」についてはまた別のところで取り上げてみたい。

第1の時間帯はまた自然で素直な心の流動性が抑制されている時代である。
マタイ11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 11:17 『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
そのあと第2の時間帯と第3の時間帯について言及していることにも注意しよう。
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
このように、さりげなく三つの時間帯間の比較をしている。
第1の時間帯をめぐっての補遺

前の節での最後の部分を補っておこう。
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
この部分はマルコ冒頭の三つの予告とはまた別次元のヨハネとイエスの使われ方をしている。

マルコ冒頭の三つの予告は長期にわたる人格変換の洞察力の進化を示している。
それはゆっくりと進む人格変換の象徴的表現である。ところが、ヨハネとイエスのコンビは同時に別の使われ方もしている。それは瞬間の生の律動の上下動を、下へ行くのがヨハネ、下から登ってくるのがイエスという形で代表させている。短期間の心の上下動に対してもヨハネとイエスのシンボルは適用されているのである。つまり、ヨハネが洗礼によって上から下へ垂直に霊魂を沈めると、その反作用で、自己である人の子が浮上するというシーソーのような原理である。この生のその都度の瞬間のシーソーゲームではヨハネの明確な反作用でイエスが来る。ヨハネの断食は禁欲の決意を示し、その決意が明確で、かつ自己本来の義務に応答した行為の中へ入ると、はっきりと深層次元のエネルギーが到来するという生の原理が存在することを表している。
これをアリストテレスの用語で言えば可能態がキネーシスという分裂態を経て、現実態(エネルゲイア)へ変換する、短期的な「その都度の現実態」である。そして長期的な方の神の国とは「神の支配」に服して、「その都度の現実態」が恒久的に安定して、完全現実態=エンテレケイアになっていく状態である。(可能態から現実態へ移行する、現実態の詳しい定義はまた別のところで。)

この垂直的にシーソーのような運動をする場を押さえて、それを繰り返し引き起こさせることで、徐々に精神は「自己元型」を引き上げる能力を増大させていく。であるから、「知恵の正しさはその働きによって証明される。」ということになるのである。

第1の時間帯をめぐって 補遺2

前節のシーソーのような事態を表象したイエスの言葉の代表的なものが、以下のようになる。マタイ10:39「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(新共同訳)"He who finds his life will lose it, and he who loses his life for My sake will find it."(NKJ)

「命を失う」=ヨハネの洗礼が、直ちに「命を得る」=イエス・キリストの復活というシーソーゲームになる。これは心の垂直の経路を把握するとより明確に理解できる。
時間帯間の比較

時間帯の福音書による区別の仕方は
1.旧約の預言者(→ヨハネの到来)2.ヨハネ(→イエスの到来)3.イエス (→神の国の到来)となる。
したがって、これら三つが存在する箇所は特に時間のコードをはっきり表明している。

マタイ17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。17:10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。17:11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 17:12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 17:13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。


山上の変身のあとで、イエスは「人の子が死人の中から蘇るまで今見たことをだれにも話してはならない。」と禁止令を発する。「第3の時間帯へはっきりと入るまでは今見たことを黙していなければならない。」ということになる。そこでそれを受けて、弟子たちの「なぜ律法学者は(神の国が実現するには)旧約の預言者エリヤが先に来るはずだと言っているのでしょうか」という質問をする。神の国へと至る第2の時間帯に来るべきものが「旧約の預言者」であることが腑に落ちないのである。律法学者は第1の時間帯にいるから、文字通りこの世界に神の国が出現することを期待しているから、霊の世界での第2,第3の時間帯がどうなっていくかは見当もつかない。そこで、これに対してイエスは第2の時間帯の象徴である「洗礼者ヨハネ」が既に来たという話に切り替える。第3の時間帯へ入るには洗礼者ヨハネの時代を通らなければならないからこの話題となるのであるが、そのような時間帯についての了解がないと、なぜ弟子たちが唐突に旧約の預言者エリヤ=第1の時間帯や洗礼者ヨハネ=第2の時間帯が話題として出てくるのかその前後関係が分からなくなる。弟子たちは第3の時間帯の入り口にいるので、この前後関係の質問をするというわけである。
  三つの時間帯が自己覚醒のプロセスの基本的前提であることが了解されていると、福音書の中に出てくる心の進化についての問題では「旧約の預言者・洗礼者ヨハネ・イエス・キリスト」の順で、いろいろな形で時間帯の間の比較をしていることがわかる。その一番典型的な例がペトロの信仰告白のコンテクストであろう。
ペトロの信仰告白

16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

このペトロの表明に対して、イエスはペトロが第3の時間帯に入っていることを保証する。さらに重要なのはイエスの教えの根本は第3の時間帯に入っている人によってのみなされるということである。だから続く箇所で「この岩の上に私の教会を建てる」と言うのである。この岩とは比喩の内容が心として形成された、その心の土台の比喩である。元来建てられるべき教会は実は「マタイの系図」=「光の範型」のような生の原理によって比喩が論理化された心の建造物である。福音書の暗号解読によってはじめて別の神殿である「教会」が建てられるのである。
「神殿を打ち倒し三日で建てる者(マタイ27:40,マルコ15:49)」とはこの意味である。
ヨハネ福音書でも→イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。(ヨハネ2:19)」
さらにそのあと、以下のように続く。
2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
ご自分の体とは心の全体を意味し、イエスが復活するのが弟子の意識になるのでイエスのこの譬えを思い出して信じることになる。

こうして時間帯を3つに分ける時間のコードに従って、ペトロの信仰告白から、イエスの弟子の境位が第3の時間帯にあることを示す。この反対に受難物語のイエスの刑死では、深層意識の自己が運動しなくなり、弟子の信仰がなくなる。つまり統合が破壊され、心は混沌の世界へ押し戻される。以前にこのトピックで触れたペトロの信仰喪失は簡単すぎたのでここで少し補っておく。ペトロが信仰告白で第3の時間帯に入っているということは、受難物語ではそれを打ち消さなければならない。心の奥の自己が停止するときは自我は混沌に陥るときである。イエスのゲッセマネの祈りの後、弟子達が眠りこけている様もそれを表す。そして時間帯を逆行させて第1の時間帯のはじめまで戻す操作が、「明日の朝鶏が鳴く前までに3度あなたは私を知らないと言うであろう」によって行われる。ペトロはそれを否認しようとするが、実際に「この人はイエスと一緒にいた」と言われると「私はあの人のことを知らない」と否定する。「知らない」を3回繰り返すと、1回ごとに一日ずつ時間は逆行して心に対する秩序をすべて見失って、まだ何も分かっていない一日目の朝へ引き戻される。キリストが十字架上で身動き取れなく刑死する事態は、自我の方が混沌としてすべての心の秩序が見失われる「時」になるからである。
 岩の比喩と芭蕉の俳句

 ペトロの岩と関連して、類似した隠喩を日本の俳句の中から提示してみよう。現象の世界で心を表象するものは、それなりに限られてくるから、ペトロの岩が心の深層構造の基盤を示すとすると、大きな岩は意識の下に隠れた無意識を示す傾向を持つと見ることが出来る。
 そこで、かの有名な芭蕉の「奥の細道」の中に「閑かさや 岩に沁みいる 蝉の声」という誰でも知っている句がある。文字通りに読むと蝉が岩に止まって鳴いていることになるが、芭蕉の本来意図するところはどうもそうではないようだ。
「古池や・・・」の句を作った40才頃から芭蕉は心の中を外の世界を利用して写し取るようになってきた。奥の細道は芭蕉最晩年の頃の作品である。といっても芭蕉は52才で死んでしまうのだが。この句を心の比喩としてとらえなおして見ると、蝉は私たちの意識で、岩が無意識にあたる。蝉の鳴き声は意識が無意識(神)に向かって訴えかけている祈りということにもなる。そのとき心の中は一心不乱に活動しているという点で、主観的には閑かなのかも知れない。

 芭蕉の句の中で一番有名なのは言うまでもなく「古池や 蛙飛び込む 水の音」である。この句はもともと裏庭で蛙の飛び込む音がしたので、「蛙飛び込む水の音」が先にあり、はじめ芭蕉の弟子、其角が「山吹や」としたのを、芭蕉が「古池や」に改めたそうである。

 その昔、私がミシガン州カラマズーカレッジに留学しているとき、「Buddhism=仏教」のクラスを取ったことがあった。英文のテキストの中に、ちょうど芭蕉のこの句の英訳があった。
The old pond
A frog jump in
Plop!
という訳であった。東洋の宗教は当時から既に流行っていたが、担任のトンプソン教授が、「なんじゃこれは?」と意味不明の様子でいたので、私がすかさず手を挙げて、"The old pod is a metaphor of Dharma Kaya." (古池は「法身」=真理の隠喩です。)というと、そのとき、さすがにハッと気が付いて、「ちゃんと準備してこなかったの。」と照れ笑いをした。しかし準備をしていてもそんな答えが書いてあったかどうかは分からない。
 仏教にも三位一体を示すトリカーヤ・ドクトリンというのがあって、そのダーマ・カーヤ(法身)・ニルマナ・カーヤ(応身)・サンボガ・カーヤ(報身)が仏教の三位一体である。
 芭蕉の発見した現象の世界の中にある心と類似した状況の比喩的表現の意味は・・・蛙は我々の自我でそれが心の奥の阿頼耶識へ飛び込んでバシャッと水の音がしたのは「真理が分かった!」という悟りの声であろうか。
 しかし、いかに文学が隠喩を上手に使って、悟りの世界を描いてみせても、これだけの短い隠喩の構造では限界がある。スペクトルと光の運動がそこに明瞭に存在して、現象的身体と4象限でつながっていない限り、生の真理の構造をくっきりとトレースすることは出来ない。またそれを流動性のある世界へ効果的に自らを引っ張っていけるだけの具体性がない。分かる人だけが心をおおざっぱに直観的に捕らえて分かる程度の漠然としたものであろう。
 その点、福音書の隠喩体系は物語の構造が光の分裂と統一を表現して心の構造とピタリと対応し、さらに微に入り細を穿って、流動性のある霊魂の変換へと助けていく。

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