前節のシーソーのような事態を表象したイエスの言葉の代表的なものが、以下のようになる。マタイ10:39「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(新共同訳)"He who finds his life will lose it, and he who loses his life for My sake will find it."(NKJ)
その昔、私がミシガン州カラマズーカレッジに留学しているとき、「Buddhism=仏教」のクラスを取ったことがあった。英文のテキストの中に、ちょうど芭蕉のこの句の英訳があった。
The old pond
A frog jump in
Plop!
という訳であった。東洋の宗教は当時から既に流行っていたが、担任のトンプソン教授が、「なんじゃこれは?」と意味不明の様子でいたので、私がすかさず手を挙げて、"The old pod is a metaphor of Dharma Kaya." (古池は「法身」=真理の隠喩です。)というと、そのとき、さすがにハッと気が付いて、「ちゃんと準備してこなかったの。」と照れ笑いをした。しかし準備をしていてもそんな答えが書いてあったかどうかは分からない。
仏教にも三位一体を示すトリカーヤ・ドクトリンというのがあって、そのダーマ・カーヤ(法身)・ニルマナ・カーヤ(応身)・サンボガ・カーヤ(報身)が仏教の三位一体である。
芭蕉の発見した現象の世界の中にある心と類似した状況の比喩的表現の意味は・・・蛙は我々の自我でそれが心の奥の阿頼耶識へ飛び込んでバシャッと水の音がしたのは「真理が分かった!」という悟りの声であろうか。
しかし、いかに文学が隠喩を上手に使って、悟りの世界を描いてみせても、これだけの短い隠喩の構造では限界がある。スペクトルと光の運動がそこに明瞭に存在して、現象的身体と4象限でつながっていない限り、生の真理の構造をくっきりとトレースすることは出来ない。またそれを流動性のある世界へ効果的に自らを引っ張っていけるだけの具体性がない。分かる人だけが心をおおざっぱに直観的に捕らえて分かる程度の漠然としたものであろう。
その点、福音書の隠喩体系は物語の構造が光の分裂と統一を表現して心の構造とピタリと対応し、さらに微に入り細を穿って、流動性のある霊魂の変換へと助けていく。