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小沢茂弘コミュの小沢茂弘に会ったことありますよ。

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このレポートは2001年8月に大阪新世界東映で『傷だらけの人生』を鑑賞直後、劇場近くの料理屋の2階で席を設け、友人たちと小沢監督を囲み楽しんだときのものである。

PCのウイルス騒ぎで消滅したと思われたのだが、今回予期せぬ場所から発見されました。ここに小沢茂弘監督への哀悼の意をこめて再録いたします。
(映画水路には掲載していないと思われます。)


記録的な猛暑が続く2001年8月の大阪、お盆興行で賑わう大阪は新世界の(映画街とはいっても往時の映画館数の半分に減っているのだが)新世界東映に『傷だらけの人生』を25年ぶりに見に行った。

『傷だらけの人生』が公開されたのは東映任侠路線が終焉を迎えようとしていた時期、17歳のぼくは高倉健の『ごろつき無宿』との2本立てで“あべの・近映大劇場”で見た。

次週公開が山下耕作・笠原和夫コンビの傑作『女渡世人・おたの申します』で、翌春には藤純子引退記念映画『関東緋桜一家』が公開され、正月作品『仁義なき戦い』が興行価値未知数のまま映画化されようとしている、そんな頃のことだった。

 久しぶりの新世界、老朽化で東映封切りとしては老舗の新世界東映が、任侠・時代劇の名画座であった新世界日劇会館とピンク映画の日劇OPKとともに立て壊されて、テケツはひとつ、中央の売店をはさんで3舘が向かい合う複合映画館に変身していた。

ひとつ決定的に他の映画館と違うのは売店の従業員が60歳以上の老嬢軍団で、とにかく接遇が抜群なことだ。

当日の番組は『喜劇・夫売ります』『極道の妻たち・リベンジ』との3本立て。小沢茂弘監督を迎えるとあって、関本郁夫作品と組み合わせるなど心憎い配慮がなされている。(小沢と関本は師弟関係に当たる)

吃驚させられるのは、新世界では7月に他舘(2006年春に閉館した新世界公楽劇場である)で『傷だらけの人生』がかかったばかりだというのに、場内は立ち見なのだった。

次週には『女渡世人』が組まれるなど、この街では小沢茂弘作品は現役バリバリ。ニュー・プリントだったこともあって、封切り当時の色がよみがえっていて、紫煙に煙る満員の場内はガラの悪さまで往時を偲ばせていた。

主題歌にあわせて歌っているおっさんがいて、愁嘆場ではズルズルとすすり上げている人がいる、ここは30年前の川崎銀星かと思わせる情景なのだ。

しかし、それというのも『傷だらけの人生』が山根成之の『パーマネント・ブルー/真夏の恋』などと同じく娯楽映画として、もはや撮り直す必要が無い贅肉ゼロの傑作であったからに違いない。

そして『どら平太』をして、もはや痛快娯楽時代劇を作ることが夢のまた夢であることを痛感させられたように、悲しいかな東映任侠映画が昭和30年代の日本映画黄金時代の時代劇路線から培われた「撮影所という悪魔的空間」で醸し出される絶妙なマエストロ(職人)による熟練芸であるがゆえに、二度と再現できないことを体感させられることになった。

今回の夢のようなひとときの発起人は、数年前ワイズ出版から小沢監督の聞き書きによる快書「困った奴ちゃ」を出した、キネ旬決算特別号でもお馴染みの映画評論家の高橋聰さんと「困った奴ちゃ」の共同インタビュアーでもある元某大新聞編集長の大越正輝氏、大阪の映画ポスター店の老舗【シネマ自由区(フリーク)】店主の松村晃氏の3氏が、『どら平太』の出来に憤慨。「映画はメリハリだぞ」の旗印のもとに急遽企画した極めて私的な会合だったのである。


「いやぁ、良かったねぇ!非の打ち所のない傑作ちゅうシャシンとは、これやね」
と、ロビーへとお出ましの小沢監督。

ぼくらへのリップ・サーヴィスではあろうが、とにかくパワフルなのだ。皆な、いっぺんに嬉しくなった。

そしてここから3時間、小沢茂弘オン・ステージは始まった。

「それにしても(ありゃ)古典だね。」
の言葉に象徴されるように、創ったご本人でも30年の星霜に耐えて輝く作品の出来栄えに意を強くされたようである。

「鶴田は僕よりふたつ下だから、46歳のはずですよ。久しぶりの自分のヒット曲だし、リキ入ってた。会社から言われた作品を、予定どおり仕上げていくのが職人だと思ってますからね、このシャシンでも特別困ったちゅうことはなかったね。でも、もう出来ない。役者がおらんわね。」

悪役ぶり・遠藤辰夫、珍しいほどはまっている・石山健二郎、最後のイイひと役・待田京介、とにかく素敵な・工藤明子。それに加えて助演陣の分厚さ!天津敏、北村英三、楠本健二、諸角啓二郎。そして大部屋俳優の豪華さ!川谷拓三、阿波地大輔、志賀勝、林彰太郎、中村錦司、秋山勝俊、小田部通麿、平沢彰などなど、顔が違う!

「このシャシンでもスタッフやキャストは(暗黙の了解で)ツー・カーの人間が揃ってるわけですよ。そうでもなけりゃ1ヶ月でこんな出来になりません、て。」

生涯に157作品を世に送った職人監督の自信と矜持が溢れて、気持ちよく料理やジョッキを平らげていかれる。その健啖ぶり、見事なり!78歳とは思えぬパワーなのだ。

「私はねぇ、(職人として)娯楽映画ばかりを撮り続けて157本。幸せだと思うね。そうそう、1本だけ例外があるのが『多情仏心』。あんな文芸作品を撮るはめになったのも(製作の)マキノ光雄に頭下げられたためやけど、(マキノが)すぐ死んじゃって・・・・」
と、3杯目のジョッキが空いた。

Q:「あのラストの天神祭りですけど、手前の土手に屋形船に向かってカンカン帽を振ったりする観衆がいて、画面奥には芸者衆を乗せた堤燈でデコレートされた三〜四艘の屋形船。その間を待田京介の櫓さばきで鶴田が殴りこみに行くカット。あれはどこで撮ったロケですか?」

小沢:「琵琶湖の瀬田の大橋。」



Q:「鶴田が天神祭りの花会へ船で乗りつける殴り込みの最初に斬られるのが川谷拓三。斬られて後手でカガリ火を倒すとこで、思ったほど景気よく火の粉が舞わんかったのと違いますか?あれは本音で言えば、監督の失敗カット?」

小沢:「(・・・・苦笑い)」


Q:「それにしても、待田京介は最後の善人役では?」

小沢「あの頃会社(東映)は、次の売り出しを京介にするか、文太にしようか随分迷ってたんやね。文太がすぐに『仁義(なき戦い)』で売れちゃったけど・…文太も・…やけど京介はスターに取り入っていくこすっからい奴やった。」 


そうか、昭和30年代後半「日真名氏飛び出す」の後番組であった「月曜日の男」の主役でもあり、キャリアとしては申し分ない待田京介がこの頃から役柄として冷遇されていたのには理由があったのだ。


Q:「時美沙が楠本健二にやられそうになって、待田がコテンパンにのされるシーン、画面手前に耳を塞いだ時美沙、画面奥にフォーカスをぼかした男たち。あのシーン、いいですね。」

小沢「あれが今日見ていて一番のとこやね。うまいなぁ、てね。東大でてても出来んやつにゃ出来ん。」

と、小沢茂弘は「困った奴ちゃ」の本領発揮。がんがん飛ばしてくれたのだった。話はほかの作品に及んでいく。

Q:「監督が一番思い入れがある作品は正直言って何になりますの?」

小沢:「『回天特別攻撃隊』、『博徒七人』手本引きをきちんとやった(描写した)いうことじゃ『いかさま博尖』。こりゃフィルムあるの?無い、の。残念だな。『傷だらけの人生』でも北村英三が彫師で色直し(昔彫った彫物へ墨を重ねて色あせを是正することのために地方の親分さんたちを廻るというエピソード)がでてきたけど、こういうことをきっちり押えることが必要なんだよ。」


Q:「遠藤辰雄はあっちの方で有名ですけど?」

小沢:「そういや、この間遠藤から本送ってきたなぁ。わしは助平で困った奴ちゃ、やけど、若い助監(督)は大変だったようだね。」


ここで僕は東映時代劇の作家でもあった小沢茂弘監督にチャンバラ時代のことで訊いてみた。

Q:「大友柳太朗という人はどんな人です?」

小沢:「変わってたね。ロケ先の宿で真夜中に部屋までやってきて、真剣な顔でね、監督教えてください、自分はどんな顔してたらええんですか。どんな顔に見えてるんですか、ちゅうわけや。ものすごく気が細かい。大丈夫、大丈夫、ばっちりやから心配しなさんな、ちゅうて部屋に返すんや。それで映画見たら颯爽といけてるんやから、スターやな。あの人があんな風に(投身自殺)死んだときも、やっぱりなぁ、ちゅうとこがあったね。」



Q「監督の『赤い影法師』は大川橋蔵と木暮実千代の描写は当時としたら凄く官能的ですね。あのねっとり感。子供心にもドキドキしたんですけど、あの2人はどんなんでした?」

小沢:木暮は凄かった。貫禄でね。橋蔵なんぞ震えあがってた。芸の厚みが、あの頃の橋蔵ではチンピラ同然。何んも喋れんでね。」

ジョッキ3杯、枝豆3皿。刺身、鮨、唐揚と平らげ、トイレにも通いながらも小沢監督は終始元気。あっと言う間に3時間がたってしまった。

長い間僕は小沢茂弘という監督に一番近いのは大映の森 一生のように思っていた。だがお会いして痛感したのはマキノ雅弘のような「活動屋」のイメージだった。

インテリでもさしずめインテリならもう少し自分の映画について持論なり理屈があるだろうと思うが、小沢大人は屈託皆無、過ぎ去った栄華に対する懐古趣味はさらさらなく、やり終えた充実感だけが体のなかに残っている…、そんな印象だけが思い出し笑いとともに甦ってくる。

ただマキノ雅弘では虚実恩讐を超えて話術のなかに異常なまでのパワーとして発酵していた感があるが、小沢茂弘は今なお「困った奴ちゃ」を自負して、やんちゃ坊主のようなパワーをこちらに向かって放射し続けているのだ。

何れにしろ、撮影所が撮影所として量産体制をとり得た時代は二度と来ないだろう。

映画は21世紀にも造られ続ける。だが映画館の暗闇にのみ己の安息を見出していたような人間はもはや出現しないことだろう。
夢を紡ぐ場所としての撮影所。映画そのものの存在自体が変容していく。と同時に、我々自身の変化そのものがこれらの歴史への変化を呼んでいることに気づくとき、致し方なしと諦めざるを得ない。

「困った奴ちゃ」は、実のところ「羨ましい幸福な奴ちゃ」なのだ。


勝手に書き込みしちゃって御免なさい。

でも、少しでも興味のある人に読んでいただきたいので、ここに転載させていただきました。

なお、コミュニティ・トップの口絵になっている「困った奴ちゃ」は友人3人の共著です。

面白いでしょ。


コメント(1)

北京波さんへ

コミュニティ参加ありがとうございます!
それとワイズ出版の本ばりにボリュームのあるレポートもありがとうございました!

>「いやぁ、良かったねぇ!非の打ち所のない傑作ちゅうシャシンとは、これやね」
と、ロビーへとお出ましの小沢監督。

「困った奴っちゃ」は東映系の映画監督のインタビュー本ではかなり傑作だと思うんですけど、この人は実像も本と変わらない感じの方なんですね(笑)。
いかにも活動屋、映画職人というハッタリがあるというか、勢いがあるというか(笑)。

>小沢「あの頃会社(東映)は、次の売り出しを京介にするか、文太にしようか随分迷ってたんやね。文太がすぐに『仁義(なき戦い)』で売れちゃったけど・…文太も・…やけど京介はスターに取り入っていくこすっからい奴やった。」 

文太さんか待田京介さんのどちらを売り出すかという話しは何かの本で読みました(岡田さんの自伝だったかもしれません)。
確か東映の館主大会で文太さんを推する意見が多かったのが決め手になったという話しと、待田京介さんの人間的な部分も大きく影響したと書かれていた記憶があります。

それと小沢茂弘監督は、師匠マキノ雅弘監督の良いところはきっちり受け継いでいる監督さんなんですね(情緒的なところは受け継いでなさそうですが)。
実はこういう細かい情報が映画を観るときに大きく影響したりするので面白い話しをありがとうございました!

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