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OSHOコミュの客観芸術ギャラリー

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アートには「主観芸術」と「客観芸術」があることを最初に指摘したのはグルジェフです。
そして、OSHOがわかりやすく、いまの人々に伝わるカタチで
多面的に表現してくれています。

瞑想を通して昇華されたエナジーはプールされ、やがてクリエイティブへ向かう。
その「中空の竹」から発露されたアートは、覚醒の芳香が漂い、
観る者を、いまこの瞬間へ、あるがままへと誘う。

あなたが「客観芸術」と感じた絵画や詩、歌、演劇、舞踏、映画、映像、
イベント、パフォーマンスなどの情報をご紹介ください。

   "I am not a painter.
   I am the painting.
   Where the painter has got lost into the painting,
   I don't know."          OSHO

OSHOのシルクスクリーン版画作品
http://oshoart.com/JapGallery/oshoart_set.htm

コメント(38)

ブルックナー
交響曲第9番。

ベートーヴェン
大フーガ。
これまでにさまざまなトピの話の流れの中で、客観芸術といえる作品が紹介されたりしてきました。川の流れのようなアウトプットの愉しさで、多彩な客観芸術が紹介されてきたんだけど、あとでその作品や情報を見直そうとしても、どこにあったやら発掘できない・・・これはとってももったいないこと。このトピを「客観芸術フィールド」にしていくと、いつでも簡単に探し出すことができますね。

まずはこれまでこのコミュで紹介された作品をもう一度アップするところからでもいいですし・・・
ダーツさん、さっそくどーも。

まずはやっぱりOSHOの作品から。OSHOは膨大な著書を読破して、その本の中扉に独自のアートを描いていました。この原画を直接観ると、不思議な強烈なエナジーで、なにか境界線が溶け出すような感じで・・・ヤバイ(笑)

アンディ・ウオフォールを日本に紹介した友人がこの作品をシルクスクリーン版画にするプロジェクトを立ち上げた。もちろんOSHOとの直接交渉で許可を得て。ぼくも伊豆のユニティ創立メンバーとして、制作や展覧会企画のプロデュースに3年近く関わりました。1987年〜1990年までで、第1集のシグニチャーシリーズ(21作品)と第2集のリーラシリーズ(21作品)の途中まで。これを継続してプロデュースしているのが、現在の鎌倉のユニティです。

---------

「あらゆる芸術は、客観芸術か主観芸術のいずれかとして説明できる。主観芸術は、至るところに見られるものだ。それはその人のフィーリングから、その人のハートから、その人のマインドから来ている。絵画にも、詩にも、音楽にもある。

だが、客観芸術はあなたのハートの空虚から来る。
あなたはただ笛に、中空の竹になるだけで、あなたを通じて歌うのは宇宙だ。あなたの唯一の手柄は、何も邪魔しなかったということ、宇宙が自分を通じて流れるのをただ許したということだ。あなたが手放し状態になり、宇宙が自分の中を流れるのを許すことによって、客観芸術は創造される。

世界に客観芸術はあまり多くない。それは客観芸術を創造しうるためには、人が中空の竹にならなければならないからだ……。ところがあなたはあまりにも固く、あなたのエゴはあまりにも頑固だ。客観芸術が生まれるためには、あなたは非常に謙虚に、ほとんど存在しないに等しくならなければならない。

あなたがいないとき、大いなる宇宙の氾濫が来る。その洪水が詩となり、絵画となり、音楽となり、ダンスとなり、彫刻となるのだ。何千という領域が開け、あなたはただそれを許すだけだ。」
OSHO
あー、これ、客観だか主観だか自分ではよく分かりませんが、「中空の竹」状態だったのは確かです。なにかが降りてきました(笑)

http://www.youtube.com/watch?v=F8ORkCf12Ac

http://www.youtube.com/watch?v=Zc5kL7Z-zKk



何者の

おわしますかは

知らねども

かたじけなさに

涙あふるる


西行
遊びをせむとや生まれけむ  

戯れせむとや生まれけむ 

遊ぶ子供の声聞けば 

わが身さへこそ

動(ゆる)がるれ 


(梁塵秘抄。名も無き遊女の歌という)
> 閑かさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉

この句は大好き。
しかしこれを実感するまではなんのことか全く分からなかった。

この句を実感したのは、ある神社の参道を歩いているときだった。
時は夏の夕暮れ。
静かだなぁと、しみじみ独りで歩いていたら、
ひぐらしの声があちこちから聴こえることに気づいた。

カナカナカナカナ   カナカナカナカナ

神社の森にしみいるような声だった。
静かだ、そう思いそれから大好きになった。


P.S.
芭蕉のいう蝉は本当はひぐらしではないのかもしれない。
しかしそれでも関係なくこの句は素晴らしい。
スーフィーの映画「バーブ・アジーズ」ももう一度アップ。


天上大風

http://www.seibidou.com/cgi-bin/herodb/souko/bin/bin080821130002009.jpg





             見る者もなく。聴く者もない。

            ただ、永遠の遠い波の音だけが響く。








 
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3993343

宮古島 OSHO ART INSTITUTEを宜しく!!
まずはアートや創造性に関するOSHOのいくつかの言葉を・・・


「成長はエネルギーに関係がある

成長はエネルギー現象だ

比較をせず

競争をせず

野心を抱かず

自分以上の者になろうと思わなければ

人はたくさんのエネルギーを蓄積する

なぜなら 競争と葛藤に浪費されてきたすべてのエネルギーが

もはや浪費されないからだ

人は貯水池になる

そのエネルギーから創造性がやって来る」

OSHO unio mystica


「木がエネルギーで溢れているとき

それは何千という花を咲かせる

それらの花は その木からの端的な表明にすぎない

『もう私はこれ以上持ちきれない

私の中にはあまりにもたくさんの色彩や

あまりにもたくさんの香りがあって

私はそれを噴出せずにはいられない』と

その木には果たすべきどんな理想もない

それには目的地はない」

OSHO unio mystica



「床をみがくことが 途方もなく創造的な行為であり得る

いいかね 創造性は特定の仕事とは何の関係もない

創造性はあなたの意識の質そのものと関係がある

あなたが何をしていようと それは創造的なものになり得る

あなたが何をしていようとも もしあなたが創造性とはなにかを知っていたら

それは創造的なものになり得る

創造性とは どんな仕事でも それを瞑想として楽しむということだ

どんな仕事でも 深い愛をもってするということだ」

OSHO come follow me



「美とは 神聖の最初の一瞥だ

どこであれあなたが美を観ているとき 

自分が聖なる地にいるということを 憶えておきなさい

どこであれ と私は言う

人の顔 子供の目 蓮の花 飛行する鳥の翼 虹 あるいはもの言わぬ岩

どこであろうともあなたが美を観ているとき

いいかね あなたは聖なる地の上に立っている

___神は近くにいる」

OSHO come follow me



「真の芸術家は決して完全性を思わない

だが彼の行動はあまりにも全面的なために そこから完全性が生まれる

ニセの芸術家 技巧家は 常に完全性を考えている

そして 彼が完全性を考えているがゆえに 彼は全面的ではない

彼から完全性は生まれない」

OSHO the perfect master



「ほんとうの詩人は 一度も どんな詩も創らないかもしれない

なぜなら 彼の全存在が詩だからだ

その歩き方 その座り方 その食事の仕方 その眠り方

___それがすべて詩なのだ

彼は詩として存在する

彼は詩を創るかもしれないし 詩を創らないかもしれない

それは本質的なことではない」

OSHO the book of the books

OSHOはこうも言及してますね。

「芸術は無意識な姿をした宗教だ。宗教は意識された芸術だ」
アートとは離れるけど、こんな表現も・・・


   「心とは 内なる環境だ

   環境とは 外なる心だ」


あるいはこんなことも・・・


  「Light is easy.

   Easy is light.」


・・・こういう表現は老子ゆずりだろうね。
   
老荘思想、OSHOの一番のキーポイントだと思います。


世阿弥の能の秘伝書にある
秘すれば花、秘せずは花なるべからずという
花が美しいと表現しないが故に美しいと
日本的美の表現は、西洋にない、余白の美
描かずして描くという、世阿弥の作り上げた芸術論です。

これこそ客観的芸術の境地かもしれません。






                       Universe and Sun










 
21世紀に通用するのは、辛うじて禅なんだろうけど、
個人的には老荘がさらに好きというか、縁が深かったと思うんだよね。
あのおおらかさ、ゆるゆる感、おとぼけぐあいは癒し系というか・・・南方の大陸的。

禅はシャープだね。空気が凛としている日本にはよく合っている。

世阿弥はその花伝書を天河で書いているんだよね。
南朝の保護を受けていたからね。
南朝が滅んだ晩年には佐渡に島流しにされるんだけど、おかげで佐渡には能が浸透した。

たしかに能は世界に誇れる客観的芸術ですね。
毎年、うちの近くの遊行寺では薪能が行われます。

そうしてみると、禅画をはじめ、茶道、華道、あるいは茶室や枯山水の石庭など、
日本は客観芸術に溢れている。

大仰なことではない、身近なことなんですね、ぼくらにとっては。
あ、表向きは南朝が滅んだわけだけど、南朝方の天皇の子孫は代々いたようだね。

で、北朝の天皇がなにかあったり、転換点では何度か南朝方の天皇と入れ替わっているそうな。明治天皇も南朝だということを、伊勢の巫女さん(あの人ね)が話してたっけ。

トピズレでしたあせあせ(飛び散る汗)
>21

lightではなくrightではないですか、もしかして?

「正なれば楽なり、楽なれば正なり」という言葉を
荘子の言葉として、OSHOが紹介していた気がしますが、
本当に荘子の言葉にそれがあるか、ちょっと確かめてみたいと思います。
世阿弥の風姿花伝書。

彼は禅を否定しているらしいですが、とても禅的な心が満ちあふれているように感じます。

あるとき、弓の名人がいたそうです、次に 観照するだけで鳥を打ち落とす名人に出会いますが、さらに達人がいると聞き、そこへ彼を訪ねたたそうです。 そこには、弓のことを尋ねると弓とは何ですか?と答える老人がいたそうです。

客観的芸術(究極美)とは、意識すればするほど遠のくものだと思います。
もっと身近な足元にあるものではないかと思います。

そして理論だけでなく結局実践ですから、知識は全てスルーして、マインドとの葛藤の中から得られるのではないでしょうか。

心や体で体験していくことで身につく世界なのだと思います。
>そして理論だけでなく結局実践ですから、知識は全てスルーして、マインドとの葛藤の中から得られるのではないでしょうか。

マインドが邪魔しないのが客観芸術じゃないでしょうか。異界からのインスピレーションとか異言とか自動書記とか、、。例えば、数在る名曲の類いは作ろうとして作ったもんじゃないと思います。どっかから降りて来てる。それを感知する人達はいわばアンテナの役を果たしてるだけで、エゴマインドの出る幕は無い、、みたいな。
>マインドが邪魔しないのが客観芸術じゃないでしょうか。

それを言ったつもりなんですが、(失笑)”マインドとの葛藤”という部分で、私の語彙不足でうまく伝わらなかったみたいですね。
マインドとの葛藤とマインドが邪魔しないじゃ180度逆じゃないでしょうか
>>30 正念

同意。意識の質というのがすべてそうだと思います。

オショウが「そこには絵描きはもういない」というときの意味だと思う。

モーツァルトは、すごい早さで作曲をしたそうだけど、どこかで、彼は、
「音楽が聞こえてきて、自分はそれを書き留めているだけだ」
というような話をしている。

小説家で、同じような話をしていた人もいる。

科学者でも同じようなことを言ってるひとが多い。
解答を得ようとしていて、ある時、ふとくつろいでいる瞬間、
風呂に入ってるときに起きることが多いようだけど、
ふと、そこに回答があって、慌てて書き留める。

20世紀の電気文明のほとんどを作り出した科学者・技術者の
テスラも、アイデアがポンとそこにあって自分はそれを書き留めていただけだと
言うような話をしていた。

実際に多くのものを発明したんだけど、後年、
「実は宇宙人が私にアイデアを送り込んでいるんだ」みたいな話をして、
気持ちわるがられて、投資家に逃げられた話もある。

プログラミングの有名な人がやはり、似たような話をしている。
自分が作っているんじゃなくて、自分を通してものが出来て行っているだけだ、みたいな。
その人は、演劇もしていたりして、映画や劇場にでたりしているのもおもしろい。

--------------

つい、話が芸術よりも科学技術に飛んでしまったけど、
自分は、本当に良い通路に徹した方が、より良い作品が起きていくんだろうなあと思う。

客観芸術というのは、それと瞑想をすることができるうようなもので、
その作品には特定のひとつか複数の意識の質が記録されていて、
それを受け取って、再体験する事が出きるようなもの。

意識的な状態で、何かをすると、その意識が表現されてそのうえに記録される。
たとえ、一本の線を引いても、ひとつの円を描いてみても、そこに記録される。
意識の質が記録されていたら、僕等は、そこに「美」を感じる。

石庭というをのを思ったけど、
あんなにでかい岩を配置して、意識の質を固定しておいたら、
しばらく残るでしょ?それで大きな岩で遊んだんじゃないかな?とか。

だから、客観芸術というのは、
「表現されるもの」がポイントではなくて「表現している人」がポイント。
「表現している人」のその瞬間の意識に価値があるなら、
その時に表現したものには、自動的に価値が出る。

仮にだれもそれを評価しなくても、宇宙全部が、それを評価するみたいな。
そうだと思います。

客観的芸術(究極美)とは、意識すればするほど遠のくものだと思います。
もっと身近な足元にあるものではないかと思います。ただ、気づいていないだけ。


宇宙が自分を通じて流れるのをただ許していくことによって客観的芸術が創造される。自分自身がいないとき、自我がなくなったとき、宇宙の氾濫が来る。その洪水が詩となり、一片の絵画になるのだと思う。

私は、まだまだ、修行中の身ですので、自我との葛藤があります。
そうね、禅画に代表される瞬間芸は、悟り臭さも消えている。
自意識の跡形もないのが多いよね。

で、この客観的芸術というのもけっこう幅が広くてバリエーションも豊か。

たとえば、ピラミッドやタージマハルも客観的芸術に入るわけだけど、
意味合いがかなり違う。

ピラミッドは地球レベルで磁場調整する装置でもあるし、
準備ができた人が中に入るとエンライト体験装置になっているとOSHOが話していましたね。

これは覚者によるエネルギーと建築学的科学と言った方がいい。

これはたぶんアトランティスの叡智の継承だと思うけど。

このように幅が広いんですね。

-------

弓道と石庭づくりの昔話をちょこっと・・・

弓は「ひきわけ」から「かい」の最終状態に入ると、腹式呼吸で息を吐き出し、
息を止めた状態で、ハラに中心が座る。

力学的にも左右均等のバランスに。

「はなれ」の瞬間に、マインドが入ると、その均等が崩れ、矢は的から外れていく。

「はなれ」の瞬間に、無念無想であれば、矢は的へと帰っていく。

最初から、弓と、矢と、人と、的は、分かれていない。
的からの爽快な音がこだまするだけ・・・
一体感とともに、小さなエクスタシー。

学生時代にこういうことを繰り返していたら、OSHOに呼ばれることになっちゃった。

-------

旧ブッダホールのまわりに石庭を造ったことがあるんだけどね。
デザインをアナンドに見せたらOKが出て、数ヶ月かけて石庭づくりで遊ばせてもらった。

石の位置や方向を少し変えただけで、全体のエナジーと景色が変わる。
これは面白いくて、夜のレクチャー中も話を聞きながら遊んでた。

ニベダノたちと石を取りに山へ入ったときには、自然のパーフェクトさに驚いた。
意図がないし、自然だからね(笑)
お手本は自然の中にある。

完成してセレブレーションのあとには、すぐに木を植えられてしまった。
OSHOの指示で、竹の塀の隙間からブッダホールのOSHOの姿が見えるといることで。
そこまでぼくは考えが及ばなかったんだよね・・・


現代の夢窓国師ともいえる枡野俊明さん。禅僧であり造園家。
http://www.kenkohji.jp/s/index.html
私も大学時代に弓道をやっていました。

何度か「外す気がしない」と感じ、そして実際に外さないという経験をしました。もしかしたら客観芸術と呼べる状態だったんじゃないかなと思います。

多分傍目には違いは分からないかもしれませんが。
カタチに残らない客観芸術の一瞥を、弓道の型を通して体験させてもらっていたんですよね。
傍目には一切わからない。

この場合、できるだけ自分の癖を消した方が、エネルギーが流れやすくて、それが起きやすいというのも、合気道であれ、茶道であれ、共通しているかもしれない。
Free Jazzの巨匠、Ornett Collman,彼のCollective Improvisation(集合的即興

演奏)なども客観的芸術と言えるんでは、ないでしょうか?

3歳の子供とのコラボレーション等、最高の作品などがあります。

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