ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

やきとん 高木コミュのトリビアのタレ壷

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 創業大正11年(1922)の「やきとん高木」も今年で85年。
関東大震災や昭和の大恐慌、中国との15年戦争や太平洋戦争と
戦乱の後の敗戦による混乱期、そして敗戦国なのに高度経済成長
によるGNP世界第2位の経済大国となり、バブル経済とその崩壊
と色々あった85年間ですが、当然その間「やきとん高木」にも
それなりの事がありました。
 そこで「やきとん高木」のコミュを盛り上げ、更に少しでも
皆様に「メニュー」以外の事を知って頂こうと「やきとん高木」版
トリビアの泉的なトピを立てさせていただきました。

 「大正11年以前やきとん屋の前は駄菓子屋だった。」
 初代の祖父母夫婦は最初は駄菓子屋をやっていたそうだ。
ところが高木家は代々甘党で祖父は店で売ってる駄菓子を食べて
しまう。そこで祖母は、これじゃ商売にならんと逆に酒の飲めない
祖父に酒を売る飲み屋に商売変えさせた。飲み屋なら祖父も商品に
手をつけませんからね。ちなみに父や私も甘党で酒は一切ダメダメ
の下戸です。
 やきとんの肉は祖母の父が豚肉関係の仕事をしてたので、焼き鳥
ではなく焼きとんになったのです。
 元々祖母の実家は安房館山の捕鯨の網元の家で、醍醐家と云えば
安房国では日蓮上人や里見氏ほどではないが「房総捕鯨の醍醐
新兵衛の一族」として有名なのだ。
 てな訳で大正11年に屋台のやきとん屋を始めました。これが
意外に順調で祖父母で屋台を二台ひいて、現在のサンシャイン60
昔の巣鴨プリズンの看守さんの官舎前で営業してました。
 そして現在の滝野川の店での営業は昭和4年からです。
しかし大正11年に屋台一台から商売を初めて昭和4年に住居兼
店舗の二階建ての家を建てるとは、祖父母も頑張ったもんだと
感心します。

コメント(9)

へえー。
これは感動したw
元駄菓子屋で、引き売りをしていたとは!
このコミュ立てた甲斐がありました。
今度店に行ったら生でお礼を言いたいと思ってますw
そうかぁ。
駄菓子屋の話は初めて聞きました。
 先程、北ケーブルTVの時代劇チャンネル「新撰組血風録」を
観てたら数年前に亡くなった伯父(高木均)が薩摩藩士役で出て
ました。時代劇で伯父を見かける事はよくあるんですが、大抵が
悪い商人かやくざの親分で座頭市や中村主水に斬られて死にますが
今回は珍しく薩摩藩士の中村半次郎役だった為に新撰組にも斬られ
ずに他の薩摩藩士を引き連れて酒を飲みに行くシーンで終わりました。
 俳優の利点は亡くなった後も出演作品で元気だった姿を家族や
親戚、友人知人が懐かしく見る事が出来る事ですかねぇ。
 ちなみに本来ならば、長男である伯父が店を継ぐべきだったん
ですが、伯父は旧制巣鴨商業卒業後に朝鮮銀行に入行し敗戦間際の
八月に応召。終戦後すぐに文学座に入って俳優の道を歩んだ為に
弟である父が半官半民の貿易会社を退社して店を継ぎました。
 七番へ。
 そりゃそうだ、私は友人の間じゃ寡黙な男で通ってるからな。
 やきとんのタレは昔から注ぎ足し注ぎ足しで今に至っており、
それは鰻屋のタレやクサヤのタレと同じである。
 平安な日々が続いておれば何の問題も無い訳であるが、商売も
長い事やってれば天災人災いろいろあって、店にとって一番大事な
名代のタレの維持にも危機がある。
 例を挙げれば「戦時中は大事なタレ壷は、どうしてたの?」と
やきとん好きのチビッ子は疑問に思うであろう。
 うちの店も戦時中は「国民酒場」として一日一時間だけ営業して
ました。それでもと云うかそれ故に店の前には長蛇の列です。
なにしろ酒を売ってる店が一時間だけ開いてる訳ですから、酒好き
のおじさん達は炎天下だろうが雨の中だろうが並びます。
 当然物不足の時代ですから仕入れる酒も配給される量は店ごとに
決まっております。幸いうちの店は既に20年以上も営業してたの
で営業実績があって北区内ではウィスキーは一番、ビールは二番の
配給があったので戦時下でも何とか営業出来たのです。
 ただ豚肉は配給が無かった為に当時は「やきとん」の代りに野菜
の焼き物や炒め物が酒の肴でした。
 そして肝心要のやきとんのタレ壷はと云うと、店の奥の防空壕の
中です。まぁ防空壕と云っても地下十数メートルのコンクリート製
の秘密基地的な、平和時には祖父やその息子達がサンダーバードに
乗って救援活動をしてるような、たいそうな物では無く自家製の
三畳ほどの手掘りの簡易壕であって天井部分も板を被せただけの
物で、焼夷弾で家が焼ければ家の中に掘られた壕も一緒に焼け落ち
ると云う意味が無い物でしたが。
 東京大空襲と云えば昭和二十年三月十日ですが、王子・滝野川区
が被害を受けた(死者322・負傷者1.499・被災建物29.235・罹災者
118.727)城北大空襲は昭和20年4月13日深夜の事であった。
 祖父と父はリヤカーに家財道具を乗せて浮間の親戚を目指し逃げ
祖母と伯母達は身軽な格好で別々に逃げた。一緒に逃げるより
生き残れる確率は高いですからね。
 そして運良く誰一人欠ける事もなく浮間で合流する事が出来た。
滝野川もすっかり空襲で焼け野原となり大塚駅も家から見る事が
出来たそうだ。だがこれまた運良く家の周囲だけは焼け残っており
戦後の混乱期も屋根も畳も家財道具一式失わずに過ごす事が出来た
のです。勿論「やきとん高木」も再開です。
 戦争で家や店、店主や家族を失った人々が多い中で何一つ失わず
に戦後に至るとは本当に運が云いとしか云いようがありません。
私も昭和32年生まれですが、地下の防空壕も見ましたし押入れの
中にしまってあった戦前の写真も残っております。
私個人は三丁目の夕日世代ですが、生まれ育った家は昭和初期の
世界だったんですね。
 その昔、私も大正大学には二年間通ってました。
「二年間って大正大には短大は併設されてないから、院生?
それとも中退ですか?」
 いえいえ今から45年前の話で大正大学付属幼稚園にです。
「えっ〜!!!大正大に幼稚園があったんですか!?そっちの方が
トリビアじゃないですかぁ。」
 勿論大正大の付属幼稚園ですから仏教系で、お釈迦様の誕生日に
は甘茶をお釈迦様にかけてお祝いしました。
 潮干狩りなどの遠足行事には、先生達だけでは手が足りない為か
大正大のお兄さん達も手伝いに来てくれました。
 滝野川や西巣鴨、庚申塚に住んでいた私ぐらいの年配のおじさん
おばさんは大正大幼稚園・木内鳩の家幼稚園・白鳩幼稚園に通園
してましたね。
 うちからだと大正大幼稚園が一番近く通い易く、毎日休まずに
ねえやに手をひかれて通園してました。この「ねえや」を現代語訳
すると「住み込みのお手伝いさん」もしくは「メイド」である。
 仏教系幼稚園に通園してた私も今では店で炭火の焼き台の前で
やきとんを焼いて、拝火教(ゾロアスター教)の神官のようだ。
 まぁうちは真言宗なので、開店前に焼き台の炭を起す作業等は
割り箸の束をくべて火を点けるから護摩を焚く真言密教にも見える
が・・・。
 昭和20年8月15日、大日本帝国敗戦の日の「やきとん高木」

 まさか正午に「玉音放送」でポツダム宣言の受諾、即ち敗戦を
知らされるなんて思いも寄らぬ祖父母は、たまたま貴重な餅米が
手に入ったので朝から正月でもないのに餅をついてました。
食料不足で日頃から腹を空かしていた伯母や父は文字通り「盆と
正月が一緒に来た。」と大喜び。
 そして正午の天皇陛下の敗戦の御言葉です。神国日本の初めての
敗戦(663年の白村江の敗北は別に大和朝廷が唐朝に降伏した訳
じゃないので数には入れず。薩英戦争も。)。
 でもせっかくついた貴重な餅を食べない訳にもいかず、我が家は
敗戦の日の昼ご飯は、お餅でした。

 一昨日の夜に日本テレビでBC級戦犯のテレビドラマ「私は貝に
なりたい」を放映してましたが、終戦後の高木家でも戦犯が話題に
なりました。祖父は1900年生まれで戦争中は40代で召集は
されず、伯父も8月召集で兵隊さんの赤ちゃん状態。父だって
終戦時に15歳の旧制中学生で基本的に戦争犯罪には全く縁が無い
状況だったのだが、祖母が「大日本国防婦人会」幹部だったので
戦犯にリストアップされるかもとの不安が家族の間で話題になった
のだ。(笑)
このシリーズ面白いですw
店にいきながら、「戦中どうしてたんだろうねー」とかよく話題にしていたのでそのあたりの詳細が聞けたのは目からうろこでした。
あの暑い8月15日に餅をついていたとか野菜の炒めものを出してたとかというエピソードは当時の食糧事情が見えてきて面白かったです。
もっと聞きたい!
 「米友会」一見すると米屋の親睦会、或いは親米派の集まり
はたまた東京在住の米子か米沢出身者の県民会とも思われる。
 「米友会」とは、その昔やきとん高木の常連客とその家族、
そして私達高木家との親睦会で、その名の由来は35度の米焼酎の
牛乳割りから来ている。
 昭和の30年代40年代、米友会で観光バス一台したてて日帰り
で海水浴や川遊びに行きました。
 お正月には成田山や安房誕生寺に初詣とかにもね。
子供だった私にとってはお年玉の稼ぎ時でね、一日で2万円は
下らなかったですね。
 現在、店内で私の事をマスターとか旦那とかお客さんに呼ばれ
ますが、昔からのお客さんは「マーちゃん」とか「マー坊」と呼び
今でも私を「マー坊」と呼ぶ古いお客さんは、私にお年玉をくれた
お客さんです。
 ちなみにそのお年玉は子供がそんな大金を持ってても危ないので
貯金しましょうね、と母親に預けさせられましたが、あのお金は
どこにあるんでしょうか?あの頃の昭和の子供達共通の謎です。
 紅葉の季節には、栃木県奥那須の茶臼岳に一泊登山です。
登山口の大丸からロープーウェイにも乗らずに、今夜の宴会用の酒
や肴などを背負って峰の茶屋を越えて三斗小屋温泉にテクテクと
歩きます。
 常連のお客さんの中には知合いの女性に「温泉に行こう。」と
だけ誘った為に和服に草履やハイヒールで登山と云う方もおりまし
た。山麓のロープーウェイ駅を素通りして登山道に向かう際には
大変だったんだろうなと思います。
 奥那須秘湯の三斗小屋温泉には「煙草屋」と「大黒屋」の二軒が
あり、我々米友会の宿泊する定宿は「煙草屋」です。
 なぜならば、高木と「煙草屋」の大金家とは親戚なんです。
伯父のお嫁さんの実家なんですよ。つまり私の父親と煙草屋の主人
は義兄弟なんですね。
 そう云えば数ヶ月前にNHKの番組「新日本紀行」だったかで
三斗小屋温泉煙草屋が取材されていて今は亡き御主人が出てました
ね。女将さんは腰を痛めて現在は山を降り麓の村に住んでるそう
ですが、NHKの番組で親戚の近況を知るとは思いませんでした。
 私は子供の頃より三斗小屋温泉には行っており、友人やバイト
学生とも数年前に行きました。ただ一番最近は宿が予約で一杯で
煙草屋には泊まれず、バイト学生と共に茶臼岳登山後に峰の茶屋
から引き返し麓の温泉宿に宿泊しました。その宿の女将さんは
伯母の妹で法事などで何度も会って知ってる為に宿代も親戚価格で
安くしてもらいました。

 その後「米友会」は「甲子会」「平成甲子会」へと発展解散して
年に一度、東北や関西中国四国へにも旅行に行きました。
しかし常連のお客さんも年齢と共に数も減り、現在はありません。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

やきとん 高木 更新情報

やきとん 高木のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。