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書庫 「葉っぱ猫」 mixi処コミュの声無しの詩/三章?

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『三章 ぶち「猫」と「知」らないもの』



 閉館時間も迫った夕刻、もうそろそろ、新しい来場者も居ないのだろう。
 ホール棟と展示会場を繋いでいる通路。
「──演奏、上手かったね」
 二人きりになったその場所で、渉はさっきは流れに任せた言葉を、今度はちゃんと気持ちを伝えるように静かに言った。
『そ、そんなことないよ』
 詩季は褒められ慣れていないのか、先ほどと同じく、丁寧にどもる表現まで加えた文章。
 彼女なりに喜んでいるのだろう、それが伝わって、渉は頭を掻いた。
「いや、正直な感想だけどなぁ?」
『だって、演奏はちょっと乱れてたし。ていうか渉くん、知らない間に来てたし』
 白い指が、携帯のキーを続けて打つ。
『おかげで今日は散々だよ? 緊張しちゃって。技術面で見ればけっこう酷かったし』
 そう言った彼女の言葉は、本音なのか謙遜なのか、判別が難しい。少なくとも渉にとって、今日聴いた彼女の演奏は、今の発言を否定するに足るものだった。
 あの音の迫力は、この間の曲に勝るとも劣らないと思った。だが、流石に『音楽の技術』という部分で素人が口を出すものでもないな、と渉はもう一つの部分に乗ることにした。
「ほら、麻衣から聞いてさ。せっかくだから、演奏聴きたいなって」
『私は聞いてなかったよ』
 拗ねるようにそっぽを向けた詩季に、渉は額を掻くと苦笑した。
「でも、来てよかったと思ってるよ。ピアノ、やっぱり、凄く上手い」
『あんまり褒めても、何も出ないよ?』
 シンプルな言葉にも、詩季は唇を尖らせていて。
 ……でも、どこか嬉しそうなのはきっと気のせいじゃない。
 渉は笑みの色を強めた。
 と、更にしつこく褒めようと思ったところで、ふと今日の曲はなんという名前だったのか、忘れていることに気付いた。
 仕方ない。渉は詩季に問いかける。
「今日の曲は、アラベ……なんだっけ」
『アラベスク第一番。クロード・ドビュッシーの曲だよ』
 曲調は思い出せても、肝心のタイトルが思い出せなくて、詩季にフォローされる渉。
 ……そうそう、それだ。
 会場で聴いた曲は、音響設備の差だろうか、住名宅のピアノルームで聴いたものよりもずっと染み込むように聴こえたが、逆に、のめり込みすぎたのかもしれない。
「その曲、ほんと良かったよ」
『渉くんは、どっちの方が好きだった? 今日のと、この間の曲』
「この間のと? そうだなぁ……」
 思い返す、二つの曲。
 ただ、渉の中に浮かんでくるのは、曲調というよりは、心に感じたイメージと感覚。
 技術がどうこう、そういうのは渉にはわからない。
 だから、答えもシンプルだった。
「……月の光? だったっけ。俺はこの間聴いた曲の方が、好きだったかも」
『静かで落ち着いてるから?』
「うーん、そういうんじゃないと思うけど……雰囲気とかだと思うよ、たぶん」
 具体的な答えは、渉には出せない。何故なら、わからないから。
 とりあえずは、感覚だった。
 詩季は通路の真ん中で立ち止まると、少しだけ考える素振りを見せる。
 だが、しばらくして何かを納得したようで、再び歩き出した。
『渉くんが好きなのは、月の光の方なんだね』


 詩季が見たかったギャラリーに飾られた、幾枚の絵画。
 【新鋭画家たちのクリエイティブ展】という表看板が、それが有名な画家のものではないということを渉に教えてくれたが、そんなことは関係ない。
 ……そもそも、画家の名前すら知らないからな。
 目の前で喜ぶ詩季に聞かれたら、また拗ねられそうなことを思いながらも、渉は一枚一枚を丁寧に見ていく。
 どの絵も、自分の世界が表現されている、というのだろうか。
 それは傲慢な解釈かも知れなかったが、絵画に興味のない渉でも、そこに飾られた絵の数々に見入られていた。
 と、つんつん──白い指先がわき腹に突き刺さる。
 思わず身をくねらせて振り返れば、なんだか申し訳ないような、変な表情の詩季。
 その携帯画面を見てみれば、
『前にチラシが入ってて、演奏会の日に見ようと思ってたんだ』
 という文字。
 次いで、詩季はメモ帳を打った。
『って書いたけど、渉くん見入ってて。つっついてごめん』
 ぷっ……と渉は笑ってしまう。
 突っつかれたことよりも、なんだかその、申し訳ないという雰囲気で。
『何がおかしいの!?』
 心配そうな表情で、詩季は大げさに感嘆符疑問符までつける詩季。
 でもこういう時は、放っておいたほうが気持ち、面白い。
 とはいえ放っておけば、またわき腹に人差し指が飛んできそうでもあった。
 だから、渉は笑い声をあげた後、
「どの絵が見たかったの?」
 と、さりげなく話を変えてみる。
『話そらした?』
 つっと突き出された画面に、渉は知らんぷり。
『もう! 見にきたかった理由は、夢を掴んだ人たちの絵だからだよ』
「夢を掴んだ人たち?」
 渉は言葉を反芻しながら、ふと入り口に立てられた看板を思い出す。
 ……そうか、新しい画家の絵画展なんだっけ。
 ……同じようなクリエイターが、叶えた夢を見にきたかった、ってことか。
 こくこく と頷く詩季。
『ジャンルは違うけど、何か影響があるのかなって思って』
「それで、良い影響はあった?」
 詩季は、うーん、と首を傾げる。
『まだわからないかも』
 そんな可愛らしい気がする彼女の答えに、渉はまたもや笑った。
 今日の渉は、少しだけ意地悪だった。


 ひとしきり『何で笑ったの?』という質問責めを受けた後。
 渉は、そういえば、と気になっていたことを切り出すことにした。
「しーちゃんはさ、手術、怖いんだって? 怖いって言ってもほぼ成功するって──」
 それは、ただ伯母さんとのちょっとした会話からもたらされた、疑問。
 声を出したくないの? という質問が、少しばかりニュアンスを変えただけ。
 そのはずなのに。
 ──詩季は、突然、泣き出した。
 微笑むような表情のまま、目尻から零れ出る透明の雫は、本当に突然だった。
「え? ど、どうしたの、」
 慌てた渉の言葉にも詩季は、首を左右に振る。長く、色んなものを否定するように。
 そのまま、しゃがみこんで、自分を抱きしめるように、ぎゅっと。
 詩季の震える様子に、渉は戸惑う。
「し、しーちゃん?」
 唐突すぎて、渉は「どうしていいのか」以前に、状況すら読み込めていなかった。
 ……え、な、泣いてるの?
 その時点で、ようやく最初に詩季の零した涙を認識して。
 渉の頭は余計にパニックを起こした。
「ちょ、しーちゃん。どうしたの? だ、大丈夫……」
 だと聞こうとして。
 そんなわけないじゃないか! と自分自身を叱咤する。
 怯えた詩季は、何故か普段はあまり見せない笑顔のままで泣いていた。
 笑顔のまま、眉を寄せ、きゅっと唇に力を結んで、肩を、身体を震せながら。
 ギャラリーには渉たちを除くと人は居ない。
 渉は真っ白になった頭で周囲に目をやり、再び、詩季を瞳に捕らえた。
 泣いている。
 何をどうしたらいいかはわからないが、少なくとも、それだけはわかった。
 渉は怖がらせないようにゆっくり近寄ると、震える背中にそっと手を当てた。
 思った以上にか細い詩季の背中を撫で、その場に膝をつく。
「しーちゃん、ごめんね? その、たぶん、手術の話をしたからなんだろうけど……」
 正直、他に思い当たる部分もなくて、渉はそう謝った。
 首を振る、詩季。
 その意味が果たして『許す』なのか『許さない』なのか、それとも『違う』なのか、渉には判断がつかなかったが、声を出せない少女に答えを求めるのは、酷だった。
 背中をさすり気付いた、詩季の小さな嗚咽。
 渉は、自分が何度かそういう話を振っていたことに対して、罪悪感を覚えていた。
 ……そうだ。考えてみれば、自分は過去に『手術』した経験があるはずなのだ。それは記憶から完全に消え去っていて、思い出せないこと。逆に言えば、それほど記憶に残しておくには辛い経験だったのだろう。事故そのものと、そしてその前後の記憶は。
 手術を受けてないとはいえ、詩季にも怖さがあったはずだ。
 身体にメスを入れるということ自体への、恐怖が。
 なのに、何度も「声を出したくないのか」と聞いたり、あまつさえ「手術は?」など簡単に聞いて良いことではなかった。
 今更気付いても、手遅れではあったが、渉は謝る。
「もう話さないからさ、ごめん」
 そう言いながら、渉はそれ以上何かを言うのをやめた。
 下手に言い訳を連ねれば、それこそ彼女を追い詰めそうだと、黙った。
 ただ、背中だけは撫で続ける。


 しばらくすると、落ち着いてきたのか、詩季はポケットからハンカチを取り出すと涙をごしごし拭った。
 そして、立ち上がり、すぐに携帯を開くと文字を打った。
『泣いて、ごめんなさい』
 背中越しに見せられた携帯画面には、そんな文字。
 泣いた後の顔は見られたくないのか、それとも表情を知られることが嫌なのか、詩季は渉のほうを振り返ろうとはしない。
 クリアボタンでそのまま詩季は文章を消去、彼女は次の文章を形作る。
『でも、誰から手術のこと聞いたの? お母さん?』
 聞かれて、渉は少しだけ悩んだ。
 詩季の表情が見えないことで、怒っているような気がして、悲しんでいるような気がして──だからどう答えたらいいのか、見失ってしまう。
 だが、黙っているわけにもいかず、渉は頷いた。
「さっきしーちゃんの演奏を聴く前にちょっと、話してたんだ。人工声帯を入れるにしてもしーちゃんは怖がってるし、っていう話をさ」
 頬をぽりぽりと掻きながら、渉は白状した。
 だが、そこで言葉を止めては伯母さんの印象が悪いと、渉は言葉を繋ぐ。
 ぴくり、と震えた詩季には気付かないまま、
「でも、伯母さんは、本当に心配してるみたいだからさ。ごめん、俺みたいなのがでしゃばったから嫌な気持ちにさせたけど、伯母さんはただ心配してただけだから……え?」
 不意に、振り返った詩季。
 その瞳は今までで一番揺れていて、彼女は渉の肩を強く掴んだ。
 そのまま、何かを訴えるように唇を開くが──当然、そこに言葉が乗るはずもない。
「ど、どうしたの?」
 一瞬、顔を伏せて、詩季は手を離すと携帯を打った。
 様子のおかしい詩季の携帯画面に打たれた内容に──渉は頷く。
「……そうだよ?」
 けれど、頷きはしたものの、逆に渉のほうが動揺してしまった。
 詩季の携帯に映された言葉。
 ……そうだ、自分はその話をしたのであって、他のことであるはずがなかった。
「そうだよ。……他にも何かあるの?」
 反応を見せない詩季に、同じ言葉と、もう一つ問いかけを投げる。
 だが、詩季は首を横に振った。
 ただ、ふるふると、首を横に振って、さっきの言葉の意味を答えてはくれない。
 
 ──それからすぐに、詩季はいつも通りの様子を取り戻した。
 ──けれど、目に見えた答えは、
 ──泣き止んだ後も、返してくれる様子はないのだった。

           ◆

 ほんの僅かな時間、瞳に涙を浮かべていた詩季は、いまや元通りだ。
 二人は帰りのバスに揺られていた。
 渉の脳内に考え事は、絶えない。
 ギャラリーを出てからしばらく、二人はまともな会話をすることが出来なかった。
 泣かせてしまった罪悪感から、気まずい空気を感じてしまって、渉はただ彼女を気遣い歩調を合わせながらも、唇を閉じたままだった。
 揺れるバスの座席、もう十分近く揺られていた気がする。
 ふと、横を見れば控えめな詩季の手が渉の服を掴んで、引っ張っていた。
 先ほどのことに意識が向いていた渉は一旦その思考を置いて、詩季の携帯を見る。
『ねぇ、渉くん。このバス、帰る道と違う気がするよ?』
 書かれていた言葉に、渉ははっとした。
 バスの案内表を見る。
 その上、デジタルで表示されている目的地に、渉は確かに違うことに気がついた。
 というか、それは渉が自宅へ帰るときの目的地だった。
 気まずさと、更に色々と考え込んでしまっていた渉は、ついつい無意識に乗るバスを選んでしまっていたのだろう。
 だがそれにしても、気付くのが遅いというか、詩季が言ってくるのも随分と遅かった。
 彼女もまた、気まずかったのかもしれない。
 だが、今更何をどう思っても意味はなかった。
 市営バスはとっくに市内を抜けて、渉の住む久慈郡に入ってしまっていて、
「や、やば……降りないと」
 とバスの降車ボタンに手を伸ばした渉は、服の裾を引っ張られて手を止めた。
「しーちゃん?」
『この近くに、昔遊んだ公園があるの覚えてる? 次の次のバス停だよ』
「……公園?」
 中腰から、一旦渉は腰を下ろした。
 昔遊んだ公園──と言われても、記憶にないものを思い出すことは出来ない。
 素で問い返してから、しまった、と思った。
 詩季を不安にさせてしまうかも──そう気付いて何か言葉を発しようとするが、
『やっぱり忘れてるんだ? 久しぶりに行きたいから、降りようよ』
 詩季の先手を打った言葉に、渉はフォローも忘れて、頷いた。


 辿り着いた公園は、公営の小さなものではなく、自然公園だった。
 十年も昔に三人が遊んでいたとは思えないほど、しっかりと整備されていて、綺麗なその公園。夕方を過ぎて子供の姿はないものの、延べ1キロに及ぶ自然公園外周の遊歩道には、健康志向の老人がゆっくりとしたペースで歩いていたりする。

 その遊歩道の途中、子供向けに遊具などが設置された区画に、二人は居た。

『小さい頃はよくここで遊んだよね』
 この数週間で幾分、緊張感の解けた詩季が、言った。
 音にならない言葉は、それでも画面上のものだけではなくて、表情や雰囲気から感情として伝わってくるものがある。
 詩季は、どこか楽しそうだった。
 さっきの出来事が嘘のように、詩季はもう涙の後すら残していない。
『お姉ちゃんと三人で、渉くんの家に行った時に連れてきてもらったり』
 言葉は話せなくても、詩季は普通の女の子だった。
 感情豊かで、ちょっとだけ大人しい。
 今も、底の浅い噴水の前に立つと、落ちる夕日できらきら輝く水面に目を向けている。
「そうだな、懐かしい思い出だ」
 言いながら、渉は知っている。
 自分の記憶の中に、この場所の記憶は微かにすら存在していないことを。 
 口で言っていることと、思っていることがこうも違って、渉はふと自分が腹黒い人間なのではないかと、危惧してしまう。
『渉くんの中のここでの思い出って、どんな色してるの?』
 詩季はしゃがみこんで水を手に掬った後、ぱっと手放した。
 しっかりと拭き取り、問いかけられた渉への問いかけに、問われた当人は、戸惑った。
 色、と言われてもそんなこと、渉はこれまで考えたこともなくて。
 思い出に関係なく、記憶の中の映像がどんな色かなど、意識したこともない。
 だから尚更に、戸惑った。
「えと……透明に近い、感じかな? ごめん、まともな答えになってないかもだけど」
『透明なんだ?』
 言い方が悪かっただろうか──とも渉は思ったが、詩季は首を傾げるだけ。
 ……意味を考えているんだろうか。
 ……深い意味もなかったのだけど。


『ブランコ、乗らない?』
 そう言って詩季は噴水の傍を離れ、歩き出した。
 渉もその後に続く。
 遊具広場の一角、四基並んだブランコは誰も使う子供も居ない。
 だからか、一匹の猫が占領するようにその場所に寝転んでいて、詩季は足を止めた。
 振り返って、
『渉くん、猫がいる』
 そのまんまの事実を告げてきて、困ったような表情を浮かべる。
「追い払うのも可哀想だよね」
 苦笑する渉──だが、それは杞憂のようだった。
 猫のほうが渉と詩季に興味を示したらしく、とことこと近づいてくる。
 茶色と黒と白、混ざり合ったぶち模様の猫は、もうだいぶ年老いているようだったが、だからこそなのか、どっしりとした風格を持っていた。
『猫から近づいてきてくれた!』
 思わず振り返って喜びに笑顔を漏らした詩季に、渉も頷き、しゃがみ込んだ。
 今の笑顔を見た渉の中で蘇る、先ほどの泣いた詩季。
 泣きながら笑っていた詩季の表情が、未だに渉の脳裏にこびりついていた。
 だが、それを表には出さず、代わりに、猫を撫でた。
「なんて名前なんだろう、こいつ」
 足元まで近づいてきて、膝に鼻っ面を擦りつけてきたぶち猫に、詩季の羨ましそうな目線を背中で受け止めて、渉はそのまま首筋をわしゃわしゃと触った。
 少し毛が長かったせいで気がつかなかったが、どうやら飼い猫らしい。
 首輪がついていて、渉は腹に手を入れながら猫を倒すと、その首輪を見た。
 そこに刻まれた二文字の名前は、言ってみれば、ありふれたもの。
 だが、渉の脳に刻まれた何かが、鋭い痛みを発して。

 何かを考える前に渉は、ついた膝から崩れ落ちた。

 危うく地面に倒れそうになる。
 かろうじて手で身体を支え、横這いになることは堪えたが、この痛みは珍しく引かない。
 じくりじくりと、染み出すような痛み。激痛。
 耐えようと渉は、土くれた地面に指を食い込ませた。
「……っ」
 詩季が『どうしたの?』と言わんばかりに心配そうな表情で肩を叩いてくる。
 それが嬉しいのに、痛みは渉の全身を拘束するように、言葉すら返せない。
 ギリリ、と食いしばる歯の間から音が漏れる。

 ……痛い。
 ……痛い。何を思い出そうとしてるんだろう。
 ……痛い。なんでこの猫に、こんなに反応してるんだろう。
 ……痛い。すごく痛い。

 ………………。

 はっとする。
 覗き込んだ詩季の顔がそこにはあって、気付けば、ぶち猫は姿を消していた。
 視界に滑り込んでくる詩季の携帯。
『大丈夫?』
 という文字に、渉はかろうじて笑みを浮かべようとして、未だに自分が歯を食いしばっていたことを知る。
 意図して込められた力を少しずつ抜きながら、頷いた。
「……あぁ、ごめんね?」
 鈍い痛みはまだ残っているが、急激に痛みは引いていて、渉はふと思った。
 もしかして、自分は気絶したのか。
「ごめん、大丈夫だから」
 何にせよ心配をかけてしまった。
 渉は胸の内に息を吸い込むように気合を入れると立ち上がった。
 僅かばかり、身体がふらついたものの、脳内に痛みがあるだけで身体は健康そのもの。
 何も問題はなく、しっかりとした足取りで渉は息を吐いた。
『本当に、大丈夫?』
「うん、えーと……さっきの猫はどこに行った?」
『渉くんが急に変になったから、とっくに逃げていったよ』
 ……逃げたのか。
 何となく気になったが、それも仕方ない。
 それよりも、と意識に昇ってくる危機感。
 夕暮れを過ぎ、徐々に暗くなってきた公園、それが唐突に、渉の中で問題提起される。
 ……急いで帰りのバスに乗らないと。
 ……詩季の家に帰れない。自分が帰ることすら、出来なくなってしまう。
 ふと浮かんだのは、心配そうな伯母さんの表情と、麻衣のおかしな視線。
 遅れたらどんなことを言われるか──渉は、詩季の手を取った。
「戻ろうか、また今度、来ればいいし」
 詩季は、ちょっとだけ驚いた様子だったが、そのまま握り返してくる。

 太陽はもう街並の向こうに姿を消していて。
 街路灯からの明かりが、二人の影を長く、公園に留めていた。

           ◆

「ほほう。それで遅くなったわけね? つまり、猫のせいってことね?」
「そ、そうだな。いや、猫のせいじゃないけども……」
 戸惑うように一歩下がった渉を追い詰めるように、麻衣は更に一歩、足を詰める。
 住名家の一階、階段前。
 詩季は晩御飯の支度を手伝うために伯母さんとキッチンに居るし、詩季の父親はまだ帰宅していない。
 階段広場で、麻衣と二人きり。
 だが、渉はそんな状況を欠片も喜ばしいとは思えなかった。
「そうよね、猫のせいなわけないわよね? 猫がバスに乗せたんじゃないもんね?」
 にたぁ。
 と、笑顔なのか嘲笑なのか、目だけ笑っていない怖い表情で、麻衣は迫ってくる。
 渉は背中越しに階段に追い詰められていることを悟ったが、逃げようがない。
「じゃあ、約束した時間にしーちゃんを帰さなかったのは、誰かなぁ?」
「いや、それには理由が……ね?」
「……約束した時間にしーちゃんを帰さなかったの、誰なの? って聞いてるのよ?」
「僕、です」
 いきなり真顔。
 睥睨するような麻衣の視線に、渉は階段に腰をつけると、唇を歪ませた。
「帰りが遅かったから、めっちゃ心配したのよ? しーちゃん携帯持ってるけど、あんまり電話やメールしたくないし。通じなかったら最悪だし」
 胸の下で腕を組み、はぁ、とため息を漏らす麻衣。
 その理由を聞く前に、渉の意を汲んだのか、続けて麻衣は言った。
「あの子、人とコミュニケーションを取る方法が携帯しかないからね。手話は相手が知らないと会話にならないし、ボディランゲージにも限界あるし。どっか出かけてる時に電源が切れることは、あの子にとってすごく怖いことなのよ」
 一転した静かな麻衣の説明口調に、渉は「そうか」と納得した。
 思い返せば、確かにこの間の本屋から帰るときに詩季は焦っていたわけだ。
 充電が切れることがそこまで大きなことかと思ったが、それもそのはずだった。
 配慮も想像も足りなかった自分が、恥ずかしい。
「……まぁあんたも一緒だったし、大丈夫だとは思ったけどさ」
 そう付け足す彼女は、何だか照れているような雰囲気で、渉はここぞとばかりに反撃を試みようとする。
 が、一言目を飛ばす前に、爆弾を投げられた。
「逆にあんたと一緒だから、何かあったのかとも思ったわけだけど?」
「ど、どういうことだ?」
 妙な言い方をされて、反撃する意気込みすら爆殺。
 意味合いから何を言いたいのかわかる気はしたが、それを口に出したら負けた気もして、渉の言葉はもはや力を得ない。
 渉の動揺に気付いたのか。
 麻衣は、細めた目を楽しそうに歪ませると、言った。
「べっつにー?」


「そうそう、渉ちゃん」
 時間も時間ということで食卓に着かせてもらった渉は、麻衣と詩季に挟まれるという、変に意図された空間の中で、伯母さんからそんな風に話しかけられた。
 考えてみれば「渉ちゃん」という呼ばれ方はこの年になって少々恥ずかしい。
 けれど、下手に何かを言うのも躊躇われて、ご飯に呼ばれながら渉は伯母さんを見る。
「今日はもう遅いからこっちに泊まるって、律子さんに電話しといたからね」
 完結型の口調。
 ちなみに律子とは渉の母親なわけだが、それは話す以前に閑話休題。
 というか、渉は泊まるつもりなど一切なくて、
「……え?」
 きょとん、としてしまった。
「今から帰ったら電車でも11時ぐらいになっちゃうでしょ? だったら昔みたいにうちに泊まっていったらどうかしら、って思って。しーちゃんもまいちゃんもいいわよね?」
 箸を片手にもぐもぐしながら頷く詩季と「今日は徹夜で勝負ね」とか言い出している麻衣。どちらも否定する気はまるでないらしく。
 そういうことで、渉のお泊りは確定するのだった。

    ◆

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