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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第三十一号 2月11日「建国記念の日」 

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今朝(2012年、2月12日)、ある目的を持って新聞(朝日)を開きました。昨日各地で行われたであろう、「建国記念の日」反対集会や或いは逆にそれを推進する側の動きなどを知ろうと思ったからです。しかし全くの空振り、それに関する一切の記事はありませんでした。拍子抜けしました。勿論集会などがなかったわけではありません。

歴教育者協議会や日本史研究会などは、毎年、主権在民と平和憲法擁護を基軸とする立場からこの日に集会を持っていますし、推進派は「愛国」を全面に掲げて「建国の精神に学」ぼうと呼び掛けてきました。ただ今年は、両派とも大震災にからめて、問題提起をしました。ここでは、そのことに立ち入る余裕がありませんが、はっきりしている事は、大震災にしろ原発事故による放射能汚染にしろ、わけのわからない「絆」といった中身のない言葉を連発するのでなく、今の暮らしをどうするのかという切羽詰まった問題に向けて、できる事から動き出す事でしょう。

朝日がどういう意図で記事にしなかったかはわかりません。かつてほどの規模で、集会などが開かれなくなったこともあるでしょう。ニュースとしても価値が小さいと判断したのかも知れません。しかし今日の政治動向を考える上で、結果的にこの日について黙殺したという事は、今の朝日の政治的スタンスを象徴している気がしてなりません。


さて、「建国記念の日」のとらえですが、ややもすると政治的立場の違いといった問題で片づけられることが多いようです。また、どこまで意識しているかいないかわかりませんが、「日本の国が始まった日」という具合に、漠然と説明される事もあるようです。

では、この日はいったいどんな日なのか、歴史的にみていく必要があります。実は以前にもこの記事は書いた(67号)のですが、昨今の橋下大阪市長の言動やそれが持て囃される動きに危機感を感じて、再度取り上げる事にしました。
橋下市長を問題視する最大の理由は、彼のイデオロギーやパフォーマンス的政治手法にあるのではありません。警戒すべきは、政治家が選挙で勝ったならば、その人物に一切を白紙委任すべきという発想と、その政治家の持つ価値観を、たとえそれがどんなものであれ、強大な権力を用いて強制しても許されるという考えです。

前者についていえば、今回の橋下市長は、得票数約750000票で圧勝といわれました。約6割の得票数です。投票率は大幅に上がって60%を超えましたが、それらを勘案しても、橋下市長を選んだのは、有権者の36%になります。彼は盛んに「民意」を強調し、自分の政治行動は全てそこから発しているが故に許されると正当化しようとしていますが、その4割足らずの「民意」です。しかもそれは、白紙委任とは別個のものです。また、生徒は、公民や現代社会で、民主政治の基礎を学びますが、「少数意見の尊重」「多数決で決めるべきではない事項の存在」は、そのイロハです。

後者についていえば、政治権力を握った者が、人の数だけある個人の内面に拘わる価値観の、特定のものだけを押しつけることが許されないのは、人権の基本です。ましてや従わない者を暴力的に排除するといった政治が、如何に人間社会を不幸にしてきたか、極めて高い代償を払って人類は学んできたはずです。
徳川綱吉の、犬をはじめとした一連の動物保護法(一般に「生類憐れみの法」といわれる)が、精神論的な枠を飛び越えて処罰を伴うようになったとき、それは稀代の悪法として人々から忌み嫌われた例を持ち出すまでもなく、権力者が人の内面に踏み込む事の恐ろしさは、歴史の教えるところです。

2月も中旬です。学校ではいよいよこれからは卒業式、入学式を迎えて動き出します。日の丸・君が代の是非はさておいても、それを強制したり従わない者への処罰など論外です。また、教育行政のトップがしばし口にする「学校の主人公は生徒である」という言葉を、改めて噛みしめて欲しいと思うのです。
そうした昨今の政治動向を踏まえた上で、2月11日「建国記念の日」について、改めて考えてみたいと思います。

この日は戦前までは紀元節と称され、軍国日本を象徴する祝日でした。紀元節といいますと、何か古い伝統のある様な響きがあるかも知れませんが、せいぜい130年少し前に定められたものです。

この問題を解くためのポイントは、明治政府が画策した天皇支配の権威付と太陽暦の採用という、非合理な政治と合理的な仕組みとの「コラボレーション」です。

武力を背景に徳川幕府を倒した薩長藩閥政権は、大義名分としてどうしても天皇を担ぐ必要がありました。水戸学に代表される国家主義的なイデオロギーもまた、倒幕の推進エネルギーでした。しかし、京都に隠遁していた天皇ですので、庶民に取っての最高の支配者は徳川将軍家でした。政権を奪取した側からすれば、自らの支配を合理化し、その安定のために、天皇を担いで忠誠を誓わせることは不可欠だったのです。そこで、「万世一系」の天皇家の支配というフィクションが、一躍脚光を浴び始めます。

一方、それとは対極にあると思われる、相対的に科学的な暦である太陽暦を明治政府は導入します。彼らが手本とした欧米はじめ、世界の趨勢がそうでしたので。しかし、当時庶民の間では、今でも旧家には、比較的よく残されている伊勢暦などの太陰暦を使用していました。したがって、太陽暦導入には多くの混乱や抵抗もありました。しかしそれでも強引に乗り切ったのです。

太陽暦導入を決めた1872年、明治政府は、神武天皇即位を紀元とするということも定められます。フィクションの始まりです。

今般太陽暦御頒行、神武天皇御即位ヲ以テ、紀元ト被定候ニ付、其旨ヲ被為告候為メ、来ル廿五日御祭典被執行候事。但当日服者参朝可憚事  壬申十一月十五日「東京日々新聞」明治5年11月17日付

最初の紀元節は、1月29日だった

しかし問題は、いつのどの日を「神武天皇御即位」として定めるか、でした。もとより架空の人物の「御即位」ですので、決めようもないのですが。しかしそこは、天皇統治の正当化を図るという大命題があります。かなり無理をして紀元前660年の正月朔日を割り出し、「御即位」の日が決められます。次にそれを太陽暦に換算するというこれまたでっち上げに屋上屋を重ねる作業します。こうして、神武天皇即位の日を紀元節とするのですが、当初は1月29日とされました。上記、左図の通りです。(アジア歴史資料センター『詔勅録』巻の二内部下)
ところが、翌年からは2月11日に改められます。上記、右図(同上)
文言は、ほぼ同じです。2月11日に変更されたわけは、資料で確認していませんので確実なことは言えませんが、1月29日は旧暦の正月に当たったため、庶民の間には紀元節の意味づけが薄れることを嫌ったからという推測もあります。また、この日は孝明天皇の命日でもあり、都合が悪かったとも言われています。

いずれにせよ、紀元前660年の正月を太陽暦に読み替えたといっても、この時代は暦もまだ存在せず、小国家の存在さえ確認されない縄文時代ですので、架空の話に過ぎません。「建国記念の日」を論ずるに当たっては、先ずこのことを確認しておく必要があります。


2月11日は、国家主義の産物

天皇の存在と共に、明治政府成立後しばらくは、庶民の間ではこの日が意識されることは余りなかったようです。しかしそれが大きくクローズアップされる様になったのは、1889年大日本憲法発布でした。プロイセンの皇帝権力の極めて強い憲法を手本にした欽定憲法は、発布の日をわざわざこの日にしたという点で、既に国家主義の根幹を為すものでした。

(1)この後も、2月11日は、天皇制国家にとって重要な日として位置づけら れ(2)、国民教化に最大限利用されていきました。その「成果」は著しく、
「大正時代に生まれた私の両親の世代は、2月11日の紀元節に歌われた次の様な唱歌はそらでおぼえていた。」
「紀元節に限らず戦前の祝祭日は、おおかた皇居で重要な神事が行われる日だった。…子供たちは、教育勅語や修身化や歴史の授業を通して国体思想や天皇崇敬の教えに親しんでいった」(3)のでした。
こうして、ごく一部の醒めた人々(4)を除いては、2月11日は確実に国民をして、天皇制国家と自己
を結びつける祝日として定着していったと見て良いでしょう。


 所謂「逆コース」と紀元節復活

「八紘一宇」のスローガンの下、アジアへの侵略戦争を正当化する方便として、大きな役割を果たした紀元節でしたので、当然のことですが、戦後は否定されました。しかし、所謂逆コースを推進する政治勢力は、紀元節の復活を戦後の早い時期から模索しはじめていました。

イギリス寄りで陸軍との関係が悪かったことから、戦後民主主義に貢献したと一部では見られていた吉田茂もその一人です。彼は一方で熱狂的と言ってもいいほどの天皇崇拝主義者でした。それ故、吉田もまた紀元節の復活論者でした。その後、神社本庁や右翼団体などの後押しで、例えば安保で日本をアメリカに売り渡したと言われてもしかたのない岸信介など、名うての反民主主義政権が幾度と無く紀元節の復活を画策しましたが、戦後民主主義の潮流はそれを許しませんでした。

紀元節が「建国記念の日」と名を変えて復活したのは、1966年、佐藤栄作内閣の時でした。彼らにしてみれば、積年の願いが叶ったということでしょうか。しかしこの時中学1年だった私の記憶では、そうした背景を知るはずもなく、ただ単純に休みが増えるという1点のみで喜んでいたことを憶えています。あくまでも推測ですが、当時一般国民の間にあっても、高度経済成長を謳歌するために懸命に働いており、休みが増えることの有り難さにかき消され、こうした意図はあまり浸透しなかった様に思われます。


今後の課題

橋下人気に便乗しようと、多くの政治家達がすり寄ろうとしています。その中には、波長が合うのでしょうか、戦後民主主義を否定し、軍国主義下の日本の復古をたくらむ人々はもちろん、単なる票欲しさが透けて見える人々もいます。また、閉塞する現状を打破してくれるのではという期待を込めて、彼に託す人々も少なくないようです。

しかし、かつてドイツでは、ベルサイユ体制に疲弊する国民の気持ちを吸い上げたのはヒトラー率いるナチスでした。日本でも、大恐慌に翻弄された人々の多くが支持したのは、国家改造を声高に叫ぶ急進的軍人達でした。
橋下市長の支持者達は、かつてのファシズムの賛同者と同一視されることを否定するかもしれません。しかし、橋下の政治手法は、それに相通ずるものを多く感じます。また、彼が熱心に推し進めようとしている、日の丸・君が代の強制に代表される特定の価値観の押しつけは、憲法「改正」やそれに基づく核武装を含む強固な軍備を目論む勢力と同じ主張です。しかし多くのマスコミは、時代の寵児として彼を持ち上げても、そのことには中々触れません。

学校現場ではどうか。一部の私立学校を除いては、今のところあまり露骨な動きはないようです。しかし楽観は許されません。今後学校現場に加えられると考えられる攻撃は、「道徳教育」の強化と特定の価値観の押しつけです。

その一方で、学校現場は「学力向上」の名の下、すでに点数競争を押しつけられています。平均点アップが金科玉条です。しかしそこでいわれる「学力」が何を指すのかという本質的論議は、何もありません。ただ闇雲に平均点アップを最重点課題とする教育が、「「時代と社会の要請」として現場に下ろされています。

そこでは、子どもの健全な成長にとって何なのかということも、一顧だにされません。ただ数値目標が、教師も生徒も縛り付けるという歪な現場にされようとしています。

しかしそうした中においても、教育が人と人との営みであり、未来に生きる若い命とのふれあいがある以上、光明もまたそこにあると思うのです。普段の何気ない生徒との会話や雑談が、最近とみに貴重なものに思え始めています。


(1) 日本史、中学社会、現代社会などの科目の多くの教科書では、大日本国憲法と日本国憲法の対照表を載せ、生徒が比較してそれぞれの特質を理解できる様にしています。念のため、扶桑社版の中学社会(所謂作る会の教科書)も見てみました。大日本帝国憲法の扱いでは、まず、日本国憲法との対照表はありません。この表は、両者の本質を理解する上で極めて大切なのですが。また本文では、
      …これによって日本は、本格的な立憲政治は欧米以外には無理であると言われていた時代に、アジアで最初の議会を持つ立憲国家として出発した。
      と評価しています。またコラムのタイトルは、『憲法を賞賛した内外の声』です。
(2) 歴史教育者協議会編『日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』では、この他に2月11日を意識して定められた施策として、金鵄勲章の制定、日清戦争前夜の軍艦建造費を認めさせるための詔勅、日露戦争開戦、シンガポールの陥落(実際には遅れた)等を上げています。
(3) 2008年2月11日付朝日新聞『この人、この話題』で、「国家神道」と題して、宗教学者の島薗進が国家神道の強化に危惧を示しています。
(4) 永井荷風『断腸亭日常』 昭和15年2月11日
日曜日 晴。きのふに比すれば風やや暖なり。祭日市中の雑踏をおそれて終日家にあり。…
ここでいう、「祭日市中の雑踏」が紀元節の祭日を指すことは明らかでしょう。

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