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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第三十号

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管理人のoliveです。
新年が明け、既に6日たっているというのに、昨年暮れのかっちゃんのメルマガを今頃になって転載させていただきます。遅くなって申し訳ないです。
今年もよろしくお願いいたします。
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年暮るる聖なるものも売り尽くし   対馬康子
  手垢にまみれた常套句ですのであまり使いたくはないのですが、今年ももう年の瀬、早いものです。時節柄でしょうか、ここ数年あちこちの家々を飾っていた電飾も、今年はあまり見られません。省エネに加えて浮かれる気分ではないという事なのかも知れません。
 この句がいつ詠まれたものかはわかりませんが、少なくとも年末商戦という言葉が実感を持って語られていた頃ではないかと推察されます。勿論今もそれはありますが、ハレとケの境目がはっきりしなくなっていますし、商店もデパートも時期時期の大売り出しをかつてほどやらなくなっています。
  さてついに今年は非正規雇用が3割を超えたといいます。調査により若干の差はあるものの、1980年代には1割そこそこであり(男性に限って言えば一桁台)、さらにもっと前には就職=正規雇用だった時代から考えれば、これは異常な事態です。様々な理由が取りざたされていますが、大きくは安価で使い捨ての労働力を手に入れようとした企業サイドの一方的都合と、それを黙認した政府の責任です。そのことは今日、厳しく問われるべきです。派遣や非正規雇用は、単に就労の仕方の変化という問題に止まりません。戦後民主化の大きな柱であった働くものの正当な権利の保証というスタンスから、ほぼ全ての側面で大きく道を外れるものであった事は、もはや自明です。それを推進してきたのが所謂「小泉改革」以来の自民、民主政権でした。
  「小泉改革」以降の、石原慎太郎東京都知事や橋下新大阪市長を支持した流れを、著名な社会学者である上野千鶴子は、
 〈郵政選挙で白紙委任状を与えたせいで、規制緩和につぐ規制緩和がおこなわれ、格差が広がった。若者や女性は、自分にしわ寄せが来る政策の推進者を支持した。最大のツケは、原発事故。権力者任せでやってきた結果かがこの惨状です。〉と危機感を持ってもって受け止めています。(『朝日新聞』2011,12,17(土)「政治時評2011」の宇野重規東大教授との対談での発言)
  ささやかな収入ではあっても、まじめに働いてさえいれば何とかそこそこの衣食住が保証され、クリスマスや年末には、家族でいそいそと町(郊外型の巨大スーパーではない)に買い物に出かけていた時代を、幻にしてしまって果たしてこれから先の時代に何が残るのでしょうか。3丁目の夕日がもてはやされたのは、単なるノスタルディーだけでなく、人と人、人と町とがもっと親密であり、明日はきっと明るいという希望が持てたからに他ならないと思うのです。
明日になかなか希望が持てない理由の大きなものに、東電の原発事故があります。政府は、今月16日東京電力の福島原発の「収束」を発表しました。何の事はない、ようやく冷温停止している状態になっただけの事、廃炉にはまだまだ遠い道のりですし、住民が元通りの暮らしを取り戻すめどすら立っていない状況です。放射能汚染はどこまで広がっているのか、見当もつきません。その中での「収束」発表です。あまりにも被災者を愚弄してはいませんか、と自称「泥鰌」首相を問い糾さなければなりません。また今回の未曾有の大事故を引き起こした人々は、何らの刑事罰を科されていません。最低限「原発ムラ」住人である電力会社幹部の他、御用学者や甘い汁を求めて群がった政治家など、氏名を公表しその罪状を明らかにすべきでしょう。
そんな中での「聖夜」です。12月24日といえば、忘れてはならない一件があります。岸信介・児玉誉士夫・笹川良一等々の戦犯容疑者らがこのクリスマスイブの日、逮捕されていた巣鴨プリズンから釈放されました。
前日の1948年12月23日(奇しくも現天皇誕生日)、極東国際軍事裁判(所謂東京裁判)で死刑判決を受けた東条英機以下7名の絞首刑が同じ巣鴨プリズンで執行されました。
東京裁判については、マッカーサーの意向を受けたキーナン検事が、各国の主張を退けて、あくまでも天皇を被告とする事に反対したため、天皇は全く責任を問われる事がなかったこと(1)の他、アメリカの原爆投下を一顧だにしていない点、そして勝者による裁判とされた点など、様々な不十分さが指摘されています。また、日本人自身の手によって戦争犯罪人を裁けなかった点など、今日まで引きずる負の要素があります。
しかしそれらを差し引いても、日本軍による侵略であったという戦争の本質や、様々な残虐行為の実態が明らかにされた事、国民への厳しい処罰を伴う言論統制によって初めて戦争続行が可能だったのではないかという点が明らかにされるなど、大きな意味を持つものでした。
私の最も尊敬する作家、故井上ひさしは、『夢の裂け目』という戯曲で、この裁判とは何だったのか、戦争の責任は、誰がどの様な形で償うのかを真摯に追い求めています。
さて死刑執行の翌日、釈放されたのが上記の面々です。同じ戦犯容疑で逮捕されても、一方は絞首刑で一方はその翌日釈放、天国と地獄とでも言うべき扱いの差ですが、彼らの間にそうした大きな相違点があったのでしょうか。中でも注目したいのが岸信介です。
岸は東条内閣の商工大臣でしたので、第一次戦犯(順に逮捕は第三次まで行われた。)に指名され、逮捕されています。戦中は軍需物資調達にトップとして奔走していました。また、「満州国」経営の実質的最高責任者でもありました。文民で唯一絞首刑となった広田弘毅と比すれば、彼に対する異様な寛容さは驚きです。アメリカ側と何らかの取引があったとされる所以です。
釈放された後、岸信介は自由党に入党、5年後には衆議院議員となっています。そしてあとはとんとん拍子に階段を上り、1955年には初代自民党幹事長、57年には石橋湛山の後継内閣として内閣総理大臣になっています。(それにしても、石橋湛山ほどの良質の保守政治家が、なにゆえ戦争犯罪人として逮捕された前歴を持つ岸を後継首相に指名したのか、理解に苦しみます。彼の蓄財も又、満州侵略があって初めて可能だったのに、です。)
その後岸は、総選挙に勝利し第二次岸内閣が誕生します。当時はまだまだ敗戦の痛手が残っていたであろうと推察されますが、当時の日本人が選択したのは、紛れもなくA級戦犯容疑者でした。
岸と言えば、児玉誉士夫はじめ右翼や暴力団との繋がりが想起されますが、それ以上に親密な関係を築いたのがアメリカ政府でした。米ソの冷戦は、彼にとって復権と権力増強の最高の機会でした。
岸らの復権は、そのまま平和と民主主義に最高の価値観を置いていたはずの戦後の動きを戦前に戻す、所謂「逆コース」のプロローグでした。
ある意志に逆らはぬ範囲の自由にて平和を願ふ声小さくなる  山本静江
                        『昭和万葉集巻9』p35 講談社
と、危惧した人々がいたのも事実です。しかし、そこにも人々の闘いはありました。
岸の、アメリカの意向を受けての政治の集大成とでもいうべき仕事が、安保条約の「改定」である事は論を待ちません。しかしこの「改定」は、日本をしてアメリカの完全従属下に追いやるものと看破した多くの労働者や学生、若者達によって全国的な安保闘争を引き起こしました。中でも長野県は、その闘いの中核と言っていい盛り上がりを見せました。新津新生『青年たちの60年安保』は、当時の文献史料を駆使する一方で綿密な聞き取り調査を行い、長野県の闘いの大きさとその意義(2)を明らかにしています。
こうした「声なき声」(3)に、岸はどう対応しようとしていたのでしょうか。宮崎学『阿倍晋三の敬愛する祖父岸信介』によりますと、反安保のデモを押さえるために
〈博徒1万8000人、テキヤ1万人、旧軍人・右翼団体1間人を動員し、政府提供のヘリコプター、トラック、セスナ機支援を受ける事になっていた。…維新行動隊などの右翼暴力団は、実際に6月15日に国会周辺のデモ隊に突入して暴行し、重傷者多数を出した。
    自衛隊の治安出動も準備されていた。〉同書p184 同時代社
と空恐ろしくなるような計画をしていたといいます。
  しかし、この闘いで盛り上がったエネルギーは、岸の描いた暴力的弾圧を許しませんでした。よく、安保は敗北したといわれますが、このことや、直後に岸内閣が打倒された事を考えれば、こうした評価が如何に一面的なものに過ぎないかを示しているとも言えます。
現在、各地で党派や団体に所属しない人々の間でも、反原発の集会やデモが開かれています。そうした運動の原点もまた、反安保闘争に見る事ができるようなきがします。

このところ大阪橋下市長の動向が注目されています。というより、マスコミがもてはやしているという問題もあると思うのですが、ここでは紙幅の関係で触れません。いずれにせよ、選挙での大勝を受けてその独裁ぶりを益々強めています。大阪府知事時代から彼の高圧的政治手法に危機感を抱いていた共産党は、独自候補者を下ろして自民党候補者を応援するという事までやりました。しかし選挙民の多くは、彼を選出しました。ここには二つの問題を見る事ができる気がします。政治に素人の小生故、的はずれもあるかも知れませんが。
一つは、間接民主制という仕組みの限界です。先の岸を最高権力者にまで押し上げたのも、アメリカという庇護者がいたとはいえ、選挙民でした。
橋下候補の「大阪を元気に」「大阪を変えよう」という、単純でわかりやすいキャッチフレーズが人々の心をつかんだと思われます。また。かつての「天下の台所」を再現したいという人々の期待もあったのでしょう。しかし、大多数の庶民にとって、暮らしが具体的にどう変わるのか、ひと言も彼は語りませんでした。にも拘わらず、圧勝しました。投票は全権委任ではないはずですが、多分に権力を握ると全てを思いのままにしようとします。そこに間接民主制の弱点があることををもっと意識すべきでしょう。
ふたつめは、反橋下市長の候補者たち(大阪府知事選も含む)の選挙政策が、少し乱暴な言い方をすれば、ネガテイブキャンペーンになってしまった感があった事です。橋下のロジックは、実態ははっきりしないが、単純で威勢のいいものでした。そこに震災や、その前からの経済疲弊で閉塞感を感じていた人々には、何か光明のように感じられたのかも知れません。それに対し反対陣営は、橋下の下では大変な事になるといった危機感を前面に打ち出しました。そこが明暗を分けた気がします。橋下陣営への対抗勢力は、福祉や教育、貧困対策といった面で、橋下よりもずっと優れた施策を展開できることを、より積極的に示すべきではなかったかのか、と今になってですが、思います。
このことは、TPPにも言える気がします。これまた実現すれば、国民生活にとって大きな厄災となる事は自明です。でも、もしTPPが導入されれば、という発信だけでは不十分な気がします。TPPへの積極参加を表明している前の経済政策担当大臣の太田弘子などは、日本経済が二流に陥ったと嘆く一方で、TPP参加をまるでバラ色の如く描いています。(彼女は他にも、庶民への大増税を訴える一方で、企業法人税引き下げという発言を繰り返しています。)
それに対抗するには、国内産食料の安全性や中小企業の物づくりの高い技術力、国民皆保険といったシステムの優位性など、積極的にアピールしていく戦い方が求められていると思うのです。
余談を二つほど。
*因みに太田弘子は1954年生まれ(2月の早生まれ)で鹿児島出身。彼女の小学校時代の同級生によると、その頃から早くも政治家志望で権力志向が強く、一目置かれていたらしい。)
*最近テレビCMで辟易しているのが、医療保険のCMです。現在の健康保険の仕組みを崩そうとする勢力とタイアップしているのではと疑いたくなります。そういえばアメリカの保健会社がよく宣伝していますね。
それまで割と好感を持っていた地井武夫などの俳優でも、その手のCMに出ているのを見ると、知性も品性さえも疑ってしまいます。

閑話休題
気がかりなのは、橋下陣営大勝を受けて、民主や自民、みんなの党などの党首たちが、彼にすり寄り始めた事です。文部科学省の中川正春大臣さえも、彼の教育政策へリップサービスを始めました。暴走にいっそう拍車が掛かりそうです。
彼の主張する、首長が教育を全て牛耳れるという仕組みについては、もっとその危険性を明らかにしていく必要があります。そしてそれに代わる提言を私達も発信していく必要があります。
彼の教育に対する考え方の特徴の一つは、徹底した競争主義です。「学力」だけに止まらず、「体力」などあらゆる場面で生徒に優劣を付けるため、生徒だけでなく教師をもまた競わせます。そこでは「勝者」には次なる競争が待っており、「敗者」は見向きもされません。つまり権力者以外は、誰もが不幸になる仕組みです。
どの子にも豊かな学力と明るい未来をという理想で始まった戦後教育ですが、残念な事にその実現には至っていません。むしろ昨今、少なくない生徒にとって、学校は充足感を得られず、未来さえも指向しにくい場所になっています。先述したような多くの非正規雇用が生み出されている現実があるのですから。橋下教育改革は、さらにそれを、絶望的にまで拡げていくでしょう。
もう一つ批判されるべきは、日の丸君が代への忠誠に代表される特定の価値観を、全ての児童生徒や教職員に押しつけ、従わなければ罰則で恫喝するやり方です。かつて城丸章夫は、日の丸や君が代の強制に対し、それを進める人々は、
〈「日本古来」の思想・道徳の復活に大変熱心であります。しかし、その「日本古来」というものをよく聞いてみますと、1937年頃の、天皇制ファシズムの思想・道徳の立場から解釈された「日本古来」にすぎません。〉城丸章夫『管理主義教育』新日本新書 p152
と、戦前型のファシズム推進者であると喝破しました。
一連の彼の政治姿勢を、その名をもじって「ハシズム」と命名したのは、正に正鵠を射ていると言っていいでしょう。
繰り返しますが、選挙での勝利は、そのまま当選者の全てが容認されたことでは決してありません。特定の価値観の押しつけと、従わないものへの恫喝と排除は、急逝した彼の国の、唾棄すべき独裁者の手法ではありませんか。

(1)  ポツダム宣言には、戦争犯罪人には厳正な処罰が加えられるであろうという一項がありましたので、日本側指導者層には最大の関心事項であったはずです。マッカーサーがコーンパイプ片手に厚木飛行場に降り立ったのが8月30日ですが、この時点で既に、アメリカ政府と彼の意向は、天皇訴追はありえないことと決定されていました。
 昭和天皇の側近中の側近、木戸幸一の日記に初めて戦争責任に関する記述が出てくるのが、その前日の8月29日です。
 〈戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難き所なるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだらうかとの思し召しあり。〉
 と、最高指揮官たる大元帥が、自分は連合国に引き渡されるべき「戦争責任者」ではないという認識をしていた事がわかります。またあれほどの国内外の犠牲者を作り出した責任についても、自分の退位で「納める」といった程度にしか考えていなかった事に、慄然とさせられると同時に深い憤りを覚えます。
 しかしアメリカ政府の天皇不起訴方針は、アメリカ国民の論調を代表するものはありませんでした。訴追すべきとの声が起きたのはむしろ当然でした。こうした声は天皇も承知していたようです。9月29日の木戸幸一日記です。
 「天皇に対する米国側の論調につき頗る如何に思召され、これに対し頬被りでいくといふも一つの行方なるが、又さらに自分の意思を新聞記者を通して明らかにするとか或いはマ元帥に話すといふ事も考えられるるが如何」
 「頬被りしちゃうんですね。しかし天皇が最も頼っていたのはやはりマッカーサーでした。
 なお東京裁判の開始は、これまた奇しくも、1946年4月29日のことでした。
(2)同書によると、長野県民の国会請願運動は1960年から毎回続き、合計で6652名にのぼり、全国最多である。また、請願署名は、有権者120万人の70%に当たる87万を超えている。こうした動きの先頭に立ったのが青年団の若者達、大学生、高校生達である。とりわけ青年団の力は大きく、都市労働者だけでなく町村部の農民達の力をも結集している。筆者が『青年たちの…』と表題に付けた理由である。
(3)国会を埋め尽くすデモの隊列について、岸信介は、「国会周辺は騒がしいが、後楽園球場や銀座はいつもどおりである。私には声なき声が聞こえる」と、反対運動を矮小化しようとした。それに対し、早速この文言を逆手にとった「声なき声の会」が生まれ、反対運動に参加した。この会は現在でも粘り強く活動しているという。

お詫びと訂正
前号で紹介した書物に、大きな誤りがありましたので、著者及び読者の皆様方にお詫びして訂正します。、
『高校生と政治教育』高元厚憲 2004 同成社
の著者のお名前の一部と、出版社名を上記のように訂正します。まあ一番間違えてはいけない部分ですよね。平身低頭で、お詫び致します。申し訳ありませんでした。
 その他にも、校正したつもりでも、極めて不十分だったりする事があります。古文書を釈文に直す時などでも、指摘していただいたものを見ますと、どうしてこのようなミスをしてしまったのだろう、と自分でも不思議な事さえあります。
上記も、著者ご自身からご指摘いただくという体たらくでした。でも、ミスを指摘していただくというのは極めてありがたい事。なるべく校正をしっかりするなど気をつけていくつもりですが、是非お気づきになった間違いやその他については、どんどん御教示いただければ幸甚の至りです。
本来はさらに続けて、書評をいくつか載せる予定でしたが、家人の「あまり長いと誰も読んでくれないよ」のひと言と自分の準備不足で、次号に回す事にしました。
未曾有の悲劇と犯罪的事故に終始した今年も、いよいよ年の瀬です。長野県の多くの学校も29日から冬休みに入ります。5日は仕事始めで、生徒は6日から3学期です(県外出身者から見れば、驚くべき事です。)      
それでもお正月はお正月、ゆっくり過ごしたいものです。(それにしても、あの年中無休や元旦からの初売りは、何とかならないのかと思います。)皆様方にはどうぞよいお年を。 

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