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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン二十五号 大地震と大津波 そして人災

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先日、近所に住む知り合いの家の前を通りかかりました。見慣れぬ保育園くらいの男の子二人が遊んでいます。「ひょっとして、もう孫でもできたの?」と笑いかけますと、「実は娘の嫁ぎ先の実家が南相馬市で、そこに住む義母(彼の娘にとっての)と孫が、一時移ってここで暮らす事になった」とのことでした。今回の原発事故が身近な出来事だとの認識を新たにしました。

お久しぶりです。長いブランクを経ての通信です。私はまあ、元気です。(まあというのは、新しい職場に転勤になり、緊張を強いられたり、あまり嬉しくない職場環境にあるからですね。そのうちに自分のペースを取り戻せると思いますので、大丈夫です。)


さて今回の大震災と津波の被災者の方々、そして東京電力原子力発電所の事故で避難を余儀なくされている方々へ、衷心よりお見舞い申し上げます。直接に被害に遭われた方も、前述したように身内やご縁のある方々が被災されていらっしゃる方もあるでしょう。当座の義捐金の他に、私も自分にできる事を、長いスパンで考え実行していくつもりです。まずは、今回の震災や事故ほど、歴史に学ぶ事の大切さを強く感じた事もなかったので、そのことから始めます。

今号は、二つのテーマで思うことを綴っていきます。何故二つのなのか。それは、大地震と津波、原発事故を一緒くたにしたくないからです。前者は天災の部分が大なのに比して、後者は人災そのものだと思うからです。

1,大地震や津波の歴史的記録は、驚くほど多い。
日本列島はその全てが環太平洋造山帯の一部を形成していますので、有史以来ずっと間断なく地震や津波に襲われてきました。その都度人々は大被害を受け、そして親しい人を亡くした悲しみを必死の思いで乗り越えながら、復興してきました。
そこで忘れてはならない事は、上記のような被害にあった人々は、自分たちの悲しみを味あわせまいと、何とか後世に生きる子孫(つまり私たちですね)に、その教訓を伝えようとしてくれたことです。文書での行政や情報伝達、記録などが後半に行われるようになった近世後半からは、特にその傾向は強まります。
ある程度以上の規模の図書館にはだいたい置いてある『日本地震史料』『新収日本地震史料』(共に東京大学地震研究所)は、それぞれ補遺まで含めると7巻もある大著ですが、各地に残された地震記録の古文書を大量に集め、活字化してあります。それらにざっと目を通しただけでも、なんとまあ我が国の先人たちは、丹念に記録をとったのだろうかと感心させられます。江戸中期以降活発化するかわら版にも、大量の地震や津波、火山爆発の記事が目につきます。かわら版ですので、ニュース速報的なものもありますが、そこでも何か教訓を引き出そうという姿勢が垣間見えます。

文書だけではありません。地震や津波の被害と、そこから導き出される教訓を刻んだ金石文も珍しくありません。今回大きな被害を受けた三陸でも、過去の津波被害について記した石碑が流されていました。
古いものばかりではありません。まだ記憶に新しい新潟県中越大地震や阪神神戸大震災に記録も多数残されています。そこでは地震被害の記録と共に、懸命に立ち上がる人々の姿を描いています。

今回の筆舌に尽くしがたい被害の様相が明らかになるにつれ、そうした先人たちの歴史の中からの声を、真摯に受け止めて生かそうとした地域や人々と、そうでない部分との差がある事に気づかされます。もちろん自分は偶々安全だった地域にいての、いわばよそ者の発言で気が引けるのですが。

今年初め、そう、今回の震災直前偶然手に入れた書物を紹介します。
河田惠昭『津波災害』(岩波新書、2010,12月初版)です。帯の惹句に大きく「必ず来る」と印刷されており、あまりのタイミングの良さに驚かされます。サブタイトルに「減災社会を築く」とあり、仮に地震や津波は避けられないものであっても、「避難すれば助かる」(同書前書き)という観点から論が展開されており、説得力のある一冊となっています。
その中で強調されている事の一つに、「語り継ぐ事の大切さ」があります。少し引用します。
「災害の体験・経験は起こった瞬間から風化が始まる。…風化するようでは、災害で亡くなった犠牲者に申し訳ない。亡くなった人たちが私たちの記憶の中に生き続ける事が、今生きている事に対する感謝であり、二度と災害に遭遇しない事につながる。災害を忘れることなく、現在に生き返らせるためには、語り継ぐことが大切である」(p80)
先に述べた災害に関する多くの古文書も、そうした観点で書かれたに違いありません。
同書には頷かされることが他にもあります。
「津波を相手にして、構えて生活することは不可能である。構えずに生活するには、社会の仕組み、生き方のマナーのなかに津波防災・震災が入っていなければならない。…たとえば津波常襲地帯で公的施設を作るときは、付近の住民の津波避難も同時に考えるというような内容である。地方に行けば、公的施設としては小、中学校だけという場合もある。最近、少子化のために、あるいは校舎の耐震化を進めるために、学校の統廃合が全国的に起こっている。これに輪をかけているのが市町村合併である。…持続可能な津波減災社会とは、人々に対する目線の優しさから生まれてくるものといえる。」(p185〜186)
今回の大震災でも、政治の有り様が鋭く問われています。復興とは、単に元通りの日々を取り戻す(これもまた極めて難しいのですが)のでなく、この教訓を生かし、次の被害を最小限に食い止める為の施策をどこまで反映させられるのかが問われていると言っていいでしょう。

2,震災でも、ユーモアを忘れない。
今回の震災を請けて、あちこちで「自粛」による二次被害とでも言うべき現象も広がっていることもご案内の通りです。「憂国の士」気取りの勘違い知事(それにしても彼の当選には、東京都民は何をしているのだと言いたかった。)が、花見を批判しました。しかし花見をしない事が、何故被災者の人々にとってどんなプラスになるのかの説明はありません。もちろん、気分的に何となく浮かれてはいけないよなあとか、そんな気分になれないという気持ちは分かります。しかしそれはあくまでも、個人の感情です。お上がそういった個人レベルの心情まで口を挟むとき、何か良からぬたくらみを感じます。

最近行った地理の授業で、造山帯を取り上げましたが、その際の「導入」に用いたのが、江戸時代に盛んに描かれたなまず絵です。当時の人々がどこまで本気で信じていたのか分かりませんが、大地震は地中の大なまずが揺れ動いて発生させるものとされていました。そこで大地震の後には盛んになまず絵が描かれ売り出されたようです。

最初の絵ですが、四匹のなまずが、詫び状を書いています。それぞれ、信州地震、越後地震、小田原地震、江戸地震の「首謀者」たちが、深川恵比寿によって地震を起こしたことへの詫び状を書かされているといった構図です。十月二日の夜に神々の留守(神無月)をいいことに、地震を起こしたという訳です。大なまずは、普段は鹿島大神宮が要石という大石によって押さえつけられているということになっているのですが、その留守に「附込」んだと書いてあります。しかし、「此以後急度動き申間敷」という一札を取られ、「ふるえながら判を押」たので、もう大丈夫だという訳です。最後にはご丁寧に、鯰が押したという判まで添えられていて笑わされます。

次は、鯰の蒲焼きやの引き札(今で言うチラシ)です。「なまづ蒲焼き江戸屋」という大きな看板の下には、捕らえられたなまずが見えます。右側のタイトルには、「生け捕りました三度の大地震」とあります。商魂とユーモアが感じられ、地震にうちひしがれながらも、再生する江戸庶民のしたたかさを感じます。

三枚目は、「繁盛たから船」というタイトルのある絵です。宝舟になぞらえてあるのは、もちろん鯰です。
「ながき銭 とれるつもりて みないさみ なみよりふへる 手間のよきかな」とあり、地震災害後の復興によって手間賃が増えるだろうとされた大工や左官などの職人を辛らつに批判しています。よく見ますと波ではなく、災害によって壊れた家の屋根瓦であり、火災さえも起こっています。どうして花魁がいるのかは分かりませんが、地震復興では遊郭も儲けるという事なのでしょうか。
いずれにせよ、江戸庶民のたくましさには学ぶところがあるそうです。
もっとも、今回の大震災でも、大手ゼネコンを筆頭に、復興建設特需を見越している企業もあるかも知れませんので、この絵は今でも通用するかも知れません。*これら三枚の絵は全て、インターネットの「地震 鯰絵」で検索してヒットしたものです。画像が鮮明でないこともあり、釈文を今ひとつはっきり示せないのが残念です。

3,「日本は一つ」なのか。
テレビでは、普通の商品を売るCMがようやく復活しつつあります。それでも、AC(公共広告機構)のスポットが多く、正直目障り耳障りです。その一つが、「あんたらに人の道を説かれたくない」という感覚です。「一人じゃないとか」「買い占めをやめろ」とか、君らにそんな事言う資格があるのかという素朴な反発もあります。一見まじめそうに語っているタレント中には、ついこの間まで東京電力のお先棒を担いでいたアントニオ猪木みたいな人物もいます。
もう一つ、実はこれがいやでいやでしょうがないのですが、「日本人」「一つ」というフレーズの大安売りです。これらの言葉と対象にある「非国民」という戦前戦中のレッテル張りを想起するのは私だけでしょうか。
確かに現地では、被災した多くの人々がその困難さにもめげず、必死になって生活しています。自らも被災者なのに、他の人々の為に懸命に働いている人々も大勢います。それを支えるボランティアの方々の存在も重要です。遠く離れた場所で、なけなしのお金を義捐金として差し出す人々も、国内外に大勢いる事が明らかになっています。人間らしい暖かな連帯と友情の輪で繋がっているといえます。そこでは、国籍など関係ないはずです。
しかしその一方で、現地では火事場泥棒が出現していることも伝えられています。また何より、無責任に強引に原発を進め、そのことへの真摯な反省どころか姑息な隠蔽と見られても仕方ないような事をやっている東電関係者やそれに群がってきた政治家たちもいます。彼らも、法的には「日本人」です。しかし、そんな輩と「ニッポンはひとつ」とか」「同じチーム」といってスクラムが組めるでしょうか。もちろん、否です。
そのことを学んだのが、山田洋次『寅さんの教育論』(岩波ブックレット?12 1982年)です。その中で、人と人との繋がりについて書かれている部分があります。
「自分の県が一番にいいと威張ったり、自分が卒業した学校をやたらに自慢したりするのはあまり好きではありません。同じ県人だろうと、同じ同窓生だろうと、手を組んではいけない人間ははっきりいるわけで、人間と人間の繋がりは本来もっと別なところでなきゃ行けないと思うんです。同じ日本人だって許す事のできない悪者はたくさんいるし、悪い日本人より素敵なアメリカ人の方がロシア人の方が、中国人の方がはるかに信頼できる友だちになれるはずです。」(p13)
その点で、今回の米軍の緊急援助隊のネーミング「ともだち作戦」は、ひどい。沖縄の問題や所謂「思いやり予算」をそのままにして、「ともだち」はないよなあ。

4,東京電力や減発推進派のやってきた事の検証を。
大学時代からの友人でジャーナリストの高世仁君が、つい先日あのチェルノブイリへ取材に行ってきました。彼のブログを読むたびに、今回の東京電力の原子力事故ほど歴史の教訓を蔑ろにしたものないなあと改めて憤りを覚えます。さて彼のブログから一部引用します。
この間まで、「チェルノブイリ」と「フクシマ」を比べることは間違っていると主張する人が多かった。規模も深刻度も全然違うというのだ。だが、事故の規模や態様は異なるにせよ、同じ原発事故なのだから、チェルノブイリから教訓として学ぶことはたくさんあるに違いないと思って出発した。もう他人事ではない。目の前でおきている大規模原発事故に向き合わなくてはならない。私がまだウクライナに滞在中の12日、経産省原子力安全・保安院が福島第一原発事故の暫定評価をチェルノブイリと同じレベル7に引き上げたとのニュースが流れた。それは過大評価だとの批判がまた出てきたが、もうそういう議論はいい。成功も失敗もあっただろうチェルノブイリの経験から、早く、我々に役に立つことを学ぼうよ。まず、初動から批判されっぱなしだったチェルノブイリ事故処理だが、10日間でなんとか放射性物質の流出を封じ込めるのに成功した。一方、福島では、まだまだ、安定冷却のめどさえ見えない。チェルノブイリでは事故直後、軍隊をも含む大量の人員を一気に現場に投入した。多くの特攻作業員の犠牲を出すなどマネしてはいけない点があるけれど、福島の初動はあれでよかったのか、振り返ることも必要だろう。
きょう、フジTV「MRサンデー拡大特番『原発危機 克服への闘い』」に、私たちのウクライナ取材の素材を提供した。今も放射線が強い場所はあるのかというのが、まずは関心のあることだと思う。今回、放射線測定器を持って各地を回り、最もその値の高かったのは、原発に最も近い町、プリピャチ市の遊園地のマンホールの上だった。聞くと、下を高度に汚染された水が流れていたという。番組では、10マイクロシーベルト/時で、だいたい東京あたりの100倍を示したシーンを使っていたが、直前にはその倍くらいの値が出ていた。ガイドが、長い時間そこにいないでくださいと私に叫ぶが、すぐそばでは観光客が記念写真を撮っている。実は、チェルノブイリにはいま観光ツアーがあり、かなり深いところまで見ることができる。日本人向けのHPでは、4月26日の「事故25周年記念日」を控えこんな宣伝文が載っている。《86年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所4号炉の原子炉が爆発、放射能が大量に放出されました。当初は原発から半径30キロ以内の約11万6000人が強制疎開。その後も広範囲で疎開が続き、計約40万人に増えました。現在、ここはチェルノブイリ原子力発電所の居住禁止区域とも呼ばれ広大な立ち入り禁止区域になって住民が居ない放射能汚染圏で「ゾーン」と呼ばれています。原発事故後25年を迎え過去の惨状と現在を探るツアーに是非ご参加ください》日帰りツアーから2日、5日、6日コースといろいろあって、希望すれば、原発の制御室まで入れるディープなツアーもできる。
http://www.japanese-page.kiev.ua/jpn/chernobyl-tour-description.html
私が出会ったのは20人の主に西欧からの観光客のグループで、中には小型ビデオで立ちレポをしているテレビ取材者らしき人もいる。30キロゾーンを管轄する役人に聞いたら、私と同じ日に、10カ国の国籍の人間がゾーンに入ったとのことであった。観光地化していることを、嘆かわしいと思う一方で、人びとが事故と共生していかざるを得ない事実にも目を向けたいと思う。ずっと事故と「付き合って」いかなくてはならないのである。番組で紹介されたように、ウクライナの多くの人びとが、原発事故は非常に長い闘いになりますよ、と私に語った。私たちはその「覚悟」を求められている。

今私たちは固唾を呑んで、日々の福島原発の処理状況を見守るしか他に方法がないのですが、しかしそのことと東京電力はじめ原発安全神話を吹聴し、多額の費用を使って「マインドコントロール」や「洗脳」しようとしてきた責任は忘れてはいけないと思うのです。

授業の話をします。公民や現代社会の「住民自治」の単元では、新潟県巻町の住民投票を題材にしてきました。同町では、原発推進に大きく梶を切った町政に対し、その是非を問うために住民が住民投票という手段を講じて対抗したものです。間接民主主義の不十分点を補う意味でも原発の危険性を白日の下にさらす点でも画期的な運動でした。授業では、原発の是非にはあまり拘泥せず、住民の権利としての直接請求権の一つとして住民投票が位置づけられ、実際にそれが行使され、大きな成果を上げた実例として取り上げました。生徒たちは、いったん選挙で選ばれた行政のトップが推し進める施策については、ほぼそれが絶対だという認識しかなかったようで、リコールという手段のある事やそれが実現すれば町政を変えられるという事実に接して大きな驚きを持ったようです。因みにこの実践は、『歴史地理教育』(1997,11月号)に「住民の自治と権利を学ぶ」という表題で掲載されています。
この授業を行うに当たり現地から資料を取り寄せたのですが、東京電力のこの運動への関わりは、まさに札びらでほおを叩くという表現がぴったりのようだと感じました。住民投票には公職選挙法が適用されませんので、札びらを切るなどやりたい放題なのですね。結果は原発反対派の勝利で、新たな原発は作られなかったのですが、当座の経済状況に鑑みて、やむなく原子力発電所の建設を選択し、そこで職を求めるしかないと考えている人々がいる事も事実です。原発に依存せざるを得ないとまで追い込んだ国の政治もまた問われるべきでしょう。現在政権政党でないことをいいことに、政府与党を厳しく追及している自民党がその原発推進の中心でした。

 今回の震災と事故で、歴史に学ぶという事は、実はかなり卑近な事なのだという気がしています。かつて、「過ちは繰り返しません」と原爆被災者に誓ったこの国で、「仮想敵国」まででっちあげ軍備に多額の税金を投入してきたこの国で、今直面している最大の危機をもたらしているのは、どこでもない、日本という国がその張本人であるという事実を今改めて噛みしめなければと思うのです。

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