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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュの号外 少しの寄り道や車窓から見える、もちろん無料の京都案内

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春爛漫、という言葉がぴったりの今日の陽気です。読者の皆様方には、元気でご活躍中のことと存じます。当方、新学期の忙しさはまだ続いていますが、それでも今日は自分のためにほとんどの時間を割くことができていい気分です。先ほどは、歩いて5分くらいのところにあるそば屋に出かけていって、そばを手繰ってきました。池波正太郎の世界みたいで、一人で悦に入っていました。それにしてもこの蕎麦屋、長野県産100パーセントのそば粉の10割そばです。量も、都会のバーコードみたいなものではありませんのでお腹いっぱいになります。是非一度ご賞味あれ、です。さて来週火曜日から奈良・京都への修学旅行の引率です。270人近い生徒ですので、緊張します。先日会計担当の先生から振り込み用紙への捺印を求められて驚きました。1500数十万円でした。さて、生徒たちが楽しみしているのは言うまでもないことですが、特に期待しているのが京都でのタクシー見学です。見学場所はもちろん、お昼も自分たちの班の計画で動きますので。2000円以内でフアストフードやファミリーレストラン以外であればOK(つまり、京都らしい食事と言うことなのですが)という条件です。ガイドブックを片手に必死に論議をしている姿を見れば、こちらも楽しくなってきます。実はこの旅行では、立命館大学の平和ミュージアムを見学させたいと思い下見にも行ってもらったのですが、人数が多すぎるということもあり、時間的にどうしても折り合いがつかず、断念せざるを得ませんでした。それに代わるもの、というわけでもないのですが、日本史の教師としては定番の神社仏閣の他に、どうしても平和と民衆のたくましさという視座で見学して欲しいと思ったのです。そこで添付のレジュメを生徒に渡し、私以外の社会か教師にも授業で扱ってもらうと共に、旅行会社を通じてタクシー会社に送ってもらいました。といった内容の「号外」です。そろそろ号外ではなく、正式の通信を出したいところですが。




修学旅行タクシー見学資料
2010,かっちゃん

 自分たちの計画で回るタクシー見学ですが、時間に余裕があれば、タクシー運転手さんと打ち合わせし、以下の場所も見学させてもらってください。今回の修学旅行では行けなくても、次の機会に見れればいいですね。
 −戦乱に巻き込まれながらも、人々の努力で復活してきた京都の町−
1,民衆が守り発展させた祇園祭と八坂神社
  全国各地にある夏祭りといえば、祇園祭が先ずあげられます。その祇園祭の中でも、
最高位にあるのが京都八坂神社の祇園祭です。なんと室町時代初めの頃から続いている といわれ、勇壮でごうかけんらん豪華絢爛なだし山車は、見るものを圧倒します。しかしこの祭りも、応仁の乱で完全にすた廃れてしまいました。しかしそれを復興させたのが、京都のまちしゅう町衆と呼ばれる自治組織に集った人々です。これ以降、民衆の祭りとして発展していきます。
アジア太平洋戦争中には中止されましたが、敗戦から2年たった1947年には、人々の力で復興して現在に至っています。
八坂神社一帯は、円山公園という広大な公園です。(もちろん入場無料)ここの公園には、坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像もあります。

2,秀吉の築いたいこう遺構が今も残るおどい土居
京都の原型は、794年、長岡京を廃棄した後、北西に移動して造営された平安京であることは周知の通り。しかし、その後荒廃したりしていったが、なんといっても最大の破壊は1467年の応仁の乱です。その後は荒れるにまかされていましたが、それを修復し、再構築したのが豊臣秀吉であり、先ほどの町衆と呼ばれる京都の人々でした。
 秀吉は、都の土地の区割りを、それまでの碁盤目型から短冊型に変えました。また、集落の密集する都市部分とその周辺の郊外、すなわち洛中と洛外とに分けました。その境に築いた土塁がお土居と呼ばれるものです。
 しかし明治以降の近代化の嵐の中で、かなり破壊されてきましたが、それでもたかがみね鷹ヶ峰や北野天満宮に若干残っている場所があります。

3,はまぐりごもん蛤御門の変(禁門の変)と大火災
 京都での天皇の住まいであった御所ですが、春と秋の開放の他は、普段は閉じられて見学できません。往復はがきで申し込む方法もありますが、18歳以上でなくてはなりません。変な気もしますが、
さてこの御所の門の一つである新在家御門(蛤御門)のあたりで、幕末の1864年、 長州藩V.S.薩摩藩・会津藩の連合軍との間で戦闘が起こります。このころの薩摩藩は、幕府側の有力な勢力だったのですね。因みに蛤御門というのは、普段は閉じているのですが、大火事の時に門を開いたということから貝の蛤にたとえてついた名です。
この戦争では、長州藩の屋敷をはじめ、3万軒近い家々や寺院を焼く大火になり、京都の人々は大きな痛手を受けました。あの本能寺も、このとき再び焼けています。しかし、人々のたゆまぬ努力によって徐々に復興し、明治を迎えます。
 今でも蛤御門には、この時の砲弾の跡などが残っています。

4,堀川通りや御池通の広さの理由
京都も車で渋滞しています。しかし、もし堀川通りなどの広い通りがなかったら、さらにひどいものになっていたことは想像に難くありません。しかしその広さの背景には、幾多の人々の悲しい思いが詰まっているのです。
第二次世界大戦末期、東京大阪はじめ、日本の大都市は軒並み米軍の空襲を受けまし た。京都も規模こそ小さいが空襲を受けています。神社仏閣で知られる京都ですが、軍需工場の町という側面もありました。政府は、そうした工場や施設が空襲で類焼するのを防ぐため、建物疎開という施策を始めました。何のことはない、家の柱などに傷を付け、建物にロープをかけて引き倒し、更地にして広い空き地を作るのです。そうすると、空襲で燃やされたとしても、その一角で食い止めることができるという江戸時代の火消しの発想と同じです。そこに住んでいる人たちがいるのに、です。雀の涙ほどのお金を渡し、強引に追い出して無人になった家を、さっきの方法で壊して広い通りを造ったのです。大切に住んできた家を、目の前で壊されるのを見ていた人の気持ちを思うと、改めて戦争のひどさを感じます。
 こうして消えたのは、単に住まいだけではありません。長い年月を経た文化財として価値ある建物も引き倒されましたし、堀川通りにあった堀川京極という繁華街も消えてしまいました。京都の広い通りのいくつかは、こうしてできたのですね。そのことに思いを馳せながら眺めてみてください。

5,一条戻り橋での悲しい願い
  堀川通りを、北に進むと(京都では上がるという)一条戻り橋に行き着きます。室町 時代の頃までは、橋は「あの世とこの世」を結ぶ境界とも考えられていました。鬼など出没するのも橋の上でしたし、弁慶と牛若丸が出会うのも五条の大橋です。もう一つこんな故事があります。
平安時代、三善清行という学者が亡くなり、葬儀の列が一条戻り橋にさしかかっていました。葬儀には間に合わなかった息子が、この橋の上で父の棺と出会います。息子は霊力で父の魂をこの世に蘇らせたといいます。
さて、15年にもわたる長い戦争は多くの兵を消耗していきましたが、京都からも大 勢の人々が戦地に招集されていきました。おおっぴらに戦争反対などはもちろん、悲しい姿を見せることさえはばかられた当時、この橋で戦地に赴く人を見送ったといいます。
 人々は、せめて無事に生還することを願い、祈ったのでしょう。

6,清水寺の消えた仏像と狛犬
清水の舞台で有名な清水寺仁王門には、寺には珍しく狛犬があります。石でできています。元は金属だったのですが、どうして石になったのでしょう。(なお、二体とも口を開けてる、阿像である点も珍しい。)
 アジア太平洋戦争は、圧倒的な物量を誇る連合国軍との戦いでもありました。中でも、
鉄鉱石やくず鉄などは、海外からの輸入に頼っていましたので、戦争になると手に入りません。そこで武器弾薬を作るに欠かせない鉄をはじめとした金属を、半ば強制的に取り上げていったのです。
 清水寺では、狛犬の他、仏像も供出されてしまいました。釣り鐘も差し出さざるを得なくなったお寺もありました。現在二条城前は、バスなどの広い駐車場になっていますが、戦争末期はこうして供出させられた鐘などの金属製品で埋まったといわれています。

−神社仏閣だけではない京都−
1,道路なのに堀川?
先ほどの堀川通りですが、道路なのにどうして「堀川」なのでしょう。この通りの由来は、平安京を作るために物資を運んだ河川の上を走っているからです。道路の下は、河川なのですね。
 京都に限らず、江戸も大坂も、大都市の物資流通は、船に頼っていました。私たちの千曲川でさえ、明治の中期くらいまでは新潟からの物資輸送に使われていたことがわかっています。
 
2,近代化のスタートは京都にも。発電所とインクライン
明治に入り、都が京都に移されますと徐々にさび寂れていきます。そこで、京都復興のいくつかのプロジェクトが計画されました。その一つが、琵琶湖から京都まで、水路を引くことでした。途中長いトンネルもあり、難工事でしたし、また京都市民にはそのために多額の税負担も求められました。しかしそれを見事にやりきったのは、工部大学校(今の東京大学工学部)を卒業したばかりの23歳の若き技術屋田辺朔郎でした。
この水路の第一の目的は、何だったと思いますか。なんと船を使っての運搬です。琵琶湖からはるばるやってきた船は、蹴上という場所で京都の路上に降ろされましたが、ケーブルに船を乗せて急斜面を上り下りしていました。今では使われていませんが、線路とケーブルはそのまま展示されており、簡単に見ることができます。
インクライン上部から少し上流にあるのが、蹴上の発電所です。日本で最初の水力発電所で、今も現役です。ここで生み出された電力を利用して日本初の路面電車が走りました。近くの旧蹴上発電所の建物も一見の価値ありです。発電所から分かれた水路はさらに南禅寺の三門に向かって右手わきを通り、見事な煉瓦造りの水道橋の上を流れています。ここも機会があれば、是非見学してほしいところです。

3,煉瓦作りの洋風建築
京都の魅力の一つに、明治に建てられた煉瓦作りの建物が数多く残されていることが あげられます。国立京都博物館など、本館はもちろん正門なども優れた建築技術をかいま見ることができます。中京郵便局や旧日本銀行京都支店など現在も現役で使われ、また見学が自由なのもうれしいですね。その他、最近まで現役だった古い小学校(現漫画ミュージアム)などもあります。

4,京都で一番景色のよい?京都タワー(開発にゆれる京都)
かつて清水寺には、あるホテルの宿泊者に対し、拝観禁止の立て札がありました。このホテルが高層化した際、京都らしい落ち着いた景観を壊すということから反対運動が起きたためです。また最近では、京都の鴨川にフランス風の橋を架ける計画が持ち上がりましたが、京都の景観をぶちこわすという住民の反対運動で中止されています。
古くからの寺社や木造建築、波打つ瓦の連続こそ京都らしいという気がします。少なくともコンクリートの高層ビルの林立で、大きな寺院も隠れて見えないというようなことは勘弁してほしいと思うのですが。今も京都は開発か保存で揺れ動いているようです。かつて京都の友人が言った言葉、「京都で一番景色のよい場所、それは京都タワーの中」なぜなら「京都タワーが目に入らないから」だそうです。

タクシー運転手さんにお願い
 本校の生徒がお世話になります。特にご迷惑をおかけするような生徒はいないと思いますが、ついついはしゃぎすぎというようなことはあるかもしれません。遠慮なくご指導ください。基本的には素直な田舎の生徒たちです。
 
 以下の場所は、先日送付した生徒の見学コースには入っていないと思いますが、もし時間に余裕があったり、すぐ近くを通過する際、運転に支障がなければご案内頂ければ幸いです。できる範囲でよろしいので。
 またこれに限らず、適宜ご案内いただければ生徒たちの修学旅行が、いっそう思い出に残るものになるかと思います。よろしくお願いいたします。

   ○○中学校                            ○学年主任   かっちゃん

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