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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第二十号1891(明治24)年、5月11日大津事件

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最後にかっちゃんからの追記もあります。
じっくりお楽しみください。(olive)

2009年5月21日から、裁判員制度が始まるらしいですね。伝聞調で書いたのは、もしこのままいくのであれば、大変に困ったものになると判断したからです。メールにも書いた通り、あまりに問題点が多いと言わざるを得ません。
現在の裁判や司法制度の抱えている問題は、相次ぐ冤罪や行政との癒着とでも言うべき司法判断はじめ、極めて深刻なものがありますが、その解決を目指しての司法制度の改革と今回の裁判員制度導入とは全く別物だからです。また罰則を伴う守秘義務や参加を義務とした点など、国民の権利とは相反するものです。また私のような小心者は、下した判決によっては「お礼参り」されるのではという危惧もあります。また、「国民目線での、健全な市民感覚」を裁判に取り入れるため(裁判員制度啓発のパンフレット要約)という理由づけもなされていますが、そうした感覚がこれまでの裁判になかったとすれば、それこそ最高裁はじめ全ての裁判所で、先ずもってその点を裁判官が反省することから始めればよいことです。今のままでの裁判員制度導入は、問題のすり替えに過ぎません。
もう一つ気になるのが、裁判員制度への批判が続出する中、裁判員に「負担をかけません」という理由付けの一つとして「迅速化」を謳っている点です。確かにこれまでは、時間のかかりすぎる裁判という批判はありましたが、これはあくまでも裁判を受ける主体にとっての問題と考えるべきで、裁判を行う側からこれを言い出すと、効率化優先のあまり、冤罪や杜撰な判決の増加に結びつくのでは、という危惧があります。
裁判員制度が全く影も形もなかった時代に、すでに
「…ここで注意しなければならないことは、刑事事件における迅速な裁判の要請は、被告人の基本的人権を尊重するためであって、裁判事務の効率促進をおもな目的とするものではけっしてない、ということである。…ことに刑事裁判は、権力機構によって効率的な捜査を行ってきた警察・検察と、非力な被告人・弁護士の対決である…」(1)
という指摘が、なされています。しかしこうした根本的な矛盾や問題点に頬被りしたまま、裁判員制度の5月21日実施という既成事実のごとく、先行してきたのです。
以上の点からも、現行の制度のままでの実施には多くの問題があります。少なくともこの5月からの拙速な導入は避けるべきでしょう。しかし、多くのマスコミが既成事実として報道している現在、覆すのはかなり困難でしょう。直近の世論調査でも、反対意見が続出しているのですが。
この国の司法制度の最大の問題とされるべきことは、どこまで国家権力と一線を画し、人々の権利を守る砦たりえたかと言うことでしょう。その点でも、政党のチラシ配布を有罪とした判決など、疑念を生ずる判断が多々あります。全裸で騒いだとして逮捕された人気タレントなどの逮捕も、警察から言われるがままに、逮捕状を出したわけですし。
さて、司法の独立の前提となるべき三権分立ですが、社会科公民的分野で学習するイロハです。授業では理念や制度は学びますが、しかしその実態については、あまり触れられてきませんでした。自衛隊違憲訴訟など、題材には事欠かないのですが。私自身、もう少し掘り下げて取り上げるべきだったと反省しています。
その権力からの独立という点で、高校日本史教科書に必ずといっていいほど登場してきたのが「大津事件」での児島惟謙の判決でした。そこで今回のテーマは、

1891(明治24)年、5月11日
滋賀県大津で、護衛巡査が来日中のロシア皇太子に斬りつけ、大けがを負わせる。=大津事件
大審院長児島惟謙は、政治的圧力をはね除け、無期懲役を下す。
事件とその後の日本政府の対応を時系列に、当時の『東京日々新聞』より抜粋して見ていきます。
事件の概要(5月11日)
露国皇太子殿下…大津京町御通行の際、右側にある途上警衛の巡査津田三蔵なるもの、突然抜刀皇太子殿下へ斬り掛け帽子を通し、右の御鬢の上部を後ろより前へ掛けて二カ所の疵なり。御負傷は頭蓋骨までは達せず、疵口一カ所は長さ9センチメートルとの診察成り。…
天皇早速見舞う(5月12日)
天皇陛下には御軍服にて本日(5月12日)午前六事御出門、同6時20分新橋へ御着、同30分発の
臨時列車にて西京へ向けられて行幸あらせられたり。…畏くも陛下には…痛く宸襟を悩ませられらるるご様子に伺い奉られたり
日本側医師の診察をことわりロシア軍艦で治療
露国皇后陛下より公使への電報只今(13日)到着す、治療は軍艦に於いてせよとのことにて、午後4時、天皇陛下も御同行にて神戸向け御出発あり
国民の様子(5月14日)
霹靂一発此度の一大出来事の出生するや、五機八道、日本全国津々浦々至る所、苟も日本人民たらん者、此凶事向かって眉を顰めざる者はあらず、上は叡慮を悩まし奉り、下は吾人の悲嘆ただならず…、
ロシア皇太子快方へ
露国皇帝皇后両陛下より、我が天皇、皇后陛下へ答えられたる御返電(5月15日)
 我が親愛なる愛子は今度帰国にて難に遭ひたれども、幸いに天の冥助に依って大事に至らざりしよし、貴陛下が此兇変に付種々に叡慮を労せられたることを謝す。
ロシア皇太子帰国に際し、ロシア軍艦に招いての晩餐会を催す(5月20日)
天皇陛下は露国皇太子殿下の御召艦へ御着の時、同殿下は甲板までお出迎ひ御先導にて殿下の御室へご
案内に相成り、…
津田三蔵への判決下る(5月29日)
凶徒津田三蔵が、謀殺未遂罪に服して無期徒刑に処せられたることは昨日の号外を持って、府下の読者に報道せしが、その判決文は左の如し。
…此を法律に照らすに、その所為は謀殺未遂の犯罪にして刑法第二百九十二条第百一条第百十三条第一項により、被告三蔵を無期徒刑に処するものなり。…

以上がこの事件の大きな流れです。
さてここには大きく二つのポイントがあります。
先ず一つめですが、襲われたのがロシアの皇太子であった点です。当時ロシアは、最強陸軍を保有し、やがて日本と権益を争うかも知れないと恐れられていました。その国の皇太子が外遊中に襲われたのですから、政府要人が青くなったのも無理はありません。何としてもロシアの感情を和らげねばなりませんでした。
事件後直ちに明治天皇は京都の旅館で療養していた皇太子を見舞いに訪い、さらに神戸停泊中の軍艦で治療することになった後は、そこまで同道し、最大級の敬意を表しています。天皇に限らず、伊藤博文・黒田清隆ら政府高官も必死になって見舞う傍ら、知事や警備責任者は罷免、青木周蔵外務大臣や西郷従内務大臣、山田法務大臣なども辞任し、責任を取っていることを内外に示します。ロシアの機嫌を損じないようにという、必死の姿勢が見て取れます。
政府は犯人津田に対し、死刑をもって臨むよう、大審院長児島惟謙に圧力を掛けます。もちろんロシアへの配慮です。後藤逓信大臣に至っては、刺客を雇って津田を抹殺することまで提議した(2)と言います。

しかし児島はこうした政府の動きを拒否、通常の謀殺未遂罪を適用しようとします。ここに政府と小島との間に大きな対立が生じます。13日から始まった取り調べは、27日には「無期徒刑」で結審します。
政府の圧力をはね除けたという点で、この後小島は司法の独立の守護神として讃えられていきます。『国史大辞典』(吉川弘文館)でも、
…政府がロシアの対日感情の悪化を懸念して行った執拗な裁判干渉を排除して司法の独立を守ことができた
と、高く評価しています。もちろん、当時の政府有力者の圧力をはね除けるには、大変な労苦があったことは推察されますし、「護法の神」的な扱いも理解できます。
しかしこの児島への手放しの評価には気になる点もあります。
それは一つに、先の『国史大事典』にもあるのですが
…この間政府と小島院長は各判事に向けて対立する立場から指示を与えたが
という点です。確かに児島院長は裁判所の外からの圧力には耐えたかも知れませんが、部下の判事には自分の判断に従うよう指示を与えています。つまり彼自身も、下級の裁判官に影響力を行使しているのですね。司法の独立を言うのであれば、個々の判事への指示も厳に慎まなければならないでしょう。意識せざるとしまいと、今風に言うとパワハラになるのですから。
実際、戦後の司法当局も平賀書簡や飯守所信事件(3)に代表されるように、官僚的に司法の独立を犯す事件を起こしています。上級に位置する裁判官からの圧力です。法と良心のみに従うべきとされた裁判官の世界で、上意下達の力が行使されるとすれば、民主的な司法の原理原則は崩壊するでしょう。
これらの事件が、裁判所の判断に影響を与えたのかどうかはわかりませんが、日本国憲法第9条と自衛隊との関係については、最高裁はこれまでただの一度も違憲立法審査権を行使せず「なじまない」ですませています。また、青年法律家協会(青法協)加盟の裁判官には、不当な攻撃を続けてきました。
そしてそのルーツは、皮肉にも司法の独立を誇示した大津事件の裁判にも見られたのです。児島は最終的には政府の圧力をはね除けましたが、そこに至る過程では、だれも権限の及ばない緊急勅令を発してもらい、自己の判断と責任を回避しようとしたとも推察(4)されています。
戦後、ファシズムとそれを容認した大日本帝国憲法下の体制を否定し、克服するところから新生日本はスタートしたはずでした。しかし、一掃されるべき残滓は多々残りました。例えば、内務省はなくなりましたが、そこを頂点とする官僚制度は温存されました。司法官僚もその典型といっていいでしょう。
裁判員制度を推進している人々の中には、友人で現職の裁判官であるH氏の指摘する通り、真っ当な人権感覚にあふれている法曹関係者もいます。しかし、先に述べた残滓とでも言うべき裁判官もまた、含まれているのです。
戦後直後の様々な民主化のプロセスの中で、裁判官は、
ただ一人の追放者をも出さなかったことである。それでは裁判官には戦争責任はなかったのであろうか。そんなことは絶対にない。戦前の治安維持法違反事件の裁判で、多くの社会主義者自由主義者たちに有罪の判決を下して、戸坂潤や三木清などの思想家たちを獄中死させたのはだれであったのか。満州国の司法官として、侵略戦争の片棒を担いだのはだれであったのか。(5)
 このことへの解答は、戦後ずっと不問に付されてきましたが、少なくとも裁判員制度導入の前には明らかにされなければならないと思うのです。
 二つめのポイントは、津田の動機です。『国史大辞典』は、津田の調書から二つを挙げています。
? ロシア皇太子の来日目的が日本各地の地勢を視察するためであったと考えた。
? 謁見前に各地を遊覧するのは天皇に対し不敬であると考えた。
この二つとも、極めて国家主義的です。
同じように「忠君愛国」の念に駆られ、京都府庁前でカミソリ自殺した女性が、畠山勇子(27歳)です。彼女はその遺書で、「わが日本皇帝より給わりし命」であるが故に、「皇帝の御心」のために自殺した(6)ことをあきらかにしています。
一部ではあったかもしれませんが、この時代にはすでに、「忠君愛国」教育の「成果」が現れていたことに驚かされます。

いよいよ始まるであろう裁判員制度、現実の裁判の問題点を少しでも白日の下に晒し、真の改革への道を探るために一石を投じるという点でのみ、有効なのかも知れません。
(1)潮見俊隆『法律家』岩波新書 1970年 p67
(2)佐々木孝『日本の歴史21 明治人の力量』講談社p71
(3)「平賀書簡」は、自衛隊の存在が憲法違反か否かをめぐって争われていた長沼ナイキ訴訟に関わっていた札幌地裁の裁判官に、上司に当たる平賀所長が、その判断に干渉する内容の書簡を送った問題。
飯守所信とは、青年法律家協会(青法協)加盟していた裁判官に、鹿児島地裁所長の飯守重任が、そこからの脱退を強く促した事件。
本来思想信条の自由をもっとも保障すべき司法当局の要職にある人物が、その原則を踏みにじった点で問題とされた。平賀、飯守両氏とも処分を受けた。
(4)佐々木前掲書p72
(5)潮見俊隆前掲書57
(6)鶴見俊輔「共同性の行方」『週間朝日百科100 日本の歴史 天皇』朝日新聞社 所収

追記チャペル
いつも『通信』ご愛読頂いてありがとうございます。ご教示や感想など、本当に励みになります。さて今号で、大津事件を取り上げたいと思った直接の契機は、一つに、私が一方的なお上からの押しつけと感じており、また未だに杜撰な計画しかない裁判員制度が目前に迫っていること、二つめに、『通信』読者の現職の裁判官でもある友人からのメールです。一連の小沢秘書逮捕や草なぎ君逮捕事件などの、捜査機関の行き過ぎという事態に対し、チエックすべき裁判所がその任を果たさず、最終責任も負っていない点を、教示してもらいました。彼は続けて、戦前の治安維持法下の弾圧にも多大な責任があるにも拘わらず、家永三郎さんなど少数の人々を除いて追及していないという事も指摘しています。言われてみれば確かにそうなのです。私達が権力犯罪を考えていく時の重要な視座でしょう。ご教示に感謝でした。
さて、先輩の歴史研究者からの質問を頂きました。本文中の畠山勇子に関する記述が良くわからないと言うことでした。確かに読み返してみますと、はしょりすぎてわかりづらい表記です。
以下、補足します。畠山勇子は、大津事件のもう一人の重要な登場人物だと思います。
京都産業大学付属図書館の特別展示WEB版に、「二人の偉大な日本紹介者ハーン(小泉八雲)とモラレス展」があり、その中で畠山勇子について、簡単に紹介されています。

ハーンとモラエスが共に同情の念を示した畠山勇子は、現在の千葉県鴨川市に生まれた。生家は当時の資産家であったが、父が幕末の志士を支援したことから財力も乏しくなっていたという。それでも勇子は漢文を習うなどして教養を身に付け、歴史や政治についての関心も高かったとされている。17 歳で他家に嫁いだが、 夫の行いを咎めたことで離縁となり、東京に出てお針子として身を立てていた。1891( 明治24)年5月11 日、訪日 中のロシア皇太子に警備の警官が斬りつけた、所謂「大津事件」によって国内世論が動揺する中、皇太子一 行が静養していた京都へ入り、自らの死を以ってロシアに詫びようと5 月20 日夜、京都府庁前で自刃に及んだ。
  自決直後、ロシア帝国や家族などに宛てた約10通の遺書により、勇子は千葉県生まれで年齢は27歳と判明したが、京都に身寄りがなく末慶寺に引き取られ境内の墓地に葬られた。
この事件によって、畠山勇子は烈女として国家主義者達の恰好の宣伝材料にされていくようです。
今後とも『通信』宜しくご愛読の程を。

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