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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第十八号1936(昭和11)年、2月26日

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昨年8月、帰省の際に寄り道をして大分県湯布院温泉に寛ぎました。人気の高い温泉地に相応しく、賑やかな人通りはあっても、全体に落ち着いた雰囲気でした。
温泉街を夕方散歩していた時のことです。木立に囲まれた、一見高そうな温泉宿が目に付きました。見るともなくその看板を見てはっとしました。香椎荘とあったからです。もしやと思って、案内板を見てみますと、やはりそうでした。
この香椎荘は、今は亡き陸軍中将香椎浩平氏が氏の別荘として建てたものであります。
この館は、かつては政界の要人や軍部の要人との深い語らいの場であり、また香椎中将自ら
武人としての思索の場でもありました。部屋の造りや築庭の姿に往時を偲ぶものがあります。
香椎中将(明治14年1月25日生〜昭和29年12月3日永眠)は、かつての2.26事件が
勃発した時、戒厳司令官を拝命し、命を賭して叛乱軍を鎮定してその重責を全うしました。(1)
驚きました。確かに香椎中将は2,26事件と切っても切り離せない経歴の持ち主ですが、それは反乱軍鎮圧の責任者の顔というよりも、むしろ反乱軍に極めて近い人物ではと、目されてきたからです。
さて、その2,26が今年もやってきました。70年以上も前の軍事クーデターですが、その後の日本の軍事ファシズム化を一気に推し進めた決定的な契機となった事件です。『国史大辞典』(吉川弘文館)は、事件の結果を次の様に述べています。
…事件のもつ武力への恐怖を利用して広田内閣の組閣に干渉した。さらに軍部大臣現役武官制復活など、政治的発言を極度に強め、日中戦争の勃発と拡大、国家総動員法の公布となった。この事件は昭和二十年八月の敗戦まで、日本の政治・軍事に測り知れない影響を与えた。
ということで、今号のテーマは、

1936(昭和11)年、2月26日
2,26事件 
陸軍行動派によるクーデター 大蔵大臣など襲撃、殺害
さてこの事件の実行犯として断罪された青年将校たちに深いシンパシーを示したのが、自衛隊市ヶ谷駐屯地で半ば猟奇的な自殺をした作家の三島由紀夫です。以下は、私の学生時代のゼミの教官、黒羽(黒田ではない。この間違いには、普段温厚な先生も本気で怒っていました)清隆先生から直接聞いた話です。
2,26事件で処刑された将校たちの霊を弔う観音様は、今のNHKすぐ近くにあるが、2,26事件当日以外に花束で埋まる日がある。それが三島の自殺した日、憂国忌である。
戦後だいぶ経った時点(1970年代後半)でも、こうした現象が起こることに、先生は憂慮されていました。
事件の概要については、読者の方々の方が詳しいとは思いますが、ざっとおさらいしてみます。
1936年2月26日早朝、陸軍第一師団管下の将校20名、兵1375名などが、総理大臣岡田啓介(避難に成功)、内大臣斉藤実(即死)、大蔵大臣高橋是清(即死)、教育総監渡辺丈太郎(即死)侍従長鈴木貫太郎(重傷)、牧野伸顕(避難に成功)、朝日新聞などが襲撃された。決起部隊は、永田町三宅坂を占拠し、政治の中枢機能は完全に麻痺した。この日の午後3時30分、陸軍大臣川島義之は、陸軍大臣告示を下達、「諸氏の行動には国体の顕現至情に基づくものと認む」と記され、状況は決起部隊に有利に展開したかにみえた。しかし、よく27日には午前8時50分には、反乱軍とされ、原隊に帰れという「奉勅命令」が出された。この状況の急展開には重心の殺害に激怒した天皇が、自ら近衛師団を率いて討伐するといった天皇の強い意志が働いていた。29日には反乱軍は帰順し、終結した。非公開の裁判の結果、17名が死刑判決を受けた。
 この事件の背後には、陸軍統制派幕僚と「君側の奸」を排除したいとする皇道派青年将校との、国家構想をめぐる二重の対立が含まれていた。反乱軍の鎮圧は軍幕僚の主導権確立を意味し、以後政治的発言をまし、戦争への道へ突入していった。(2)
しかしそれほどの事件でありながら、ナゾの部分が多く、今日でも憶測の域を出ない部分があります。それは、軍人が軍人を裁く、いわば身内の裁判であり、非公開とされたことや、また川島陸軍大臣や先に紹介した香椎浩平、青年将校らが期待をかけていた大御所の真崎甚三郎などの陸軍首脳が、彼らに理解を示す様な言動が取っていたにも拘わらず、いざ事が起こり、そのことが天皇の逆鱗に触れたと見るや、一転して態度を変え、真相が明らかになるまえに、闇に葬ったと思われるからです。

交錯する情報
2月27日付の『信濃毎日新聞』は、「突如・昨暁帝都に大旋風」の大きな見出しを掲げ、事件の第一報を伝えています。続く見出しは「君側の奸を排除せんと青年将校等重臣を襲撃」となっており、続く記事も蹶起趣意書の概要を紹介し、青年将校の立場を理解しているかの様な論調です。また、岡田総理大臣の即死が報じられていますが、この時点ではまだ助かったことは確認できていなかったことがわかります。
次に目に付くのは、「治安完全」という文言で、国民の動揺を抑えようという論調です。しかしそれにしても「人心動揺なし」という見出しには驚かされます。これほどの事件ですので、当然報道管制が敷かれていたはずです。が、それにしても襲撃した側の氏名や被害者の状況など、肝心なことについては全く触れられていません。
その様子を、当時の歌人たちは、こう詠んでいます。
三四つの 夕刊かひてむさぼれどしらじらし 何事もなかりし如く 岡山巌
真相に触れられぬもどかしさー新聞を読み、ラジオに耳澄まし、町を歩きまはる 渡辺順三
知ることを 禁められてゐる市民 全身を聴覚にして雪の中をゆく 山埜草平 (3)
永井荷風もまた、この事件に関心を抱いていました。(もっともこれほどの事件ですので、誰でもそうでしょうが。)
2月26日
 …(この間4字抹消)軍人(以上補)警視庁を襲ひ同時に朝日新聞社日々新聞社などを襲撃したり。ラジオ放送も中止せらるべしと報ず。…
 …九時頃号外出づ。岡田斉藤殺され、高橋重傷鈴木侍従長重傷せし由。…
2月27日
 …午後市中の光景を見むと門を出づ。…溜池より虎ノ門当たり野次馬続々と歩行す。桜田その他内曲へは人を入れず。堀端は見物人堵をなす。…勧業銀行仁寿公会堂大阪ビル皆鎮撫軍の駐屯所となる。…この日新聞に暴動の記事なし。
2月28日
 …叛軍は工事中の議事堂を本営となせる由。…
2月29日
 …四時頃より市中一帯通行自由となる。叛軍帰順の報あり。また岡田死せずとの報あり。(4) 
比較的自由な身であった一市民の立場から見た事件当時の概要が伝わってきます。4字抹消とあるのは、後日摘発されたときの用心でしょうか。ここでも、岡田首相が助かったことがわかるのは、3日後です。
同じ日記でも、権力中枢にいた立場から書かれたものを読むと、切迫感がリアルに伝わってきます。
 宮中で極めて天皇と近かった木戸幸一の日記です。
2月26日
  午前五時二十分、小野秘書官よりの電話なりとの市川(寿一)の声に夢を破らる。直に電話に出しに、内大臣は只今私邸にて一中隊の兵に襲撃せられ…。直ちに警視総監に電話をかく。通話することを得たれども、警視庁の手配については要領を得ず…」(5)
侍従武官長であり、敗戦の年に自刃した本庄繁もまた、詳しい日記を残しています。(元文はカナ漢字交じり)
 2月26日
  二月二六日朝午前五時ころ、…伊藤少尉面会を求める。…同少尉は、
聯隊の将兵五百、制止しきれず、いよいよ直接行動に移る。猶ほ引き続き増加の傾向ありとの驚くべき意味の紙片、走り書きを示す。
   午前六時頃参内し得しが、…斉藤内府、岡田首相、高橋蔵相、渡辺大将殺害され、鈴木侍従長重傷、牧野前内府所在不明との情報を聴き、事態の愈々重大ナルを憂ふ。
 この襲撃には、わけのわからないまま駆り出された多くの一兵卒もいました。後に人間国宝となる落語家の柳家小さんもその一人でした。
  …明け方、隊長たちは警視庁を取り囲んだ。…しかし何故警視庁を占領するのか不思議で仕方がない。…翌二十七日の明け方、下士官がやってきて「ダルマ(高橋是清)がやられた。岡田(首相)もやられた。」と話していた。なるほどそういう偉い人が襲撃されたので、その警備をしているのだろうと独り合点していた…どうも襲撃しているのはこちら側らしいとわかってきたのは、二十七日の夕方ころになってきたからだ。それまできちんと運ばれていた食事(にぎりめし)が、バッタリこなくなった。反乱軍ということで聯隊から見離されてしまったのだ。…利口な者はさっさと投降してしまったのだ。我々は、…敵意のないことを示して戦いを放棄した。…「何か持ってきたものがあるだろう。今ここに出せ。…」…山王ホテルへ入った者たちは、ホテルから写真機だとか色々なものを持ち出してきたそうだ。…次の日から…一人ずつ反乱軍兵士として取り調べが始まった。私は当然のことながら「存じません、知りません」で無罪放免となった。(6)
天皇の「実力」
この未曾有(某首相の読み間違いで有名になりましたが)の事件に際し、軍首脳は
  先ず行動部隊をを説得して、翻意帰順せしむることに最        
大の努力を払い、説得文を作成セリ。同文の要旨は、
  諸氏の蹶起の主旨は、天聴に達せられたり。諸氏の真意   
は、国体顕現の至情に出づるものと認む。…(7)
との声明を彼らに出します。この文言に接した叛乱将校たちは大いに意を強くします。重臣たちを殺害したにもかかわらず、軍首脳がそれを理解してくれ、自分達の考えを天皇が聞いてくれたというのですから。
しかも、「諸氏の精神或いは真意」の部分は、「行動そのもの」が理解されたと伝えられます。本庄繁は、「伝達の齟齬により」(8)こうしたミスが出たと書いていますが、思うに現場の責任者が意識的にねじ曲げた可能性も考えられます。
 何れにせよ、陸軍首脳は「蹶起部隊」という表現からもわかるように、反乱軍に理解を示し、何とか丸く収めることに腐心している様子が伺えます。

しかしこの事件に一貫して強い憤りを感じていたのが昭和天皇でした。
 (5)の続きです。2月26日の早いうちから、
…陸軍大臣拝謁の際、「今回のことは精神の如何を問わず甚だ不本意なり。国体の精神を傷つくるものと認む」とのお言葉あり。(9)と、
 非難していることがわかります。しかし、戒厳司令官の香椎浩平は、武力ではなく、できるだけ説得による解決の途を探ります。ところがこれを大きく覆したと思われるのが、次の天皇語ったという一言です。
 朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スべキモノアリヤ
…朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ…朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン…  (10)
重臣を殺された天皇の強い怒りと鎮圧の決意が伺えます。
戦後、天皇の戦争責任に関わって、天皇は軍部に利用されただけとか戦争をする意志はなかったなどの免責する論調が多く出されました。しかしこの記述は、天皇が軍部を押さえ込むに十分なまでの「実力」があったことを示しています。

事件の予兆
2,26事件は突発的な事件かも知れませんが、その予兆は十分にありました。その一つが5,15事件であり、永田鉄山の斬殺事件でしょう。5,15事件はご案内の通り、海軍将校と右翼による犬養毅首相暗殺です。この事件そのものについては紙幅の関係で述べられませんが、殺害犯の軍人は、最高でも禁固15年の判決です。一国の首相を白昼組織的に殺害した事件としては、刑が軽すぎます。この事件により政党内閣は終焉、軍部の政治への介入が大きな流れとなっていきます。なお、木戸日記に見る限り、天皇はこの事件の犯人へは、2,26事件の時見せた様な嫌悪感は見せてはいません。ただ、
 陛下は今回の事件に伴ひ、侍従長、内大臣等が辞職することにならずやとご心配被遊居らるる由なるが、何故如何斯ことを御心配あらせららるるかと云ふに、犯人の配布したる宣言書に側近の浄化と云ふ意味のことありしが為なるべし…(11)
と、犬養殺害への怒りよりも、それ以外のことを心配しています。これは、被害者と天皇との親密度による差異からくるのでしょうか。天皇が政党政治家を嫌っていたという話しもあります。
永田鉄山斬殺事件とは、
 …1935年、かねて皇道派青年将校と親好のあった相沢三郎中佐が、皇道派の首領格であった真崎甚三郎が教育総監を罷免されるや、この人事異動は統制派のリーダー永田の陰謀とであるとしてその殺害を決意、永田鉄山軍務局長を白昼執務室にて実行した。(12)件です。
つまり、陸軍内部の公然の秘密であった統制派と皇道派の派閥争いが、対立派リーダーの殺害に至り、それがさらにエスカレートし、2,26事件にまで拡大したという解釈もあるからです。
いずれにせよ、こうした動きは軍部の横暴をさらに助長させることになります。2,26事件で襲われながらも身代わり殺害によって九死に一生得た岡田啓介総理大臣ですが、彼は反軍部だったというわけではありません。むしろ、軍部にはかなり遠慮しています。予算も軍部のほぼ言いなりです。さらに陸軍が事件前年発表した『国防の本義と其の強化の提唱』(通称陸パン)が、議会を否定し戦争を煽る内容であったにも関わらず、何らの手も打っていません。それどころかこれを批判した美濃部達吉は、右翼や軍部の攻撃により、学者としても抹殺されますが、政府はむしろこれに手を貸していました。「国体明徴に関する決議」(13)などの神がかり的な国家主義の推進役もまた、内務省と文部省が主な主役でした。しかしそれでもまだ、彼らは不満でした。長野県下でも2,4事件(14)以降、こうした傾向小学校教育を中心にますます強まりますが、こうした一連の動きの延長線上に2,26事件は起きたとも言えるわけです。
事件のもたらしたもの
事件当時、東京商科大学(現一橋大学)で青春を謳歌していた小宮山量平先生の回想です。
その年の2月26日に例の軍人よる叛乱事件があって、時流は決定的に軍国主義へと傾いていた。学生たちの坊主刈りが指示されても、あえて反発するでもない無力さが主流である。(15)
 天皇の強固な意志によって、「叛乱軍」「暴徒」と確定された青年将校たちは、17名が次々と処刑されていきます。ただ、首謀者とされた磯部浅一他4名の死刑執行は1年後まで延ばされます。事件の背後にいたとされる真崎甚三郎の判決に何らかの証言を引き出すためだったと考えられます。しかし真崎は無罪、結局は実行犯のみの有罪判決で幕を閉じます。
しかしこの事件の後、坂道を転がる様に軍国主義化がすすみ、やがて敗戦へとつながっていくことはご案内の通りです。
こうした裁判結果や彼らの表明した「動機」は、一部に誤解を生みだします。つまり、事件の青年将校たちは、部下の兵士の多くが貧しい農家の出身であり、その彼らや家庭を救うためにやむを得ず蹶起したというフィクションです。
テロリズムをうべなふらしき同僚に 吾は頑なに口噤みをり 寺島英亮
相沢中佐の言動を称ふる如き記事もありていづくにか世の思潮は動きつつあり 藤川正 (16)
これらの風説に、批判的な人々はもちろんいました。しかしそれに同調する空気もまた浸透していたことがわかります。しかしここで考えたいのは、如何なる理由があるにせよ、殺された重臣たちや護衛のために殉職した5人の警官の無念さ(17)は誰が贖うのでしょうか。この事件はやはり、
 天皇の名で行えば殺人も許されると過信した青年将校たちの思想と行動に、戦前の天皇性教育のこわさと職業軍人にありがちな社会常識の欠如 (18)
をみるべきでしょう。しかしその「欠如」は、急速に国民全体をも巻き込んでいきました。しかし今日まだ、先述した様に称える傾向があります。作家の松本清張は、厖大な資料を元に、2,26事件に関する大著を発表したことで知られていますが、彼もまた警告を発しています。
  「お国のため」に行動したという「愛国精神から」決行将校らを感傷的に美化し、英雄化した傾向がある。これは非常に危険である。そして兵は彼らの「兵器」として使用された。…(19)
彼らを監視すべきジャーナリズムももはや死に体でした。それどころか、統制される言論を逆手にとっての売らんかな主義も加わって、ついには戦争の煽動者にまで堕ちていきました。
新聞はこういう法律(「不穏文書臨時取締法」という名の、新たな言論取締法…桂木注)が出されたことについても、広津和郎いうところの「八百長的な笑い」で「エヘラエヘラ」しているだけで、ほとんど反応を示さなかった。おそらくは、あきらめ半分、傍観者意識半分で、事態の赴くところを眺めていた (20)

2,26事件研究
2,26事件に関しては、先述した様に作家の松本清張が実に大きな仕事をしています。特に感心させられるのは、その資料収集力と解読力です。それらは既に、全三巻に及ぶ資料集として刊行されていますが、首謀者の一人とされた磯部浅一の調書や黒幕ではと見られていた真崎甚三郎の調書など軍法会議関係、戒厳司令部関係、事件前から取り締まりに当たっていた憲兵隊関係資料、一般市民の声等々、網羅しています。それらをきちんと読み込んだ上で、一連の著作を発表しています。
歴史家以外でもう一人大きな仕事をしたのが、澤地久枝です。彼女は、事件当時軍法会議の主席検察官であった匂坂春平の保管していた裁判関係書類を精緻に読み込んで『雪はよごれていた』(1978年日本放送出版協会)を著します。この資料は、1987年に遺族の手によって始めて公開されたもので、真崎甚三郎や香椎浩平のさらに詳しい調書がその命脈です。彼女はそれをもとに、「軍上層部の陰謀」を確信しています。その仕事ぶりには圧倒されますが、正直気になる記述もあります。それは、叛乱将校たちへの思い入れです。
 匂坂資料は、軍人たちの鉄の意志の前に、法の正義が敗れ去った敗北の記録である。そして、二,二六事件をの真相を闇に塗り込め、血の成果を勝ち取った軍人たちは、戦争の厄災の使徒となった。…
二,二六事件を起こし、自決もしくは処刑によって死んだ男たちは、彼らを待ちかまえていた陸軍の汚れの深さを知らない。(21)
 感傷的すぎるといえば言い過ぎでしょうか。しかし2,26事件を見るとき、以下の指摘も心しておきたいのです。
 二,二六事件は、たとえ成功しても、戦争準備を進めこそすれ、戦争そのものを押しとどめようとはしなかったろう。もし決起将校たちが無罪となっていたら、一般国民にとって事態はさらに暗澹たるもの
になっていただろう。判官びいきで青年将校たちの心情に安易に共鳴したとき、歴史は虚像となる。(22)
今日の一大不況に際し、自治体や政府は様々な施策を打ち出そうとしています。(安易な選挙目当てのばらまきは論外です。)しかし、その一方で「防衛費」と糊塗されている厖大な軍事費や米軍への「思いやり予算」等の経費は全く手つかずです。
2,26事件を起こした将校たちもまた、農村の窮乏を救うことを頻りに口にしていましたが、昭和維新などを放言しつつ、その実国家予算を圧迫し続けていた厖大な軍事費には気にも止めませんでした。麻布にあったフランス料理レストラン「土竜」(経営者は豪華な料理は食べなかったと証言しているが)でしょっちゅう会合を持ち、陸軍将校以上しか入れないクラブ(偕行社)に出入りしていた彼らの日常からは、農村の窮乏を救うため、という大義名分はかすんできます。

(1)  湯布院温泉にある香椎荘の案内より
(2)  『日本歴史大事典』小学館より、一部修正
(3)  『昭和万葉集』第三巻 p61講談社
(4)  永井荷風『断腸亭日乗 上』p347 岩波文庫
(5)  木戸幸一『木戸幸一日記 上巻』p163〜p164 東京大学出版会
(6)  『決定版昭和史 7』 p61〜p62 毎日新聞社
(7)  本庄繁『本庄日記』 p272〜p273 原書房
(8)  同上
(9)  前掲『木戸幸一日記』
(10)前掲『本庄日記』
(11)前掲『木戸幸一日記』
(12)前掲『日本歴史大事典』
(13)国体に対する決議
       暴に政府は国体の本義に間し所信を披涯し以って国民の響ふ所を明にしいよいよその精華を発揚せんことを期したり。抑々我が国体における統治権の主体が天皇にましますことは我が国体の本義にして帝国臣民の絶対不動の信念なり。帝国憲法の上諭並条章の精神亦姦に存するものと拝察す。しかるに漫りに外国の事例学説を援いて我が国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまずして国家なりとし、天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず。…–  「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日 (第2次国体明徴声明)
(14)昭和恐慌期の教員組合活動、教育活動に対する弾圧事件。…1933年の長野県教員弾圧事件は、特に大規模で、「信州教育」を汚した「赤化教員」の不祥事件として全国に喧伝された。(『国史大辞典』より抜粋)
(15)宮山量平『昭和時代落ち穂拾い』 週間上田新聞社 
(16)前掲 『昭和万葉集』
(17)黒羽清隆『日米開戦・破局への道』(明石書店)は、前内大臣牧野伸顕(大久保利通の次男、麻生総理大臣の曾祖父)が、2,26事件で湯河原伊藤屋旅館で襲われた際の様子を、警備の警察官にも焦点を当てています。因みに殉職した彼のお陰で、牧野は助かっています。
     また、二,二六事件では計五名の警察官が襲われて殉職していますが、全国から一月で22万円もの義捐金が集まったといいます。(前掲 『昭和万葉集』)
(18)小田部雄次「2,26事件 首謀者は誰か」p94〜95『日本近代史の虚像と実像3』(大月書店)所収
(19)松本清張『二,二六事件 第一巻』p2文藝春秋
(20)山中恒 新聞は戦争を賛美せよ』 p156 小学館
(21)澤地久枝『雪はよごれていた』p244〜245 日本放送出版協会
(22)前掲 「2,26事件 首謀者は誰か」


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