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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第十六号 1948年12月23日午前0時1分A級戦争犯罪人7名絞首刑執行

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皆様、あけましておめでとうございます。(今ごろ!)
年末に原稿は届いていたのに、忙しくてアップが今日になってしまいました。
本年も斬新なかっちゃんの歴史のお話、お楽しみに!!
 

少し旧聞に属しますが、あの、元空幕僚長田母神氏による「論文」が、実はコンクール主宰者との親密な関係ゆえに最優秀賞を受賞したとの疑いが濃厚のようです。ご案内の通り、「論文」の内容は、簡単に言えば、「日本は侵略戦争をしたのではなく、引きずり込まれただけ」といった内容です。
ここでは、「論文」に逐次反論しませんが、またぞろといった感がぬぐえません。この手の論は、しばしば自民党の極右的な政治家や御用学者たちから繰り返されてきたからです。例えば、1987年当時、竹下内閣の国土庁長官であった奥野誠亮氏は、「当時の日本に侵略の意図はなかった」と発言し、免職されられています。ぶざまな辞め方をした安倍晋三総理大臣も、同様の歴史観をしばしば披瀝していましたし、今回の田母神「論文」の賛同者には、森喜朗元総理大臣も名を連ねているようです。
そうした見方に共通するのは、夥しい数にのぼる彼我の、無辜の人々の命や財産を奪ったことに対しての無反省ぶりです。とりわけ理不尽な暴力で侵略された側の被害は深刻です。中国でもいい、韓国でも北朝鮮でもいい、彼らは現地で、とりわけ戦争を体験している世代の人々の前で、同じことを、国内と同様に主張できるでしょうか。批判されない安全な場所にいての「論文」であり、発言であることは明らかです。
勿論、個々の歴史観はさまざまあるでしょう。しかし、日本国憲法は99条で、「皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と、権力を握るものを縛っています。上記の発言は、まずその観点からも批判されなければならないと思うのです。しかし実際には尊重するどころか、偏狭な民族主義で憲法を貶めしている彼らをして、その点からはマスコミは批判しないという現状が、実は日本の民主主義の到達度を示している様な気がしてなりません。
そうした憲法観を有する為政者達ですので、憲法の他の内容、たとえば人権についても無関心であり、そのことが現在日本の「健康で文化的な最低限度」が維持されていない人々の増加を生み出しているとも言えます。また、北朝鮮による拉致問題や国内での圧政、中国国内のチベットをはじめとする少数民族に対する明らかな人権侵害に対しても、ためにする攻撃はしても人権抑圧の点からは冷淡です。
さて、彼らの侵略の否定と日本軍の行った戦争の肯定は、そのまま極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する憎悪と否定に繋がります。なぜならこの裁判こそが、「連合国軍が日本の指導者を戦争犯罪につき審理した国際軍事裁判」?であったからです。
ということで、

1948年12月23日午前0時1分
A級戦争犯罪人7名絞首刑執行  翌1948年12月24日
A級戦争犯罪人容疑者18人釈放
が、今号のテーマです。今から60年ほど前、敗戦の痛手が未だ残っており、多くの人々がどうやって新年を迎えようかと、足りない物資に頭を悩ませながら忙しい師走を走り回っていたであろう頃のことです。
裁判の概要については、多くの解説書や論文が存在しますが、ここではすぐれた近現代史家である藤原彰氏の概説に依ります。
連合国軍はすでに戦争中から、ファシズムの再侵略を防ぐために戦争犯罪を処罰する方針を明らかにし、1945年8月のロンドン協定では、通常の戦争犯罪の他に、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」も国際法上の犯罪とすると決めていた。…そして戦犯を、侵略戦争の計画・開始・遂行を行った「要犯罪人」をA級戦犯、従来の戦時国際法に規定された通例の犯罪人をB級戦犯、あらたに規定した殺害・虐待などの非人道的行為をおかしたC級戦犯に区分した。
ドイツに対しては45年11月20日、ゲーリング、ヘスらを被告としてニュールンベルグ国際軍事裁判が開廷され、46年10月10日に絞首刑を含む判決が言い渡された。
日本では45年後半に、100名を超えるA級戦犯容疑者が逮捕された。そのさいの最大の問題は、天皇を戦犯として訴追するかどうかであった。…しかしアメリカ政府はやマッカーサーは、45年末までに日本の占領統治に天皇を利用すべきとの判断を固めた。…
マッカーサーは、46年1月19日に極東軍事裁判の設置を命令し、アメリカのキーナンを主席検察官に任命して被告の選定にあたらせた。…
5月30日に第一次分として東条英機ら28名を被告とする裁判が開廷した。アメリカ人と日本人からなる弁護団は、事後法に基づく裁判は罪刑定主義に反するとしと主張したが、認められなかった。
裁判では、張作霖爆殺事件・三月事件・満州事変と時代を追って日本の侵略戦争の過程が次々と暴露された。…
この裁判では天皇を免罪にしたため、法廷に立ったひとにぎりの被告たちだけの罪を問題にし、天皇につながる多くの政治家や官僚の罪を問わなかった。すなわち国家機構としての組織的な戦争責任を問わなかったのである。そのことは後に多くの問題を残したと言える。
また日本軍の化学兵器や生物兵器の多くの情報をアメリカに渡すことと引き替えに、七三一部隊の石井四郎中将の責任をはじめ、…イギリスやアメリカの捕虜虐待問題は大きく取り上げられたが、最大の被害を与えた中国を初めとするアジア諸国に対する日本の加害の事実は、十分に明らかにされなかった。
だが、さまざまな問題を含んでいるにせよ、侵略戦争それ自体を悪とし、平和に対する罪を問題にしたことは、人類の歴史の上で大きな意味を持つ裁判であった。 ?

上の写真は、東京市ヶ谷旧陸軍士官学校大講堂での東京裁判の様子
『写真秘録 東京裁判』講談社
なお、同講堂のあった建物のバルコニーは、三島由紀夫がクーデターを呼びかけた場所として名高い。残念ながら今は取り壊され、一部が復元されている。




つまり、裁判の公平性よりも、時にはアメリカの思惑が最優先されたという大きな限界を持ちながらも、戦争自体が悪であり、「聖戦」とされた戦争の実態は侵略に他ならず、その中でさまざまな日本軍による非人道的な行為が明らかにされたという点で大きな意義を持つものと評価できるということでしょう。
作家の井上ひさしも、東京裁判を真正面から見据えている一人です。彼は東京裁判を
「アメリカと日本のお偉方による大合作、日本のお国柄とフツーの人たち、そしてテンノーヘーカを守るために、戦前戦中の全ての悪事を太郎狸ならに東條大将と陸軍にそっくりかぶってもらおうという、豪華絢爛たる歴史的大事業。」と位置づけます。その一方で、
「東京裁判にはいいところもあるんじゃないでしょうか。検察側は被告たちの罪を暴こうとして戦前戦中の国家機密をごっそり法廷へ持ち出す。弁護側にしても同じ事です。弁護のために国家機密を洗いざらい天下に公表せざるを得ない。…これはすごいことです。ものを考えるときの基本資料を後生の日本人にのこすわけですからね。私達の手でそれができればもっとよかったが、今はゼイタクをいっているときではない。同時に、いま、親方のがんばりによって、東京裁判の暗い面も明らかになろうとしています。」
と、積極的に評価すべき点にも言及します。さらに、もう一つ、庶民の戦争責任にも触れています。
「踊らされたといっている人に限って、自分が他の誰かを踊らせていたことに気がつかない。わたしたちは、みんなで「大東亜共栄圏」だの「テンノーは生き神様」だのという笛を吹きながら、みんなで踊りを踊っていたんですよ。フツー人の責任はそこにある…。」?
さて、この裁判を否定する人達の主な論拠は、戦勝国が敗戦国を、事後法を適用して裁くことは、妥当な裁判ではない、ということです。この点についてのみ見れば、批判は当たっているとも言えます。しかし、だからといって現に筆舌に尽くし難い戦争を起こし、その積極的遂行に関わっていた人々の責任は逃れることはできないということを指摘しておきたいと思います。戦争は自然災害ではありません。
また、「ドイツと違って、侵略戦争を企てようとした共同謀議の具体的証拠がないではないか」という点も当時から戦犯無罪論を主張する人々によって主張されてきました。しかし、そうした具体的証拠があろうと無かろうと、
大東亜共栄圏を確立し八紘一宇の新秩序を建設し、皇道を世界に宣布することは疑いもなく彼ら共通の願望であった。 ?
という点も見逃してはいけないと思うのです。例えば終審禁固の有罪判決をうけた賀屋興宣など、
昨日は大東亜戦争記念日(大詔奉戴日)だった。ラジオは朝の賀屋興宣大蔵大臣の放送に始めて、まるで感情的叫喚であった。夕方僕は聞かなかったが、米硬派鬼畜で英国は悪魔でといった放送で、家人でさえもラジオを切ったそうだ。かく感情に訴えなければ戦争は完遂できぬか。?
とあきれられるくらいに戦争煽っていました。
当然、大元帥として明治憲法上最高の戦争指導者が何らの責任を問われなかった事への不合理さも残ります。少なくとも、退位という選択をおしておれば、戦争責任の問題が少しはましな展開を見せたと思うのです。それがなかったために、あろうことか賀屋興宣は、釈放された後CIAの協力者としての「功績」が認められ、戦後も右翼政治家の総帥として大きな発言権を保持していました。
処刑されたA級戦犯も、やがて1978年「復活」します。靖国神社の社務所は、公式見解としてA級戦犯といえども、「国家のために尊い生命を捧げられた神霊」として位置づけ、合祀したのです。しかしここには、重大な問題があります。靖国神社には遊就館という謂わば戦争博物館的な施設がありますが、この施設に代表される様に、アジアへの侵略戦争など日本軍の行った戦争は全て正義であるとの立場で貫かれているということです。先の戦犯たちは受難者との捉えから「神」として祀られたのです。戦争を起こし、一切の批判を許さずに多くの国民を戦場に引きずり込み、アジア各地で命や財産、人生を奪ったという大きな責任があるはずにもかかわらず、です。
靖国神社はその一方で、侵略された側や無差別の空襲で犠牲になった人々には一顧だにしていません。(A級戦犯合祀については、昭和天皇さえも不愉快な思いをし、それが直接なきっかけで靖国神社に参拝しなくなったということが、当時宮内庁長官をしていた富田朝彦のメモで2006年に明らかにされています)
さて東京裁判について論ずるには、あまりに内容が複雑多岐に亘り、またA級戦犯の問題だけでなく、最近再び映画化された『私は貝になりたい』に代表されるB,C級戦犯への判決の正当性への疑問もあります。ここではとてもその全容は扱い切れません。
そこで今号では、上記の賀屋興宣のように、終身禁固に処せ乍らも後日釈放された人物や、7名への処刑が執行された翌24日の、A級戦犯容疑者(東京裁判の研究で高い評価を受けている粟屋憲太郎は、A’=Aダッシュ級容疑者として位置づけている。?)の釈放について、少し触れてみたいと思います。
彼らに共通するのは、アメリカの利害に迎合することと自分自身の保身、そして天皇の戦争責任を有耶無耶にする点で、見事にまで一致しているということです。まさに
「この拘置所という縮図を見つめていると、冷たい戦争に使えるA級戦犯が次々と釈放される政策が丸見えだった。」?わけです。
賀屋と同じに終身禁固になり、後釈放された人物に、木戸幸一がいます。東京裁判で証拠として出された木戸幸一日記で余りにも有名です。それによると、彼の東京裁判への「作戦」は、裁判の早い時点から決まっていた様に見受けられます。
昭和二十年十二月十日
…都留君より米国の考え方は、内大臣が罪を被れば陛下が無罪とならるるには非ず、内大臣が無罪なれば陛下も無罪、内大臣が有罪となれば陛下も有罪といふ考へ方なる故、充分弁護等につき、考ふるの要ある旨話あり。何か腹の決まりたる様な感を得たり。…?
天皇の戦争責任も、自らの責任も問われないという証拠固めとしての「日記」の提出だったのでしょうか。もっとも彼の死刑判決は僅差で否決されたのですが。
それにしても、戦後日本に大きな闇を落としたのは、A級及びA’=Aダッシュ級容疑者の、戦後社会への大手を振っての復活でしょう。彼らは、あたかも反社会的犯罪集団が前科を勲章として誇るかのように、東京裁判の被告になったことをちらつかせながら、戦後の保守政権を陰に陽に支える役割を果たしてきました。賀屋興宣の他、岸信介・児玉誉士夫・笹川一郎などそうそうたる人物が並んでいます。
「法務局の釈放理由は極めて曖昧であり、戦犯容疑者戦争責任を認めたうえでの罪の忘却、大赦を示すものでなく、むしろ免罪符を与えたものと同じだった。東京裁判の暗部にあった、これらA’級容疑者の釈放は、ロッキード事件を始め、ある部分で、その後の戦後政治史の暗流とつながることになった」?
という指摘は、戦後史もまた解き明かされるべき課題の底知れぬ多さを示しています。
とりわけ岸信介は、総理大臣にまで登り詰め、1960年の安保改正を強行し、その後のさらなる対米従属路線強化の基礎をつくりあげました。反対派を押さえ込むために、右翼や暴力団といった闇の勢力とも密接な関係を築き上げていました。悪質商法やカルト教団として名高い統一協会との癒着もありました。
文官でありながら1票差で処刑された広田弘毅とは対照的に、こうした人物が早々と釈放された背景には、
「戦争中同じ様な行為をしていても、だれが戦犯になり、だれがならないか、それはきわめて高度な政治的な問題になっていた」という事情があったからです。そして「そのことをいち早く見抜いていたのがA級戦犯容疑で収監されていた岸信介」?でした。
私たちの国は、こうした人物を選挙で当選させ、さらには総理大臣に就任させたわけです。
因みに孫にあたる元総理の安倍晋三は、尊敬するのは祖父と言い切っています。その祖父の、
「国民・大衆はあくまでも統治の対象としてしかとらえられないという意識構造にあらかじめなってしまっていたのである。その意識構造は、みずから民主政治を唱えるようになった戦後を含めて、終生変わることがなかった。」?という意識構造も、安倍晋三は尊敬しているのでしょうか。
さてご案内の通り、東京裁判に日本人が検察側に関わることはありませんでした。また、B,C級裁判ではかなり杜撰で、その正当性を疑う様な判決も出されています。長野県関係でいえば、平岡ダムに投入された連合国軍捕虜を死亡させたとして、10人(うち長野県出身者5人)が死刑を執行されています。この裁判では、証人の出廷もなく、曖昧な記憶のみで死刑を言い渡された被告もいました。?
このことは、批判されてしかるべきなのですが、一方で日本人の被害者意識を増幅させ、さらにはA級とされた人々の責任を問うこともなく、一部には裁判そのものを全て否定する動きまで生み出しました。
私桂木の地元傍陽で、戦後直後から真田町に合併する1958年(その真田町も上田市に合併されてしまい今はもう無い。嗚呼)まで出されていた公民官報『傍陽』には、
「戦犯減刑書名に村民の愛情集まる 青年団、婦人会の献身努力」の見出しが踊っています。記事は、
「巣鴨に、比島に、あるいは豪州にあって悶々の日々を送る同胞を救出すべく立ち上がった署名運動は
  村民の一大同情が集まってたちまち全署名簿が完了」?
 した旨伝えています。これに対し、戦犯県人会(こういうのもあったんですね)は、感謝の意を表明していますが、気になる部分が多々あります。
 まず裁判についてですが、
 「戦勝国が敗戦国に対して独断で一方的に行った裁判」とのみ位置づけています。
また戦争中の残虐行為についても、
「反乱分子討伐諜者の検挙処断等の策に出ざるを得なかったそして所謂戦場心理の常として時には誤った状況判断もあったでせう然るに当裁判は戦場という背景を無視して」ママ ?として、戦争だから仕方がないという自己弁護に終始しています。
 先述した井上ひさしいうところの「フツー人の責任」が、全く見えてきません。敗戦直後の東久邇宮稔彦
内閣は、一般民衆に至るまで全て責任(戦争を起こした事に対する責任ではなく敗戦に対する責任)がある
とする一億総懺悔を唱えましたが、ここでは一見全く逆ですが、戦争責任を頬被りさせようとする点では同
じです。「アメリカと日本のお偉方による大合作」は、庶民の戦争への反省の意識を曇らせ?、そのことが敗
戦から僅か5年して起こった朝鮮戦争をして、経済復興の好機としてしかとらえきれない日本人を生み出し
たのかも知れません。歌人の土岐善麿は、
 絞首台へ近づきしゆきし靴おとを平和への一歩一歩とすべし?
と歌いましたが、その靴音は、人々の耳にはなかなか届かなかったのです。
先述した粟屋憲太郎は、こうした東京裁判の評価すべき点と限界を、
「東京裁判の判決は、現実の国際情勢でほとんど崩壊していた連合国対枢軸国という第二次世界大戦中の対抗を確認、正当化するものとなった。しかしこの結束は、あくまでも「過去」についての合意にとどまっていたのであり、判決を「未来」への規範として生かす保障は未だ形成されていなかったのである。」?
として、論文の最後を締めくくっています。
  ?『日本歴史大事典』平凡社
 ?「民主化の嵐」藤原彰『大系日本の歴史15』小学館
 ?『夢の裂け目』井上ひさし 小学館
 ?「軍国支配者の精神形態」丸山真男『戦後日本思想体系1』所収 筑摩書房
 ?『暗黒日記』清沢洌 岩波文庫
 ?「訴追と免責」粟屋憲太郎 週間朝日百科『日本の歴史114』
?「BC級戦犯の手記 欄外コラム」小宮山量平『昭和時代落ち穂拾い』所収 週間上田新聞社
  このエッセイでは、A級戦犯釈放を批判する一方で、BC級戦犯の扱いについては、「勝者の勇み足ともいうべき不条理」として告発している。また彼らの手記を『壁あつき部屋』として本にまとめ、それを元に映画化するが、GHQの検閲により上映は禁止されたという。
?『木戸幸一日記 下巻』木戸幸一 東京大学出版会
 ?前掲 「訴追と免責」粟屋憲太郎
 ?、?ともに『安倍晋三の敬愛する祖父岸信介』宮崎学 同時代社
 ?『長野県民の戦後60年史』信濃史学会編
 ?、?とも、『傍陽』昭和27年7月10日付
 ?私の教わった黒羽清隆先生は、「歴史家として一番辛い仕事が庶民の戦争責任の解明である」「でも自分は歴史家の責任としてそれをやる」という旨のことを言われておりました。
 ?『昭和万葉集』巻八所収 講談社
 ?「占領・被占領」粟屋憲太郎 『岩波講座 日本通史 第19巻』所収

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