ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第十一号 2月11日「建国記念の日」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
皆様こんにちは!
管理人のoliveです。
寒い日が続きますね。このマガジンの執筆者であるかっちゃんは長野に住んでいますが、氷点下10度とか15度とか、信じられない気温のところで暮らしています。わたしはそこまで寒いときっと家にこもって冬眠状態になるんじゃないかと思います。寒いのきらいですから(笑)
 
さて、今回は「建国記念の日」についてです。
読み応えありますよー。じっくり読んでくださいね。(olive)
-------------------------------------------------------------------------


どこの学校でも、「年間行事予定表」が作成され、職員はもちろん各家庭に配布されます。先日何気なく見ていて気付いたのですが、今日2月11日が、「建国記念日」となっているのです。大きな間違いです。昨年までのものは果たしてどうだったのか、今年だけの表記なのか、他校のそれはどうなっているのか。今まで、気付かなかった自分を恥じました。
言うまでもなく、この祭日の正しい名称は「建国記念の日」。この「の」があるという意味は、歴史的に正しい記念日だという根拠がないため、とりあえず選んだということであり、その点でも憲法記念日などと大きく異なっているのですね。「国の誕生日」などと喧伝されることもあるようですが、後述する様に、とんでもない誤りです。
この「年間行事予定表」の表記は、単なるミスなのか、それとも意図的なものか。意図的とすると、誰が、どんな意図で、あるいはどこからの指示で行ったものなのか、気になるところ大です。今後明らかにしたいと思っています。この日が、扱いによっては憲法「改正」への地ならしとなる以上、看過できませんので。
ということで、2月11日「建国記念の日」について、少し考えてみたいと思います。もとより浅学非才な私よりも詳しい先輩方がおられることは承知の上、今しばらくおつき合いの程を。
言うまでもなく、この日は戦前までの紀元節を踏襲しています。紀元節といいますと、何か古い伝統のある様な響きがあるかも知れませんが、せいぜい130年少し前に定められたものです。
この問題を解くための重要なキーワードは、天皇支配の権威付と太陽暦の採用です。
武力を背景に徳川幕府を倒した薩長藩閥政権は、大義名分としてどうしても天皇を担ぐ必要がありました。しかし、京都に隠遁していた天皇ですので、庶民に取っての最高の支配者は徳川将軍家でした。政権を奪取した側からすれば、自らの支配安定のために、天皇を担いで忠誠を誓わせることは不可欠だったのです。そこで様々な施策が講じられますが、その一つが「万世一系」の天皇家の支配というフィクションの正当化でした。
一方、そうしたフィクションとは対極にあると思われる、相対的に最も科学的な暦である太陽暦を明治政府は導入します。世界の趨勢からそうせざるをえなかったわけです。しかし、当時庶民の間では、伊勢暦などの太陰暦を使用していましたので、太陽暦導入には多くの混乱や抵抗もありました。しかしこの話題はいつかまた。
ここではまず、非科学的なフィクションと合理的な太陽暦導入という大きな矛盾から紀元節が始まったということを指摘しておきたいと思います。
太陽暦導入を決めた1872年、神武天皇即位を紀元とするということも定められます。
今般太陽暦御頒行、神武天皇御即位ヲ以テ、紀元ト被定候ニ付、其旨ヲ被為告候為メ、来ル廿五日御祭典被執行候事。但当日服者参朝可憚事  壬申十一月十五日   東京日々新聞十一月十七日付
最初の紀元節は、1月29日だった
しかし問題は、いつのどの日を「神武天皇御即位」として定めるか、でした。もとより架空の人物の「御即位」ですので、決めようもないのですが。しかしそこは、天皇統治の正当化を図るという大命題があります。かなり無理をしてBC660年の正月朔日を割り出し、「御即位」の日が決められます。次にそれを太陽暦に換算するというこれまたでっち上げに屋上屋を重ねる作業します。こうして、神武天皇即位の日を紀元節とするのですが、当初は1月29日とされます。トップの画像、左図の通りです。(アジア歴史資料センター『詔勅録』巻の二内部下)
ところが、翌年からは2月11日に改められます。トップの画像、右図(同上)

文言は、ほぼ同じです。2月11日に変更されたわけは、資料で確認していませんので確実なことは言えませんが、1月29日は旧暦の正月に当たったため、庶民の間には紀元節の意味づけが薄れることを嫌ったからという推測もあります。また、この日は孝明天皇の命日でもあり、都合が悪かったとも言われています。
いずれにせよ、紀元前660年の正月を太陽暦に読み替えたといっても、この時代は暦もまだ存在せず、小国家の存在さえ確認されない縄文時代ですので、架空の話に過ぎません。
2月11日は、国家主義の産物
明治政府成立後しばらくは、庶民の間ではこの日が意識されることは余りなかったようです。しかしそれが大きくクローズアップされる様になったのは、1889年大日本憲法発布でした。プロイセンの皇帝権力の極めて強い憲法を手本にした欽定憲法は、発布の日をわざわざこの日にしたという点で、既に国家主義の根幹を為すものでした。(1)
この後も、2月11日は、天皇制国家にとって重要な日として位置づけられ(2)、国民教化に最大限利用されていきました。その「成果」は著しく、
「大正時代に生まれた私の両親の世代は、2月11日の紀元節に歌われた次の様な唱歌はそらでおぼえていた。」
「紀元節に限らず戦前の祝祭日は、おおかた皇居で重要な神事が行われる日だった。…子供たちは、教育勅語や修身化や歴史の授業を通して国体思想や天皇崇敬の教えに親しんでいった」(3)ほどでした。
こうして、ごく一部の醒めた人々(4)を除いては、2月11日は確実に国民をして、天皇制国家と自己
を結びつける祝日として定着していったと見て良いでしょう。
 所謂「逆コース」と紀元節復活
アジアへの侵略戦争を正当化する方便として、大きな役割を果たした紀元節でしたので、戦後民主化の動きの中では、当然のことですが、国家神道と深く結びついた紀元節はじめ一連の祝祭日は否定されていきます。しかし、所謂逆コースを推進する政治勢力は、紀元節の復活を戦後の早い時期から模索しはじめます。
イギリス寄りで陸軍との関係が悪かったことから、戦後民主主義に貢献したと一部では見られていた吉田茂もその一人です。彼は一方で熱狂的と言ってもいいほどの天皇崇拝主義者でした。それ故、吉田もまた紀元節の復活論者でした。その後、神社本庁や右翼団体などの後押しで、妖怪といわれた岸信介などの名うての反民主主義政権が幾度と無く紀元節の復活を画策しましたが、戦後民主主義の潮流はそれを許しませんでした。
紀元節が「建国記念の日」と名を変えて復活したのは、1966年、佐藤栄作内閣の時でした。彼らにしてみれば、長年の願いが叶ったということでしょうか。しかしこの時中学1年だった私の記憶では、そうした背景を知るはずもなく、ただ単純に休みが増えるという1点のみで喜んでいたことを憶えています。あくまでも推測ですが、当時一般国民の間にあっても、高度経済成長を謳歌するために懸命に働いており、休みが増えることの有り難さにかき消され、こうした意図はあまり浸透しなかった様に思われます。。
今後の課題
今年も各地で、この日の「奉祝」と反対の集会が開かれるでしょう。インターネットで検索する限り、圧倒的に「奉祝」のホームページにヒットします。気を付けたいのは、「奉祝」する人々や政治勢力の多くは、その狙いを、単に「紀元節奉祝」だけでなく、その先に憲法「改正」やそれに基づく軍備までをも視野に入れていることです。彼らは戦前の天皇制国家を高く評価するあまり、そして戦後の占領期を否定したいがため、憲法と旧(としなければならないのが辛い)教育基本法を敵視し、「改正」への動きを強めていましたが、現にその一つは、達成されてしまっています。
学校現場ではどうか。一部の私立学校を除いては、今のところあまり露骨な動きはないようです。しかし楽観は許されません。現実的に見た場合、今後学校現場に加えられると考えられる攻撃は、「道徳教育」の強化です。そこで大切にすべき徳目の一つとして、「愛国心」や「宗教心」、「家族の一体感」などの涵養が指示される可能性が高いのですが、その教材として建国神話や建国記念の日(5)が、まことしやかに扱われるやもしれません。
「ファシズムは笑顔でやってくる」を想起します。
(1) 現代社会、日本史、中学社会の多くの教科書では、大日本国憲法と日本国憲法の対照表を載せ、生徒が比較してそれぞれの本質を理解できる様にしています。念のため、扶桑社版の中学社会(所謂作る会の教科書)を見てみました。まず、日本国憲法との対照表はありません。本文では、
      …これによって日本は、本格的な立憲政治は欧米以外には無理であると言われていた時代に、アジアで最初の議会を持つ立憲国家として出発した。
      と評価しています。またコラムのタイトルは、『憲法を賞賛した内外の声』です。
(2) 歴史教育者協議会編『日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』では、この他に2月11日を意識して定められた施策として、金鵄勲章の制定、日清戦争前夜の軍艦建造費を認めさせるための詔勅、日露戦争開戦、シンガポールの陥落(実際には遅れた)等を上げています。
(3) 2008年2月11日付朝日新聞『この人、この話題』で、「国家神道」と題して、宗教学者の島薗進が国家神道の強化に危惧を示しています。
(4) 永井荷風『断腸亭日常』 昭和15年2月11日
日曜日 晴。きのふに比すれば風やや暖なり。祭日市中の雑踏をおそれて終日家にあり。…
ここでいう、「祭日市中の雑踏」が紀元節の祭日を指すことは明らかでしょう。
(5)「奉祝」する右翼団体の中には、「建国記念の日」という名称も変更すべきという主張をしているものもあります。彼らには、「紀元節」でなければならないのですね。また、和年号と皇紀のみが使われているのも特徴です。
最近のお薦め本
さて、今号を書くに当たって大いに学ばされたのが
『昭和天皇』原武史 岩波新書
です。昭和天皇については、これまでも歴史学の立場からの好著がありました。特にここ数年は、『大元帥・昭和天皇』(山田朗・村日本出版社)に代表される様に、侵略戦争への天皇の関わりを実証的につまびらかにし、その責任を明らかにするという労作が刊行されています。ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて上下巻』(岩波書店)も、
裕仁はしたたかで、適応力のある人物であり、天の助け、もっと具体的言えばマッカーサーの助けによって生き残り、満ち足りた人生を送った。…アメリカは、天皇の承認の下に、天皇の名において行われた抑圧と暴力に対して、道義的責任すら認めない様天皇に説得した。
 …天皇の魔法の様な変身は、政治的にも思想的に深い影響を与えた。何が正義かは権力によって恣意的に決められるものとなり、戦争責任の本格的追及は矛先をそらされてしまった。
…新しい象徴天皇は、19世紀から20世紀初めの発明品である「大和民族」なる自己意識を、ひきつづき象徴するものとなった。
と、天皇制に関しての戦後日本社会の大きな限界性を鋭く指摘しています。またダワーは、渡辺清の『砕かれた神』(岩波書店)を紹介しながら
  もし国民全体が天皇にしたがうならば、国民は最終的にはたった一つの指導準則だけを持つことになってしまうだろう。つまり、「天皇さえも責任を取らずに済ませてしまったのだから。私たちが何をしようと責任を取る必要はない」ということである。 前掲ジョン・ダワー 下
 と、痛烈に批判しています。
 では、なぜ天皇はそうした行為に一見無頓着に、そして「あっそう」に象徴される様なこれまた鷹揚に見
える言動を示せたのか、彼の実像は果たしてどうだったのか。自らの支配下にあった時代から象徴の時代、
そして今日に続く社会に、昭和天皇はどんな歴史的役割を果たしたのかを、宮中祭祀を基軸に迫ろうとした
のが本書です。
とはいえ、「お濠の内側」のこと、ごく僅かの関係者を除き垣間見ることすらできない世界を、しかも極めて限られた資料しかない中で、よくぞそこまで迫れたなというのが実感です。
日中戦争開始後から、天皇はとにかく熱心に祭祀に拘ります。先祖の御霊に対しての戦争の必勝祈願と「御加護」のためです。しかしこの願いも虚しく、この祈りは叶えられることはありませんでした。沖縄戦や都市への空襲で多くの犠牲者が出ても、戦勝を祈り続けます。しかしついに敗戦を決意せざるをえないところまで追いつめられます。
 「戦争続ければ、三種の神器を守ることもできず、国民をも殺さなければならなくなったので、涙をのんで 国民の種を残すべくつとめたのである。」と説明している。
  「三種の神器」が一、国民が二という順序は変わっていない。
原のこの順序の指摘は極めて重要です。「聖断」の評価や、まだ明らかにされていないマッカーサーとの
会見で「私の命よりも国民を救って欲しい」と言ったとされるまことしやかな伝聞の虚構性を暴くに十分だからです。
天皇は戦争への責任を痛感しますが、それは国民に対してではありません。「平和の神である天照大神に戦
争勝利を祈った事の誤り」への責任です。戦後初の新嘗祭前日の天皇の言動からも、取るべき責任の相手は、第一に「神」であり、第二第三にやっと国民が登場する天皇の意識を炙り出しています。
 先述した様に、マッカーサーの意向と天皇の意志は見事に合致し、互いの利害関係を補完します。しかしそれだけが、天皇をして責任を何ら取ることなく存続する事を許したのではありません。
  昭和天皇は日本国憲法の公布に際しても、まず皇祖皇宗にそれを報告する御告文を読み上げた。新憲法の精神と矛盾しているのはいうまでもなかった。そして午後からは、宮城前広場で東京都が主催する「日本国憲法公布祈念都民祝賀会」に臨んだ。…戦前に同じ広場で行われた親閲式や記念式典との連続性を濃厚にうかがわせる光景であった。広場に集まった十万人の人々は天皇を取り囲んで君が代を斉唱し、万歳を叫んだ。
 ここで万歳を叫んだ人々の多くは、天皇の名ではじめられた戦争で、天皇の名で招集され、不条理に命を
奪い合うことを強要され、幸いに生き残ることができても、その日暮らしがやっとという状態に置かれたで
あろう事を思う時、敗戦のもたらしたはずの価値観の変遷は、皮相なものもかなりあったと言わざるを得ま
せん。

先日のニュースは、あの「赤福」復活を伝えていました。しかし私が驚いたのは、開店に大勢の人々が並び、早々に売り切れたという現実です。賞味期限の誤魔化しは、農薬ギョーザに比すれば大したことではないのかも知れません。しかし、それなりの力のあると多くの人々が認めている企業には、こうも簡単に免罪符を与えてしまっていいものなのでしょうか。
伊勢神宮のお膝元で、江戸時代からの善男善女の伊勢信仰で財をなした企業もまた、皇祖皇宗への責任が第一なのでしょうか。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

おもしろ歴史館-新裏太郎山通信 更新情報

おもしろ歴史館-新裏太郎山通信のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング