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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第九号 『滝山コミューン1974』

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それにしても、一政党の党首選びにしてはメディアの過熱ぶりは異常でした。確かに現在の国会の勢力では、自民党総裁が総理大臣に選出されることは間違いないにしても、です。選挙ですから、両候補ともプラスイメージの醸成に必死です。それをそのままほぼ垂れ流し的に報道するということは、結果的に政権与党である自民党のイメージアップに無批判に力を貸すことにつながります。
 その過熱報道の反面、逆にメディアがほとんど追求しなかったと思われる点を、二つあげておきたいと思います。
一つは、安倍辞任とその後の「おわび」記者会見で、一部の同情さえ買い、曖昧にされている感がありますが、安倍前総理大臣は、際だった確信犯の憲法違反の総理大臣だったという点です。ご案内の通り、日本国憲法はその99条で
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」
と定めています。近代的な立憲国家では、憲法は権力の暴走を防ぐ意味で、主権者たる国民が政治家(政治屋といった方が実像に近い人も少なくない)を規制するという根本的な性格を持っており、その視点からの条文です。彼は事あるごとに、憲法を否定し、改憲を口にしていましたから、明確な99条違反だったわけですが、メディアはこの点の追求が極めて希薄でした。教育基本法やそれに付随する学校教育法などの「改正」も、すべて改憲への地均しだったわけですが、その点に着いての批判も、ほとんどありませんでした。改憲の先にあるのは、米軍の下で戦争する日本の姿であるということが分かっていながら。
確かに安倍前総理の突然の辞任には、多くの批判が集まりましたが、批判すべきは、投げ出したことよりも、彼の本性とでもいうべき、上記の戦争できる国づくりに向けての一連の策動に対して、だったはずです。       
「おわび」記者会見以降、急速に過去の人となりつつあることもあって、「かわいそう」「再起をきして」
という論調が目につきます。しかし、魯迅の言うとおり、水に落ちた犬は撃たれなければなりません。
もう一点は、二人とも世襲政治家、ということです。現代的な感覚で日本語を定義ですることで知られている『新明解国語辞典』で、世襲を引いてみますと、
世襲…その家に属する財産・格式・職掌などを祖父・父から子や孫へと受け継ぐこと
とあります。まさに彼らの実態そのままです。
政治家の世襲が何故問題なのか。彼らは財産や地位だけでなく、この国に生きる人々の生殺与奪の権力さえも時には発揮できる立場すら世襲しているからです。恐いことに、そうした立場にあることへの謙虚さも自覚も、全く見えません。この一点だけでも、ご遠慮願いたいところです。
さて福田政権は、教育に対してはどの様なスタンスを取るのでしょうか。平和と民主主義を標榜していた旧(と書かざるを得ないのが辛い)教育基本法を、教育勅語に近づけた安倍政権のアナクロニズムほど露骨ではないにしろ、「教育再生」に名を借りた国家統制を推し進めるのではないかという危惧はぬぐえません。少なくとも、彼は小泉内閣の官房長官という過去をもつ改憲論者です。安倍や麻生に比べるかぎりはソフトに見えますが、だからといって「ハト派」でもないでしょう。幻想は厳に慎みたいと思います。
教育基本法はじめ関連法は改悪されましたが、現場へのいっそうの圧力とそれへの抵抗運動の正念場は、むしろ今後だと思われます。道徳の教科化は見送られましたが、特設道徳がきちんと実施されているかどうかのチエックなど、早くも現場では話題に上り始めています。安倍政権を退陣させた要因の一つに、拙速な国家主義的「教育再生」への批判もあったわけですが、その批判を強めていくことが、福田政権の教育政策から「安倍色」を薄めていく大きな力でしょう。
しかしここで気をつけたいことがあります。それは、右翼的な、上からの価値観の押しつけも排除すべきであると同時に、それに一見相反すると思われる価値観であっても、そこに強制的なものがあるとすれば、それもまた同列に否定さるべきものだということです。
戦前から、日本の左翼運動は、旧ソ連を「お手本」として進められ、そこに幻想や希望的観測などもあいまって、社会主義国の言論抑圧などマイナスの部分に対しては、きちんとした批判をなしえないできたという歴史があります。
どんな思想でも、それをそのまま受け入れればドグマに陥る危険性をはらんでいます。全ての思想は歴史的制約を受けているという厳然たる事実もあります。とりわけ、教育の世界に特定の価値観を持ち込むことの恐さは、戦前戦中の反面教師として、生かされなければならなかったのですが。
憲法や教育基本法の背景にあったのは、価値観の多様さを認めることこそが真に民主的集団(子どもであったとしても)を育てるという、焼け跡からの教訓だったはずです。
と、改めて思い至ったのは

『滝山コミューン1974』 原武史 2007 講談社

を読んだからです。ということで、今号は、久し振りに書評です。
集団的盛り上がりのもつ恐さは、たとえそれが「正義」に基づくものと認識されていたとしても、そこに力関係が内在する集団であれば、ましてや圧倒的に違う間でなされるならば、その「正義」に違和感を持つ者には、無理な同化が強いられ、従わなければ排除されることになり、それが大きな傷となって残る、ということを著者自らの小学生時代の体験で立証しているのが本書です。
 聞き慣れない書名ですが、著者はこう説明します。
東京都下、東久留米市の滝山団地および東久留米市立第七小学校を舞台に1972年度から1974年度にかけて実践された
  国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確立を目指したその地域共同体を、いささかの思い入れをこめて「滝山コミューン」とよぶ(前掲『滝山コミューン1974』、以下引用は、特にことわらない限り同書より)教育のことです。
この定義づけからは、何ら問題は見えてきません。しかし、目標や目的がどんなに美しく理想的なものであったとしても、そこに至る手段を全て正当化したり、自己目的化する事は出来ません。
さて著者の通う小学校では、先述した「児童を主権者とする民主的な学園の確立」を、全生研(1)という教育サークルが呈示していた集団主義教育こそが唯一正しいものとして認識され、力を持っていきました。その結果、著者をして
 私の人生に消しがたいトラウマを残した
 私にとって、「滝山コミューン」の記憶は、暗く苦いものとして、にもかかわらず奇妙なつかしさ伴わずにいられない
ものとして刻印されていきました。
全生研の主張する集団主義教育は、戦後民主主義を体現するものと考えられていましたから、当時は、その負の部分については、認識されてはいませんでした。しかし著者は、そこに上手く同化することが出来なかったため、小学生としてはかなりしんどい体験したことを赤裸々に綴ります。その典型的な一つが、「追求」です。「追求」は、全生研に所属する教師の指導を受けて力をつけてきた児童会によって引き起こされます。
 …秋季大運動会の企画立案を批判するなど、「民主的集団」を攪乱してきた私の罪状を次々と読み上げた。
 その上で、この場できちんと自己批判をするべきであると、例のよく通る声で主張した。…全共闘の学生が大衆団交やつるし上げを通して、大学のトップや教授に自己批判を強要する「追及集会」がしばしば行われたが、驚くべきことに、全生研でもこのような行為を「追及」ではなく「追求」とよび、積極的に認めていた。…七小は、それを教師でなく、児童自身が実施した珍しい事例に属していた。児童が児童に自己批判を迫ったという点で、それは追求集会よりもむしろ、連合赤軍などの「総括」に似ていた…私は自己批判を拒否した。…逃げ出した私を、朝倉ら数人が追いかけてきた。…(集団主義教育に批判的な立場の)千葉先生に助けを求めた。…千葉は一喝し、追い払った。…どれほど心強かったかわからない。…「追求」を迫られたのは一度きりで、その後は朝倉が私に何か言ってくることもなかったものの、校庭で4年の学級委員から石を投げられたときにはさすがに愕然とした。( )内は、桂木
小学生とはいえ、おそらく彼らには、「正義」の行動であり、そうした児童を育てた全生研の教師達も、ほぼ同じ価値観を共有していたと思われます。「民主的な」集団行動を乱す者は、厳しく批判されなければならないという。
ここで想起するのは、学生運動の幹部であった川上徹の例です。彼は、長年学生運動に携わりながら、「分派活動」の疑いによって所属する政党(日本共産党)から査問を受けた経験から、「運動に潜む病理」を語ります。
 私たちをふくめてそれらの集団はいずれも未来との同盟を結んでいた。…いずれにしても、それぞれの組織への忠誠者たちが、どれだけ自分達の未来図に確信を持てるか、それが運動に迫力を添えた。未来は信仰に近い形を取っていた。未来図を下敷きに運動を進める者は、それに合わせて現実を見ようとする危険性を常に持っている。(川上徹『査問』1997筑摩書房)
小学6年生になった著者は、私立中学を受験し、第二希望ながら難関といわれた慶應義塾普通部に合格します。受験の動機は、以下の様に説明されます。
 代表児童委員会から「追求」を受けて以来、七小の児童の大多数が進学する地元の公立中学校に進んだら大変なことになるという思いが自分の中で強まっていた。早くここから逃れて自由になりたいという気持と、私立中学へのあこがれが重なっていたとも言える。
1974年、全生研に所属する教師の指導するクラスの生徒が、児童会役員をほぼ独占し、
 6年5組の絶対的支配が確立した。独裁体制の確立といってもいよい。…5組の独裁体制となった七四年度後期の七小は、行事過多となっていく。…授業よりも行事優先と言う風潮が、七小全体に蔓延して
大きな影響力を発揮します。しかし、盤石かの様に見えたこの体制も、著者の卒業と期を同じくして、徐々
に崩壊していきます。著者はその理由を、集団主義教育を支える核になるクラスがついに出現しなかったが故と説明します。その一方で、全生研の主張していた、班競争で厳しく相互に競わせたり、先述の追求を大きな柱としたりする教育も、「イジメの材料になる現実がある」ということで、内部から否定されていきます。
余談です。著者によりますと、全生研とは違う組織ですが、その頃の七小では、当時大きな教育運動となっていた算数の水道方式(2)も積極的に取り入れられていたそうです。著者は「今日は死語となった」という表現をしていますが、それには疑問があります。確かに、もともと文部省の数学教育に対する疑問から出発しただけに、その力関係が大きく逆転した今日、影響力は小さくなっていると思いますが、数学教育協議会という民間教育団体や全国に350の教室を持つ数学教育研究会では、水道方式を軸に実践を積み重ねているようです。
さて本書は、自らの「トラウマ」となった体験が大きな要素を占めています。数十年後に小学生時代をふ
り返って記したわけですから、記憶違いや勘違いなどの制約もあるでしょう。また、当時の児童や教師達からみれば、反論したいこともあるでしょう。しかしそれらを差し引いても、大きく評価したいのです。
私憤に基づいてかかれていないと言うことはもちろんそうなのですが、それ以上に一小学校を舞台に展開された教育実践とそれを受けた児童の体験を通して、単に教育や学校の問題に限らず、戦後の日本社会のもつ課題が炙り出されてくるからです。それは、
 当時の七小が、文部省の指導を仰ぐべき公立学校でありながら、国家権力を排除して児童を主人公とする民主的な学園を作ろうとした
にもかかわらず、
 自らの教育行為そのものが、実はその理想に反して近代天皇制やナチス・ドイツにも通ずる権威主義をはらんでいることに対して何ら自覚を持たないまま、「民主主義」の名のもとに、「異質的なものの排除ないし絶滅」
が何故行われたのかという問題意識を元に、「あの時代」は何だったのか、きちんと書き留めておこうとする学者の責務として「滝山コミューン」捉えているからです。
著者は、1974年当時、「滝山コミューン」が現出した要因として、
? 社会主義の理想がまだ信じられており、政治的関心が高かった。
? そのモデルとしてのソ連型集団主義教育が一部で高く評価されていた。
? 児童達の家庭環境が同じような生活レベルで、なおかつ均質な住空間である滝山団地に暮らしていた。
を挙げています。
しかしさらに見ていけば、あの戦争をきちんと総括してこなかった戦争責任へと突き当たります。戦後日本社会が決別したはずの戦前・戦中の社会体制ときちんと向き合ってこず、それ故、自ら目指した理想と対極にあるはずの国家主義やナチス・ドイツにつながる様な集団主義の陥穽に陥ったともいえます。
 (集団主義教育をリードしていた)片山が指導した林間学校の運営に(著者の頼りにしていた担任)三浦が違和感を抱いた背景には、戦時期の体験があった。…国家総動員体制に組み込まれ、隣組が作られたのである。隣組の運営は、…細かく指導されており、…集団による相互監視がなされ、…集団に合わない個人には…制裁が加えられた。…三浦は、集団主義の怖さを身もって知っていた。…もし三浦の世代が、このような戦時体制下の体験を片山の世代に正しく伝えていたとしたら、「滝山コミューン」はなかったかも知れない。( )内は桂木 
戦後の日本社会は、敗戦から学ぶべき教訓の大きな一つを投げ捨ててしまったといえるかも知れません。
この点について、深い洞察と鋭い分析で警鐘を鳴らし続けてきたのが、出版人小宮山量平です。彼は、敗戦直後に「理論社」を起こし、そこを砦に民族の真の独立と国民的な主体性を一貫して掲げ、出版活動を続けてきました。先述した教訓の大きな一つとは、まさに「自分の頭で考え、自分の足で立つべきこと」(小宮山量平『編集者とは何か』日本エディタースクール出版部)の重要性でした。
小宮山は、日本人の多くが、その時々の力の強い者に便乗する体質を厳しく批判します。戦後のそれは、改めて指摘するまでもなく、卑屈なまでの対米従属でした。
   残念なことに、あの八月一五日は、自立的精神の誕生と確立のモメントとはなり得ませんでした。まず、虚脱に近い状況が大方の人々をとらえ、やがて、一億総懺悔にも似て、「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませんから」と、戦争体験を感傷にすり替えたかと思うと、とたんに朝鮮戦争の勃発です。あっという間に、またしても便乗でした。廃線の痛苦を、新しい精神のために糧とするいとまもなく、朝鮮戦争がもたらした神武景気に日本経済は酔って浮かれたのです。…この便乗の体質は、のちにベトナム戦争のアメリカ軍基地として高度経済成長を謳歌する体質にまで深められたのです。
   (前掲小宮山量平)
 全生研に拠った人々は、間違いなくアメリカのベトナム侵略とそれに追随する日本政府を厳しく糾弾した
はずです。しかしそのことは、どこの国家(日本をも含む)も「ご主人様」にしないという主体性の確立に
は結びつきませんでした。

2000年に入ってから、日の丸・君が代の強制、「心のノート」の配布、道徳教育の徹底など、「滝山コミューン」の時代には想像もつかなかった事態が、国家からの強い強制力をもって押し切られようとしています。それにどう抵抗し、生徒と教師の良心の自由を守り抜くのか、教師一人一人に求められています。
 ただですら、
学校が本質的に権力生を持つというのは教育学で自明
なのですから。
しかも問題は、天皇制下での強制の時代よりもいっそう複雑になっています。
所謂学級崩壊や不登校、イジメといった問題もかつてなく深刻ですし、学校を「サービスを提供する施設」としてとらえ、子どもや父母はそれを享受する消費者いう論調も散見できます。そうした中、学校や学級が、子ども達を成長させるための、学ぶ集団として機能することがかつてなく求められています。集団としての求められる規律とそれぞれの個としての人権の尊重とを、どこでどう折り合いをつけていくのか、「滝山コミューン」の歴史から学ぶべきものは、少なくないでしょう。
 毎日新聞社で論説委員をしていた村松喬は、あるべき理想の教育の姿は何なのか、『教育の森』シリーズで社会に問うていました。教師の権威についても触れています。
  戦前の教師は、国家が要求する形に子どもをつくりあげるのが任務であり、教師の背後には明確な国家理念とそこから生まれた道徳があり、それは批判のラチ外であった。一方、戦後の教師は民主国家の教師であり、民主主義を築き発展させるのが任務である。民主主義は背後に祭壇を持たないから、教師は国家意志の立場から解放され、人間性を回復したが、同時に彼はかつての教師が背後に持っていた権威は失った。 (村松喬『教育の森第3集 教師・その実情』1966 毎日新聞社)
 「モンスターペアレント」とまではいかなくとも、ストレートで呵責のない教師批判が吹き出している昨
今、「祭壇」への誘惑は、これまで以上に強まっていくかも知れません。しかし、「人間性の回復」には、そ
れが無用の長物であることは論を待ちません。
 はるか古代ギリシアの時代から連綿と続いてきた教育という営みは、人間と人間という関係性で初めて成
り立つものだです。近代の学校制度は、それを集団という大きな、そして規制の強い枠の中で行おうとして
きました。そこの集団に帰属しているという意識が、何よりも大切だと考えられてきました。しかし、その
集団の目指す方向は一律ではあってはならないし、また個々を束ねないという不文律も自明のものでなけれ
ばならないということを小学生だった著者の体験は、教えています。
 先述した川上徹は、集団や組織について、さらによりよいものしていく立場からこう述べています。
  人は人のつながりの中でしか生きていくことはできない。だが、その結合は当事者達の間に離脱の自由(精神の自由である)をはらみ持ってこそ強まりもする。…その内部に離脱の精神を含まない、ぺったりとした無条件参加は、没我と追従(その裏返しとしての官僚主義)の温床なのだから (前掲川上徹)
 最後に、「滝山コミューン」で大きな役割を果たし、それ故著者が忌避したもの歌について触れておきま
す。
  七月一五日の「わんぱくマーチ大合唱」は、きわめて質の高いものであった。だからこそそれは、6年2組という「他の集団に強く訴えかけ、彼らを感動的に説得して、彼らをふるいたたせる」ことができたのである。…しかし合唱を重視していたのは、戦前の初等教育も同じであった。…ナチス・ドイツもそうであった。
 ここで問題にされているのは、歌や合唱を、それ自体の価値は別として、ある目的の手段として貶めてい
ることに対する異議申し立てです。手段としての歌ですので、曲想や歌詞も、手段とし有効かどうかで判断
されるわけです。
小宮山量平も、主体性の確立という視座から歌には拘ります。
  戦中戦後を区分する時に決まって出てくるのが『青い山脈』ですね。…監督の今井正さんは「そんな主題歌を使うんなら、俺はフィルムを縦に切る」といって抵抗するわけです。ところが会社は彼を軟禁状態にしてから、そのまま封切っちゃう。…あの歌だって全く軍歌のイントロダクション。…「勝ってくるぞと勇ましく」という歌から一つも遠ざかっていない。…あの時点で「ちょっと待て」という時期が、実は必要不可欠だったんじゃないかと思うからですよ。…カラオケに行っては演歌ばかり歌っている人たちが、やっぱり今の日本をリードしていて、その感覚でもって「不戦決議などするべきじゃない」といえば、全議員の半数ぐらいは簡単に集めることが出来るといったふうな余韻を曳いている。…敗戦から50年もたって、まだそういう状態をなぜ続けているかという根本問題が、遡って「主体性派」そそのものの考え、その元になるところへ繋がるんですね。」(前掲小宮山量平)
 「滝山コミューン」が消滅してから、はや30年以上の歳月が流れました。著者は、個人の尊厳という視
点の弱かったが故に「トラウマ」を与えたものとして、「滝山コミューン」への批判を展開しましたが、しか
し「コミューン」の住民達が求めようとした理想そのものは、否定していません。それどころか
 成年男子を政治の主体と見なしてきた日本の、いや世界の歴史にあって、児童や女性を主体とする画期的な「民主主義」の試みだったのではないか
という評価も下しています。
 本書評では、集団のあり方を中心に論じましたが、個人の尊厳とは何かという問題にも、論及されなければなりません。紙幅の関係で触れられませんが、エゴむき出しの個人主義(生徒の言葉を借りるなら「ジコチュー」。かといって、若者だけがそうではない)が増殖し、社会問題となっている今日の課題として。
 
繰り返しになりますが、集団と個との関係性について、本書はかぎりない示唆を与えてくれています。しかし研究はまだ着手されたばかりです。
(1) 全国生活指導研究協議会
1959年、日教組の教研集会で生まれた民間教育団体。「戦後の公教育は憲法と教育基本法の精神に基づき展開されるべきであるが、反動的勢力によって歪められている」という視点から、「子ども達の中に生まれている個人主義、自由主義意識を集団的なものへと変革する」ことを目的とした教育実践をめざした。
(2) 水道方式
東京工業大学の数学者、遠山啓が提唱した小学校における算数教育。「従来の算数は、数え主義である」とし、児童は数より量を早く身につけるため、量から数へという原則を取らなければならない。量から数への媒介物としてタイルが考え出された。実際の計算場面では、典型的なものの練習をきちんと行ってから変形したものへと移ってゆくことで算数の学力を高められるとするこの考えを、水源地から出た水道が太いパイプから細いパイプへと移っていくという連想から水道方式と名付けた。しかし、文部省(当時)は、遠山らの教科書を検定から落とした。



教科書から、日本軍の強制による沖縄集団自決を覆い隠そうとする文部科学省の策動に抗議する11万人集会 の新聞記事を前に。

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