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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第七号1944(昭和19)年8月4日第一次学童疎開の出発

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大変遅れてしまいましたが、8月号アップいたします。
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半ば予想されてはいたことですが、自公の大敗という結果で参院選が終わりました。原因は様々に取り沙汰されていますが、識者の指摘するとおり、年金問題に代表される失政と相次ぐ閣僚の不様な姿と失言への世論の批判ということなのでしょう。
このことは良しとすべきなのでしょうが、気がかりな点もあります。それは、安倍政権の基本的な政治スタンスである、所謂「逆コース」的なものへの検証がなされていないという問題です。
ご案内の通り、安倍首相は、母方の祖父である岸信介への敬愛を事あるごとに表明していますが、彼がそこで受け継ごうとしているのが、岸が果たせなかった憲法改悪です。9条を変えて自前の軍隊を持つことへの策動は、正念場を迎えるところまで来ていますが、そのための地均しとして、教育基本法はすでに変えられてしまいました。それに伴い、上からの統制を合理化する縦割りの教職員人事も実施を待つばかりとなっています。物言わぬ教師や子どもを「育成」するための、競争で囲い込むための学力テストも、この春実施されました。近いうちに実施されるであろう総選挙で問われるべきは、戦争なのか平和なのか、独裁なのか民主なのかの選択であるという点だと思うのですが、そこが、もっと明確にされなければならないでしょう。
安倍総理は、格差社会の進行を招いたという批判に対して、盛んに「再チャレンジ可能な社会」を打ち出しましたが、それは逆に格差が広がっていることの証左だという見方があります。作家の宮崎学は、それを指摘した上で、「上」の極にいる安倍晋三の実像を、
  1990年代以降…世に言われる「勝ち組・負け組」がはっきりとして固まり、上流と下流が固定化していく傾向がそれで…階層序列が再び出来上がっている。このようなところから、生まれの良さ、いわゆる毛並みというものを尊重する意思が醸し出されている。…安倍晋三自身は、血統、生まれに寄りかかってイメージアップしている。?
と喝破しています。
生まれながらにそうした「階層」に属する安倍には、岸と同じDNAがあります。それは、
  構成員自身による自己統治という民主主義の感覚とは根本的に相容れないものがあった。そこから、国民・大衆はあくまでも統治の対象としてしかとらえられないという意識構造にあらかじめなってしまっていた。?
という点です。彼の打ち出す施策、とりわけ教育に関するものには、自分達が価値を持つと考える徳目を有無を言わせず守らせるのが教育という姿勢が見られるのも、こうした出自から来るのかもしれません。
 ではこうした教育政策の行き着く先はどこなのか。彼らが是とする時代に、子ども達はどこに連れられていったのでしょうか。
? 宮崎学 『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』 同時代社
? 前掲 宮崎学
1944(昭和19)年8月4日は、
 第一次学童疎開の出発
学童疎開といえば、長野県では、比較的東京に近かったこともあって、
学童疎開は、…集団疎開の外にも縁故疎開学童は全県下殆ど各校に来てゐる有様。
でした。そこで、県としても教育上特別の措置を講じる必要がある事を訴えています。? 実際長野県に於いて受け入れた市や郡を見てみますと、下水内郡・上高井郡・下高井郡・更級郡・埴科郡・小県郡・北佐久郡(現小諸市を含)・南佐久郡・諏訪郡・上伊那郡・下伊那郡(現駒ヶ根市や伊那市を含)・東筑摩郡・北安曇郡・長野市・上田市・諏訪市・岡谷市・飯田市・松本市等となっていますので、ほぼ全県下に亘っていることがわかります?。
 また、各市町村史(誌)を見ても、多くの小学校の学校史にも、学童疎開の受け入れについての記述がありますので、長野県下の小学校や地域にとっては、一般的な出来事であったといえます。
 では、学童疎開とは何だったのか。『国史大辞典』によります。
   太平洋戦争末期に、政府指定の重要都市の国民学校初等科児童を集団的にまたは個人的に疎開させたこと。…東京都防衛局によるとそれは老幼者を速く疎開させ後顧の憂いなく本土決戦を貫徹するためであった。(以下略)
 旗振り役だった文部相自身の記述も見てみます。
   昭和十九年戦局いよいよ不利となった六月の末、政府は「一般疎開の促進を図るの外特に国民学校初等科児童の疎開を強度に促進する」事を閣議決定した。…疎開の具体的方法として「帝都学童集団疎開実施要領」を決定した。対象となったのは、国民学校初等科三年以上六年までの児童で、保護者の申請によって疎開させることとした。?
 本土決戦に備えて、足手まといにならないための措置と読みとることができます。しかし実際には、もっと積極的な意味付も付与されていました。戦時中の子ども達の実相を詳しく調査し、自らも体験者として鋭い告発を続けているのが児童文学者の山中恒ですが、彼は、
   教師達の精力的な勧奨が功を奏したたらしく、集団疎開への申し込みは予定数をはるかに上まわった。体験者達の話によると、集団疎開へ参加しないと〈卑怯者〉扱いを受けるような雰囲気があったという。というのも「疎開は逃げ出すことではなく、直接都市小国民として戦争に参加することである」という説得がなされたからである。? と、半ば強制的なものであったことを明らかにしています。
 同書では、朝日新聞社『週間小国民』の記事も紹介しています。
   国民学校の児童は、第二の国民です。五年さき十年さき一人前の兵隊となり、産業戦士となって日本を背負っていかなけねばならぬ大切なからだです。…しばらく都会をはなれてからだをじょうぶにし、十分に勉強し第二の国民としてつとめをりっぱに果たすこと、これが学童疎開の目的であります。
 子どもの目線に立ったような記述の仕方をしている分、犯罪的だと思いますが、どうもこの辺に政府の本音が現れているようです。学童疎開も、総力戦の一環として、きちんと位置づけられていたと解釈すべきでしょう。
 しかしいくら戦時体制といっても、東京都だけで40万人もの小学生(文部省調査による疎開学童数)を親元から引き離し、田舎に居住させるということは、送り出す側にとっても受け入れる側にとっても大きな不安を抱えた未曾有の大事件でした。先述した山中恒は、文部省『週報』が、「学童疎開問答上・下」という特集を組んで、不安や疑問に答えようとしたことを紹介しています。
   問 疎開先の食糧やその他、生活必需物資はどうなるのでしょうか。
   答 …とにかく食糧については全く心配はいらないわけです。
   問 …疎開地に於ける教育ですが、果たして十分にできるでせうか。
   答 …設備の点からご質問のような不審が起こると思いますが、しかし普通の学校と違い、一日中、二四時間を通じて先生の指導の下にあることだけを考えても、設備の不足を補って余りあるといへます。?
 随分楽観的な無責任な解答という印象をぬぐえませんが、しかしこの程度の見通しで、実施されたわけで
す。果たして結果はどうであったのか。文部相自身の総括です。
   疎開地における児童の生活は一般に貧しかった。…児童は常時、食糧や薪炭の調達に使役され、教職員は生活物資の収集に日夜東奔西走した。?
 当事者たる子ども達は、こうした疎開をどう捉えていたのでしょうか。これについては既に多くの体験談などが編まれています。ここでは、手許にある二人の歴史家のものを見てみます。まず中村政則氏です。
   …東京・新宿区の実家には疎開すべき田舎がなかったので、私は100人前後の友人たちと草津温泉
   疎開していたのである。それから敗戦までの約1年間の疎開生活は、今でも忘れることのできない経験であった。旅館の一室で行われる授業はおざなりそのもの、食べ物は不足し、虱にくわれて皮膚病にかかった犬のように肌は赤くただれた。敗戦間際には米がなく、大豆の中に米が数粒入り交じっているだけの食事だった。九月に親が迎えに来たころには、私は黄疸にかかっていた。?
 これまでも幾度と無く登場願った黒羽清隆氏は、ここ上田市の別所温泉に疎開されていました。
   ついたその日の昼食に、ウリのみそ漬けを入れた大きなおむすびが出たことをなぜか記憶している。…私たちには…一定の労働作業が課せられた。結果的にそれほど役立ったとは考えられないが、私たちにとってそれなりに辛い仕事だった。…私の母も一度だけ面会に来てくれた。…重箱に詰めて来てくれたオハギの味だけは忘れない(このシーンが軍隊と相似的であることに意をとめてほしい。)…いわば普遍的に盗みが流行りはじめた。…口腹の欲を満たすために、人の家の者を盗む、その習性から完全にのがれるために、私は敗戦後、一、二年を要した。?
同じ疎開でも、学童疎開よりは「恵まれて」いたと思われていた疎開に、縁故疎開というものがありまし
た。小諸に疎開していた一人が、永六輔氏です。
   わが家では僕が病弱なこともあり、父と兄を東京に残して母と5人の子どもが長野県の佐久、小諸在に疎開することになった。縁故といっても親戚知人は全くいない。見知らぬ土地。すがる思いで知人の知人の伝を頼っての疎開だった。…「みすずかる信濃の国」は心細い、不安に満ちた国だった。…村の学校に転校した時に、それは的中する。…「いじめ」の対象にならないはずはなく、お世話になっている以上、反抗することができなかった。「戦争さえ終われば東京に帰れる。それまで我慢するのよ」母の口癖になった。「戦争が終われば」というのは「戦争に勝てば」と信じて疑わなかった。
   …辛い疎開生活であったが、東京より食べ物が豊かであったことが救いだった。母の着物が減り、それが米や野菜に換わっていったことは戦後の盆踊りで見覚えのある母の着物を着ていた人が増えたことで気がついた。?
 子ども達の日常生活を大きく破壊せしめ、その後の人生に深い影を落としながら遂行されたのが学童疎開
だったことがよくわかります。
 一方受け入れた側はどうだったのでしょう。
   …食事に対して敏感な先生や子ども達に共同炊飯の方法は大変好評でした。粗か委員会では細かい神経を使っていました。…疎開した子ども達はあたたかく親切にしてくれた別所温泉の人達への感謝の気持ちを忘れることなく、敗戦以来十年ごとに別所温泉を訪問し交流を続けております。?
   …村の発案で、親元を離れて何ヶ月も経つので、家庭生活を楽しませ、…村人との交流を深めようと…分宿することとなった。分宿する家では、お互いに苦しい食糧事情の中で、東京の親戚の子が来たように赤飯を炊いたり、お餅をついたりして心暖まる歓待をした。?
 受け入れた側は強者の論理、つまり「親切に受け入れてやった」という意識が強い印象を受けます。ある
いは、優しい村人に感謝する学童疎開の子ども達という図式です。もちろん決して豊かではないところへ、
都会から百人を一単位とする集団が入ってくるわけですから、物心両面得かなりの負担となっていたことは
わかります。実際
…疎開学童の食糧は、村民が供出しなくては維持できない?
状況だったのです。それにも拘わらず、精いっぱいのもてなしがあったのも事実でしょう。しかし、学童疎
開そのものや国策への批判は、これらの書物は戦後かなりたってから編まれたはずなのに、全く記述されて
いません。いくら市町村誌と雖も、「学童疎開と村人の温かい交流譚」に止まっていてはいけないはずですが。
その他、疎開学童の悲劇といえば、対馬丸の遭難が有名ですが、その他にも中学進学のために疎開先か
ら東京に帰った児童で、爆撃にあって全滅した?という惨劇もあったようです。また、ようやく東京に戻っても、家族も家も全滅し、戦争孤児になるしかなかった子ども達も大勢いました。 
?、 雑誌『信濃教育』昭和19年11月号
?、 『長野県史近代資料編9』
?、 文部省『学制百年史』
?、 山中恒『欲シガリマセン勝ツマデハ』(ボクラ小国民第四部)辺境社
?、 文部省『週報』昭和19年8月2日号 前掲山中恒 所収
?、 前掲 文部省『学制百年史』
?、 中村政則『歴史のこわさと面白さ』筑摩書房
?、 黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』講談社学術文庫
?、 永六輔『昭和』朝日新聞社
?、 『上田市誌近現代編7』
?、 『北御牧村誌歴史下』
?、 『真田町誌 近代・現代編』
?、 『傍陽小学校百年誌』
 疎開は、子ども達が一番の犠牲者だった事は論を待ちません。しかし引率してきた教職員もまた、日常の家庭生活を破壊させられたという意味では同じです。しかし、教師の側からの本音を記したものは、私の不勉強もあるでしょうが、なかなか見あたりません。反対に、時流に乗って教師達を「叱咤激励」する輩はいました。しかも、「大所高所」からものを言う「教育者」が。
   …学童等は或いは寺院に、或いは公共建設物に…身を寄せる外にない立場に立到らされた。そのために生じる不便や困難は少なくないに違いないが、…むしろこの際は教育者も父兄も進んで、在来の学校の教育形態に拠らないところに積極的意義を見いだし、それぞれの環境を生かして到来の国民教育体制の樹立試図たらしめんとする意欲に出発すべきではなからうか。…全校の組織を如何にすればよいかという点に至っては、軍隊が無二の範を示している。…軍隊教育を範とした教育体制を採るに当たっては、それが並列的結合による集団ではなく、縦列的秩序による体制である点を逸してはならぬと思ふ。…この際、近代教育体制としての並列的集団たる在来の学校組織を改め、縦列的秩序を骨子とした新教育体制の確立を図る方向に立たなくてはならぬと思ふ。?
? 西尾実 「国民教育体制樹立への一試図」『信濃教育六九六号』 『長野県教育史16資料編』所収
彼の出身地である下伊那教育会では、今日でも西尾実の伝記を刊行しています。
伊那谷が生んだ偉大な国文学者、教育者、信州教育の大恩人 
というのが、この本の惹句です。戦後、信濃教育会では、国語教科書を編纂しますが、その中心が西尾です。岩波の国語辞典も編んでいますので、国語学者としては評価されているのでしょう。しかし、上記の提言は、戦後どう総括されたのでしょうか。驚嘆すべきは、西尾の見事な変身ぶりなのか、はたまた下伊那教育会の「温情」ぶりなのか。歴史に学ぶことの大切さをしみじみと感じます。
 おしまいに、疎開に送り出した親、世話をしていたと思われる方の気持を詠ったものを紹介します。
   聴きわけて疎開ときめし末の子の寝姿今宵幼なかりけり   稲垣以登  ?
   背負袋小さきを背負ひ手をつなぎ疎開の吾子ら人群に入る  森野紫滋麿 ?
   五年生山田茂と言ひし児は母の写真に声かけて寝ぬ     野沢学人  ?
?、?、?いずれも『昭和万葉集巻六』所収

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