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おもしろ歴史館-新裏太郎山通信コミュのマガジン第四号1947年4月28日 アメリカの占領が終わり、日本が国際社会に復帰

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「ここに提示された平和条約は、…日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会へ迎えるものであります。この平和条約は、復讐の条約ではなく、「和解」と「信頼」の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します。」(サンフランシスコ講和条約を調印した日本側全権大使吉田茂の演説。日本国民の多くが、ラジオで流されたこの演説に注目した)
今月27日、安倍総理がブッシュ米大統領を訪問、その「蜜月」ぶりが盛んに喧伝されていますが、果たして安倍政権の外交は、「完全な主権と平等と自由とを回復」した国のそれでしょうか。いや、安倍政権に限らず、戦後体制の中で、一度として「完全な主権」を発揮し、アメリカとの関係で「平等」だったことが、この国の政治にあったのでしょうか。ということで、今号のテーマは、
1947年4月28日
サンフランシスコ平和条約発効、アメリカの占領が終わり、日本が国際社会に復帰
です。歴史の教科書によっては、「日本の独立」という単元名で出てくる事項でもあります。
1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印、翌年のこの日から発効します。皇居を見下ろす日比谷第一生命ビルにあったGHQ本部の建物にも日の丸が揚げられ、「独立」を内外に明らかにしました。
しかし先の吉田茂の演説にあった「完全な主権」をもった独立国になったかどうかは、今日までずっと続いてきた沖縄の実態一つとってみただけでも、自ずと明らかでしょう。
ご案内の通り、日本を占領したのは、GHQ(連合国軍総司令部)でした。連合国軍となってはいるものの、実態はアメリカ軍そのものでした。
占領政策は、プレスコード(1)の存在など、GHQを「聖域」としたなどの問題点はあるものの、ある時期までは平和を志向し、民主的諸権利を保証する、それまでの日本に比すれば格段に優れたものであったことは異論がないでしょう。それはまた、戦争とそれを主導した軍部を中心とした独裁政治に疲弊した多くの日本国民の願いにもかなうものでした。日本国憲法は、その象徴的存在でしょう。それ故、最高司令官のマッカサー(2)に対しては庶民からも惜しみない賛辞が送られ、また政治犯としてとらえられていた共産党の幹部達が「解放軍」と規定する誤りを犯したほどでした。
しかし、事態は徐々に「逆コース」(3)へと旋回していきます。アメリカとソ連の冷戦が深刻なものになっていくからです。徹底した反共主義者で原爆投下を躊躇しなかったといわれるアメリカトルーマン大統領は、所謂トルーマンドクトリンによって徹底したソ連敵視政策を採っていきます。そしてそれはそのまま日本への占領政策を大きく左右していったわけです。
サンフランシスコ条約に至るまでの日本国内の動きを、雑駁ですが年表にまとめてみます。

1947 ○教育基本法公布
     ○独占禁止法
     ○日本国憲法施行
     ●2,1ゼネストにマッカーサーが中止命令
1948 ○極東軍事裁判東条英機らに死刑判決
     ●公務員の争議行為禁止
     ●岸信介らA級戦犯の釈放決定
1949 ○シャウプ勧告により民主的な税制
     ●下山事件、三鷹事件、松川事件が相次いで起こ       り、共産党への弾圧強化
      労働運動の深刻なダメージとなる
1950 ○代表的な知識人たちが結集し、米軍基地を批判し      全面講和を主張
     ●産党幹部追放(レッドパージ)
     ●朝鮮戦争勃発
     ●警察予備隊(後の自衛隊)創設をマッカーサーが      命令
1951 ○日教組「教え子を再び戦場に送るな」
     ●トルーマンの特使ダレスが来日、再軍備と将来の      米軍基地使用を吉田茂に指示
     ●サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約調      印
1952 ○●血のメーデー事件
     ○●サンフランシスコ講和条約発効 GHQの占領      集結



こうして見ていっただけでも、サンフランシスコ講和条約は、アメリカが日本をしてどういう国にしていこうとしていったかが、よくわかります。すなわちそれは、
1,アメリカの世界戦略に忠実に従う政府と軍隊
2,それに反対する勢力の一掃
3,1を支えうる経済的安定
に大きくまとめることに、そう異論はないと思います。
 しかしアメリカやそれに追随する政府は、その施策をスムーズに進められたわけではありません。冷戦の最中にあっても、日本はアメリカにもソ連にも与せず、中立をめざすという意見がかなりの数を占めていたからです。1949年の読売新聞の調査では永世中立72.4?、朝日新聞では永世中立39?、国連加盟36?、毎日新聞では永世中立48?となっています(荒敬「日本に中立の道はなかったのか」『日本史の虚像と実像4』大月書店所収)。「アメリカに守ってもらう」といった選択肢などよりもはるかに高かったことが注目されます。
 そうした意識は、アメリカとそれに従う52カ国とだけの講和について警戒心をもち、反対運動へとつながっていきます。アメリカの意向を反映して、講和とはいうものの最大の被害者である中国本土は呼ばれませんでしたし、ソ連ともインドとも講和は先延ばしされました。講和会議直前の9月1日には、平和国民大会が開かれ、「片面講和」を非難し、「全面講和・最軍部反対」の署名は500万前後を集めた(前掲荒敬)といわれています。また「この大会(総評第2回大会)で一番問題になったのは講和問題であった」(新津新生『朝鮮戦争と長野県民』)と指摘されているように、各種労働団体も、最重要課題として「片面講和」を位置づけていました。
しかし、吉田茂はそれらを無視し、調印します。彼の中には、アメリカ側の強い要請に従わなければならいと感じていた他に、彼なりの「計算」があったことも指摘しておきたいと思います。
まずこの講和条約では、日本の戦争責任を厳しく追及する文言は含まれていません(4)。また、再軍備への制限もありません。もう一つ、注目しておきたいのは、当時の日本の経済状況を斟酌し、賠償については軽減されていたということです。実際の条約から見てみます。
第5章 請求権及び財産第14条
(a)日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。…
第一次世界大戦に於けるベルサイユ体制下のドイツへの過酷なそれとは、大きく違っています。吉田は、そうしたいわば「温情」ある措置を勝ち取ったとして、また再軍備予算を「節約」した点や国会内外での思い切った傍若無人な言動などから吉田茂を高く評価する人々が多々います。しかし、今日のアメリカ追従の半植民地的状態にした根本の責任はどうなるのでしょうか。また、自由主義者として喧伝されていますが、労組や敵対する政党への弾圧をアメリカに懇願している事実など、そうした評価には疑問を感じます。
上の写真は、吉田茂のサンフランシスコ講和条約締結後の演説原稿。吉田自身がこの条約高く評価していたことがわかる。参加者達からは、トイレットぺーパ−と呼ばれた。(外務省公式ホームページより)
また、前記の演説の中には、侵略戦争を引き起こした国の代表としての、責任も反省も一切ありません。この事ももっと追求されてしかるべきです。朝鮮戦争や今日まで続く分断の悲劇について、日本人や長野県民のあまりにその責任を感じない鈍感ぶり(前掲新津新生)と軌を一にしているといっていいでしょう。
その後、アメリカの下、西側諸国の一員に組み込まれていったわけですが、全てがアメリカや日本政府の思惑通りにはいったわけではありません。講和条約発効直後の。所謂血のメーデー事件で「人民広場」(皇居前広場)に人々が集結して警官隊と激しく渡り合ったり、アメリカの車両が燃やされたりしたことはそうした怒りの表れだったとも言えます。
また戦争につながる動きにはとりわけ強い反対運動が起きました。長野県では、軽井沢での浅間山米軍演習地化に反対する運動が、広汎な人々をまきこんで大々的に闘われ、ついに計画を頓挫させるところまで追い込んでいきました。先日の歴史の授業で、この闘いを取りあげたところ、生徒の感想に「アメリカ軍の演習基地にならなかったのは本当に良かった。自分達のじいさん達に感謝したい」というのがありました。
その生徒たちが、数年後あるいは十数年後に、私たちに「感謝したい」と書いてくれるでしょうか。アメリカやそれに追随する安倍政権の目論んでいる憲法9条の「改正」を阻んだとして。
(1) GHQが日本占領に当たって始めた、新聞の事前検閲制度。とりわけGHQ支配に対して批判的な記事が、取り締まりの対象とされた。新聞だけでなく、雑誌やラジオなども事前に検閲、規制を受けた。
(2) マッカーサーへの賛辞は、占領直後からありました。彼が日本を去る時には、マッカーサー神社まで作ろうという計画すらあったといわれています。(半藤一利『昭和史』戦後編)
(3) 1951年読売新聞が初めてこの文言を用いた。「民主化・非軍事化」で進められてきた占領政策が、大きく右旋回したことを指した。
(4) 吉田茂は、前記演説の中で「懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課することもなく」と、「寛大な」措置に感謝している。
余談です。この頃の永井荷風の日記『断腸亭日乗』は、映画とストリップ劇場のことは記載があるものの、こうした政治的大事件には、一切触れなくなっていきます。戦中の軍に媚びない生き方が、戦後になってマスコミに高く評価されてはじめていたにも不拘。政治や国家にうんざりしていたのかも知れません。

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