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戦国時代ゆかりのお城や古戦場コミュの沼田城

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徳川による上杉攻めの時、三成が挙兵し関が原の合戦が勃発する。
真田親子が小山で会談し、信之は東軍、昌幸・幸村は西軍に味方することとなる。
昌幸・幸村が上田へ向かう途中、沼田城に立ち寄り孫の顔を見ようとする。
信之の妻(本多忠勝の娘 小松姫)が留守を守る沼田城。
小松姫は戦装束で現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と断る。
漫画などでは、門の屋根の上で鎧姿にナギナタを持った小松姫が昌幸の入城を断るシーンが思い出される。
その後、正覚寺で休息を取っている昌幸のところへ小松姫は孫を連れ願いをかなえる。

そんな逸話を思い出し、小山から沼田を経由して上田へ戻るのは不自然ではないのか?
不自然なら小松姫じゃなくたって、誰だって城を乗っ取りに来たとわかるだろうと思い、
小山−沼田−上田の地理的位置を確認するため沼田城へ向かった。

所沢ICから約2時間弱で沼田ICに到着する。
沼田城公園へ向かうこと数分で「上州真田の里 沼田城址」の看板を発見。
駐車場は旧三の丸、テニスコート数面と野球場2面を有する広い敷地である。
利根川、薄根川に囲まれ、両河川側は崖となっており、鉢形城と同じ崖城といった感じである。

沼田城は、1532年沼田顕泰により築城、その後、北条氏の支配となるが、上杉謙信が沼田城を落し、上杉氏が沼田城を支配する。
謙信死後に沼田城を後北条氏が再度制圧するが、甲越同盟の成立で上杉景勝が武田氏の沼田攻略を認め、真田昌幸が沼田を攻略しその支配下に置く。

戦国時代北条氏が制覇を目指す関東はどこまでか?
上野国の北限はこの沼田地方であると思う。
赤谷川沿岸の谷あいは現在群馬県であるが、猿ヶ京の由来が示すように戦国時代は上杉領であり、関東の一部とは思えない。
関東完全制覇を目指す北条氏と苦労して手に入れた沼田を手放したくない真田氏両者にとっては秀吉、家康が間に入ったとしても、いくさが勃発するのを止められなかったのは当たり前であったのかもしれない。

沼田城の後、名胡桃城へも行った。
沼田城から17号を北上し15分程度であろうか?
名胡桃城から上田までの山道が整備されている。
しかし、佐野市のとなり小山から藤岡、高崎手前あたりで長野方向へ向かい上田へ行くのが普通であり、沼田へ向かうのは乗っ取りと普通は思われるだろう。

コメント(15)

>小山から沼田を経由して上田へ戻るのは不自然ではないのか?

中仙道を通ろうとしても、西上州の厩橋(前橋)、高崎、安中から碓氷峠は井伊家12万石の支配地、
碓氷峠を抜け信州に入っても上田の手前である小諸には仙石家が中仙道の押さえとして入っています。
相手もこちらも敵か見方か(真田昌幸からすれば井伊は明らかに敵)わからない他家の領地を進むより、すぐ北にいけば真田家の支配する土地があれば、そちらを行くのが安全。

また沼田からは中之条、岩櫃、羽根尾、鳥居峠というこれも真田が抑えており、家中のものは行き来しなれている上田と沼田をつなぐルートです。
真田の支配下のため寝首をかかれる心配もないです。


>佐野市のとなり小山から藤岡、高崎手前あたりで長野方向へ向かい上田へ行くのが普通であり

それはアスファルトの道路、鉄骨や鉄筋コンクリの橋というインフラのうえに、自動車という文明の利器をつかった現代の交通網の上でのお考えですよね。
当時の佐野から藤岡方面に一直線にぬけるルートは、利根水系(本流のほかに支流や沼池がある一帯)をぬけることとなります。

当時(治水が整う昭和高度経済成長あたりまで)は水害が多い地域で、抜けるにはたいへんです。
もともと利根川は船で行き来しているので、館林あたりに出て、船をしたてて高崎あたりまでいき、そこから中山道を陸路行くルートを取ることになるかと思います。

想定する当時のルートは、佐野から足利、桐生と赤城山のふもとを行く行程になると思います。
そのルートを通るならば、沼田の真田支配領はすぐです。
そうなれば、近くにある真田の沼田目指すのも通かと思いますが、いかがでしょうか。
>お奉行さん
なるほどですね。
徳川系大名の領地通過、湿地帯の通過は確かに考えにくいですね。
勉強になりました。
でもやっぱり沼田に寄るのは不自然に感じます。
小松姫にバレバレの感じは払拭できません。
真田昌幸の上田への帰路は今後も課題にさせていただきます。
現代と昔ではいろいろな街道のルートは異なります。
例を挙げると、東海道の京都から岡崎まで、神奈川から先の房総半島へのルート、会津から江戸へのルート。

碓氷峠は鉄道が通った近代でも難所として知られており、現代の峠のルートよりも北側に旧道が今も残り軽井沢の北側に通じています。
そのは小荷駄が一台とおるのがやっとの幅で、騎馬どおしではすれ違えるかどうかの幅です。

それに対して吾妻側のルートは現代とそれほど変わらずに通れ、高低差もなく行軍としては安全性が高いです。

そのうえで、不自然とする理由はあるのでしょうか。

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