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シュタイナー的生活を楽しむコミュの自由を獲得した人=善きサマリア人

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33週 

11/30〜12/6
 こうして私は今
 世界の本質を感じる。
    
 世界は私の魂の関わりがなければ
 ただそれだけでは
 つめたい空虚な働きにすぎない。

 力なく現われ
 また新たに人の魂の中に生き、
 そしてふたたび
 死んでいくことしかできない。
  (Rudolf Steiner  高橋 巌訳)

……………………………
   
もうすぐ12月になる。

クリスマスが近づくと、

イエス・キリストに思いを馳せたくなる。

12月は、どっぷりと聖書の世界に

入っていきたくなる季節なので、

聖書の内容を題材にしてまとめてみたい。

シュタイナーの言う「自由の哲学」

が語る「真の自由」を獲得した人とは、

聖書の中のイエス・キリストが語る例え話にある

「善きサマリア人」であると、私は理解している。

「自由を獲得した人」とは、

個別自我を確立している人である。

それでは、そういう人とは

どういう人間なのかを考察してみたい。

シュタイナーは『ヨハネ福音書講義』において、

繰り返し個別自我の必要性を語っている。

この個別自我の確立し成熟した上でこそ、

社会三層化運動も成り立ち、

素晴らしいシュタイナー教育も

成り立つものであると思う。

人智学の土台となる内容だからこそ

シュタイナーは繰り返し語っているのである。

『自由の哲学』の中でシュタイナーは自分の行動の根拠が、

自分の内部の「個体の理念部分」にある時、

「自由な行為」であると述べている。

このような「自由な行為」ができる

個別自我を確立している人間の例として、

イエス・キリストが語った「善きサマリア人」がある。

この「善きサマリア人」の姿こそ、

『自由の哲学』が語る人間の理想像であると同時に、

『ヨハネ福音書講義』が語る人間の理想像でもあり、

さらには、イエス・キリストが語る人間の理想像でもある。

これは、律法学者がイエスに対して、

「隣人とは誰か」と尋ねた時、

イエスがたとえ話をした内容である。

要約すると以下のような話である。

「ある人が エルサレムという大きな都からエリコという町へと

下っていく途中、追いはぎに襲われてしまった。

追いはぎは、その人の持っているもの全部と着ていた服を剥ぎ取り、

殴りつけ、

半殺しにしたまま行ってしまった。

ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、

息も絶え絶えのその人を見ると道の向こう側を通っていってしまった。

それからしばらくして、レビ人もやってきたが、その人を見ると

やはり道の向こう側を通って行ってしまった。

しかし、そのつぎにそこを通りかかったサマリア人は、

倒れているその人を見ると、

気の毒に思い、近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ、

包帯をして 自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って、介抱した。

祭司、レビ人といった高い位にある人々はこの人を助けずに通り過ぎた。

しかしユダヤ人から大変に嫌悪されていたサマリア人は、

この半死半生の人を助けた。

傷口の治療をし、家畜に乗せて宿屋まで運び、

宿屋に怪我人の世話を頼んで費用まで出した。」
 (ルカによる福音書 10章 25節〜36節より) 

今から約2,000年前 サマリア人は

当時ユダヤ人から嫌悪された存在であった。

サマリアは北イスラエルの首都であったが、

アッシリア王サルゴン2世の攻撃により紀元前721年に陥落した。

そして、サマリアにはアッシリアからの移民が移り住んだ。

このときイスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と、

移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれた。

彼等はユダヤ人にイスラエル人の血を

穢(けが)した者といわれ迫害を受けていた。

また、捕囚から後、

アッシリアの宗教とユダヤ教が混同したものを信じ、

ユダヤ教に対抗して特別な教派を形成していたため、

ユダヤ人はサマリア人を正統信仰から外れた者達とみなし、

交わりを嫌っていた。

それ故に、律法学者にとっては「サマリア」という名は

口に出すのも憚(はばか)られるほど嫌悪の対象であった。

イエスが例えの例として、 サマリア人を選んだのは、

古代エルサレムではサマリア人は軽蔑された

少数民族だったからだと言われている。

追いはぎに襲われた人はユダヤ人だったようで、

当時この地の部族間の対立はかなり厳しく、

様々な争い事をしていた。

ユダヤ人はサマリア人をかなり軽蔑していたらしく、

その仲は、もう犬猿の仲であった。

エルサレムにはエルサレム神殿があり、

平和の場所すなわち神とのコミュニオンの場であった。

また、エルサレムとエリコの間は約30km離れていた。

大きな都エリコは「祭司らの町」であり、

祭司もレビ人もエリコに住んでおり、

祭司もレビ人もそれぞれ任とするエルサレムでの

奉仕を終えてエリコに帰るところであったろうとされる。

何らかの宗教行事をした後の帰り道であったのだ。

当時、 祭司、レビ人といえば、高い位であった。

両者は祭礼に拘わる人物であった。

しかし、この人々はこの人を助けずに通り過ぎた。

通りかかった最初の2人は、もしこの人に関わると、

他者からどう思われるだろうとまず第一に思い浮かんだ。

そして、祭礼に拘わる人物には「死体に触れてはならない」という

律法に違反するかもしれないと、律法のことを考えた。

さらに、その人が襲われるには、

何か狙われる理由があるのだろう。

例えば、過激派集団のエッセネ派かも知れないと考えたのだろう。

祭司やレビ人は、襲われた人を救ってしまうと、

今度は自分たちの集団が襲われる標的にされるかも知れない。

自分たちの帰属する集団の論理から、

助けたくても助けられないのである。

まさに集合魂の中にどっぷりつかって生きているのである。

そして、見知らぬ振りをしてわざと道の向こう側を通った。

この二人は、へたに介抱すると

他人に何と言われるかわからないと、

世間体、社会のルールやしきたりなどを気にして行動した。

集合魂の理念に縛られ、

「自由な行為」を行わなかった。

個別自我が成熟した状態ではなかった。

さらに、祭司やレビ人は、

『もしわたしが旅人を助けるために止まったならば、

わたしはどうなるか』という疑問を持ち、

傷を負った旅人でなく

「自分」のことを考えた。

世間体、外からの倫理に従ったのである。

それに対してサマリア人は、

『もしわたしが旅人を助けなかったならば、

彼はどうなってしまうか』という疑問を持ったのである。

自分の「自由な内面から生じる愛の衝動」に従ったのである。

ユダヤ人から大変に嫌悪され、

軽蔑される側のサマリア人は、

半ば死にかけたユダヤ人をみて、

気の毒に思い、近寄って様子を見、傷の手当てをして、

宿に連れて行き、

一晩、見も知らぬ敵である死にかけた人の介抱をした。

翌朝、自分は行かなければならないのでといって、

宿の主人に、お金を渡し怪我人の介抱を頼んだ。

お金を「デナリ(銀貨)二つ」宿の主人に渡したとある。

これは、当時の労働者の日給二日分であった。

当時サマリア人はたいていの人が貧しい暮らしをしていたのにである。

善きサマリア人は、思考による直感内容から取り出した

「生きた思考」に行動の根拠を持って行動した。

もはや同じ集合魂に属する他の人びととの

自我との共属性を、

人生の真実であるとは

感じられなくなった「自立した自我」「個別的自我」に基づいて

行動した。

その自立した自我は、新しい地盤を求めて

新しい養分を受け取れるところへと向かって

歩んでいたからである。

だからこそ、サマリア人には

既成概念にとらわれない「思考」が生まれたのである。

洗礼ヨハネが自分自身のことを

『孤独(荒れ野)の中で叫ぶ者』と呼んだが、

これと同じ

まさに新しい地盤に立脚した

「自由な魂」による判断をしたのである。

それに対して、祭司とレビ人は、

集合魂の倫理である「死んだ思考」の中で

自分の取るべき行動を考え、

その行動をとった。

このアガペーの愛を行動に移した「善きサマリア人」こそ、

「個別的自我」を成熟させ確立した人である。

そして「自由の哲学」を実践している人である。

さらに、『ヨハネ福音書講義』

「地球本来の使命は、愛の育成にある。

しかしその使命は、

愛が自己意識的な人間の自由な意志による能力とならなければ、

成就されない。 」

とシュタイナーが語る理想の人間像である。




コメント(6)

真の自由とは、そういうことなのですね!
集合魂の理念、日本では今も根強いと感じています。
私もそのような教育を受けました。

「みんないっしょに」
「みんなと同じように」
「世間の常識だから...」
「そういうものだから...」

そこに安住できていたら、人智学に惹かれることは
なかったかもしれませんが。

>もはや同じ集合魂に属する他の人びととの
>自我との共属性を、
>人生の真実であるとは
>感じられなくなった

そうして自我は新たな地を求めて旅に出るわけですね。
アドベントに入り、私もキリストに馳せる思いを強くしています。
あめじすとさん

コメントありがとうございます。
kikiさん

コメントありがとうございます。
「善きサマリア人」は、
いつも、この季節に思い浮かべる内容です。
真の自由を求めていきたいものですね。
ヒルフェ*ゾフィー さん

コメントありがとうございます。

私もクリスマスの季節
生けるキリストをそばに実感しながら
生活できたらいいなと思っています。

ありがとうございました。

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