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シュタイナー的生活を楽しむコミュの第22週 「生きるの意味」を求めて

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9/2〜9/8

遠い宇宙からの光が
私の内部で力強く生き続ける。

それは魂の光となり
霊の深みに輝く。

そしてその深みに眠る人間自我を
宇宙自我から目覚めさせ
その成熟をうながす。
(Rudolf Steiner 高橋 巌訳)
 ----------------------------

〜苦しむことは何かを成し遂げること〜

「誰もその人の身代わりになって

苦しみをとことん苦しむことはできない。

この運命を引き当てた

その人自身がこの苦しみを引き受ける事に

二つとない何かを成し遂げる

たった一度の可能性はあるのだ。」(V・E・フランクル)


先日までEテレの番組「100分de名著」で

フランクルの『夜と霧』を

4回にわたって取り上げていたので、

毎回予約録画に設定してまとめて見た。

予想した以上にとても深く感動したので、

その番組で使用されたテキストを書店で買った。

この本が東日本大震災以後、

とても売れていることも知った。

フランクルがアウシュビッツ等の強制収容所で、

死線をさまよう中でつかみ取ったものは、

シュタイナーにとても通じるものがある。

この著作は私の人生に深い影響を与えているので、

あらためて、このトピックでまとめてみることにする。

私たちは、時に落ち込んだとき、

自分の人生に価値はないんじゃないかと思ってしまう。

しかし、フランクルは「どんな人のどんな人生にも意味がある」

と語っている。

そして、自分の人生に与えられている意味と使命を見つけるための

手がかりとして、「三つの価値」を示した。

その三つの価値とは、「創造価値」「体験価値」「態度価値」だという。

?創造価値:あなたを待っている何かを見つけて実現すること。

?体験価値:あなたが経験したことはこの世のどんな力も奪えない。

?態度価値:どんなに自由を奪われていてもそれに向き合う態度を決める自由がある。

今回は、体験価値と態度価値についてみてみたい。

その前に 『夜と霧』(V・E・フランクル 池田香代子訳)について、

簡単に紹介しておきたい。

この本は、精神科医である著者フランクルが第二次世界大戦中に、

ナチスによりアウシュヴィッツ等の

強制収容所に入れられていた時の体験について

書いたものだ。

日本をはじめ世界的なロングセラーとして

600万部を超える読者に読み継がれており、

原題は「強制収容所における一心理学者の体験」である。

彼はユダヤ人であった。

ただそれだけの理由で、何の罪もないのに、

彼の一家は他のユダヤ人と共に逮捕され

アウシュビッツ等の強制収容所に送られた。

そして、ここで彼の両親、妻、兄は、

ガス室で殺され、或いは餓死した。

この著書には、人間の精神の高さと

人間の善意への限りない信仰があふれている。

この本を読むと「人間の限界」について考えさせられる。

フランクルは以下のように語っている。

「私たちは、おそらくこれまでの

どの時代の人間も知らなかった『人間』を知った。

では、この人間とはなにものなのか。

人間とは、何かを常に決定する存在だ。

人間とは、ガス室を発明した存在だ。

しかし同時に、ガス室に入っても毅然として

祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」(『夜と霧』より)

人間がある事物、ある現象、ある大きな試練に出会ったとき、

そのことへの「認識」のしかたは、様々であり、ガス室にいてさえ、

祈りの言葉をする高貴な存在でもあるのだ。
 
筆者の収容所生活は以下のようにはじまる。

わずか70年前の1942年のことだ。

フランクルは家族とともにテレージエンシュタット収容所に抑留された。

その後、1944年悪名高い収容所に移された。

「そうこうするうちに、列車はかなり大きな駅にすべり込んだ。

貨車の中でおののきながら成り行きを待ち受けていた人々の群れから、

ふいに叫びがあがった。

『駅の看板がある――アウシュヴィッツだ!』
 
この瞬間、だれもかれも、心臓が止まりそうになる。

アウシュヴィッツと聞けばぴんとくるものがあった。

あいまいなだけいっそうおぞましい、

ガス室や焼却炉や大量殺戮をひっくるめたなにか!」(『夜と霧』より)

ここでは、どんなに自由を奪われていても

それに対して向き合う態度を決める自由があるという

態度価値について考えさせられる。

強制収容所へ送られた自分の運命を、

神の賜物と「認識」したある若い女性の話である。

この女性は強制収容所で亡くなった。

「これは、私自身が経験した物語だ。

単純でごく短いのに、完成した詩のような趣きがあり、

わたしは心をゆさぶられずにはいられない。

この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。

なのに、じつに晴れやかだった。

『運命に感謝しています。

だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの』

彼女はこのとおりに私に言った。

『以前、なに不自由なく暮らしていたとき、

私はすっかり甘やかされて、

精神がどうこうなんて、

まじめに考えたことがありませんでした』

その彼女が、最後の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。

『あの木が、ひとりぼっちのわたしの、

たったひとりのお友達なんです』

彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。

外ではマロニエの木が、

いままさに花の盛りを迎えていた。

板敷きの病床の高さにかがむと、

病棟の小さな窓からは、

花房をふたつつけた緑の枝が見えた。

『あの木とよくおしゃべりをするんです』

わたしは当惑した。

彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。

譫妄(せんもう)状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。

それでわたしは、木も何か言うんですか、とたずねた。

そうだという。

ではなんと?

それに対して、彼女はこう答えたのだ。

『木はこう言うんです。

わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、

わたしは命、永遠の命だって・・・・』 」(「夜と霧」より)

誰もその人の身代わりになって

苦しみをとことん苦しむことはできない。

この運命を引き当てた

その人自身がこの苦しみを引き受ける事に

二つとない何かを成し遂げる

たった一度の可能性はあるのだということを

この女性は、無意識のうちに悟っていた。

さらに別の箇所にフランクルが、

高齢になり妻に先立たれた男性に

「あなたが今つらい思いをしているから、

奥様がつらい体験をしないですんだ」

と語る場面がある。

それにより、その患者がが開悟へと到った部分がある。

私が、この苦悩を体験しなければ、

他の誰かが代わって

その苦悩を体験しなければならない。

それが宇宙のカルマなのである。

ここにこそ、

ひとり一人の人生に意味があるというのだ。

この時、フランクルが語ったことに似た体験を

私は、24歳の時に体験した。

深夜、免許取り立ての知人の運転でドライブに出かけたとき

大きな交通事故に遭い、生死をさまよったのである。

右半身不随となり、半年間の車いす生活をした。

最初、救急病棟にいた時は、

「無感動」「無感覚」状態で

何も考えられない状態だった。

しかし、数日後の深夜

不思議な直感が全身をおそった。

右半身不随になったベットの上で、

「もし誰かがこの苦しみを負わなければならないなら、

私にその苦しみを担当させてくださってありがとう」

という思いがこみ上げてきたのだ。

その次の日から、

少しづつ右の手足が動くようになり

医者も驚嘆するほどの奇跡的回復を遂げたのである。

家族や知人など周りは皆、深刻になっていたのに、

何故か私の内面は感謝で溢れていた。

それは、不思議な体験であった。

その後、一生車椅子を離れられないのでは、

と思われていた私の身体は、医者も奇跡だと驚くほど、

ほぼ完全に奇跡的回復をしたのだ。

まさに運命とは、神の賜物である。

その人だけにしか与えられないものだ。

だから、自分が体験したことは

誰も、どんなことも奪えない

宝物なのだ。

それは、エーテル体という金庫の中に記憶されていく。

そこにこそ、体験価値があるのだ。

どういう両親のもとに生まれるか、

どういう環境で育つかは選べない。

しかし、その環境のなかで、

どういう態度で生きるかという態度価値を選べる自由はある。

さらに、この部分を、

「自由の哲学」の第7章と照らし合わせて読んでみよう。

私達は、日常生活の中で知覚内容と名づけた

時間的空間的に制約された部分を見出しながら生活している。

しかし、自分の周囲にある「事物」が

何かの象徴であることを学んだとき、

人間は初めて物質界から自由になるのである。

例えばスミレの花を見たとする。

その時、自我意識の内部にある

「静かで敬虔な心情」と結びついたとき、

スミレのなかに、私は、

「静かで敬虔な心情の象徴」をみることができる。

フランクルが出会ったこの女性も、収容所の病棟の

小さな窓から見える一本の「マロニエの木」の中に

「永遠の命」の象徴を実感として見たのである。

「マロニエの木」が「永遠の命」をもっているなら、

このわたしも「永遠の命」を持っていると、

木によって勇気づけられたのだ。

そして、開悟の境地にいたり、

死の恐怖をも「感謝」の感情に変容することができたのである。

このように、外にある事物と

私の自我意識の内部にある宇宙の全体性に関わる概念を

自我意識がひとつに結びつけるとき、

そのときはじめて認識衝動は満足するのである。

この女性の自我意識は宇宙の全体性につながり、

認識衝動は満足したのである。

このように、人間は現実の知覚内容と

内なる概念を高次の在り方に向けて

統合させていくことができるのである。

現実の知覚内容を

高次の態度価値へと高めたとき、

私たちは、高次の認識内容を獲得できるのである。

コメント(13)

読みながら
いつしか
涙が頬を伝って落ちました。

感謝が
変容の
終の感情なのでしょうか?深めたいと願います。

ありがとうございます。
自分の苦悩を、運命として、なおかつ宇宙のカルマとして捉えると、苦悩している私の魂に宇宙の意味が光のように注ぎ込まれるのですね。

大震災は日本民族のカルマ、その後の原発事故は時代的な人類のカルマだと思えます。
そのカルマを私たち日本人が担い、克服していくことにより、人類の進化にも寄与できるはず…。

原子力利用の問題は、人類のカルマとして日本人が率先して解決すべき問題なのだと思えます。
私の持っている『夜と霧』は、ずいぶん昔に買ったもので、
霜山徳爾訳の旧版です。

私も去年の震災の後、ふと思うところがあって、また手に取ったりしました。

どこかで目にしたこんな言葉があります。

「震災で何もかも失った人々が
それでも感謝しながら生きる姿を見て
何も失わなかった人々が癒されている」


>私が、この苦悩を体験しなければ、
>他の誰かが代わって
>その苦悩を体験しなければならない。
>それが宇宙のカルマなのである。

想像を絶する、強制収容所の記録…

場所や時代を超えて、現代の私たちも、
実は思いもよらない何かの力を、
あの人々の苦悩に負っているのではないのだろうか…

そんなことを思いました。
あめじすとさん
コメントいつもありがとうございます。

笑◎^∇^◎みかん♪さん

コメントをとても嬉しく思います。

高校生の時に読まれたのですね。

昨日の新聞の書評欄の話題の本で
『夜と霧』が紹介されていました。

ジュンク堂書店の人文・教育・歴史書
ベストセラー(8月20日〜26日)で1位。
丸善でも2位の売れ行きだそうです。

不朽のロングセラーは時代の節目に
新たな読者を獲得していくのでしょうね。

『それでも人生にイエスと言う』

これは、魂の浄化のためにとても大切なことですね。
ありがとうございました。

なでさん
コメントありがとうございます。

>感謝が変容の
>終の感情なのでしょうか?深めたいと願います。
そうですね。

聖書を熟読しても、
「喜びなさい」という教えが
一番の根底に流れているように理解しています。

カルマを浄化し、高次の段階へ到る道が
ここに秘められているように思います。

ありがとうございました。
jun-iさん
コメントありがとうございます。

コメントを拝見して、
「なるほど」と、とても深く納得しました。

個人的苦悩から人類の苦悩(カルマ)へと
眼を転じるとまさにおっしゃるような内容が見えてきますね。

>自分の苦悩を、運命として、なおかつ宇宙のカルマとして捉えると、
>苦悩している私の魂に宇宙の意味が光のように注ぎ込まれるのですね。

>大震災は日本民族のカルマ、
>その後の原発事故は時代的な人類のカルマだと思えます。
>そのカルマを私たち日本人が担い、
>克服していくことにより、人類の進化にも寄与できるはず…。

>原子力利用の問題は、人類のカルマとして
>日本人が率先して解決すべき問題なのだと思えます。

まさにその通りだと共感します。
日本人の叡智を結集して、
時代的な人類のカルマを克服すべき大きな課題を与えられたわけですね。

そのためには、フランクルの言う「態度価値」を高次へと
高めることが、まず出発点として必要であると思いました。
そこから、問題解決への叡智が生まれてくるように思います。
賢い日本人ならそれが可能だと確信しています。

ありがとうございました。
案山子さん
お久しぶりです。

「どんな苦しみにも、どんな人生にも意味がある」という
フランクルの言葉に
様々な意味で困難な時代を生きる私たちは、
とても励まされるように思います。

『夜と霧』ぜひお薦めですよ。

ヒルフェ*ゾフィーさん
コメントありがとうございます。

コメントを拝見して、
改めて心に響くものがありました。

さらにフランクルが語った深い真意が見えてくるように思いました。

>「震災で何もかも失った人々が
>それでも感謝しながら生きる姿を見て
>何も失わなかった人々が癒されている」

>想像を絶する、強制収容所の記録…

>場所や時代を超えて、現代の私たちも、
>実は思いもよらない何かの力を、
>あの人々の苦悩に負っているのではないのだろうか…

>そんなことを思いました。

まさにそうですね。

表面的な思考では、なかなかこのような段階の
思考に到れないのですが、

外で生じている現象と

私の自我意識の内部にある宇宙の全体性に関わる概念を

自我意識がひとつに結びつけるとき、

このような高次の認識に到達できるように思いました。

自我意識を宇宙の全体性に繋げていきたいものです。

ありがとうございました。

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