萬葉集・万葉集コミュの人麻呂は48番歌をどう訓んだのか

人麻呂は48番歌をどう訓んだのか

私は奈良まほろばソムリエのインテリ紳士、鉃田憲男氏の奈良グルメ記事が多い「tetsudaブログ「どっぷり！奈良漬」が好きで屡々読ませて頂いているが、その中で以前、奈良女子大学教授・奥村和美氏による万葉集48番についての最新の研究成果を著した岩波文庫版『万葉集』（2013年刊の新版）では従来一般的、標準的な現代文訓みとされてきた
東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ　(犬養孝・万葉の旅上)が
東(ひむがし)の野(の)らにけぶりの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
という訓みに変わっていてショックだったという記事があったので私なりに人麻呂作48番の訓みについて考えてみたい。というのは私もこの「炎」とは多分煙をいうのだろうと思っていたからで、やはりこういう本が出たかと思ったのである。

まず西本願寺本による48番の原文は　「東野炎立所見而反見為者月西渡」で略体歌風の非略体歌という感じでなるほど、訓みはいかようにも考えることができて難しそうである。
これは仙覚によって
「あづまののけぶりのたてるところみてかへりみすればつきかたぶきぬ」と読み仮名が付されている。上の犬養先生の従来の訓みとも違うが奥村先生の新しい訓みとも違うようである。

そこでまず発句の「東」を見てみよう。仙覚は「あづまのの」と訓んでいるが古代では「あづま」という語は「東国」のことであり、ごく大雑把に言うと万葉以前には碓日峠と足柄山とからの東、関東、東北の諸県をいう。文化的、言語的に西部日本との差が大きく、後進地域と見なされていたので、畿内の人々からは侮蔑の目で見られることが多かった(岩波古語)ということで適当な訓みとは思えない。ここでの「東」とは明らかに方角の「東方」を意味しており訓みは「ひむがし」が適当だと思われる。
次に「野」であるが、これは「原」とは違い、山裾の広い傾斜地などをいう(岩波)が、この奥村先生のいう「野ら」とはなにぶん本を読んでいないので断定は出来ない(五巻で六千円ということで買う気もない(笑))のだが、古語辞典を見ると①野原。草などの茂っているところ　②耕地。畑。(以上岩波)ということでどうやら①の野原を指すようであり、「ら」とはおそらく語数を七に整えるためになされた調整と思われるのでこれは普通に「野」の方が適しているかと私は思う。

そして一番問題となると思われる「炎」であるが、これは集中における用例を見なければならないだろう。まず古語辞典を見ると①炎。②立ち昇る水蒸気に光が当たり光が屈折してゆらめいて見えるもの。陽炎。③曙の光。として例文としてこの48番が載せられている。
なお、「炎」を「かぎろひ」と訓んだ即ち※④「現在の訓を得たのは契沖・賀茂真淵の功績による」と犬養先生は述べている(万葉の旅・上)

「炎」の忠実な訓みは「ほのお」「ほむら」であろうがこんな炎が立つような場面は下記に述べる中山画伯の絵にある焚き火くらいのもので炎が出るような燻しの火煙では山火事の危険がある。といって焚き火ではスケールの小さ過ぎる場面しか思い浮かべることができず、歌の「東の野に」という雄大なイメージの句からもちょっと考え難い(笑)
故に②か③かということになるのであるがこれは集中の用例を見なければなるまい。以前講座の友人たちと調べ合って先生にも見て貰ったのであるが②の「かぎろひ」という訓みは「燃ゆる」を導き出すものが通例であると考えてよいだろう。集中の用例を挙げると
210………蜻火之燎流荒野尓(柿本人麻呂)
1804……蜻蜒火之心所燎管 (田辺福麻呂)
1835……蜻火之燎留春部常 (作者未詳)

一方、「けぶり」を見てみると
2…………國原波煙立龍(舒明天皇)
1879……春日野尓煙立所見 (作者未詳)
2742……火氣焼立而燎塩乃(作者未詳)
3324……烟立春日暮 (作者未詳)
といずれも「立つ」を導き出すのが通例となっている。また特記すべきは2742で「火氣」と表記して「けぶり(焼き立て)」とするものもある。つまり「炎」で「けぶり」と訓む例があったということに外ならないと思うのだ。
以上の用例は講座の友人たちと調べ合わせて先生にも見てもらったのだが誤りや漏れが有れば教えて頂ければ幸いである。

また③の曙光を「かぎろひ」と表記した歌は他には無く、「立つ」や「燃ゆる」ではなく「差す」を導き出すものというのが本当ではないだろうか。
というわけで私は人麻呂が東方の野に見たのは曙光と煙であるが「炎」は曙光ではなく奥村先生が言うように「けぶり」を指すものだと思うのである。

これの理由として説明を補完すると…………
以前には橿原市畝傍の大和歴史館に画家中山正美氏の阿騎野行の壁画「阿騎野の朝」があり、その中山氏が詳しい考証をされて48番歌が詠まれたのは持統六年十一月十七日(太陽暦十二月三十一日)と推定されたらしい(犬養先生)
その壁画は現在では宇陀市中央公民館大ホールに在るということで機会があれば是非見てみたいのだが「阿騎野の朝」と検索すればネットで見ることも出来る。
それによるとやはり相当寒いのであろう、人々が焚き火をしている場面が描かれている。正面の馬に乗って描かれている人物が人麻呂らしくその後ろで人々が焚き火をしているという図である。この遊猟には次期天皇に万一の事があっては大ごとだからと相当に多くの人数がお供をしたと思われ、以前投稿したように掘立て造りの建物を建てたと同時に強引に民家などに泊まり込んだのであろう、それらの人たちがあちこちで起こした焚き火かと考えられるが、それは何分この辺りは山中で真冬には気温が氷点下六、七度になるような地だからである。また、猟が始まる直前に獲物を燻り出すための煙ということも考えられるだろう。こういった理由と原文の「立つ」という表記から私は「ケブリ」と訓むのが正しいだろうと思うのである。また、これは49の「日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ」という歌からも言えると思うが、それはこの歌群の精神が日並皇子(草壁)追慕の心(稲岡先生)だからである。つまり人麻呂は49で人々が暖をとり獲物を燻り出す煙を出して「さあ、あの狩りに出発したと同じ時は来た」と言いたいのであろう。

しかしこのように考えてきて改めて思うのは、「炎＝かぎろひ」という訓みは、季節が冬であることからも誤りである可能性が高い。が、なにぶん名訓ではありこうまで人口に膾炙しその訓みが定着して愛誦されているものをいきなり変えるというのも如何なものかと思うのである。

以前講座の先生が「どうでもよいことをああだこうだと言うのが我々の仕事です」と言っていたが、まあそれは冗談として我々一般の万葉ファンは上記に挙げたことくらいのことを一応の知識として持っていればそれほど厳格に考えずとも従来の慣れた耳触りの良い「かぎろひ」でよいのでは、と思うのだ。というのは※①に書いたが福麻呂作1047のように、次の句に「春」という語があるからという前提があるものの「かぎろひの春にしなれば」(炎乃春尓之成者)と「炎」を「かぎろひ」と訓んでいる例もあるにはあるからである。また岩波古語辞典にもそう記している※④(但し契沖、真淵以降であろうが)

逆に私が絶対に認めたくないのは「月傾(かたぶ)きぬ」という訓みである。これは万葉ファンなら既にご存知のことであって調べて頂いたらすぐにお分かり頂けると思うが著名な人麻呂作169番草壁皇子挽歌
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも

のように集中において月とは普通夜空を「渡る」ものとされ、集中には「月渡る」の例が圧倒的に多い。現にこの48の原文も「月西渡」となっておりこれを「月かたぶきぬ」とは義訓でもない限り訓めない。「月かたぶきぬ」と訓むためには原文を※③「月加多夫伎奴」(3955)、或いは※②「月傾伎奴」とでもしなければならないだろうからこれも明らかに仙覚の誤りと思うのだ。

伊藤先生はこの訓みを「月西渡る」としており、中西先生も「旧訓『月西渡る』も捨てがたい」と述べている。するとやはり嘗ての標準的な訓は「月西渡る」であったことがあるのだろうか。私的には是非とも原文に忠実な旧訓に戻して貰いたいと思うのであるがこの辺りが私如き浅学の廃人と新進気鋭の学者先生との相違というものか。
しかし私の意見は伊藤、中西といったビッグネームと同じなのだが ^^

次に新訳の「けぶりの立つ見えて」であるが、これはあまりに専門的でここまで考えずともと思うのだが、理解出来ないほど難しいことでもないので一応書いておくと………
「普通は『野炎(ノニカギロヒノ)』(真淵・万葉考)と訓まれている。しかし、『佐伯梅友・万葉語研究』によると動詞『見ゆ』が他の動詞に接する時には、古代では必ず終止形を承ける。よって上の『立つ』は終始形と見なければならないが、その終止形は格助詞の『の』や『が』を承けることがない。この点に留意しての眞鍋次郎『四十八番の歌私按』による」(伊藤先生)ということでこれに従えば「の抜き」の「けぶり立つ見えて」が正しいのであろう。
伊藤先生はこの意見を採って
「東(ひむがし)の野にはかぎろひ立つ見えてかへり見すれば月西渡る」
としている。

また仙覚の旧訓「立所見而」が、今日訓まれる「立つ見えて」でなく「立つところ見て」となっているのは(漢文のように)※⑤戻って訓まなければならない表記法は例を見ないという伊藤先生の文を読んだ記憶があり多分そのせいであろうと思うのだが、その先生もレ点などは普通に返って訓んでおりはっきりしたことは分からない。(3032 「雨者雖零」など)

ということで、私は人麻呂がおそらくこの歌を
東(ひむがし)の野にけぶり立つ所(ところ)見て返り見(かへりみ)すれば月西渡(にしわたる)
と訓んだのではないかと思うのである。

講座の先生を倣って、どうでもよいことをああだこうだと言わせて頂くと………
私的には「かぎろひ」に馴染みがあり語感も良く、またそう感じる人も多いだろうと思うのでこの48番名歌の訓みは
東(ひむがし)の野にかぎろひ立つ見えて返り見すれば月西渡る

としたいと思うのだが、私を含めて皆様方は普段においては自分の好きな解釈で味わればよいのだろう。二句目が字足らずになっているが私は字足らずの句は結構好きで気にならないのである ^^
字足らずでは嫌だという人なら
東(ひむがし)の野にはかぎろひ立つ見えてかへり見すれば月西渡る

となさればよいかと思うが如何だろうか。人麻呂大好きな方は
東(ひむがし)の野にけぶり立つ所(ところ)見て返り見(かへりみ)すれば月西渡(にしわた)る
と訓まれれば如何かと思うのである。

※①………ただ、「炎」の訓み方の唯一の例外として福麻呂作1047では「かぎろひの春にしなれば」(炎乃春尓之成者)と「炎」を「かぎろひ」と訓んでいるが、これは次に「春」とあることによって明らかに「陽炎」であると認められるからであろう。この訓みは誰が付けたのかは分からないが多分真淵か契沖だろう。

※②………「例えば」ということで音韻は全く考慮していない (^^;)

※③………「加多夫伎奴」のうち「伎」だけが音韻甲であとは音韻不問

※④………今日一般に採用されている上三句の訓は「賀茂真淵・万葉考」による

※⑤………巻三ー249 三津埼浪矣恐隠江乃舟公宣奴嶋尓　(人麻呂)
の「舟公宣奴嶋尓」を「舟なる君は野島にと宣る」(井出至先生)という訓み方についての伊藤先生の意見で「舟なる君は宣らす野島に」(大濱先生)は良訓とする。

コメント(7)

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[3] mixiユーザー 08月28日 11:13

「東野の」「月西渡る」と読むのが、自然だと思います。
二句は、三字足りない訳ですが、漢字の字形分解を用いて、「炎・ほのほ」を二度読みしていると考えています。ブログ「貫之のこころ・私の元永本古今集」に詳しく解説してます。
https://5jnrystart.muragon.com/entry/18.html

[5] mixiユーザー 08月28日 17:51

>>[3]

コメントありがとうございます。
「ツキニシワタル」………集中においては「月」は夜に東から西へ渡るというのが圧倒的に多い表現だし、「ツキカタブキヌ」とは常識的に訓めませんよね。共感して頂ける方がおられて嬉しいです。

でも「炎」は私も人麻呂は「カギロヒ」ではなく「ケブリ」或いは「ホノオ、ホムラ」と訓んだのだろうとは思うのですけど……鉃田さんも仰っていましたが「かぎろひを見る会」が「けぶりを見る会」、「ほのおを見る会」となってしまうかもしれず、ソレでは情緒が無くなってしまって困りますし寂しい限りですねw🤭

[6] mixiユーザー 09月01日 03:43

訂正

勝手ながら
「つまり人麻呂は49で人々が暖をとり獲物を燻り出す煙を出して………」

は

「つまり人麻呂は49で人々が暖をとり獲物を燻り出す煙を出すのを見て………」

に訂正致します。

[7] mixiユーザー 01月27日 12:07

「東」の訓み方他(再考)

1294歌に出てくる「日向(ひむか)」について岩波古語辞典を調べてみると、その次の項目に「東」があり、読んでみると結構参考になると思われたのでメモにしておきたい。
それには
「東(ひむがし)」………《日向(むか)しの意。シは風の意から転じて方角を示す語。
上代では「ヒムカシ」と清音。　平安時代に「ヒムガシ」、鎌倉時代以後「ヒンガシ」から「ヒガシ」にと音が変化した》
「日の出」に向いた方向。東方。

とあって「東(ひむがし)」とあるところを見るとこの辞典は平安時代重視なのか(笑) と思うのだが、例として
「東の野にかぎろひの立つ見えて」(万48)を挙げている。この辞典の記述に厳密に従うなら
「東(ひむかし)の野にかぎろひの立つ見えて」(犬養孝・万葉の旅)と訓むのが万葉歌では正しいということになる。

すると結構よく知られた門部王作310も
「東の市の植木(うゑき)の木垂(こだ)るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり」
(東市之殖木乃木足左右不相久美宇倍<※①戀>尓家利)」　
も厳密には「ひむがしのいちの…」ではなく「ひむかしのいちの…」と訓むのが万葉歌では正しいということになるのだろう。

その他、伊藤先生は「漢文風に返って訓まなければならない表記法は歌詞には例を見ない」と言うがその伊藤先生もレ点が必要と思える箇所は返って訓んでいることからそのことを念頭に、かつ※②佐伯梅友氏の説も取り入れて人麻呂48番
「東野炎立所見而反見為者月西渡」
を人麻呂がどう訓んだかを再度考えてみると、私の学燈社「万葉集必携」の万葉仮名一覧には「ゆ」「え」に「所」は記載されていない。が、伊藤、中西両先生とも1294の原文「月立所見」を「月立てり見ゆ」と訓んでいること、職人気質の人麻呂は出来るだけ綺麗な定型に近い形で詠みたかったのではないかと思われることから或いは人麻呂は
「ひむかしののに(は)けぶりたつみえてかへりみすればつきにしわたる」
と詠んだかとも思うのである。

上の(は)は、伊藤先生を倣って「は」を入れた例なのだが、職人気質の強い人麻呂は定型にするため或いは近づけるのにやはり以前に述べた返って訓まない
「ひむかしののに(は)けぶりたつところみてかへりみすればつきにしわたる」
と詠んだのだろうか………それは作者人麻呂が実際にどう口に出して詠んだかが明らかではない以上不明であるとしか言いようがない。原文の字から推定するしかないのだろうがそれでも結局は推定の域を出ないのだろう。

また「炎」に関しては、私的にはやはり理屈では正しいと思える「けぶり」に思い入れがあるのだが、鉃田氏が言われるように「けぶりを見る会」では趣も気分も相当に損なわれてしまうのは確かと思う。個人の好みや主観を挟むのはよくないこととは分かっているが、それはそれで悩むところである ^^;

※①………底本「吾戀」類等による

※②………普通は『野炎(ノニカギロヒノ)』(真淵・万葉考)と訓まれている。しかし、『佐伯梅友・万葉語研究』によると動詞『見ゆ』が他の動詞に接する時には、古代では必ず終止形を承ける。よって上の『立つ』は終始形と見なければならないが、その終止形は格助詞の『の』や『が』を承けることがない。

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