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日本全国歴史的人物の墓を巡る旅コミュの鹿児島県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等

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鹿児島県にある歴史的人物の墓所・菩提寺等を訪ねたよ!

って人!報告待ってます!

fromしゃけ
「ホームページアドレス」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/



※ちなみに私が訪問したことがあるところは以下の通り…

福昌寺跡(島津家菩提寺)、本立寺跡(島津家菩提寺)、
五廟社(島津五代の墓)、島津忠良の墓、島津尚久の墓、
島津歳久の墓、島津家久の墓、薩州島津家墓地、
伊作島津家墓地、永吉島津家墓地、宮之城島津家墓地、
丹後局の墓、谷山隆信の墓、肝付氏累代の墓、
肝付清仲の墓、樺山久高夫妻の墓、市来氏歴代の墓、
入来院氏歴代の墓、祁答院氏歴代の墓、菱刈氏歴代の墓、
蒲生一族歴代の墓、喜入氏累代の墓、川田氏累代の墓、
川田堂園供養塔群、吾平山上陵、御坊墓(種子島家墓所)、
御拝塔墓地(種子島家墓所)、本源寺(種子島家菩提寺)
可愛山陵、吾平山上陵、新納忠元夫妻の墓、小松帯刀のお墓、
豊臣秀頼の墓、牧田甚四郎の墓、尾辻佐左衛門の墓、
満留忠実の墓、中条政義の墓、冨松左京の墓、

コメント(32)

ちょうど2月に鹿児島に旅行に行く予定なんですよ飛行機
みなさんのお墓情報、楽しみにしていますexclamation
トピ作成ありがとうございました。
先週の土曜日に行ってきた大河ドラマ「篤姫」ゆかりのお墓を早速投稿させていただきます。

【左】今和泉島津家墓所(鹿児島県指宿市)
【中】今和泉島津家初代・島津忠郷墓
【右】その今和泉島津家墓所の中の島津忠冬(篤姫の兄)墓(写真内左)島津忠剛(篤姫の父)墓(写真内右)
こちらは今年の大河ドラマには関係ありませんが東郷平八郎の墓です。祇園之洲公園の近く、東福寺城跡にあります。

2009年秋から放映のスペシャル大河「坂の上の雲」の撮影が始まったようですね。
todoさん

写真UPありがとうございますわーい(嬉しい顔)
大河の「篤姫」は今見てるだけに、ゆかりの史跡を訪ねるのが楽しみです。
>アポロさん
篤姫ゆかりの地は鹿児島県下各地に散らばっているので、事前にネット検索をかけてターゲットを絞ると良いかと思います。結構、力を入れてPRしてますよ。

さて、今回は過去の写真から。西南戦争がらみの墓です。全て鹿児島市内の南洲墓地にあります。

【左】西郷隆盛墓
【中】桐野利秋墓
【右】村田新八墓
todoさん

やはり大河の舞台になるとすごいですよねexclamation
「篤姫館」も出来ましたし。

市内がメインの観光になると思いますが、行けたら指宿にも行きたいです。
有名な砂むし温泉も見てみたいですしわーい(嬉しい顔)

西郷隆盛の墓は、すごくどっしりと重みがあるお墓ですね。 
名前も力強く大きく彫ってありますし。 
西郷どんのイメージそのままですね。
・谷山隆信の墓

・所在→鹿児島県鹿児島市上福元町



〜コメント〜

南北朝時代に南朝方に属した谷山隆信の墓。隆信は九州に下向してきた

征西将軍宮・懐良親王を谷山城に迎え、北朝方の島津氏久と対峙した。

尚、この近くには征西府将軍懐良親王行在所跡の碑もある。
・島津家久の墓

・所在→鹿児島県日置市吹上町永吉


〜コメント〜


島津家久の墓。家久は戦国島津四兄弟の末弟で、兄の義久、

義弘、歳久と共に島津氏の九州平定に尽力した。四兄弟の

中ではすば抜けて猛将の誉れが高く、特に佐賀一帯を支配した

龍造寺隆信を討ち取った島原合戦は名高く、島津氏の九州制覇に

大きく貢献した。秀吉の九州征伐の際にも善戦したが、秀吉に

降伏した直後に急死をした。

・種子島時尭の墓

・所在→鹿児島県西之表市西之表(御拝塔墓地)


〜コメント〜

鉄砲伝来時の種子島の島主・種子島時尭の墓。時尭は天文12

(1543)年に種子島南端に漂着したポルトガル人より鉄砲

2丁を購入し、その操法と製法を家臣に研究させ、初の国産銃

製造に成功したといわれている。鉄砲という新鋭の武器は、

わが国における戦法を一変し、未曽有の混乱の時代だった戦国

時代を終息へと向かわせる結果となった。まさに時尭は日本の

歴史を大きく変えた日本史上に残る人物の一人であるといえる。

尚、時尭の墓は御坊墓にもある。
・種子島時尭の墓

・所在→鹿児島県西之表市西之表(御坊墓)


〜コメント〜

鉄砲伝来時の種子島の島主・種子島時尭の墓。時尭は天文12

(1543)年に種子島南端に漂着したポルトガル人より鉄砲

2丁を購入し、その操法と製法を家臣に研究させ、初の国産銃

製造に成功したといわれている。鉄砲という新鋭の武器は、

わが国における戦法を一変し、未曽有の混乱の時代だった戦国

時代を終息へと向かわせる結果となった。まさに時尭は日本の

歴史を大きく変えた日本史上に残る人物の一人であるといえる。

尚、時尭の墓は御拝塔墓地にもある。

・肝付兼重の墓

・所在→鹿児島県肝付町前田


〜コメント〜

肝付氏第八代当主兼重の墓。兼重は南北朝時代に南九州における

有力な南朝方として奮戦した武将で、三俣院高城、東福寺城などの

諸城に転戦し、武家方の畠山直顕、島津貞久らの軍と激しく戦った。

生涯を通じ南九州での南朝勢力の拡大に努めたが、争乱の中で病没した。
・楡井頼仲の墓

・所在→鹿児島県志布志市志布志町志布志2(大慈寺)


〜コメント〜

楡井頼仲の墓。楡井氏は信州楡邑の出身で信濃源氏の末裔とされる。

この地方で最初に楡井氏の名が現れるのは建武3(1336)年のことで

南北朝時代、大隅・日向地方では南朝(宮)方の肝付兼重が勢力を誇って

いたが、北朝(武家)方の畠山直顕の侵攻が激しく、次第に敗勢となって

いった。在地勢力として急速に興隆していた楡井頼仲は征西将軍宮・

懐良親王の入薩(1342年)を機に南朝方武将としての性格を明確にし、

肝付氏に代わって大隅で勢力を拡大、志布志城主となってこの地を

支配した。しかしながら正平12(1357)年に畠山直顕氏によって

攻められ志布志城は落城し、頼仲は自害して楡井氏は滅亡した。
 曹洞宗玉竜山福昌寺跡〔鹿児島県指定史跡〕の島津本家墓地に行って来ました。
左;第6代師久(薩摩守護)
中;第6代氏久(大隅守護)
右;奥;第10代立久 手前;第9代忠国
福昌寺跡です。
左;第11代忠昌
中;奥から第14代勝久・第13代忠隆・第12代忠治
右;奥から第16代義久・第15代貴久
福昌寺跡です。
左;奥から第17代参議義弘・第7代元久・第8代久豊
中;第21代吉貴
右;奥から第18代中納言家久・第19代光久・第20代綱豊
福昌寺跡です。
左;第22代継豊
中;奥;第24代重年 手前;第25代従三位重豪
右;第23代宗信
福昌寺跡です。
左;第27代斉興
中;第26代斉宣
右;第28代斉彬
福昌寺跡です。

左;左大臣島津久光公爵
中;横山安武(1843〜70) 初代文部大臣森有礼子爵の兄で、時弊10箇条を挙げた書を集議院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹して果てた。
右;第15世住持忍室文勝和尚 フランシスコ=ザビエルと交流
 西南戦争の西郷軍戦死者を葬った南洲墓地〔鹿児島県指定史跡〕です。
左;参議近衛都督西郷隆盛陸軍大将
中;日向国佐土原藩主島津忠寛三男島津啓次郎
右;出羽国庄内藩士榊原政治
南洲墓地です。
左;宮内大丞村田新八墓
中;桐野利秋陸軍少将墓
右;篠原国幹陸軍少将墓
南洲墓地です。
左;鹿児島県令大山綱良墓 乱に連座したと見做されて斬首
中;隆盛末弟西郷小兵衛墓
右;別府晋介陸軍少佐墓  西郷の介錯人
・可愛山陵(瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵墓)

・所在→鹿児島県薩摩川内市宮内町


〜コメント〜

天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵墓。

天照大神の命により、葦原の中つ国を統治するため、三種の神器ととも高天原から

日向の高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を妻とし、

彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を生んだが一緒に奉られた姉の磐長姫(イワ

ナガヒメ)は醜かったので嫌って妻にしなかった。すると姉妹の父・大山祇神(オオ

ヤマツミ)が憤慨して「磐長姫(イワナガヒメ)をお召しになれば、生まれてくる御子の

命は岩のように永遠のものとなる。木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)をお召しに

なれば、生まれてくる御子の命は、花が咲きやがて散るように、限りあるものとなって

しまう」と呪いをかけられ、代々の天皇の寿命が、岩のように永久ではなく、花のように

短くなるようになってしまったのだという。尚、可愛山陵とされるものは他にも複数の

伝承地がある。
・吾平山上陵(鵜葺草葺不合(ウガヤフキアヘズ)の陵墓)

・所在→鹿児島県鹿屋市吾平町上名


〜コメント〜

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の孫で、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の

子である鵜葺草葺不合(ウガヤフキアヘズ)の陵墓。母は海神の娘・豊玉姫で、

母の妹である玉依姫を妻とし、五瀬命(イツセノミコト)・神日本磐余彦尊

(カムヤマトイワレビコノミコト)(=神武天皇)を生んだ。名前は母が海辺に

産屋をつくり、鵜の羽で屋根を葺こうとしたところ葺き終わらないうちに生まれた

ことによるという。尚、吾平山上陵とされるものは他にも複数の伝承地がある。


・高屋山上陵(彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト=山幸彦)の陵墓

・所在→鹿児島県霧島市溝辺町麓


〜コメント〜

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子である彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の陵墓。

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一夜の交わりで妊娠したのを疑われた木花開耶姫(コノハナ

サクヤヒメ)が疑いを晴らすために産屋に火を放ってその中で生まれた三柱の御子の末弟。

海幸彦・山幸彦の神話の山幸彦。兄の海幸彦は海で魚をとり、弟の山幸彦は野や山で狩りを

して暮らしていたが、ある日兄弟は道具を交換し海幸彦は山に、山幸彦は海に出かけた。

ところが、弟の山幸彦は兄の海幸彦が大切にしていた釣り針を失くしてしまった。山幸彦は

釣り針はたくさん作って返すと謝ったが、海幸彦はもとの釣り針でなければ嫌だといって

受け取らず、困り果てた山幸彦が海辺で泣いていると塩土老翁が現れ、山幸彦に海神の宮に

行くように教えた。そこで豊玉姫と結婚し、3年間暮らしたが、釣り針のことを思い出すと

憂鬱になった。すると海神はすべての魚を集めて鯛の喉から釣り針を見付け出し「オボチ、

ススチ、マジチ、ウルチと唱えながら、手を後ろにまわして兄に返しなさい」といい、そして

塩満珠と塩乾珠という2つの玉を授けて鰐の背に乗せて地上に送り返した。いわれた通りに

呪文を唱えて返すと兄の海幸彦は貧しくなってしまった。弟を憎んだ海幸彦が攻めてきた

時には塩満珠で兄を溺れさせ、兄が許しを請うと塩乾珠を使って助けて海幸彦を降伏させた。

海幸彦・山幸彦の神話では兄の海幸彦は隼人の祖先とされており、大和朝廷側の山幸彦が

隼人族を支配することの起源神話になっている。尚、高屋山上陵とされるものは他にも

複数の伝承地がある。
・高屋山上陵(国見権現)
(彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト=山幸彦)の陵墓

・所在→鹿児島県肝付町国見山


〜コメント〜

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の子である彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の陵墓。

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に一夜の交わりで妊娠したのを疑われた木花開耶姫(コノハナ

サクヤヒメ)が疑いを晴らすために産屋に火を放ってその中で生まれた三柱の御子の末弟。

海幸彦・山幸彦の神話の山幸彦。兄の海幸彦は海で魚をとり、弟の山幸彦は野や山で狩りを

して暮らしていたが、ある日兄弟は道具を交換し海幸彦は山に、山幸彦は海に出かけた。

ところが、弟の山幸彦は兄の海幸彦が大切にしていた釣り針を失くしてしまった。山幸彦は

釣り針はたくさん作って返すと謝ったが、海幸彦はもとの釣り針でなければ嫌だといって

受け取らず、困り果てた山幸彦が海辺で泣いていると塩土老翁が現れ、山幸彦に海神の宮に

行くように教えた。そこで豊玉姫と結婚し、3年間暮らしたが、釣り針のことを思い出すと

憂鬱になった。すると海神はすべての魚を集めて鯛の喉から釣り針を見付け出し「オボチ、

ススチ、マジチ、ウルチと唱えながら、手を後ろにまわして兄に返しなさい」といい、そして

塩満珠と塩乾珠という2つの玉を授けて鰐の背に乗せて地上に送り返した。いわれた通りに

呪文を唱えて返すと兄の海幸彦は貧しくなってしまった。弟を憎んだ海幸彦が攻めてきた

時には塩満珠で兄を溺れさせ、兄が許しを請うと塩乾珠を使って助けて海幸彦を降伏させた。

海幸彦・山幸彦の神話では兄の海幸彦は隼人の祖先とされており、大和朝廷側の山幸彦が

隼人族を支配することの起源神話になっている。現在、標高886mの国見山山頂にある

国見権現には彦火火出見尊を祀る祠があり、文化14年(1818年)9吉日の銘がある石灯籠

をはじめ古跡塔がある。尚、明治5年6月に明治天皇が西郷隆盛など公武官を従えて鹿児島

に巡幸された際には鶴丸城から皇祖の眠る薩摩川内市の可愛山陵、内之浦の高屋山陵

(国見権現)、鹿屋市の吾平山陵の三山陵を遙拝されたといわれており、江戸時代までは

この国見山が高屋山陵の一番有力な候補地だったともいう。
・安徳天皇陵(みささぎ)

・所在→鹿児島県垂水市牛根麓


〜コメント〜

安徳天皇陵。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子で母は平清盛の娘・建礼門院徳子。安徳天皇は

平清盛の強引な後押しにより、生誕一ヶ月で皇太子に立てられ、翌々年にはわずか三歳で父・

高倉天皇からの譲位により即位した。しかしながら、翌年清盛が死ぬと各地で平家追討の

動きが出て、寿永2(1183)年7月の木曽義仲の入京に伴う、平家一門の都落ちに際しては

三種の神器と共に奉じられ西国に脱出した。すると後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ、

天皇が二人立つという異常事態となった。以後、安徳天皇は平家一門と共に西国を転々と

したが、文治元(1185)年、源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の合戦で敗れた平家

一門と運命を共にし、海中に没して亡くなったとされている。しかしながら、『醍醐雑事記』

に「先帝行方不明」とあり、『玉葉』でも「旧主御事、分明せず」とされていることなどから、

実は安徳天皇は壇ノ浦から密かに脱出して生き延びたという伝説・伝承が西日本の各地に

残されていて、全国には安徳天皇陵とされるものが十数ヶ所あると言われている。尚、四国

では屋島の合戦で身代わりを立てられた安徳天皇が知盛以下の平氏一門に護られて四国に

上陸、四国山地を横断するように苦難の潜幸を続けたという伝説・伝承が各地に根強く

残されている。この垂水に伝わる伝承によると、壇之浦の戦いに敗れた平家は安徳天皇を

奉じて西海に走り硫黄島に着いたが、のちに島を脱しこの地に漂着、天皇は13歳で

亡くなり、ここに葬られたという。尚、この地は古くから「みささぎ」と呼ばれ土地の人々

から厚く信仰されていたところで、文化年間には薩摩藩主・島津重豪が参拝、自ら献燈・

玉垣を奉献したといい、現在でもそれらが残されている。
・島津忠宗の墓

・所在→鹿児島県鹿児島市清水町(本立寺跡)


〜コメント〜

島津家第四代当主・忠宗の墓。忠宗は島津久経の長男で父とともに弘安の役で元軍と戦い、

大いに活躍して武功を挙げ、鎮西引付衆となった。弘安7(1284)年、父・久経の死に

より島津宗家の家督を継ぎ、鎌倉幕府より文保元(1317)年、日向国高知尾庄、肥前国

松浦庄、豊前国副田などの地頭職に任じられた。翌年、嫡子貞久をはじめ、忠氏・忠光・

時久・資久・資忠らの諸子に所領を分譲。それぞれ和泉・佐多・新納・樺山・北郷氏らの

祖となった。和歌にすぐれ「新後撰和歌集」「続千載和歌集」などにその歌がみえる。正中

2(1325)年11月12日死去。尚、忠宗の墓とされるものは出水市の感応寺にもある。
・島津忠宗の墓

・所在→鹿児島県出水市野田町下名5735(感応寺五廟社)


〜コメント〜

島津家第四代当主・忠宗の墓。忠宗は島津久経の長男で父とともに弘安の役で元軍と戦い、

大いに活躍して武功を挙げ、鎮西引付衆となった。弘安7(1284)年、父・久経の死に

より島津宗家の家督を継ぎ、鎌倉幕府より文保元(1317)年、日向国高知尾庄、肥前国

松浦庄、豊前国副田などの地頭職に任じられた。翌年、嫡子貞久をはじめ、忠氏・忠光・

時久・資久・資忠らの諸子に所領を分譲。それぞれ和泉・佐多・新納・樺山・北郷氏らの

祖となった。和歌にすぐれ「新後撰和歌集」「続千載和歌集」などにその歌がみえる。正中

2(1325)年11月12日死去。尚、忠宗の墓とされるものは鹿児島市の本立寺跡にもある。
・安徳天皇陵

・所在→鹿児島県三島村硫黄島


〜コメント〜

安徳天皇陵。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子で母は平清盛の娘・建礼門院徳子。安徳天皇は

平清盛の強引な後押しにより、生誕一ヶ月で皇太子に立てられ、翌々年にはわずか三歳で父・

高倉天皇からの譲位により即位した。しかしながら、翌年清盛が死ぬと各地で平家追討の

動きが出て、寿永2(1183)年7月の木曽義仲の入京に伴う、平家一門の都落ちに際しては

三種の神器と共に奉じられ西国に脱出した。すると後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ、

天皇が二人立つという異常事態となった。以後、安徳天皇は平家一門と共に西国を転々と

したが、文治元(1185)年、源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の合戦で敗れた平家

一門と運命を共にし、海中に没して亡くなったとされている。しかしながら、『醍醐雑事記』

に「先帝行方不明」とあり、『玉葉』でも「旧主御事、分明せず」とされていることなどから、

実は安徳天皇は壇ノ浦から密かに脱出して生き延びたという伝説・伝承が西日本の各地に

残されていて、全国には安徳天皇陵とされるものが十数ヶ所あると言われている。尚、四国

では屋島の合戦で身代わりを立てられた安徳天皇が知盛以下の平氏一門に護られて四国に

上陸、四国山地を横断するように苦難の潜幸を続けたという伝説・伝承が各地に根強く

残されている。ここ硫黄島に伝わる話によると、壇之浦の決戦を前に平資盛が安徳天皇を

奉じて日向灘を南下、硫黄島にたどり着いたとされる。その後、黒木の御所をもうけた

安徳天皇は資盛の娘を后とし、隆盛親王等を儲け、寛元元(1243)年5月5日に亡く

なったという。尚、安徳天皇の子孫は長濱姓を称し、硫黄島大夫家として代々熊野神社

(硫黄大権現宮)に三種の神器を祭り続け現代に至ったという。(現在、三種の神器とされて

いるものは偽物であり、本当の神器は硫黄島にあるものだという。)しかしながら、三種の

神器のうち、玉と剣は天正2(1574)年8月4日の権現宮失火のおりに焼失、唯一残って

いた鏡も島津斉興に召し上げられ、すり替えられたものが、返却され、後日、その事実が

判明し、戦後この鏡を返してもらうべく、長濱家が島津家に交渉したものの、島津家では

知らぬといって今日ではその所在はわからなくなってしまったという。いずれにしても

安徳天皇がどこぞに落ちのびたのだとすると、その子孫はどうなったのかという疑問が

残るが、全国の数ある平家落人伝説の中でも安徳天皇の子孫が伝えられているのは

ここだけであり、そういった意味でも大変興味深いものがある。
 
はじめまして。
お知らせさせてください。
NHK大河ドラマを毎年毎週 楽しんでいます。
それに実は自分が同姓ということもあって。
再来年の大河ドラマのコミュニティを作成してみました。
 
NHK大河ドラマ2018『西郷どん』http://mixi.jp/view_community.pl?id=6126168
 
大河ドラマ・NHK・歴史・幕末・西郷隆盛・鹿児島などの、
ファンの皆さん、お気軽にご登録いただけたら うれしいです。:)
お忘れなく、よろしくお願いしもす。

(♪オリジナル・ラヴ『カミング・スーン』https://goo.gl/HxZyhB)
 

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