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邪馬台国コミュの邪馬台国はどこにあったのか

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いきなりこんなテーマを出して良いものか(笑)・・
邪馬台国問題において、所在地論は最も基本的かつ究極のテーマですね。単純に謎解きの面白さというだけではありません。邪馬台国が九州にあった場合と畿内にあった場合では、その後の大和朝廷につながる歴史のストーリーが全く変わってくるので、学問的にもとても重要な内容です。言い替えれば、邪馬台国問題は所在地論に尽きる・・と言っても過言はないでしょう。
現在のところ、北部九州説と畿内説が拮抗しているようですが、それ以外のレアな場所を唱える人もたくさんいます。さあ、皆さんのご意見やいかに。この問題は時間をかけて議論していきましょう。

コメント(1000)

>>[957] 縄文海進3M有明海拡大版。
これをみると吉野ヶ里は海岸線で久留米も海岸線です。邪馬台国は有明海沿岸であるとますます思います。
ここまで来ると少しやりすぎだと思います
古代博多湾海岸線想像図です。これで行くと魏の使節の末盧上陸後は、実は海岸線を歩いたのではと思えてきます
>>[963]

そもそも古墳とは何か…というところまで立ち返らないといけないのかも知れません。
巨大な墳墓自体は中国などにもありますが、日本のそれと連続性があるわけではなく、恐らくですが山岳信仰と関連があります。
公共事業により属民の結束を図るという政治的な意味もあるでしょうし、外垣内先生は「渡来人の城郭技術者が、城郭都市をもたない倭人に自分の技術を売り込むために大墳墓の建造を提言した」という説を唱えていました。ただし、魏志には「韓に城郭なし」とも書いてあります。帯方からの技術者だったのかも知れません。
形については円墳が基本で、そこに祭壇を設ける場所を作ったのが段々巨大化して前方後円墳になったのだろうと思います。

当時の海岸線については貝塚や古墳の位置からも大体想像はつきそうですね。恐らく先行研究は色々あるのでしょう。
>>[964] そうですね。でも以外と海岸線の研究をする人は、魏志ルートの研究はしないし、その逆もしかりです。
山岳信仰。それが一番おさまりがいいですね。沖ノ島は海の古墳といわれますから。おそらく対馬という山の島もそうなのでしょう。信仰の対象に対馬がならないわけはないと思うのですが。あの島なくして対馬海峡の行き来なしといっても過言ではない。
○の部分が儀式の場。そして方の部分は光を呼び込むような形ですね。○に向かって。
ぼくは何もしらないのですが、古墳のこの方から○へ向かう方位はどうなっているのでしょうか。
例外なく光が呼び込めるように、光るの通路上に作られているということはないのでしょうか。少なくとも春分や秋分や夏至や冬至において。

古墳の遺跡としての研究やピラミッド説などのようなあほらしいものは除いて、文化人類学的アプローチというのはあるのでしょうか?
>>[965]

日本の古墳はピラミッドなどと異なり方位がバラバラに作られていて、発掘調査が限られていて埋葬者の特定がことからも法則性を見いだすのは困難です。
恐らくですが、平安時代に方違えの風習があったことからも、吉方を占ってその都度方位を変えていたのではないでしょうか。

私は祭祀の場所は□の部分だと思います。○には埋葬の石室があり足下に踏みつけることになりますし、平らな部分も僅かなので、祭壇を設けたり埴輪を陳列する場として□を作ったのだと思います。
誤植がありました。

「埋葬者の特定が不可能なことからも」です。

もちろん、記紀の記述からある程度の推定は可能です。
天皇陵の位置についての情報は編纂当時としては重要情報でしたから、信憑性はあると思います。
>>[966] ひとつの考え方として。
魏の使節が親魏倭王の称号を与えた国は大きな国でないといけない。
しかし、事前の聞き取りでは帯方郡から倭の情報がかなり深く入っていない限り確かめようがありません。

すると巧みに帯方郡にやってきて、対馬海峡を渡った先の世界の代表うぃ自称する人々を魏の人々が日本列島全体の王と考えてもおかしくない。そのつもりで到着すると
そこはまだ分裂する村連合程度の国。確かに対馬海峡を渡った先に一定の勢力はいた。
しかしそれは魏の規模でみれば九州島の北岸周辺のみの勢力だった。
他の土地は?
女王国の東の1000里より向こうは倭種だが別の国であると書いてます。
九州島と周防くらいまでの世界がこの勢力=邪馬台国である。
しかしこれは公文書としての報告書には書けない。親魏倭王にふさわしい大国として記録しないといけない。

こうすることで伊都国からふみ国までが卑弥呼の国であるにもかかわらす、
大国にするために距離表示を変えた。

すなわち水行20日。水行10日。陸行1ヶ月。
この表示でぐーんと大きな国にしたのではないか。九州の半分くらいの国を。
そしてそれをさらに南に伸ばせば、呉の背後の立地の国となり
親魏倭王授与のミスが帳消しにされる。

なんといっても中国の人治主義システムというか、わいろも多いというか、きめ細やかな占領政策というより、ざっくり儲けながら、適当に報告する。今日でも相当な報告やらがなされているように見受けます。
あるいはそんな人間的な事情も混ざっていたかもしれないなどとまたしても妄想ですが。
>>[968]

邪馬台国の里程が不自然に伸ばされているのは、呉の背後を取る大国と盟約結んだと見せかけるために倭国を大きく見せたかった、という当時の帯方郡の「思惑」に基づいているのだという考え方は、とても説得力があると思います。

三韓の大きさが不自然に大きく引き伸ばされているのも、よく似た理由があるのかも知れません。
韓は倭と異なり、帯方から見るとしばしば反乱を起こされ、服属させなければならない相手でしたが、小国の反乱相手にてこずっていると思われると、帯方太守の責任問題となり、洛陽からの処罰の対象になりかねません。そのために韓地を不自然に大きく描き、さらにその南の倭も大きくしたのかも知れません。

そして、そのような杜撰な地方経営の方針が、中華王朝には伝統的に存在していたのではないか、という考え方にも同意します。中国では地方政府のまとめた統計の数字がそのまま使えない、というのはよく言われている話ですし、これは中国に限った話ではないのだろうと思います。公的機関のまとめた統計の数字に信頼性があるのは、世界でも西欧とアメリカの一部、日本に限った話なのかも知れません。

そして中国や日本だけではなく、厳密に国境線を定め、領民をそこに定着させるという近代国民国家の考え方が世界中で定着していったのは、せいぜい19世紀以降の話です。
そのために欧米列強が世界中で領有の不分明な地域を植民地として領有し、さらにその周辺諸国にも戦争をしかけて植民地化するという植民地戦争が引き起こされました。

中国はモンゴルの以北を漠然と、自分たちに服属する遊牧民たちが住まう不毛の地だと思っていましたが、ロシアによって次々に条約を結ばれ、領地を失っていきます。きちんと領有を主張できればそんなことは無かったのでしょうが、主張する根拠もありませんでした。清朝にとって、国境線というのは漠然としたものであり、ロシア人が来るまではそれを脅かす存在もおらず、領民というのは常に移動する遊牧民だったからです。
>>[969] 確かに。文明の半分は遊牧民文明ですね
はじめまして。よろしくお願いします。すごい研究の成果の展示場になってますね。
これから勉強です。
ぼくはどちらかというと近畿説です。吉野ヶ里より巻向遺跡のほうが規模がかなり大きいと聞いてますので。
>>[971]

はじめまして。どうぞよろしくお願いします。
はっきりしたことが分からないながらも、色々仮説を立てるのは楽しいですし、仮説の積み上げで何らかの真実が見えてくるかも知れません。
吉野ヶ里についてはおっしゃる通りだと思います。
多分群立していた小国家の一つに過ぎないのでしょう。技術の進歩で新しい遺跡の発見も増えていますし、今後が楽しみです。
>>[972] 見つかった遺跡だけでは判断できないということでしょうか。それも一里ありますね。NHKのプロジェクトXで見ましたが吉野ヶ里が発見されたのも担当者の必死の運動によるものであやうく工業団地になるところでした。
葬られた無数の遺跡もあったでしょう。もう少し掘れば大発見のところが、調査はここまでというのもあったでしょう。
福岡県の方が奈良県よりも都会だから、遺跡が見つかりにくいということもあるかもしれないですね。でも奈良の遺跡や古墳の数はやはり他の場所を圧倒する質量ではないでしょうか。これと無関係に邪馬台国があったというのも不自然に感じます。
>>[974]

「当時日本列島の半分を勢力圏とするほどの大王国があったとは考えにくい」という理由から九州説に傾きがちな私でも、考古学的な証拠の物量では奈良説に軍配が挙がると言わざるを得ません。
奈良も古くから人が多く住んでいて開発は進んでいたと思いますが、文化財保護の意識も古くから高かったのではないかと思います。
例えば日本で最初に整備された博物館の仕事は法隆寺の宝物を整理することでしたし、「あそこの山には○○の天皇はんがいらっしゃる」というような伝承も豊富で、古墳を大切にするという意識もあったのだろうと思います。

たとえ九州に邪馬台国があったとしてもそれは2000年近く前の話であり、滅びてしまった王国であれば伝承も残っていないでしょう。おっしゃるように、開発によって失われてしまった古墳や遺跡は少なくないだろうと思います。
たとえそうであっても、毎年のように考古学の分野では新発見がありますから、まだまだ何か出てくるだろうとは思っています。
文字によって書かれていない時代の歴史を探るというのは、本当に大変なことです。
>>[975] 文字によって書かれていない時代の歴史を探る

感動的ですね
卑弥呼とは千年以上離れた次代の話ですが、私がとても好きなサイトに、倭寇の研究者の方が書かれたものがあります。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/jikenbo.html

倭寇と呼ばれた集団が、漢人や朝鮮人など雑多な民族によって構成されたものであることは比較的よく知られています。「倭」が日本の蔑称として使われていたことは事実ですし、倭寇がおしなべて「倭」と呼ばれたことは、初期の倭寇に日本人が比較的多かったと考えられることや、都合の悪いことは異民族のせいにしようという心理が働いたことも考えられますが、東シナ海の広い地域に混住する、日本とも朝鮮とも中国ともつかない人々の集団を指す言葉としても用いられていて、「日本」とは別の集団とすら考えられていたようです。

卑弥呼の時代には「日本」という呼称は勿論ありませんでしたが、「倭」という民族集団が海峡をまたいで存在していたことについては、倭寇と奇妙な類似を見ることができます。当時は民族を識別する際の指標は言語よりもむしろ外見や生活習慣であり、船を駆って大海に出て漁業や公益に従事する人々を「倭」と呼んでいたのかも知れません。

倭寇が拠点としていたのは五島列島、済州島、舟山諸島や福建省などで、確かに略奪もおこなっていますが、当時禁じられていた私貿易の従事者としての面が強く、略奪の多くはライバル同士での武力闘争や、明朝の官側との戦いの中でおこなわれたものだと考えられます。

そして、主に舟山諸島の住民が安徽省出身の王直という優れた指導者によって組織化され、明から攻撃を受けるようになってからは、日本の平戸(以前のマツラ国です)に拠点を移します。
平戸では、書に優れ学問のある王直は「五峰先生(五峰は五島列島の美称)」として尊敬を集めており、種子島への鉄砲伝来の際に筆談通訳として立ち会ったという説まであります(ポルトガル船には明人も乗り込んでいました)。
王直は後に明へ投降して死罪となりますが、後に台湾を拠点とした平戸生まれの鄭成功もまた、倭寇の系譜に連なる人物です。

かつての中国では王直は漢民族の裏切り者、鄭成功は英雄とされていましたが、近年では民衆革命の指導者であり、民間交易を盛んにしたさきがけとして再評価されることが多いのだそうです。


邪馬台国の位置とは一見無関係な話ですが、こんなところにもヒントが隠されているかも知れない、ということで…。
>>[963] 諏訪で使ったグーグルアースを邪馬台国にも使ってたんですね。面白いですね。
>>[975] 奈良と福岡に二つ、おおきな勢力があってそのうちの一つが邪馬台国でしたと、単純に考えてる人はいないのでしょうか。九州、近畿とどっちも一理あると思うのです。どっちも大事な地域。でもなぜか相手を徹底的にこきおろすような感じになってミクシーの与太者たちの議論に近いケースもあるような気がしました。
近畿と九州。諏訪コミュによると諏訪や関東も結構発展したみたいで。そうするとそれぞれの地域がそれぞれにポイントになっていた。
邪馬台国は帯方郡と奈良までのどこかには間違いないのでしょうね。すきをついて台湾とかいうのはなしですか。
>>[978] もともと邪馬台国の地図こそぼくの出発点です
>>[977] ちょっと思いついた説です。
地図の知識もない時代、伝え聞いた話で人々はどのように倭というものを想像したであろうか。

そのこと自体興味深い話である。

そしていずれにしてもたどり着く有明海や薩摩、筑紫にしてもこれがじつは列島の主要な島でいけば南端であり、東北にむかってぐーんと伸びているわけであり、それはとても神秘な国だったのではないか。

案外その不可解な広がりが「水行陸行」の下りになったのではないだろうか。

逆に倭人サイドからみても朝鮮半島の南端に上陸したら、そこから北に半島の陸地がのびて、その海の向こうに広大なしんじられないくらい広大な土地と巨大な川の国がある。

神秘の国だったと思う。空前のスケールに感じただろう。ほとんど神の土地へ行くようなものか、

文明自体がすごいのだし、建築物や芸術品や文字など信じがたいものだっただろう。

倭人の驚愕という視点ではあまり語られないものだなと思う。


今で考えれば小舟で対馬海峡をわたり、そこから中国の西安あたりまで歩くのですから、宇宙旅行みたいなものですね。


この洛陽への使節が逆に洛陽でどうやてきたのかと尋ねられ、

まず船で20日で帯方郡でした。

そこから船で10日で山東半島で、そこから歩いて一ヶ月で洛陽につきました。



そう答えたのが資料に残っていて、魏志倭人伝に記載された。

そうだこうに違いない。うん。
>>[979]

mixiに限らず100年以上学界の内外で論争が続いていて地域ナショナリズムも絡む問題なので中々難しいようです。

双方に大きな勢力があったことは間違いないでしょう。記紀にもナガスネヒコとニギハヤヒの王国が畿内には既にあり、日向勢力と熾烈な争いを繰り広げています。そのまま史実とするかはともかく、おっしゃるようにそれぞれに大きな勢力があったことは考古学でも立証されます。

台湾説は私も唱えたことがあります。但し倭に関する記述に、呉による夷州探検の際の伝聞が混ざっているのではないか、という考えです。
東冶(福建)の海上にあり東(八重山諸島)に倭人の地があり、南に裸国や黒歯国(フィリピンやボルネオ?)がある。地理的には完全に一致すると言ってよいくらいです。

コロンブスがアメリカ大陸(正確には離島)を死ぬまでインドだと信じたように、魏もまた倭を呉の洋上の夷州と考えていた可能性が隋書の記述などから窺えます。
>>[982] つぶやきとちがって大学教授みたいで格好いいです。すごいですね。わずかのコメントに知識の集積と人柄が表れてる、感服しました
つぶやきもUさん、考えたら切り口が同じ鋭さです。
>>[981]

しばらく見ない間にだいぶ昇級されましたね…(^_^;)

これもとても面白い説です。一応魏志には「南に至る邪馬台国」とあるのでこの方向に経路を考えるのが普通ですが、違う解釈もできるかも知れません。
山東半島から朝鮮へ至る航路はこの時代にはまだ確立されていないのではないかと思いますが、徐福が通った航路は恐らくここですよね。蓬莱島の伝承は朝鮮半島を指すのかも知れません。
>>[984]

いえいえ、一つのテーマをこれだけしつこく追っていると色々思うところは出てくるのですが、勉強したいことは山ほどあります。エーベルさんの自由な発想にも大変刺激を受けています。
しばらく仕事が忙しくてなかなか投稿できませんでしたが、久しぶりに邪馬台国問題についての私見を書いてみます。
邪馬台国について考える時、まず最初の前提条件として「倭人伝は果たしてどこまで信用できるのか」という問題に必ず突き当たります。

確かに倭人伝にははっきり間違いだと言える誤りがいくつかあります。大庭修氏の著書にその例が一部書かれていますが、例えば「太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし」という文がありますが、魏には「建中校尉」という官職はありません。しかし「建忠校尉」ならあります。従ってこれは「忠」を「中」と間違えているのです。とはいえ、当時優れた史家であり、西晋の官僚でもあった陳寿がこんな単純ミスを犯すはずはなく、犯したとしても校正段階で気づくはずです。また、日本書紀にも三国志からの引用としてここが「忠」と書いてあることから、陳寿が書いた原文ではこうした間違いはなく、少なくとも書紀が書かれた8世紀に日本に持ってきた三国志の写本が作られた時点までは正しく記載されていたことが分かります。従ってこの間違いは8世紀以降、宋版の三国志が印刷された12世紀までのおよそ400年間のいずれかの時点での写本制作時に発生した誤記だと考えられます。

また、使と吏の漢字の使い分けでも間違いがあります。「帯方太守劉夏、使を遣し汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り」とありますが、これでは郡の太守が皇帝に使いを遣わすという意味になり、劉夏は皇帝の上位に立つことになります。そんな無礼が許されるはずはありません。もちろんこれは使ではなく、配下の役人を意味する言葉である「吏」を遣わす、でなくてはなりません。これも上記と同じく陳寿の間違いとは考えられず、転写ミスの可能性が極めて高いと言えます。通常の文章中の文字とは違ってこれらの字の違いは重要で、減筆してはならない文字だからです。

しかし、このように論理的に説明のつく間違いを指摘するのではなく、ただ単に「倭人伝は信用できない」「当時の人はよく分かっていなかったのだろう」「意図をもってわざと間違えて書いたのだろう」という理由で倭人伝を読み替えたり改変したりする事は、邪馬台国問題を研究する上で致命的になりかねません。邪馬台国というものが存在したことを唯一証明している基本文献である倭人伝の記述を信用できないとして片づけるのであれば、邪馬台国の存在そのものを否定する事と同じことになります。あげくの果ては卑弥呼も存在しなかった、そもそもこれらは日本列島の事ではなかった、三国志は戦略上の理由で捏造された偽文書であるなどという説と大差がなくなり、学問からはかけ離れて、こうした事を考えること自体が意味を失ってしまうからです。
続きです。

陳寿の書いた三国志は他の史家からも厳しい精査を受けたはずです。人物の取り上げ方については批判があったものの、歴史書としての評価は決して悪いものではありませんでした。同じ史家として出自も名声も陳寿より上で、皇室に極めて近い皇族のひとりでもあった夏侯湛が、陳寿の書いた三国志を見てその出来栄えに感銘を受け、自分の書いていた魏書を破り捨てたという逸話は有名です。もし陳寿の三国志に何らかの間違いがあったなら、陳寿は厳しい批判を受けたはずであり、陳寿自身もその事を十分承知したうえで、間違いがないよう執筆や校正には細心の注意を払ったはずです。

また、陳寿の三国志はあくまで私撰であって、国家の命令を受けて編纂したわけではありません。正史と認定されたのは唐代になってからであり、内容に手を加えて国家の威光を水増しせよなどというような命令を、魏や晋の役人から受ける立場でも状況でもなかったのです。そんなことをするくらいなら西晋は始めから別の人間に作らせていたでしょう。

倭人伝、すなわち三国志に何らかの間違いがあるとすれば、それは陳寿の責任ではなく、最も大きな原因は後世における写本制作時の転写ミスです。写本制作は単純作業であって、知識の豊富さよりも字の上手さと書く速さが問われます。人間が単純作業を長時間続けて行う時、必ずミスは起こるのです。

倭人の言葉を信じていたので騙されたのだという考えもありますが、私はこうした解釈も問題があると思います。里程や方角を含めた東夷の情報を洛陽が欲しがったのは、それが重要な軍事情報だったからに他なりません。だからこそ調査の命令を受けた者は、三国志を読む限りみな軍人だったのです。言葉もろくに通じぬ外国人の言いなりで報告書を書くなど、軍人にはありえない事です。記事の内容は調査員が直接その目で見た事か、あるいは少なくとも裏が取れている情報、信じるに足る根拠がある情報に限られるはずです。従って記事に間違いがあるとすればそれは決して意図的なものでもなく、思い込みによるものでもなく、あくまで純粋なミス、思わぬ手違いによるものしかありえないと思うのです。

しかし倭人伝にミスが散見されるからという理由だけをもって、里程や方角その他の記載を無視して自由に解釈してもいいという事にはなりません。上記のような転写誤記による誤りを除けば、基本的には三国志の内容はほぼすべて正しいという前提で考察を進めない限り、真実から離れていくばかりであり、ファンタジーの世界に突入してしまいます。そしてたとえそうした誤りによるものであっても、論理的に納得のいく説明がなされて初めて変更が許されるという、厳しい姿勢が必要だと思います。いかに倭人伝の記述が自説に都合の悪いものであっても、合理的に説明のつく訂正理由がない限り、根本史料である倭人伝の内容を不用意に改変してはならないのです。あらゆる誤りを認めず、一字一句倭人伝を死守する古田説にも賛同しかねる部分がありますが、しかし倭人伝の記載内容を安易に変えてはならないとする古田武彦氏の史書・資料に対する姿勢には基本的に賛成です。
>>[988]
すばらしい意見をありがとうございます。

ごぶさたしています。最近諸般の事情で昇進して将軍になったものの降格して今は訓練兵になっています(笑)
質問です。
倭人伝に忠実にというのは項目に漏れがなければいいのでしょうか。
たとえば途中の国があればよく、そこへの記述があればいいといったような。
まつろ国から伊都国は東南へ500里、陸路ですが、これはまつろ国と伊都国があり、そこへな陸路であるという部分が史実ならば、方角と距離は解釈の余地があるということでしょうか。
それともすべてはそのまま正しいということでしょうか。
項目が加算されている場合と、項目が削除されている場合と想定されるのでしょうか。
しかしそもそもまつろ=松浦で伊都国=糸島であればなかなか、東南に陸路を行ったとは思いがたいのですが、ここがしかし定説化しているから、さらに壱岐からまつろ国も1000里もあるとなっているから他の部分も距離も方角も適当であるとなっても仕方ない状況なのかもしれません。
そして距離と方角が任意に設定されるということはどこでも可能になるということですね。
そんな意味では去年、考えてた志賀島から香椎あたりがまつろ国で、大宰府あたりが伊都国というのは、壱岐からも1000里であり、そのあと陸路東南に500里です。が地名の由来とまるであいません。

さて壱岐と対馬が1000里でしかし壱岐と松浦は500里くらい(倭人伝内縮尺)だとして、海上の距離はわかりにくいというのがあるのですが、
たとえば対馬から行きへは遠く感じると思うのです、実際に遠いし、壱岐は島だから遠くにやっと見える程度。
しかし壱岐から九州島は違います。巨大な陸影がそこにあり続けます。だからそして対馬壱岐間の半分くらいの距離ならこれは距離感として近いというのははっきりわかるのではないかと思うのです。もう巨大な陸が目の前にあり、実際の距離も半分。これを対馬と同じ1000里と記載するということは、1000という数字にあわせて文章のリズムをとったとか、そうでなければ、まつろ国は松浦ではないということではないか?などと思ったりしています。
糸島を伊都であるとするのは99%確かなようですが、なんだか倭人伝の記述にはあわないようなムードを感じます。
なぜ巨大な九州島の陸影を見ながらそのまま沿岸を博多湾あたりまで航海しないのか不思議です。せめて伊都国の糸島の港に直接停泊してもいいのではないか。そんなことから、糸島半島の先端あたりもまつろ国だったのではないかと思ったりしています。
すると糸島の山から大宰府あたりまで見えるのです。さえぎるものがありません。その先端から東南に歩くといとの山すそに着きますから糸島=伊都国の整合性はつきます。
松浦のひとつとして糸島半島の唐津湾側というのがあったのではないか。
ここに船がくることで1000里の件もかなりつじつまがあいますが。
この黄色のラインが通説の陸路です。なぜこんな道を歩く必要がるのか。もうひとつのラインは武雄へ向かう道です。こちらのほうが歩く必然という点ではありそうです。唐津湾に上陸してそのまま佐賀平野へ行く。
さきほどの、糸島の唐津側もまつろ国という考えに基づく地図です。
連投すみません。
前の大陸の地図を訂正し、したの地図が難升米が通った道ではないだろうか。遼東半島から山東半島をなぞりつつ、黄河に入ってそのまま洛陽へ。そうすると、なんとこの旅は、ほとんどすべてを船でいけるのである。行こうと思えばだけど。

黄河を船で行けるのに歩くだろうか。帯方郡の船にのって山東半島についたらちょっとだけ歩いて黄河についたらあとは上流の洛陽へ。

ちなみに山東半島から洛陽までは約700キロです。それは伊都国から奈良までの約600キロより距離がある。大変な旅である。全行程は2000キロくらいだろうか。



さて洛陽についたら、必ず聞かれると思うのです。

「邪馬台国からはどうやって来たのですか?」

「帯方郡にまずいきました。そして・・・・」

ところが帯方郡と洛陽の間の行程は知られていたでしょうから、倭人が一番感動したルートは洛陽人には関心がない。

そして倭人があまり関心のない伊都国から帯方郡までが注目を浴びる。

「帯方郡からは、南に船で20日くらいで伊都国です。歩いたときは一ヶ月くらいで半島の南端に行き、そこから10日で伊都国です」



これが、邪馬台国使節見聞記 みたいなものになって残り、

この記録が倭人伝にどこかの時点で混入してしまった。と想像して楽しんでます。
>>[990] これはなんだかリアルでわかりやすいですね。
>>[989]

> 倭人伝に忠実にというのは項目に漏れがなければいいのでしょうか。

倭人伝に忠実になる必要は全くないと思います。忠実になるというのではなく、軽々しく改変してはならないという意味です。

たとえば、現代の政治家とマスコミを例にとりましょう。マスコミは政治家の発言を報道するにあたって、その政治家に忠実になる必要はありません。それどころか反論や批判すら許されています。

しかし発言内容を勝手に改変する事は許されていません。もし、ある報道記者が本人に確認も取らず「あの政治家は【A】という政策を実行すると言ったが、私が思うにあれは【B】という政策を実行するという意味の間違いなのである。」と報道したらどうなるでしょうか。問題の政治家は激怒して抗議し、報道内容の撤回を要求するでしょう。

もし、その政治家の発言に反対意見があるならば、発言の内容を勝手に改変するのではなく、それがなぜ間違っているか、正しくはどうあるべきかを、正面から論理的に批判すべきなのです。

邪馬台国に関する書物を書いた多くの人々は、この点で同じような間違いを犯していると思います。
たとえば、ちょうどエーベルバッハさんが例に挙げられた末廬国と伊都国の場合ですが、確かに多くの邪馬台国本にはこういう論理が使われています。

『末廬国とは松浦郡、伊都国とは怡土郡(糸島半島)の事である。しかし倭人伝では伊都国は末廬国の東南500里とある。これでは方角も里数も合わない。従って倭人伝の方角や里数は全く信用できない。」

末廬国=松浦郡、伊都国=怡土郡というところがまるで既成事実かのようになっていますが、この点の最大の根拠は主に地名の類似です。しかし3世紀の地名がその数百年も後のヤマト王権時代まで残ったことを示す証拠は何もなく、あくまで推測の域を出ないものです。にもかかわらずそれを根拠に倭人伝の信憑性そのものを否定しているわけです。つまりこの説の本の著者は、地名の類似が偶然ではないとする自分の直感は、3世紀の、まさに邪馬台国の時代に生きていた陳寿が書いた文章などよりもずっと信頼できると言っていることになるのです。

そもそも3世紀の洛陽で、末廬を「まつら」伊都を「いと」と読んだかどうか、当時の発音ですら確たる資料は存在せず、いまだに真実は分かっていません。さらに地名というのは政権の変動によって変化したり移動したりするものです。しかしこの説を採用する人々は地名は末廬=松浦、伊都=糸のように、1700年もの間ほぼ同じ発音の地名が同じ場所で変化せず現代まで残ったと仮定しています。なのにこの説を採用する人の中には、ヤマトという地名やその周辺の地名が九州から畿内に移動したという説も同時に主張する人もいるのです。
続きです。

もし地名というものが簡単に変化するものでないのなら、ヤマトという地名もそう簡単には移動したりしないはずです。もしヤマトが畿内に移動したのなら、その後、畿内でヤマトと呼ばれた土地は、それ以前には別の名前で呼ばれていたという事になりますが、ではその土地の古い地名は一体どこに行ってしまったのでしょう。一方では地名が変化しないという立場で、もう一方では地名が変化するという立場を採るというのは、自説に有利な所だけをかいつまんでいると言われても仕方がないと言えるでしょう。

伊都国の方角が違う事を説明するために、「太陽の方角は季節によって変わるため、東の方角を間違えたのだ」とする説もよく見かけます。しかしこうした説も上記の論者と同じく、当時の人々の能力を見損なっていると思います。季節によって太陽の方角が変わることや、夜空の星によって正確な方位を測定することは、われわれ現代人よりもむしろ古代人の方がはるかに長けていたはずだからです。彼らは地図もなくコンパスもない時代に、ただ天体観測による方角だけを頼りに数千キロの旅ができた人々です。今の我々に同じことができるでしょうか。自分の部屋の窓から東を見て、春分・夏至・秋分にはそれぞれどの方角から朝日が昇るか、はっきり示すことができる人が、現代にどれだけいるでしょう? しかし古代人はそれができたのです。もしそれができなければ古代の中国人たちは、何もない広い砂漠を横断してユーラシア大陸を横断し、はるかローマ帝国まで到達するような事もできず、砂漠でのたれ死んでいたでしょう。もし分からなければそもそも魏使は倭にたどり着く事すらできず、金印を卑弥呼の元に届ける事もできず、邪馬台国という国名が三国志に書かれることもなかったでしょう。

三国志やその元記事を書いた人々、またその三国志に登場する人々というのは、現代のような教育システムが全くない時代であるにもかかわらず、当時の古代世界でも指折りの頭脳を持つ人物、そして東アジアの国際情勢に関与することのできた人物たちばかりであり、現代の我々のような一般人に比べても、はるかに優秀な人々だったはずです。従って彼らの意図が我々にたやすく理解できないからと言って、簡単に否定してはならないと思うのです。もしそれをするならば、冒頭に出てきたような、政治家の政策を勝手に読み誤る、政治について何も知らない愚かな記者と同じになってしまうのではないでしょうか。
>>[995] 大変よくわかりました。
松浦、糸島と来て、でも筑紫平野の山門郡や福岡近郊の下山門、上山門、などは邪馬台国とは無関係であるというのはそれをやるとゴールになってしまうからですね、きっと。
邪馬台国東遷のせいで近畿がヤマトになったなら、末盧国こく西移動で志賀島から香椎の地名が唐津湾にうつり、伊都国、西遷都で、太宰府から糸島に移動もありかなとか考えました。まあ、あくまで可能性としての遊戯ですが。
しかし征服した地や、支配者が移動した血の名前が変わるのは一方で名前が残るのと同じくらい真実です。
岐阜という名前は信長が美濃を取ったときに、有名なお坊さんに命名してもらっています。
またわたしの福岡市はそもそも黒田官兵衛が岡山あたりから来た時に、岡山にあった福岡城と同じ名前を、博多に作った城に命名したのがきっかけです。博多が福岡になって、いまだにJRの駅名は博多で混在しています。
*ちなみに議会の投票で福岡駅と博多駅が同票となり議長決済で博多駅となりました。

アメリカのニューヨークをはじめ各都市はイギリスやヨーロッパの都市名にもなってるのは周知のとおりです。

さてこんなことを考えるとすべてはなんでもありになってしましますね。地名が移ったのは奈良だけでなく九州内部でもあった。いと郡の日向峠の日向が宮崎平野を呼ぶ名前になったとか・・・・・

うーん、地名は残ったものと移ったものと考えていくと、無限の順列組み合わせになっていきそうで怖い。
だからみななんでも言うようになるのですね。
>>[996]

何でもありになってしまうのは、やはり地名の類似という不確かなものを根拠に、いろいろ考えてしまうからでしょうね。

地名の事はしばらく忘れて、やはり根本的資料である三国志そのものに戻って考えるべきではないでしょうか。三国志を読まず、倭人伝だけを読むというのは、新聞の三面記事だけを見て、社会全体の政治や経済を論じるのと同じことです。

三国志全体を読むのが理想ですが、少なくとも邪馬台国問題に関連する記事が記載されている、東夷伝・明帝紀・斉王紀・公孫淵伝などは最低限押さえるべきではないかと思います。ここを基礎にする限り、話が無限に広がるようなことにはならないと思うのです。
>>[997]
ところで、魏の使節の目的は軍事視察であるという説があってぼくも賛成しておりますが、そうすると、行程というのは、一番安全な方法とか歓迎会をやりながらではなく、帯方郡の支援軍が来たら、どういうコースで軍を動かすとという視点でやってくるということかなと思います。
そうすると例の行程は軍団の仮想進路でもあると思うのでsが、そうなるとふみ国までしか来ていない?
あるいはふみ国から南に邪馬台国があり、そのまた南に狗奴国があるとなる。九州島でおさまりはつくのですが、軍事視察で南に歩いて1っか月はない。船で10日とかはない。
ゆえに実はふみ国が決戦の場として想定されていたという風に考えることもできる。どこから狗奴国軍はくるのか?奈良からです。
>>[998]

帯方郡からの使節は一度だけではなく、何度も来ています。一度目はもちろん卑弥呼に金印を仮綬しに来た時で、この時は邪馬台国まで行っていなければなりません。しかし、二度目以降は「郡使往来常に伊都国に駐まる」と書かれているので、伊都国より先には行っていないかもしれません。

行程は倭人の案内によるものであって、郡使が決めたものではないはずです。また、魏が軍隊を倭に送り込むというのはまずありえない事です。遼東への遠征ですら、経費が掛かりすぎるという事で洛陽では大反対があったのに、その倍以上もの距離の遠隔地に軍を送り込むなど不可能です。

遼東遠征がかろうじて承認されたのは、公孫淵が魏に反旗を翻して新王朝を名乗って独立し、魏の背後を脅かすという差し迫った事情があったこと、司馬懿が指揮官であったこと、その司馬懿が明帝から絶大な信頼を得ていたこと、明帝がまだ健在だったこと、などがあってこその話であって、帯方郡からの使節が倭に初めて来た時には、明帝はすでに亡く、わずか8歳の幼い少芳帝が帝位に就いています。明帝から後事を託された司馬懿は後ろ盾を失い、権力争いで大混乱の朝廷内で、幼い皇帝を支えるのに精いっぱいの状況です。魏にとって何のメリットもないのに、倭への大遠征など認められるはずはありません。

魏の使節は確かに軍事的見地からもいろいろ倭の調査をしていたでしょうが、それはあくまでも調査そのものが目的であって、軍隊を送り込むつもりなど全くなかったはずです。

狗奴国との戦争に魏が援軍を送り込もうとしていたのではないか、というのはあくまで一部の日本人史家の想像であって、三国志にはそのような事は書いてありません。邪馬台国と狗奴国の戦争が表面化したのは正始8年(247年)で、難升米に黄幢が仮授されたのはその2年も前の正始6年(245年)です。従って黄幢は狗奴国との戦争支援のために仮授されたものではないはずです。

魏にとって遥か彼方の地である倭と狗奴国の戦争を支援したり、軍を進発させる気など、魏には全くなかったと思います。ただし、この戦争によって困った倭が、苦し紛れに敵側に寝返るようなことがあっては困ります。この時点で倭人伝に出てくる「檄をつくって告喩す」という言葉は、他の用例ではほとんどが「味方に付くよう説得する」という意味で使用されています。狗奴国との戦争に援軍を送るつもりなど全くないけれども、敵に回ることだけは避けたかったので、とりあえず張政等を派遣してなだめさせたということではないでしょうか。
>>[999]なるほど、よくわかりました。ただ、洛陽から数万人がくるというイメージではなく、帯方郡から、数千人です。それもいくかもしれない、行くならこのコースだと言うだけで効果はあると思います。
帯方郡から九州へは、奈良からと距離的にはそれほど変わりません。もちろん最後に対馬海峡を越えるから大変ではありますが。
いずれにしても洛陽からみればすでに帯方郡が、東夷の中でも最果ての韓にあり、倭というのはそのまた海の向こうだから、ほんとに世界の果てであったでしょう。世界の果ての向こうの霧の中の国。
またいろいろ勉強して考えます。

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