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邪馬台国コミュの相撲

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皆様は、邪馬台国に相撲があったと思いますか?

私は、「あった」とは断定できませんが、「あった可能性はある」「あってもおかしくない」とは言えると思います。

古代の相撲、古代のシルムを考えていけば、邪馬台国の相撲の姿がもしかしたら見えてくるかもしれません。

コメント(77)

>>[35]

大分には「相撲」の古い呼び方ってありますか?

もしありましたら教えてくださいね!
>>[38] 特にないですね。でも臼杵市の祇園祭りの、行列の出発する神社には土俵があって、神さびた雰囲気で土俵そのものが祭られていました。そんな風に記憶しています。あの神社に行くと土俵というのは神様のものであるという気がします。
明らかに相撲は神事でした。そののりで僕の村でも相撲祭りがあったのでしょう。土俵の北側の東西に笹の木をたてて、あれは神を示していた思いますが、相撲ととるというのは神さまを楽しませるという意識がはっきりとありました。周辺でも相撲祭りはやってなくぼくの村の特異性。平家の落人伝説がありました。一人勝つとお金がもらえて、神様のささからご祝儀をもらって神様からお金もらってるみたいでした。
ほんと、相撲はスポーツというのではなく、神事ですね。でも古の支配者を喜ばせるためにあったのでしょうね、本当の神は見に来ないでしょうから。だけど相撲は最古の格闘技でしょう。
>>[039]

ありがとうございます!

特に無いのですかー…ちょっと残念です。

全国の「相撲」という言葉の方言がわかれば面白そうですね。

出雲の「やっちゃーこい」というのは意外でした。

「すもう」という言葉からかなり遠いですよね。

それが古代からある古い言葉なら、かつて「やっちゃーこい」と呼ばれる出雲相撲(レスリング)が存在したかもしれず、また出雲の力士たちはきっと強かったのでしょうね。

その強さの象徴として描かれたのが野見宿禰かもしれないと思いました。

でも、前にも書きましたけど『野見宿禰と大和出雲』を読んだら、「もしかしたら野見宿禰は実在したのかも」と思うようにもなりました。
>>[039]

私は、相撲にとって神事は大事な要素だと思いますし、また、子供の遊びも、みんなで楽しむ興行も、武芸も、全て相撲かなーという感じです。

祭の相撲はずっと残っていて欲しいなーと思います。
「やっちゃーこい」はもしかしたら「はっけよい」的な言葉でしょうか?
間違っているかもしれませんが、アジア(東寄り)のレスリング進化論(?)を簡単な図にしてみました。

この図の相撲の位置から、邪馬台国の相撲の姿が見えてこないでしょうか?(難しいでしょうか?^^;)

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=77415862&comm_id=3392316
>>[43] そこはよく承知してませんが、面白いですね。相撲から立ち現れるもの。衣服や髪型もそうかもですね。ほかにもそのような文化や習俗の面からのアプローチって重要そうですね。他にも娯楽があったと思いますが、邪馬台国人は海神族なら水泳が得意で今に残る泳法の元があったとか。
>>[44]

いろんなトピックが作られるといいですね!^^

私もまた何か作ってみます。
前にも書いたと思いますが、私は古代の日本には数種類の相撲があったのではないかと思っています。

邪馬台国の時代にもし相撲があったのなら、それは統一されて一種類だったでしょうか、それとも地域ごと部族ごとにそれぞれのスタイルがあったでしょうか?

考えるのは楽しいですね。

こちらには参考になりそうな台湾のレスリングがあります。

http://blog.goo.ne.jp/worldma/e/782ae652ad6320e6f170bed5ee66e5f1

台湾と邪馬台国は直接の繋がりはないでしょうけれど、スタイル的には邪馬台国の相撲もこういうものだったかもしれないなあという点で十分参考になると思います。
台湾は九州と同じような大きさのようですね。

台湾に数種のレスリングがあるということは、九州、あるいは日本列島にも数種のレスリングがあったとしても不思議ではないですね。

九州は北と南では異なる民族だったでしょうし、異なるレスリングがあってもおかしくはないですよね。

九州の北のものと南のものが、偶然同じようなスタイルだったということも有り得ますけれど。
後に、隼人の相撲について、大和の相撲とは別物だったと書かれていないということは、もしかしたら両者は似たようなスタイルだったのかもしれませんよね。
朝鮮半島から来たレスリングが、九州南部のレスリング(仮に自由に組むスタイルだったとします)と似たようなスタイルだったとすると、大昔のシルムは今のものとはスタイルが違うということになるのかもしれません。

当時の朝鮮半島の国々が同じ民族の国と言えるのかどうかは私にはわかりませんが、もしかしたらシルムというものは朝鮮民族がまとまっていく中で形作られていき、それ以前の朝鮮半島のレスリングは、組んで始めるものではなく、自由に組めるスタイルだった可能性もあるのかもしれません。

また、朝鮮半島の北と南とではスタイルが異なるということも有り得ると思います。

当時の記録がほとんど残っていないので、想像するしかないですけれど…。
対馬や済州島に当時のもの(ミッシングリンク?)が残っていたらなぁ…。
>>[50] 祭りと相撲。古代ギリシャを想像します。
文明を持つ国は祭りが、祭儀があった。そしてその中で相撲というのは間違いなくありそうですね。
神社に土俵があるのだし。
ところで、どういう意味あいの儀式だったのでしょうか。
相撲というのは。
>>[052]

相撲(レスリング)は、儀式などにも用いられるでしょうけど、有史以前より相撲は遊びから護身や戦闘の手段まで幅広いものだったと思っています。

祭でやるようになり、スタイルがまとまっていき伝統的なものとして残っていったのでしょうし、また、人前でやるということは後の興行にも繋がっていると思っています。
>>[052]

相撲といえば農耕儀礼や葬送儀礼としても行われます(ました)よね。
相撲はベルトレスリングだとお考えの方もいらっしゃいますが、(ルーツを辿ればアフリカにまで行ってしまうと考えられますが)相撲は元々裸体で、後に褌を着用しての相撲になったのではないかと私は考えています。

褌を着用する場合、褌を掴むこともあるので、相撲はベルトレスリングとも似ていると言えるかもしれません。

古代の相撲はどのようなものだったのか、参考になりそうなものを持ってきました。

こちらは烏相撲です

https://www.youtube.com/watch?v=fCQCf5MrtOU

こちらはチベットのものです。

https://knoji.com/images/user/Tibetan%20wrestler%201938.jpg

こちらはラオスのものっぽいです。

http://images-01.delcampe-static.net/img_large/auction/000/146/910/384_001.jpg
烏相撲がいつからあったのかはわかりませんが、褌時代の相撲の名残があると思います。
ただし、もちろん、途中、「相撲は裸に褌、あるいはマワシ」と決まる前や、非公式なスタイルでは、服を着用していた(服を掴めた)時代もあったかもしれませんが、ジャケットレスリングも、帯を掴んでから始まるベルトレスリングも、現在相撲としては残っていません。(沖縄のシマはベルトレスリングです)
もし、朝鮮半島ルートや南方ルートと思われる「帯を掴んでから始まるベルトレスリング」が、九州辺りにあれば、シルムやシマとの間のミッシングリンクのようなものとして、面白いことになるとは思うんですが、実際にはありません。

ですから、私は、相撲というのは基本的に「裸体〜褌」のかなり古い時代のものが入ってきているのではないかと考えています。

もし朝鮮半島(特に南部)の古いスタイルがどんなものであったかがわかれば、邪馬台国の相撲も見えてくるのではないかと思います。
私には、「古代の日本にいくつかのレスリングがあった」という考えと、「相撲は基本的に「裸〜褌」の自由に組めるスタイルが元だったのではないか」という考えがあります。

この二つの考えは矛盾ではなく、相撲はいくつかあるスタイルの中から選ばれたものだったのかもしれませんし、また、日本へやって来たルートの違ういくつかのレスリングが偶然大きな差が無かったのかもしれません。

私は縄文時代と弥生時代という分け方は良くないんじゃないかなと思っています。

どちらの時代にも、朝鮮半島、南方、北方から人はやって来ていたと思うからです。

朝鮮半島や南方、あるいは北方から人がやって来たといっても、いくつかの波はあったでしょうし、民族的にもその波ごとに違ったかもしれません。

それから考えると、組んでから始めるベルトレスリングが古代の日本にあったとしてもおかしくはないのですが、それはどこへ消えてしまったのでしょうか。

何故、自由に組めるスタイルが選ばれ残ったのか。

たいへん気になっております。

>>[59]

ご参考になるかどうか分かりませんが、いわゆる「北周りルート」は、私たちが考えているものよりもずっと活発な往来があったもののようです。アイヌやニヴフなど、この地域の民族のほとんどが無文字社会のために文献的な証拠は限られているのですが、たとえばアイヌを研究している丹菊逸治さんによれば、樺太アイヌの楽器として知られる「トンコリ」は、トルコに残っている擦弦楽器カラデニズケメンチェに酷似しており、それが段階的にシベリアを通って樺太に伝わったことを証明できるのだそうです。
http://sakhalin.daa.jp/tonkorisorigin.pdf
そして有名なコロポックルの伝説はプリニウスの『博物誌』が伝播したものだという説もあるのだそうです。
>>[060]

ありがとうございます。

北方民族が交易などを通じて結び付いていたのは本で読みましたけど、遥か遠くから伝わってきたものがある可能性もあるんですね…。
皆様、なかなか「邪馬台国の相撲はこれだ!」というのを示せなくてすみません。

相撲の古代の姿を考え、邪馬台国への人の流れを絡めれば、邪馬台国の相撲がどんなものだったのか見えてくるかもしれませんね。

しばらくネタ探しをしてきます。

皆様ありがとうございました。
ネタを探すと言っておきながら探していませんでした…。

取りあえず、邪馬台国の相撲について私が今思っているのは、

1、「まわし着用の相撲」ではない。
2、「サッパ着用のシルム」ではない。
3、衣服は貴重だったと思うので、脱いだ可能性が高い。
4、だからといって「着衣での相撲」が無かったとは言い切れない。
5、「組んでから始め、掴んだまま取り組むベルトレスリング」は、そこから現在の相撲のような自由に取り組むスタイルに変化しづらいだろうから、可能性としては低いのではないか。
6、「ベルトは着用するが自由に組むスタイル」はあった可能性もあるが、そこから「褌着用の相撲」に変化するかどうか。
7、「バックホールド」は無かったとは言い切れないが、「ベルトレスリング」と同様に組んだまま取り組むものが、自由に取り組む相撲へと変化するだろうか。
8、とは言っても、「相撲」のスタイルが統一される前は、日本列島にいくつものスタイルがあった可能性もあり、その中で邪馬台国のスタイルがどのようなものであったのかはわからない。
9、個人的には「褌着用の相撲」を推します。
まあ、褌があったかどうかも知らないですけどね。
忘れてました。

10、邪馬台国に相撲は無かった可能性もある。

しかし、私は「相撲のルーツはヒトがヒトになる前からあった」と考えているので、それが世界に広まったとすると、邪馬台国に相撲があった可能性は十分にあると思います。
あと、

11、寝技があったらビックリ。
ああ、褌相撲を推したものの、9辺りでuさんが、褌は比較的新しいのではないかという感じのご意見をくださっていますね。

だとすると、褌すら無い裸体で相撲を取っていたかもしれませんね。

もしくは着衣だけど服は掴んじゃダメとかのルールがあったかもしれません。
競技というより、ルールもテキトーな草相撲ということも考えられますね。

競技(祭での相撲大会とか)も草相撲(子供の遊びとか)も両方あったかもしれないですし。
ここで聞いていいかどうかわかりませんが、出雲弁で相撲のことを「やっちゃーこい」というそうです。

また、清水公照という人が猿の相撲の絵に「やっちゃこい」と書いているようですが、この人は兵庫県の出身のようです。

この言葉に心当たりのある方いらっしゃいますか?
75について、草相撲は素人相撲という意味で、祭で行う相撲も草相撲というらしいですね。

邪馬台国の祭でも相撲を取ったかもしれませんね。

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