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邪馬台国コミュの邪馬台国の言葉や文字

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これも想像するしかないのかもしれませんが、邪馬台国の言葉や文字にも興味があります。

当時はどんな言葉が話されていたのでしょうか?

また、邪馬台国にも書物はあったのでしょうか?

コメント(55)

自ら異説を唱えるならば、魏志に出てくる倭人語の地名には二つの異なる系統があったのかも知れません。もしくは、それぞれ記述した人物の言語圏が異なり、漢字で音を表記する際に差が出ていたのではないでしょうか。

一つは魚ケンの魏略から引いたと思われる地名で、対島から伊都国までと、狗奴国です。
ここまでの地名は、マツロ、イト、クノ、などのように摂韻の文字をオで読んだ方がよいように思えます。
なお、魏略には「邪馬台国」も「卑弥呼」も出てきておらず、伊都国が女王に属す、と書いてあるだけです。

もう一つはそこに新たに加えられたと見られる地名で、奴国、不彌国、邪馬台国と傍国20カ国です。
これらについては、摂韻の文字をアで読んだ方が実在する地名に近い形となる気がします。
そのようにすると、次のようにまとめることができます。

国名 31 倭(ア)、対馬(ト’マ)、一支(イチキ)、末廬(マツロ)、伊都(イト)、狗奴 (クノ)

(ここまで魏略による地名)

奴(ナ)、不彌(ホ’ミ)、投馬(トゥマ)、邪馬臺(ヤマト’)、斯馬(シマ)、已百支(ヲハキ)、伊邪(イヤ)、都支(タキ)、彌奴(ミナ)、 好古都(クカタ)、不呼(ホ’カ)、姐奴(ツナ)、對蘇(ト’サ)、蘇奴(サナ)、 呼邑(カヲ)、華奴蘇奴(ワナサナ)、鬼(キ’)、爲吾(イ’ガ)、鬼奴(キ’ナ)、 邪馬(ヤマ)、躬臣(クシ)、巴利(ハリ)、支惟(キイ)、烏奴(アナ)

(これらは別系統による音標表記)
このトピは長らく放置していましたが、私はこの方面から攻めていくのが一番向いているように思います。

上では私の考えがまだ熟していなかったので、一つの日本語の音節に複数の漢字を当てることを容認しています。万葉仮名などでもそうです。これが仮に、一つの音節には原則的に一つの漢字、ということになっていたとしたらどうでしょうか。

魏志倭人伝に出てくる漢字で五十音図を作ることができるかも知れません。
もっとも、当時は八母音であったという説に従うならば、五十音では済まなくなります。
例えば、イ、エ、オには甲乙の二種類があったとするのがほぼ定説となっています。
上では乙類は便宜的にイ’、エ’、オ’と表しています(発音については諸説あります)。

この方面からのアプローチは、地名よりも人名の読みの解読に役立つかも知れません。

對海國 官=卑狗 副=卑奴母離 「ヒコ」 ヒナ「モリ」
一大國 官=卑狗 副=卑奴母離 「ヒコ」 ヒナ「モリ」
末廬國 (官名記載なし)
伊都國 王=一大率? 官=爾支 副=泄謨觚柄渠觚 ニ「キ」 セモコヒコ「コ」?
奴國 官=兕馬觚 副=卑奴母離 シマ「コ」? ヒナ「モリ」
不彌國 官=多模 副=卑奴母離 「タマ」 ヒナ「モリ」

投馬國 官=彌彌 副=彌彌那利 「ミミ」 「ミミ」ナリ

邪馬壹國 女王=卑弥呼 官=伊支馬 次=彌馬升 次=彌馬獲支 次=奴佳[革是]
ヒミ「コ」 イキマ ミマ「ト」 ミマ「ワケ」 ナカテ

狗奴國 王=卑弥弓呼(素) 官=狗古智卑狗 ヒミク「コ」 ココチ「ヒコ」

狗は「ク」と読むのであれば、卑狗は「ヒク」となります。
より正確には「ピク」でしょう。
逆に、觚は「コ」と読むのかも知れません。
そうすると「卑弥呼」は「ピミ’カ」ないし「ピミ’コ’」ではないでしょうか。
>>[17] 官名とは不思議なものですね。ここまでわかってなぜ決まらない?と思っていまします。みなにたような関連ありそうな名前ですね。なんと発音していたか。ちなみに世界好きなぼくのしょうもない知識ですが匈奴はヒュンナと呼ばれていたのではなかったか。もしかしたらすべての奴の字は単なる別称とかで本来の地元の国名は奴を覗くとこだけとかですね。朝鮮半島にも奴のつく国名がたくさんあったと思います。ウィキペディア見ただけですけど。
>>[18]

奴、がつくのは高句麗の部族名だったと思います。たしかはりはりさんが指摘されていました。
匈奴はモンゴル文語のku"men(人。口語ではhu"u"n)と何らかの関係がありそうですが、詳しいことはわかりません。ついでに言うとフン族との関係もはっきりしたことは分かりませんし、ハンガリーとも民族的にはほぼ無関係ではないかとされています。ハンガリーの語源はテュルク語のonogur(十部族)です。

倭国の地名に見られる「奴」は、助詞の「の」を表している可能性は考慮しないといけません。
ただ、「馬」をマ、モ、と好きなように読み替えられないように、「奴」もナ、ノ、ヌ、ト、とその都度好きなように読み替えては行けないと考えています。「ナ」ならば「ナ」以外の読み方はすべきではないでしょうし、もし違う読み方をするならば、倭人伝が複数の資料に基づいている、などの合理的な説明が必要です。

また、「彌彌那利」の場合には「那」の字が用いられています。
奴と那で音が違っていた可能性があり、そうだとするとこれで「ミミナリ」と読むことも怪しくなってしまいます。
私は基本的に魏志倭人伝を「漢音」で読むことには反対です。漢音はよく誤解されるように漢代の漢字音ではなく、唐の時代の長安音に由来しているので、たとえば奴をドと読むのは全く時代も地方も異なった読みになってしまいますし、いわゆる「呉音」の方が古い時代の発音に近いはずです。
呉音のn, mが漢音でnd, mbを経由してd, bに変化したのは、二重子音を持つチベット系やテュルク系言語の影響があったと考えられています。
現在でも西安方言や福建方言の文言音などでその痕跡を見ることができます。

それでも、仮に当時の洛陽音にもすでに那=*ndaのような二重子音の読みがあったとするなら、彌彌那利は「ミミダリ=耳足」と読むべきなのかも知れません。
>>[19] 匈奴はふんなと読んだとウィキペディアにかいてましたが。するとまさにフン族だなあと単純に思いました。
安本美典先生は言語学者でも歴史学者でもなく、本職は統計学者なのですが、邪馬台国関連で明快な論理に基づく多くの分かりやすい著書を書いておられますし、大変影響力のある方でもあります。

この方が「万葉仮名で読み解く邪馬台国」という本を書かれているのですが、どなたかお読みになりましたか?

万葉文字で読むならば、邪馬台国はザマド国でしょうし、卑弥呼もピミヲ(ウォ)という読みであると考えざるを得なくなります。
ではなぜ「ひみこ」と呼び習わされているかというと、後世の漢字音でそうなっているからという理由も無くはないのですが、漢語の音韻が西晋の崩壊と南北朝時代を通じて非常に大きく変化したからだ、と考えられています。
つまり、5〜6世紀頃の南朝音を元にしていると見られる万葉仮名と、3世紀の三国洛陽音に基づくと考えられる魏志倭人伝に見られる漢字表記には大きな断絶がある、とする考え方です。

そして、上代漢字音については定説と呼べるものがないことが、諸説が乱立する原因となっています。極端なことを言えば、邪馬台国でアマツクニという読みすら推定できます。

もし仮に卑弥呼がピミヲだとして、このヲは何を意味するのでしょうか。
姫王=ピミヲ、というといかにも素人説っぽくなるのですが、安本先生は上記の本で、あくまでも仮説の一つとしてですが、漢字語の王の読みを表すという可能性を示唆されています。

スサノヲ、タヂカラノヲ、などのヲは「男、雄」であると解釈されていますが、卑弥呼の呼がこれであるならば、女王であるという記述とは矛盾することになります。
逆に、敵対する王である卑弥弓呼はピミクヲと読むことができ、こちらの方が「ヒミコ」に近いという、面白い結果になってしまいます。
呼がヲサ(長)など、王や族長を意味する言葉だったと考えることは可能かも知れません。

卑弥呼と卑弥弓呼はピミヲサ(姫長)とピミクヲサ(姫子長)、ということになります。
ただ、用例がこの二つしかないため断言はできません。

「弓」を「子」と考えるならば両者は親子関係ということになります。

卑弥呼には子はいなかったと書かれていますが、アマテラスの子どもにはオシホミミがいます。
彼は卑弥呼による葦原中国への遠征の命令を断っており、その子であるニニギが代わりに日向へ天下ったということになっています。

ククチヒクに名前の似ている神は、イザナギイザナミの子であるククノチノカミ(木神)がありますが、他にもイザナミを焼き殺したというカグツチノカミも、類似を感じさせます。
ヲ、と読む前提であれば、この他母音は合わなくなりますが、オホカミ、オホキミ(大神、大王)の頭の子音を取ったものかも知れません。

もしくは、*hwo(ヲ)ではなく、*kha(カ)と読まれたのではないか、という前提であれば、「カミ」の頭子音を表した可能性もあるかも知れません。

そうすると、卑弥呼は比売大神または比売神と読むことができます。
そうすると宇佐神宮や八幡神社の祭神と同一視できます。
もう一つ考えを進めると、卑弥呼は「女王」の倭語による訓を示しているのかも知れません。

卑弥=女(ヒメ)、呼=王(オホキミ)、すなわちヒメノオホキミです。
女王国は「ヒメノオホキミノクニ」となります。

すると卑弥弓呼はヒメコノオホキミ、すなわちニニギでしょうか。

卑弥呼=アマテラスであるとして、その本拠地であった高天原が天孫降臨の後どうなったかは、記紀には現れません。
もしかすると、子または孫であるニニギの王国によって、あっという間に滅ぼされてしまったのではないでしょうか。

傍国名によく使われる「奴」を助詞のノと読むことについては抵抗があったのですが、安本美典氏は「まなこ」「たなごころ」などの例を引いて、古語においては「な」が助詞の「の」の意味に使われることは一般的だったと述べています。
「上古音で読むか、中古音で読むか」という論争があるようです。

私も、一支国、末盧国、奴国は上古音で読むのに、伊都国は中古音で読むことについて、疑問に思っていました。
上古音で読むなら伊都国はイタ国ですし、中古音で読むなら前者はイシ国、マツロ国、ノ国となってしまいます。

これについては、「漢代から半島や大陸と交流があった国は慣習的に上古音で表記されていたが、魏の時代に新しく知られた国については、中古音に近い発音で記されたのではないか」とする説があり、私はこれを支持します。

伊都国や邪馬台国は新興国であり、新しい発音による漢字で記されたのでしょう。
そうであれば、上古音から中古音への変化の兆しは、すでに三国時代には生まれていたということになります。
もしくは、帯方郡における方言では、a -> oの変化が早くに起こっていたのかも知れませんが、言語周圏論に基づいて、中国語の音韻変化は中原で早く起きていたと考えると、洛陽音の方が変化したと考えた方が自然です。

これらの漢字を記したのは、公孫氏を滅ぼした後に洛陽から派遣された文官であると思われます。
>>[25]

おっしゃる通り、上古音から中古音への変化がいつ起きたのかは非常に重要な問題だと思います。それによって倭人伝の発音ががらりと変わってしまうからです。

一つのヒントになると思われるのが仏教用語の漢訳です。もともとの仏典はサンスクリット語で書かれていましたが、その同じ原本を各時代にそれぞれ訳しているので、各時代にどの字をどんな読みで読んでいたかが推定できます。原語の発音がはっきりわかっているので比較がしやすいわけです。

たとえば後漢書巻42 楚王英伝には、在家信者を意味するサンクリット語「ウパーサカ」(upāsaka)を漢字で表記した「伊蒲塞」という語が書かれています。従って「伊蒲塞」というのは『伊=ウ、蒲=パ、塞=ソク』と読むのだろうと考えられます。

しかしそのすぐ後の注釈には、伊蒲塞即優婆塞也(伊蒲塞とはすなわち優婆塞のことなり。)と書かれているので、注釈が書かれた唐代には音韻が変化し、「伊蒲塞」をもはや『伊=ウ、蒲=パ、塞=ソク』と読まなくなったため、『優婆塞』と書くようになっていたと考えられます。

という事はつまり、唐代には「伊」を「イ」と読んでいたけれども、楚王英伝の原記事が書かれた時代には、「伊」を「ウ」と読んでいたという事になります。

問題はその音韻変化がいつ起きたのかということです。後漢書が書かれたのは5世紀ですが、後漢書倭伝が三国志倭人伝を引いて記述している事などを考えれば、原資料の「伊蒲塞」という文字が書かれたのは楚王英=劉英の生きていた1世紀、もしくはそれからあまり年月が経っていない頃である可能性が高いと思われます。

また、もし1世紀と5世紀ですでに読みが変化していたとすれば、後漢書にその事が書かれていてもおかしくありません。例えば北史倭伝では注釈ではなく本文そのものに「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也」と書かれていて、魏志の"邪馬臺"が"邪摩堆"と変化している事がわざわざ書かれています。これも7世紀には臺を"ト"と読まなくなっていたからでしょう。従って伊をウと読む音韻は、少なくとも後漢書が成立した5世紀初頭までは続いていたと考えられます。

また、他に参考になる資料として、陳第(1541-1617)の書いた毛詩古音考に以下の記述があります。

・ 周より後漢に至りて音、巳に転移するも其の未だ変わらざる者、実に多し。

・ 魏晋の世には古音すこぶる多し、隋唐に至りてほろび尽きたるを知らざるなり。

・ 五胡、華を乱し、中原の人を駆りて江左(長江下流)に入らしめ、河准の南北、間々夷言を雑(まじ)う。声音の変、或いは此れより始まる。

つまり後漢時代からすでに音韻変化が始まっていたというのですから、uさんの言われた通り、三国時代はちょうどその変化の途中であったという事になります。しかし「未だ変わらざる者、実に多し」という事は、まだ全体に浸透していたわけではなかったという事になります。完全に浸透するようになったのは「隋唐に至りてほろび尽きたる」とあるので、隋唐の時代になってからだと認識していたという事になります。

そして音韻変化のきっかけとなったのは「五胡、華を乱し」とあるので、五胡つまり匈奴・鮮卑・羯・氐・羌などが中国に侵入した五胡十六国時代以降、特に洛陽・長安が陥落し、西晋が滅亡した永嘉の乱(316)がその発端でしょう。

そして「中原の人を駆りて江左(長江下流)に入らしめ」という事は、南北朝時代の末期、北朝が南方へ侵攻し、南朝との合体によって南北の言葉が入り混じったために新しい音韻に変化した、と言う説を陳第は唱えていたという事になります。

これが正しい説であったかどうかは分かりませんが、しかし異民族による王朝交代は、確かに音韻変化の重要な契機となります。

従って一般庶民の音韻はすでにゆるやかに変化していたとはいっても、正式文書や正史の音韻が変化したのは、北朝と南朝の合体によって6世紀に成立した隋王朝からではないでしょうか。
>>[26]

中国語の音韻の変化については、全く同意です。西晋の崩壊とともに、北方中国の中国語の音韻は鮮卑語などの影響を受けて、大きく変化しはじめたのだろうと思います。
「伊蒲塞」は確か、長田先生が挙げられていた例だったのではないでしょうか。
長田先生はここから「伊都」の古音を「うた」であるとし、これが倭語の内部で「いと」に変化したという仮説を立てられていたのではなかったでしょうか。

しかしながら、日本側ではかなり古い時代から「いと」「いつ」という地名はあったようですし、これが「うた」と読まれていたという証拠はありません。
そのため、「伊都」が魏の時代から「いと」であったことを証明するために、上に挙げたような「漢代から知られた地名は上古音、卑弥呼の来訪によって新しく知られるようになった地名は中古音」という規則を安本先生は立てられたのだと思います。

そうだとすれば「伊」の一世紀ごろの音が「ウ」であっても、漢末から魏の時代にはすでに「伊」はイと読まれる傾向があったのだろうと思います。
「1世紀と5世紀ですでに読みが変化していたとすれば、後漢書(注釈ではなく本文)にその事が書かれていてもおかしくありません。」という部分についてですが、これはハンヨウの編集方針として、本文に注釈的な記述を載せることを好まなかったからかも知れません。

また、楚王英の時代にクシャーナ朝や月支やパルティアなど西方の諸民族の言語を通じてとり入れた際に、ウパーサカがユパーサカやイパーサカに変化し、それを書き表したという可能性も考慮する必要があると思います。そうだとすれば、「伊」の字音は一貫してイだったのだということになります。

蛇足ですが、イ音とウ音の混同は日本語の方言でも非常によく見られますし、現代中国語でも、北方方言でzhi, chi, shi (ジ、チ、シ)で読まれる漢字音は、江南方言では規則的にzi, ci, si (ズ、ツ、ス)に変化します。「ちくぶしま」を「つくぶすま」と書く例もありますし、両者は方言によって混同しやすく変化しやすい音だったのではないでしょうか。
補足です。

「卑弥呼の来訪」ではないですね。「卑弥呼の使者の来訪」です。当たり前ですが。

伊をウと読んだ場合には、同じ母音を持つ彌も「ム」と読むことができるようになり、これは卑弥呼を「ヒムカ」と読む説を立てる場合は大変有利になります。彌奴国は「ムナ国」と読めば宗像と考えることもできるでしょう。
また、伊邪国を「宇佐」と読むことも不可能ではありませんし、不彌を「ホム」と読めば、宇美で生まれたという応神天皇の和名「ホムタワケ」とも対応します。

このように大変魅力的な仮説を立てることができるのですが、私は少し疑問を感じています。その根拠を述べます。


「伊蒲塞」の例については、唐代の書物ではこのように述べられているようです。

《希麟音義》五曰:“烏波塞迦,旧云優婆塞,新云〓波索迦。

《玄応音義》二十一曰:“〓波索迦,或言優波娑迦,近侍也,言優婆塞者,訛也。

《西域記》九曰:“〓波索迦,唐言近事男,旧曰伊蒲塞,又曰優波塞,皆訛也。”(〓=烏+おおざと)


中古音の近似音を示すと、烏、〓の発音は[*wu]であり、優の発音は[*yu]、伊の発音は[*yi]であると考えられます。

つまり、「ウパサカ(upaasaka)という言葉を、古くは優婆塞ユバサク(*yubasak)、伊蒲塞イパサク(*ipasak)などと書いていたが、これらは皆訛ったものである」と解釈することができます。
これをもって「伊をウと読む仮説は間違いである」とは断言できないのですが、その可能性は高いと思います。

古いソグド語や近年解読の進んだバクトリア語などでupaasakaがどのように書かれていたか、を調べることができればよいのですが…。
邪馬台国とは関係ないのでここに書きますが、倭五王はなぜ北朝魏でなく南朝宋に朝貢したんでしょう?

宋は当時は山東半島まで進出しており、百済から海を渡ればこちらの方が近いのはまあ分かるのですが、宿敵高句麗を叩くには絶対に北魏と結んだ方がよいはずです。そこまでの国際感覚が倭には無かったのでしょうか?

恐らく当時は北魏が高句麗と友好関係を結んでおり入り込む余地が無かったのでしょうが、それにしても無意味です。

宋も倭に対しては、北魏を牽制するのに多少は役に立てばいいという程度の認識だったのではないでしょうか。
>>[29]

当時の倭は、半島のさらに北に位置する高句麗との戦争の前に、まずは半島中部南部での足掛かりを固め、半島における覇権を確立する方が先決だと考えたのではないでしょうか。

倭王讃が望んだ、(しかし一部しかもらえなかった)、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」という称号が、当時の倭の目的を示しているのではないかと思います。

当時の北魏は遼東を掌握していなかったので、半島への影響力は宋の方が強く持っていました。従って上記の称号を実質的にも名目的にも倭に与えられるのは宋だけだったのでしょう。

倭がもし勝手に半島へ進出すると、宋との間で紛争が起きかねません。特に百済は宋との間で冊封関係を結んでいるので、場合によっては百済と宋との連合軍と戦争するという事になる可能性もあったのではないでしょうか。それは逆に高句麗を始めとする周辺国を喜ばすだけになってしまいます。

もしこの時に打つ手を一手間違えていれば、その後の白村江の時のように、半島全面撤退という事態を招く危険性があったかもしれません。それを防ぐため、あらかじめ宋に朝貢し、正式に半島への進出許可を得た上で、堂々と半島に進出するつもりだったのではないでしょうか?
>>[30]

ありがとうございます。なるほど、とてもよく分かりました。決して軍事同盟の相手を求めていたわけではなく、南朝によるお墨付きを求めていた、ということですね。

南北朝とは言っても当時はまだ北魏が華北を統一したばかりでしたし、漢人による正統な王朝は南朝、という意識もあったのでしょうね。三国時代であれば華北の魏は漢人の王朝でしたが、北魏は北方の異民族王朝であり、そもそも朝貢の対象とは見なしていなかったのかも知れません。
同じように異民族王朝が華北のみ統治していた例として金王朝がありますが、このときも日本は南宋とは貿易をしても、金との交流は少なかったのではないかと思います。

書き忘れていたのですが、「彌」を「む」と読む例は日本書紀にもあります。新羅の地名で布彌支というのがあり、これに「ほむき」という訓が宛てられています。他にも例はあったかも知れません。
補足です。
布彌支は新羅の地名ですが、百済の前身である馬韓には不彌国がありました。新羅と百済では領域が常に変わっていたので、新羅出征の時代には新羅領になっていたのでしょう。となると、不彌を「ホム」と読むことにも一定の根拠があることになります。
>>[29] ヨーロッパでもベネチア共和国はフランク王国とは対立して東ローマ帝国には臣下の礼をとっていたかと。東ローマはローマ皇帝ですから。
南北朝においては南朝は、晋の後継国で、東晋、そこから常に禅譲で陳や梁や宋やサイになるので、間王朝から魏へ連なる本家の皇帝ということになるといえますね。中原地帯は蛮族の闊歩する恐怖の地域だったからかもしれません。
南朝こそ正統な中国文明の皇帝であるという認識はもっていたのでは。だから隋が南朝を滅ぼして、皇帝を継いだときは中原統一ということで衝撃だったでしょう。
この五コ十六国時代の前とあと、漢と唐では文芸の嗜好が変わります。
漢は散文や哲学中心ですが、唐から圧倒的に詩が増えます。
民族が入れ替わるくらいの混合、追放だったからかもしれません。
作家の陳さんなどは家の言い伝えとして、自分の家は東晋ができたときに長江に移住したのだといってるとか。時間的にも空間的にも広く深い中国です
>>[35]

このあたりの中国史がきちんと私の頭に入っていなかったせいで混乱していたのですが、倭の五王は最初は東晋に朝貢していたのですね。そうであれば、その後継である宋に朝貢するのも当然ですし、華北は439年に北魏が統一するまでは異民族の群雄割拠の時代が続いていました。
倭王は413年に東晋に朝貢し、420年に東晋が滅びたために翌年の421年には宋に朝貢しています。

華北の異民族王朝が南に比べて非文明国だったかというとそうとも言えず、南朝の宋は残忍な皇帝と宦官の専横による暗黒時代でしたが、それでも周辺諸国に対する威光は衰えていなかったのでしょう。
また、交易の相手としてもやはり漢族王朝の方がうまみが多かったのかも知れません。
ベネチアがコンスタンチノープルに臣下の礼を取っていたのも、似たような理由かも知れませんね。

唐の時代には宮廷以外の文人にも詩が流行しました。民族性が変化したせいかどうかは分かりませんが、確かに鮮卑人は詩を好んだようで、漢語としては文法のおかしな詩が現在にいくつか伝わっています。
陳先生は神戸育ちの台湾人で祖籍は福建だったと思いますが、華南の旧家の族譜では、東晋の時代に移ってきたと記すものが多いようです。
族譜というのは家系図と違って気軽に改竄できるものではないので、当時多くの漢人が南へ移ったことは確かでしょう。
>>[36] そうなんですね。鮮卑人は詩を好むのですね。
さて後の北宋が滅びたときも南宋として多くの人が中原から長江へ移ってきます。
いったい中原に漢民族というものが残ったのでしょうかと思います。中原族といっていいような雰囲気ですね。
むしろ長江に古代中国の伝統が残りやすいような気さえしてきます
>>[37]

このあたりは多分先人による研究があると思うんですが、唐詩の隆盛には西方の諸民族、たとえばペルシアやインドの仏教詩の影響などがあったのかも知れません。

高句麗や新羅は北魏の前身と言える前秦に朝貢していたようですし、北魏もその路線を引き継いで高句麗などとは友好関係にあったようです。
当時の半島情勢は白村江の戦いの「唐新羅連合軍 vs 倭百済連合軍」という構図につながる対立が既に生まれていたのだと考えることができます。

それならば倭が南宋に朝貢したのも、ますます自然な流れですし、華北系の王朝が中国を統一したことによって半島における軍事バランスが崩れ、百済や倭が半島から駆逐されることになったのだとも言えます。
当時の朝鮮半島は中国の南北朝の対立による代理戦争の地となっていたのでしょうし、倭もそこに巻き込まれていたのかも知れません。そう考えると、倭が積極的に半島へ出兵していたのは自らの意思というよりも、南朝や百済の要請によるものだったのではないでしょうか。

そうであれば五王が安東将軍に任命されていたことも、決して虚名だけの官職ではないということになりますし、南朝が倭に漢船や武器を与えるようなこともあったかも知れません。
そして、恐らくそのことがヤマト朝廷の軍事力を高め、国内の支配体制をも強化させていったのではないでしょうか。
古代の東アジア情勢を考える場合は、常に中国の王朝からの影響がどのように働いていたかを考えなければならないということを、再確認しました。
>>[38] ずばりその通りだと思いますね。こう整理するとそうとしか思えなくなります。このあたり、南朝の意向などの影響力がもしかしたら神話にあったりするのかもしれないなどと思えたりもします。
半島ではすでに代理戦争があり、母体の南朝がなくなれば百済と倭はやばくなる。まるで米ソ冷戦時代を彷彿とさせますね。北朝と南朝の大規模戦はたしかあまりなかったように思います。基本、それぞれが別に豊かに暮らせるからですね。
隋の統一はすぐに滅亡するのですが受け継いだ唐は漢以上に強力でしたね。
>>[39]

280年に西晋によってなされた中国の統一はたった36年で終わり、316年に西晋が滅びてからの華北は次々と異民族王朝が建国されては消える混迷の時代でした。

その中で354年の東晋の桓温による大規模な北伐と、383年の前秦の符堅による「ヒ(シ肥)水の戦い」という大規模な南進はあったのですが、どちらも不発に終わったようです。桓温は「竹馬の友」という言葉を残したことで有名な東晋の大将軍ですが、彼の北伐は洛陽を一時占領する程度に留まりました。

後者は世界史上稀に見るほどの大失敗に終わった作戦で、376年に華北を統一したテイ(低-イ)人の王である符堅が、漢族の重臣である王猛の「まだ南進してはいけない」という遺言を無視して公称100万の兵を率いて淮河を渡り、たった8万の東晋の軍に蹴散らされてしまいます。諸民族の連合軍による烏合の衆だったことが原因だったようですが、これによりせっかく統一されていた華北も四分五裂して、北方の代国を率いていた鮮卑人が建国した北魏が439年に再統一するまで混乱が続きます。

このように北伐や南進の作戦はことごとく失敗に終わっているので、全体としては316年の西晋滅亡から581年の隋による再統一まで、南北の力の均衡が大きく崩れることは無かったのかも知れません。

ただし、蜀の地域については例外であるようです。304年から347年までは蜀の地にはテイ人による成漢があり、当時の地図を見るとまるで三国時代の再来です。347年に前述の桓温によって滅ぼされるのですが、蜀の地はその後前秦に奪われたり北周に奪われたりするなど、581年に隋が中国を統一するまで、南北の係争地だったようです。
邪馬台国からもトピの内容からも脱線しましたが、倭の五王の頃の国際関係はこのように想像できます。

このような考え方は、邪馬台国の成り立ちを考える上でも有効かも知れません。
私は実を言うと、宋書にある「高句麗が無道にして、大国の恩義に報いることができない云々」という文章を、高句麗経由で中国へ向かうルートを倭国が欲しがっていたのだと思っていたのですが、高句麗を倒したところでその先には北魏があり、南朝宋へ直接至るルートにはならないことを忘れていました。
倭国が宋の要望で百済を援護し、新羅や高句麗を叩いていたのだとすれば、上の文章にもちゃんと意味が通ります。

日本書紀の神功皇后紀には、高(句)麗人に呉(宋)への道を尋ねて呉へ使いを出した、などという記事があります。これは記紀に表われる中国関係の最初に記事でうsが恐らく事実誤認で、高句麗とはほぼ一貫して敵対関係にありました。宋への道を教わるならば、宋へ朝貢していた百済人に尋ねたはずです。
なお、「呉」と書いているのは、日本書紀で魏志の卑弥呼を神功皇后に当てはめた関係上、使いを出した先が三国の呉であると書かざるを得なくなったのだと思われます。

新羅は日本書紀では日本に朝貢していたと書かれていますが、実際は高句麗および北朝と、倭国の間でバランス外交を続けていたのだと考えられます。南北朝の対立の最前線の国としては、それが生き残るために最善の選択だったのでしょうし、南北朝と三国の抗争で鍛えぬかれた外交感覚があったからこそ、後に統一新羅を築いて唐に併合されることもなく永らえることができたのだと思います。

なお、日本書紀には呉も日本に朝貢していたなどと書いており、いかにナショナリストの歴史ファンの皆さんでも、さすがにこれを史実だとは考える人はいないようです。日本に使節を送ってきた国を全て「朝貢」と記しているだけなのでしょう。
この列島南の海上に向かって、日本列島が連なってるとしたら・・・・呉へのとてつもな圧力になるということで、わざと女王国はふみ国から南に向かうと記録されていたという説があって、BS歴史館で高らかに紹介されていました。
確かに九州に上陸して、そこから東北にではなく逆の南西に向かって列島が延びていれば台湾あたりまで行くし、呉の背後のすべてを取ることができますから。
ただ呉だってそんなこと知ってたでしょうけど。
>>[043]

誤植がありました。

最初に記事でうsが
→最初の記事ですが


NHKBSでも、呉を欺くための改竄説を紹介していたんですね。
今のところ一番説得力ある仮説かもしれません。
上でも書いたように神功紀には呉が日本に朝貢していた等と書いてあり、事実なら面白いのですがさすがにこれはあり得ないでしょう。南朝宋の使者があった事をそう書いているのだろうと思います。
邪馬台国の時代の書物がのこっていたらなあ…。
>>[45]

木簡や竹簡があったとしても、それは漢人か韓人の史部(ふひとべ)が残した「漢文」でしょうから、倭人の書いたものではないでしょうし、区別は難しいと思います。
書物ではありませんが、当時の銅鏡に文字の書かれたものはいくつもあり、中には韻がきちんと踏まれていなかったり、いかにも倭人の書きそうな漢文の誤りが記されているものもあり、これらは日本列島で生産されたと考えられているので、これは倭人の残した「書」であると言ってよいかも知れません。

これを書いていて思ったのですが、「不彌(ふみ)国」とは、史(ふひと)つまり文人(ふみひと)のいた国であったのかも知れません。
>>[046]

ありがとうございます。

当時は木簡や竹簡の時代なんですね…。
>>[47]

紙はもちろん発明されていましたが、当時はまだまだ貴重品だったと思います。
調べたところ蔡倫による紙の発明は西暦で105年とされており、西晋の時代には「洛陽の紙価を高からしむ」という故事が生まれているので、3世紀の中国にもそれなりに普及していると思うのですが、それでもやはり高級品だったのでしょう。
日本に紙がもたらされたのは7世紀頃のようです。
>>[048]

邪馬台国にも紙の書物があって全滅したのかなーとイメージしていましたが、ハズレましたね。^^;

木簡や竹簡だと保存できたとしても情報量が限られてくるでしょうし、やはり当時の書物は全滅という運命だったのかもしれないですね。

残念でなりません。
>>[49]

可能性としては古墳の副葬品から文字資料や「親魏倭王」の金印が出てくることが今後ありうるかも知れませんが、多くの古墳が宮内庁によって発掘調査が許されない状況にありますし、発掘が許された当時の古墳や遺跡などから、金印と鏡以外の文字資料が見つかったことはなかったように思います。
>>[050]

考古学者の先生方は発掘したくて仕方がないでしょうね。
>>[51]

一古代史ファンの私も同じ気持ちです。
最近仁徳陵(伝)を見学してきたのですが、地元の方から聞いた話では、古墳群をユネスコ世界遺産に申請したところ、「神聖なる御陵を遺跡として登録することはまかりならん」と、市役所に抗議の街宣車が押しかけたのだそうです。
仁徳陵自体は人が入ることのできない鬱蒼とした小山で、周りを鉄柵で覆われており、鍵穴状の例の形を見ることができません。周りに高い建物がないのです。「天皇陵を見下ろしてはいけない」という暗黙のルールがあるのだそうです。
御陵の周りの環濠には澱んだ水が溜まり、ペットボトルやビニール袋などのゴミが浮かんでいます。
そんなに大切な御陵なら、ユネスコ遺産登録に反対する人々は率先して清掃すべきではないでしょうか。それともお堀に入ることすらまかりならぬのでしょうか。

私にはこれらの「風習」について、その合理的な理由が分かりません。ただ、その理由が宗教であれば、合理的な説明など存在しないのでしょうね。
地元在住のご老人がこっそり教えてくれたのですが、昔は柵もなく周りは田んぼで、悪ガキが入っては中で遊んでいたのだそうです。
>>[052]

そうなんですか。

綺麗にしてもらいたいですね。

ところで、朝鮮半島南部の方言と壱岐対馬や北九州の方言でかなり似通った言葉はあるんですか?
>>[053]

これは無いことがはっきりしています。ちんぐ(友人)、たんべ(タバコ)などのスラングが入っているくらいです。
アクセントなどは似ているのかも知れません。
>>[054]

そうなんですかー。

ちょっと残念ですね…。

二千年経ったというのは大きいのかもしれませんね。

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