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邪馬台国コミュの「親魏倭王」印影想像図

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 こんばんは。

 ヒミコが魏の斉王からもらった「親魏倭王」の印影は、
こんな感じかもしれない、と想像してみました。
 書体は「篆書(てんしょ)」を基本とし、「漢倭奴国
王」の印を手本にして、印面いっぱいを使うよう変形し
たものです。

 ご参考まで。
                     星空散歩

コメント(25)

よく出来てますね。
しかし、倭人もよくそんな遠くまで行きましたよね。
馬とか乗ったんですかね?


星空散歩さん、

「親魏倭王」印影想像図は、大変な労作ですね。

「漢委奴国王」印では、ニンベンのない「委」の字が使われ、
「親魏倭王」印では、ニンベンのついた「倭」の字が使われていますよね。

実は、この「親魏倭王」の印章、先月、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で開催されていた春季特別展(2012.4.21.〜6.17.)で「実物」を見ました。

特別展図録 第77冊『三国志の時代 ―2・3世紀の東アジア―』奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 2012年4月 の16ページにこれが紹介されています。

星空散歩さんが作られたものと文字のカンジがよく似ています。
ただ、「倭」の字は、ニンベンのついた「倭」の字になっていました。

ところで、この「親魏倭王」印のシンギのほどについては、下記のURLをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/hajime-law/e/8999448f39317cf89bbd6821aa044749
(遺跡好き弁護士の一(はじめ)法律事務所 2012-06-10 20:05:40 | 日記)
たしか昔読んだ、大庭修著「親魏倭王」に
印影ちゃんと載ってた気がしますよw
だいぶ前に読んだので詳しいことは忘れましたが。ご一読ください。
ころりんこーくんさん、

> ご一読ください。
はい、一読しました。

大庭脩『親魏倭王』学生社 の裏表紙に大きく「親魏倭王」の印影が出ています。

そうして、この本の104ページに、

“『好古日録』にでている親魏倭王の印
藤貞幹は『宣和集古印史』を本物の印譜だと思ったのであろう。
倭王にあたえた印を中国でおすことはできるはずがないのに。”

という説明文つきで、『好古日録』の該当ページが紹介されています。
何か凄いですねぴかぴか(新しい)


福岡説寄りの話になりますが豪雨大変ですねあせあせ(飛び散る汗)
何らの邪馬台国の話で昔もよく洪水が多発してたらしいですね。家のタカユカ式も納得いくし、まだカメカンの埋葬が無い時、死体塚の様な所から死体が流れたりしたそうですねあせあせ(飛び散る汗)
昨日、福岡県柳川[みまる市(旧山門群)]の濁流をニュースで観ました。早くおさまると良いなと願ってます。
こんにちわ。すごいですね。こないだ、画像で親魏倭王を検索したら、印の画像があったからブログで使わせてもらいました。星空散歩さんのだったかも。ありがとうございました。
金印を漢の倭の奴の国王と読むか、漢の倭奴の国王と読むか。と考えて想像してた時に、ふと思ったのですが、
漢の倭の奴の〜であれば親魏倭王ももしかしたら、親魏の倭の邪馬台の国王という表記になるな、などと考えたりしました。長いからなさそうですけど。倭の邪馬台国王なのか、直接倭王なのかによって金印も読み方に倭がはいるかどうかなど想像して楽しんでました。
>エーベルバッハ少佐様

「邪馬台国」はあくまで倭の女王の都の名なので金印には用いられないかと。
 逆に言えば、奴国は単なる倭王の都ではなかったと言えるかもしれませんね。

 漢委奴国王の時は卑弥呼の時と政治状況が違っていたせいでこういう表記に
なったのだとも考えられます。

 卑弥呼は邪馬台国の王ではなく、あくまで倭の多くの国家に共立された、
倭の連合国家全体の王であるから、親魏倭王と書かれたけれども、
漢委奴国王の時の倭国は連邦制ではなく、奴国による中央集権国家で、
奴国王=倭国王だったので漢委奴国王(漢倭奴国王)と書かれたのではないかと。
親魏の倭の邪馬台の国王とならないなら、漢の倭の奴の国王ともならず、漢の倭奴の国王ではないでしょうか。わな国とは倭国の蔑称のような。匈奴と対比してみると。フンナ。そうするとわな。奴とは連中、奴ら。倭の連中。
漢の倭の奴の国王であるなら、漢の倭のまつろの国王とか、漢の倭の伊都の国王とか、漢の倭の不弥の国王とか、それこそ漢の倭のヤマトの国王とかこぞって金印をもらいそうな気がします。
>>[9]

 中国には、『上位の者がいる場合には来貢を認めない』という基本方針があるので、
倭女王卑弥呼に服属している国はすべて、たとえ魏に行っても皇帝は会ってもくれず、
印綬ももらえないという事になります。

 後世、室町幕府の足利義満も、明に対して遣使したものの、上位に天皇がいる事から
断られたため、やむなく官職を退いて出家し、その後で『天皇の支配下から外れた』
と主張して、ようやく冊封を認められたという経緯があります。

 もし卑弥呼が存在しなかったとしたら、小国が競って魏に遣使したかもしれませんが、
(韓の諸国は統一されていなかったので、実際そうしました。)
その場合、もらえるのは銅印がせいぜいで、金印は決してもらえなかったでしょう。

 結局、韓諸国と違って、倭の各国が卑弥呼を共立して倭を統一していたことは、
非常に正しい外交政策だった、と言えるでしょう。
>>[10] なるほど。よくわかり ました
金印の倭奴は 倭の奴と読まれてますか?わな や いと と読まれてますか
 結論から言うと、私の意見では「漢委奴国王」は、「かんのわのなのこくおう」
 だと思っています。

 理由としては、漢書地理志の記述の、
 「夫楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云」
 のところの注釈に、以下のようなものがあります。

 注: 如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
    臣曰 「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
    師古曰「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳此音非也 倭音一戈反 (…後略)

 「如墨委面」の意味については諸説あって皆バラバラですが、要するに
 「委」という字を国名の事ではなく別の意味に取っているようです。
 そのため、その後、臣という人が追記して、
 「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」 と訂正しています。
 この文の意味も諸説あるのですが、私はこういう意味だと思います。

 「倭とはこれは国名の事である。墨を用いては謂わず。故にこれを委と言うなり。」

 墨を用いては謂わず、とは、文字として書く時は「倭」とは書かないという意味で、
 つまり、倭という字に何らかの別の意味があって、誤解を避けるため、漢の時代には
 文字に表す際には委という字に置き換えたのだろうと考えています。

 如淳の「如墨委面 在帯方東南万里」という注釈の内容は、本文に含まれていない
 内容であることから、如淳はこの文章の記録をどこからか探してきて、注釈として
 追記したのだと思います。そこには「倭」の事が「委」と書いてあったので、
 漢書地理誌の「倭」という字はこういう意味で、帯方東南万里にありますよ、と
 注釈を書いたのでしょうが、それを後日見た臣という人もその書物を知っていて、
 いや、そういう意味じゃないよと訂正したわけです。

 で、さらに後日、師古という人が、もっと詳しく説明しようと、
 「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳此音非也 倭音一戈反 (…後略)
  (蓋(けだ)し、委字の音、耳にするに此れ音に非ず。倭音一戈反…)
 という注釈をさらに追加しました。この意味は、

 「委という字を耳で聞く時、おそらくこれは音を表しているのではない。
  倭の音は一戈反であり…」

 "一戈反" というのが何を表しているか、はっきりした資料がないのですが、
 要は発音を説明しようとしているのだとは分かります。戈はカ、クヮと発音するので、
 おそらくは、「イ行でなく、ゥワ行である」と言っているのだろうと考えます。
 (※ 戈や倭は現代のア行・ワ行の発音とはちょっと違います。)

 従って委という字は、漢の時代において、文字を書く時だけに使用されたもので、
 意味も読みも倭と同じ「ワ」であるというのが私の結論です。
>>[12]ありがとうございます。もう少しお聞きしたいのでよかったら。 「わのな」とお考えですか。「わな」とお考えですか。前者は倭を代表する奴国、後者ならわな国という名前になると思うのですが。
>>[13]

 意味としては倭国の中の奴国という意味だと思いますので、
『わのな』と読むべきだと思います。

 卑弥呼が登場するまでは倭王は共立された王ではなかったと思うので、
奴国が周辺諸国を征服し、各国の王は奴国王に服属していたのではないかと
想像します。

 たとえていうと、幕末には将軍=いわば江戸国王がすべての藩主の頂点に
立ち、各藩主の上に立っていたような状態と同じです。
みんな同じ藩主=王ではあるが、いわば江戸藩の藩主である将軍が一番偉い。
奴国王=将軍家のような状態です。

 逆に卑弥呼の時代は明治維新直後の状態と同じで、将軍家が消滅した結果、
各藩はすべて平等になり、その上にはどこの藩の藩主でもない、天皇が君臨
している状態です。

 卑弥呼は天皇と同じく、どこの国の王でもない、つまり一地方国家である
邪馬台国の王ではないと。

 卑弥呼はすべての王の上位に存在する王なので、卑弥呼の下に伊都国や
その他の国に別に王がいたように、邪馬台国の王は卑弥呼以外に別に
いたのだと思います。

 考えてみれば卑弥呼は少女の頃に共立されたので、7万余戸の邪馬台国を
統治しながら重ねて倭国全体の統治を行うことなど、土台無理な話でしょう。
>>[14] ありがとうございます。とてもよくわかりました。
>>[14]

横レスですが、「一戈反」は倭という漢字の字音の反切を表すもので、「一」の子音と「戈」の韻母を組み合わせたものだという意味になります。
推定される上古音では一は子音無しで iet、戈は kuarないしkuai あたりの音ですので、倭の字音は uarないしuaiとなります。

従って、下記の部分は次のように解釈するべきです。

如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
臣[王賛]曰 「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
師古曰「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳此音非也 倭音一戈反 (…後略)

(魏の)如淳いわく、「(倭とは)墨を顔に塗る(委面)をすることによる。帯方の東南万里にある」
(晋の)臣[王賛]いわく、「倭は国名である。墨を用いるために委と言うのではない」
(唐の)顔師古いわく、「如淳は墨で委面をするからだというが、思うに委字の音は耳にするにこの音にあらず。倭の音は一の子音と戈の韻尾の反切である」

なお、委の推定される上古音はjuarないしiuaiであり、本来は倭の字音とそれほど違いはなかったようですが、その後変化して唐代の中古音では ueiのような音になっています。
恐らく、魏の如淳の時代には「倭」と「委」はほぼ同音に近く相通じる意味だと考えることができたのが、唐の時代までにはかなり違う発音になってしまったため、臣[王賛]や顔師古は「如淳の説は間違いである」と説いたのだろうと思います。


それから私も卑弥呼が女王ではなく斎宮(倭媛)的なものだったのが、魏使らによって女王として認識された可能性があると疑っています。大巫女の名前で親書を出したとすれば、魏は女王が統治していると認識するだろうと思うからです。

国名としては「匈奴」のような例もあり、匈が民族名を意味するとして、悪意を持って「奴」という字を使っていると思いますが、当時の文献で「倭」の領域の中に奴国、狗奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国などの国名が記されているのであれば、ここは「倭の奴国」と読むのが穏当な気がします。
「イト国」と読む説もありますが、「奴」をドと読むのは中古長安音に現われる、どちらかというと特殊な漢字音であり、時代が合わないだろうと思います。
閑話休題。

漢委奴国王印が今日からトーハクで連休迄日本国宝展で展示中です。観てきました。
ところであの金印は、国内で作成する文書に押してたのでしょうか。
奴国の王は何か書いて、印をおすのか?邪馬台国の責任者は親魏倭王をおすのか?信長の天下布武みたいに。そしたら、そのおされた木簡なんかが見つかれば大発見なのだろうか?人情から、せっかくもらった印はたくさん使いそうなものだが。権威を見せつけるためにも。
>>[18]

国内向けに当時「文書」がそれほど流通していなかっただろうとは思うのですが、対外的な書類に用いられることはあったかも知れません。
そうすると「中国に印影が残っているわけがない」という推理は当てはまらないことになります。ただ、根拠に乏しい印影であることは確かなんでしょうけれども。

昨日の書きこみに追記ですが、漢書の注は次の部分につけられたものです。

後漢書「倭国王帥升等…」
翰苑・後漢書「倭面上国王師升…」
唐類函・通典「倭面土地王師升…」
北宋版・通典「倭面土国王師升…」
釈日本紀「倭面国王師升…」

このように文献によって国名が分かれており、正典とされる後漢書ではこの怪しい意味の通らない部分をばっさり切り捨てています。
この部分について、「倭面土」を「委面土」と解釈して、「土で顔を塗った国王師升が…」という意味で、これは墨で顔を塗るようなものではないか?と解説を入れたのが、先日の注です(委には「ゆだねる」の他に「なすりつける」という意味もありますが、「委罪」など通常抽象的な名詞に対して用いられ、やや不自然だとは思います)。
しかしながらこれも「鯨面文身」からの連想であり、はっきりしたことは分かりません。

倭奴国、などの用例からは「倭の面上国、面土国、面国」などという国があったのだと想像したくなりますし、実際に肥前国にあった米多(めた)国造の国ではないかとか、回土(ゐと)国の誤りで伊都国をあらわすのではないかとか、さらに倭面土で「やまと」と読むのではないか、など様々な説が唱えられています。
この中では米多国王とする説が若干有利だろうと思います。

ただし倭面土の上古音の近似音は uai-mian-tha ですが、邪馬台 zya-mea-theとは若干類似しており、当初は倭面土国を自称していて略称の倭が倭国全体を指すようになり、本来のヤマト国には邪馬台と別に当て字が用いられるようになったのかも知れません。

帥升は他の文献では全て師升としているので、後漢書の方が誤りだろうと思います。
師升の近似音はsiei-siengですが、スサノヲと何か関係があるのかも知れません。
卑弥呼からは少なくとも70年も昔の人物なので、卑弥呼がアマテラス(アマテル)ならばその弟ということは有りえないのですが。
>>[16]

「一戈反」の意味、ご教授ありがとうございます。
そこまでは調べが及んでいませんでした。

ところで、「如墨委面」などの訳の問題ですが、この訳文は私も知っているんですが、
どうしても納得できなくて採用しなかったものなのです。

納得できなかった点というのは、

1.委面の用例が他に全く見当たらない。

2.適切な読み下し文が書けない。

3.『如墨委面』の『如墨』は、明らかに『墨の如し』であって、『委面、墨の如し』
  としか読めない。意味は、委面が墨のようだ、であって、如淳は墨そのもの
  ではないとはっきり言っているのに、臣[王賛]の注、『不謂用墨』はその分かり
  切ったことを繰り返していることになる。また、委面が顔に塗るという動詞ならば、
  以墨委面、あるいは普通に、以墨塗面などの表現になるはずである。

4.『故謂之委也』は、『故にこれを委と謂う也』としか訳せないが、これの前の文を
  見ると、だからなぜ委というのかの理由が不明になってしまっている。

また、いつでもお時間のある時で結構ですので、ぜひご意見をお聞かせください。
>>[20]

返信ありがとうございます。
古い時代の漢文には形容詞が後ろからかかるなど語順が一定していない傾向があり、適切な読み下し文をつけることが難しいものがあります。

倭面土「如墨委面」 の部分ですが、

倭面土とは墨にて面を委するが如し。

*委には「委罪」のように「なすりつける」という意味がありますが、あまり一般的な用法ではないようです。

「倭是国名 不謂用墨故謂之委也」 は、

倭これ国名にして、墨を用いる故に之を委と謂うは謂わず也」

と解釈できます。私は現代中国語で解釈してしまう癖があるので伝統的な漢文の読み下し法からは外れるかも知れません。
>>[21]

なるほどそうですね。
確かによく考えてみれば、訳文が『委面、墨の如し』 になるとするなら
原文は、「如墨委面」ではなく「委面如墨」となっているはずなので、私の訳は間違いですね。
『墨委面』で、墨で面を委する、という意味になるということですか。

それならその後の注も意味が通ります。
ありがとうございました!
 漢委奴国王の使節は、一〇七年当時、どの場所から半島へ出発したのだろうか?それは邪馬台国の上陸地点と絡むのではないだろうか?紀元前後、志賀島はすでに半島大陸への渡海場所として、存在していたようであるし、宗像、沖ノ島ラインで半島へ向かう航路があれば志賀島、壱岐、対馬、ラインは当然あったと考えてしまう。
 そうすると、金印がまさに志賀島で発見されているわけで志賀島から漢委奴国王の使者は出発して帰還した。志賀島に帰還すれば故郷奴国は眼前に景色として広がるから、心理的にも遠方から帰還せすればここに上陸したいと思うのでは。さらに志賀島の人々は半島のみならず、列島各地にもあちこと渡海していたようなので、いちいち松浦にはいかず、奴国は志賀島が半島渡海の港だったのではないか。
 そうすると、その二〇〇年あとくらいの邪馬台国は、まさにその奴国を傘下に収めた邪馬台国は、半島に出発するときに志賀島を使わないだろうか?筑紫平野が本拠地でも、河内平野が本拠地でも、どちらにしても唐津にいかずとも、より近い志賀島から出発できるのである。
 そして、志賀島に寄港して、湿地帯である博多湾に小舟でわたるのには一時間くらいしかかからないが、唐津湾に上陸して、博多湾まで歩くと一日はかかる。
 宗像から沖ノ島に直接航海するのが標準的な航海技術の水準であれば、できるだけ早く、下船したいという理由で、壱岐から最短の唐津松浦には船乗りの視点では上陸しないと考えられるのではないか。
ありがとうございます。金印、すごいですね。海峡横断の光通信の話は以前読んだことがあります。やるでしょうね。きっと。古代人はサルではない。同じ頭脳を持ってる人間がその時代ごとの最先端の技術を使いこなすんですもんね。出雲大社が高層建築なのも、灯台機能とか、まさに光通信を見るためだったのではとか思ってます。 案内いただいたユーチューブ拝見させていただきます。

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