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邪馬台国コミュの日中の文献の整合性

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普段は哲学・近代政治を専門にしておりまして、古代史には疎く、知識の豊富な皆様にお伺いしたいと思いましてトピ立てしました。

箸墓古墳の検討から、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソ姫がやや有力になりつつあることは認識しました。

その説を妥当とした場合なのですが、魏志倭人伝の、「卑弥呼の弟」や「難升米」などは、日本書紀・古事記のどの人物に比定されるのでしょうか?

中国の史書のいい加減さは周知の通りで、たとえば隋書倭国伝の、推古朝時代の日本に関しての記録だけを読めば(もし日本側に何の文献もないとすれば)誰が聖徳太子か天皇かはほとんどわからないことになります。

魏志倭人伝も、そういう視点から読み込むべきかと思いますが、邪馬台国の人物たちが、日本側からして誰なのかを、卑弥呼=モモソヒメ説から説明していただけると幸いに思います。

コメント(7)

僕も専門家ではないので詳しくありませんが、
卑弥呼の弟=第8代孝元天皇 難升米=梨迹臣(中臣氏)
に比定されることが多いです。

ただ記紀の記述が真実かどうかは裏付けが取れませんので、
学会では記紀の人物に比定するやり方は相手にしてないようです。

モモソ姫も実在の人物かどうかも怪しいので、卑弥呼に比定していいものか
自分にもよくわかりません。一応僕も卑弥呼=モモソ姫 説をとってますが。

ただ箸墓古墳の築造時期が250年頃まで繰り上がらないと卑弥呼=モモソ姫 説は成立しないので、箸墓築造後30年後の地層から4世紀初頭の木製鐙が出土したので、箸墓の完成時期は280〜290年頃とみて間違いなさそうです。
なので卑弥呼ではなく台与の墓である可能性も否定できません。
箸墓の築造時期が250〜280年の長期間に渡ったとみれば卑弥呼の墓である可能性もあります。

C14測定法では240〜260年頃に箸墓が築造されたとしてますが、
この放射性炭素14の半減期で数値を出すやり方もどこまで高い精度があるか
不確かですし、箸墓の周濠から出た土器の布留0式も土器編年で250〜290年くらいと専門家によって幅があるので、箸墓の被葬者は卑弥呼か台与かはたまたその他の誰かかまだよくわからないようです。発掘許可が下りないとこの問題は進展しないのでは?と今は考えてます。
> ころりんこーくんさん

ありがとうございました。非常によくわかりました。

孝元天皇は、さきたま古墳群の鉄剣の記載から実在の可能性が出てきている天皇ですから、ある程度の符合性が出てくると考えてもよいわけですね。

もちろん日本書紀・古事記の記載のあやしさは認識しております。

この説をとった場合なのですが、10代の崇神天皇の没年に関しての258年説と318年説は、258年説が妥当になるでしょうか。

ウィキペディアの崇神天皇の項目を読んでそう考えたのですが。
>パタリオ先生さん

孝元天皇に関しましては、欠史8代と言う実在かどうか怪しい天皇の一人ですので
判断が難しいのですが、記紀とは異なる、海部氏系図という文献だと、孝元天皇の和名と、モモソ姫=日女命 の兄の名前が一致するので、実在の可能性もあります。

崇神天皇の没年に関しましては、実は僕は318年説のほうが可能性が高いと思っています。理由といたしましては崇神天皇陵とされている行燈山古墳が4世紀前半の築造であること、

>崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。

上の記紀の記述は考古学上4世紀前半から見られることなどが挙げられます。定説でも崇神は4世紀前半の人物とされてるようです。なので記紀と整合させるとしたらモモソ姫=卑弥呼 と比定するのは時代が合わないかもしれません。台与がモモソ姫としたほうが記紀と整合すると思いますが、僕は記紀の記載は信憑性に疑問符がつくので、魏志倭人伝の信頼できそうな記述と考古学を照合して判断するやり方がベストなのではと考えてます。

記紀にどのような記載があろうが、AMSの炭素14測定や年輪年代法といった科学的なものさしの精度がもっと確実になり、箸墓の築造開始年代が250年前後に確定すれば卑弥呼の墓で決まりなんです。


> フレッドさん

中国の歴史書というのは、特に三国志正史がそうですが、その時々の支配王朝の正統性の確認のために書かれているものです。ですから「何年に何が起きた」とか「金印をこの国におくった」とかに関しては信じてよい事実です。けれどもその土地までの距離とか風習に関してはかなり割り引いて考えなくてはいけないとおもいます。

あまり問題にされないんですが、邪馬台国の人口の記述も問題で、戸数七万戸とありますが、これは当時世界最大の都市の洛陽が約十万戸としても驚異的な人口数の都市国家で、信じるべきでないように思います。
> ころりんこーくんさん

またしても詳細かつ納得のいく説明ありがとうございましたほっとした顔

いろいろ調べましたところ、「卑弥呼の弟」=崇神天皇説というのもあるんですね。つまり中国の史書がモモソ姫と崇神天皇の関係を誤って記載したというわけです。

けれど崇神天皇に関しては、おっしゃるとおり、3世紀はじめの人物と考えるのが穏当でしょう。そうすると実在性がほぼ間違いのない16代の仁徳天皇の時代(4世紀後半から5世紀前半)とも時間的整合性が出てきます。

孝元天皇は、奇妙な言い方ですが、「無名の天皇」という存在がふさわしいのではないでしょうか。
申し訳ない。自分も専門は経済学で、古代史は趣味レベルなので、
軽々しく箸墓築造が250年前後なら卑弥呼の墓で決まりと言ってしまいましたが、
そのようなこと断言できないですw

箸墓は4世紀以降の築造と考える人もまだ多くいて、結局発掘許可が下りない限り決定的証拠も得られないというのが現状だと思います。

実は卑弥呼の墓が箸墓だと仮定してもクリアーすべき問題もありますし。
魏志倭人伝には卑弥呼の墓は径百余歩と書かれてますが、箸墓は前方後円墳ですし、これをはたして径と言うかどうか、また魏使が見たのは作りかけの箸墓で、完成するのは280年頃と仮定しなければ成立しないと思います。
殉葬する奴婢も百余人いたようなので、箸墓から特殊器台の初期の埴輪が
出てきたのも気になります。

正直記紀と魏志倭人伝そして考古学、すべてを整合させる答えと言うのは
見つからないのが現状だと思います。ただ言えることは、箸墓が当時倭国でダントツで大きい墓であり、3世紀末に完成したので、時代的に見て卑弥呼か台与が
被葬者の可能性が高く、記紀でも被葬者が女性のシャーマンになってるので、
箸墓の被葬者が二人の女王どちらかである蓋然性が高い、としか言えないです。

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