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邪馬台国コミュの邪馬台国論争が再び白熱 「九州説」派巻き返し( 日経産業新聞)

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邪馬台国論争が再び白熱 「九州説」派巻き返し
2011/10/5 7:00

 畿内か九州か、日本史古代の3世紀に邪馬台国はどこにあったのか――。魏蜀呉が争った中国「三国志」時代、魏国へ使者を送った邪馬台国と女王・卑弥呼の実像を巡る論争が再び活発になっている。

 目立つのは九州北部などに邪馬台国があったとする「九州説」派だ。2009年に奈良県の纒向(まきむく)遺跡から大型建物の遺物が見つかり「畿内説」優位が確定したかにみえたが、九州説派から反論の書籍などが相次いでいる。明治時代から続く邪馬台国論争だが、若い世代の古代史ファンの関心も集め、盛り上がっている。

■30〜40歳代の関心高まる

 歴史月刊誌の老舗「歴史読本」(新人物往来社)は4月号で邪馬台国特集を組み、約8万部を売り切った。6月に再編集した文庫の新刊も初版1万5000部に続いて重版をかけた。「古代史書籍としては異例の売れ行き」(本多秀臣編集長)が続いている。

 読者の最大の関心は邪馬台国の所在地論争。同書では全国各地の候補地を取り上げて紹介した。東日本大震災以降、歴史ファンの関心が変わってきていると本多編集長は指摘する。1000年に1度ともいわれる大地震を経験し「これまでの日本の歴史を改めて知りたいという層が増えている」(本多氏)。邪馬台国は日本の成立のあり方に関わる存在。30〜40歳代の読者の関心も高いという。

 研究者間の中で勢いのあるのが「九州」派だ。考古学の森浩一・同志社大名誉教授は「倭人伝を読みなおす」(筑摩書房)を出版。さらにインタビューや講演などで積極的に「北部九州の弥生文化が東に移って畿内地方のヤマト政権を生んだ」と自説を展開している。倭人伝の中にも臨場感あふれる記述と後から挿入した部分があると指摘し、卑弥呼が自死したなどの読み方を示した。

■纒向遺跡、「古墳建築の労働者村」との見方も

 卑弥呼の宮殿では当時の中国語が交わされていた可能性も示唆し、魏、蜀、呉、さらに公孫氏などが中国大陸で覇権争いしている中、交易が活発で国際色豊かな古代日本を描いた。「纒向遺跡で卑弥呼の宮殿が発見されたと断定するのは慎重さを欠く」(森氏)。畿内で多数発見され魏が贈った「卑弥呼の鏡」ともされる三角縁神獣鏡は中国側では出土していないという。

 元昭和薬科大助手の原田実氏は「つくられる古代史」(新人物往来社)の中で纒向遺跡は「大規模古墳などの建築に関わった労働者村ではないか」と仮説を示す。自らは熊本県北部の「うてな遺跡」を候補地に挙げる。「強いて畿内ならば秋津遺跡の方が有力ではないか」(原田氏)。同氏は最近の発掘報告で「柱穴が見つかるとすぐ(邪馬台国の)楼閣の可能性に結びつけたがる傾向がある」と批判。「遺跡の保存や発掘を進めるため安直に邪馬台国関連に飛びついてはいないか」と警鐘を鳴らしている。

 「季刊 邪馬台国」編集長で九州派の安本美典・元産業能率大教授は「卑弥呼の墓・宮殿を捏造(ねつぞう)するな!」(勉誠出版)というタイトルで畿内説を批判。「邪馬台国の滅亡」(吉川弘文館)で若井敏明・関西大非常勤講師は日本書紀などから年代を詳細に追い邪馬台国が九州にあったと推定。4世紀にヤマト政権に平定されたと結論付けた。ミネルヴァ書房は「九州王朝説」など独特の立場をとる古田武彦・元昭和薬科大教授の著作のシリーズ化を始めた。

 ただ纒向遺跡では今年に入ってからも新たな大型建物跡などの発掘が続いている。計画的に建築され中国地方など国内各地の土器が全体の3割を占めており、ヒト・モノが行き来する一大物流センターであった可能性は高い。石野博信・兵庫県立考古博物館館長は「3世紀前期の中心の一つであったことは事実」と言い切り「畿内」を説く研究者が優勢なのは動かせない。今後も纒向遺跡が所在地論争の中心として展開しそうだ。

■論争は明治から

 江戸時代の新井白石や本居宣長も研究した邪馬台国。本格的な論争が始まったのは1910年(明治43年)に白鳥庫吉・東京帝大教授が九州説を、内藤湖南・京大教授が畿内説を相次ぎ打ち出してからだ。白鳥説の背景には日露戦争後の明治ナショナリズムの影響があったという。論争は史学、考古学から民俗学、言語学者まで参入する日本古代史の一大テーマとなった。戦後は九州説を唱える松本清張、宮崎康平ら在野の研究家も加わり想定される所在地は「研究者の数だけある」とさえいわれる。

 原田氏は「古事記、日本書紀との距離の取り方で研究者の立場が決まる」と指摘する。日本書紀の記述をどこまでを史実の反映と認めるかで邪馬台国の実像も変わってくるとしている。

 森公章・東洋大教授は「当時の東アジア情勢の動向が重要」と説く。魏や呉には邪馬台国がどんな存在に映り、中国大陸の覇権争いにどう影響したのか。逆に大陸との関係が邪馬台国自身の国内統治にどう作用したのか。大陸からの視線に対する研究が日本の成り立ちの解明に結びつきそうだ。

(電子整理部 松本治人)
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http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE1E7E1E3EAE0E1E2E2E6E3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE1E7E1E3EAE0E1E2E2E6E3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;df=2;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5
http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE1E7E1E3EAE0E1E2E2E6E3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;df=3;p=9694E0E5E3E0E0E2E3E2EBE3E7E5

コメント(11)

森教授の『当時の東アジア情勢の動向が重要』〜『大陸からの視線に対する研究が日本の成り立ちの解明に結び付きそうだ。』

まさしく、そうだと感じます。

なぜ、中国の大きい大陸のなかの一国家“魏”が、わざわざ海を越えてはるばる日本の“小さなクニ”へ大変高価な土産をもってやって来たか。どんなメリットを見込んでいたか。

『魏書』倭人の条を含む東夷伝などは、国防のための“防衛白書”である可能性を『陳寿が記した邪馬台国』の著者・生野眞好氏は著書のなかで書かれています。

さまざまな視点から、邪馬壹国がどんな存在のクニだったかを明らかにしていけるように。これからの研究や、新しい資料、発掘報告などによって解き明かされていくことは楽しみですね☆

ワクワクさせてくれるトピをありがとうございます!
ミュールルンルン様

トピのテーマを離れての自説発表は控えて下さい。
ご自身のトピにてお願いします。
スレッド説明文にある本に対した感想を、二言三言だけ言うのがちょうどよさそうですね^^

脱線してました(泣)
>ミュールルンルン様

ご理解下さりありがとうございます。

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